目が覚めた。吐き気がした。
「畜生、確実にアレが原因だろ!」
ガバッと起き上がり反射的に口元を抑えながらも、あの場所にいたアイツに対して罵声を上げる。体の中に何かがあるのはわかるのだが、ソレが違和感なく馴染んでいるというのが非常に気味悪い。嘔吐感はもちろんあるのだが、これは精神的なものであり体内に入ってきたアレが原因ではない。
しばらく塞ぎ込んでいたが、ふと我に返る。ここはどこだろうか?
周囲を素早く見渡すも、見えるのは白いカーテンで覆われているために状況は掴みづらい。自分が寝ていたのが真っ白な清潔感はあっても、生活感の無いベッドであるということは分かった。カーテンの外へと向かいたい欲求に駆られるが少し状況を整理してからでも遅くはないだろう。
最初に思い浮かんだのは病院だった。落ち着いてきた今なら分かるが、この鼻につく薬品の香りは場所の特定を非常に容易くする。次に思い浮かんだのは保健室だった。過去、というよりも前世か。前世の自分は確か高校生だったはず。死んだこと自体が夢であり、あの場所のことも夢であり、そして俺は生きていた。という感じでどうだろうか。
まぁ、万が一にもないだろう。
あれだけ酷い目にあったのが夢だったなんて、それこそやるせない。決めつけた理由はそれだけだが、それ以上の理由が必要だとも思わなかった。なにせ、死んだという経験があるのだから、それが無かったなんて誰が決め付けていいというのだ。あの経験込みで、この吐き気があるのだ。
となると可能性としては病院説が濃厚である。ふむ、と口元に手を当てながら考えようとして違和感。筆舌し難い程に体の動かし方に違和感があるのだ。口元を抑えた時は気づかなかったのだが、いざこうして体を動かそうとするとまるで宙吊りマリオネットを操作するような……距離感、とでも言えばいいのか。
そうして何の気なしに両手を見て言葉も出ないほどに驚いた。絶句というのを体験したのはこれが初めてだが、自分の体が小さくなっていれば言葉も失うだろう。どう見積もっても小学生程度まで縮んでいる体に驚きながらも、その他に差異はないかと体を動かそうとしたところでカーテンが開かれた。
「あら、起きたの?」
「えぇ、起きました」
反射で言葉を返すのは癖のようなものだが、この切り返しはあんまりではないだろうか。そう自問してしまうほどの淡白な切り返しだったが、カーテンを開けた主である彼女はクスリと上品に微笑むとこちらへと歩み寄ってくる。
相手が女性とはいえ、状況が未だ掴めない現状で近づいてこられるというのは中々のプレッシャーになる。思わず身構えた事に気づいたのか、彼女はベッドの隣の椅子には座らずにその場でしゃがみこんだ。目線を低くして安心感を与えよう、なんて考えているのかもしれない。相手が医者ならばそれくらいは考えていても不思議ではない。
ただそれで緊張が解けるかというと、無理だとしか言い様がないのだが。今現在、自分がどういった状況であるのかもわかっていないのだ。相手が医者に見えたとしても、それすら疑って掛かるべきだろう。……前世の自分が蓄積した経験がそう訴えるのだが、この警戒心はいったいどうやって育んだのか。記憶を掘り起こすのが少々怖くなってくるな。
「怖がらせちゃったかな?ごめんね」
「いえ、大丈夫です」
言葉が硬い。自分としてはもう少しフレンドリーでもいい気がするのだが、脳内でアラートが鳴り続けているというのが問題だろう。
「……あはは、警戒されちゃってるね」
「……」
空気が重い。自分で言うのも何だが、非常に空気が重い。それでも警戒心は簡単に削ぐことが出来るものでもない。ましてやこちらを気遣うように的確に行動し、さらには笑顔を見せて油断をさそうような相手に隙を見せれば何が起きるかなどわかったものではない。
「とりあえず、自己紹介から始めよっか。私は水嶋っていうんだけど、君の名前はなんていうの?」
「名前……」
言われた瞬間、幾重にも張り巡らされていた警戒の網を超えて衝撃が走った。そういえば、俺の名前は何だったのだろうか。少し記憶を遡ったが、彼方側にいたときには既に名前を覚えていなかった。というよりも、自分だと判断できる人物がいたが、自分という自覚が思い浮かばないという……言葉に困る状態だったはず。そうすると今の自分の自我というものも記憶込みで考えるべきなのか悩んでしまう。……それはともかくとして、今は名前が問題だ。
過去の自分の記憶はあるが、自分自身についての記憶は全くない。なんとなくイコールで自分と結び付けられるが、名前という個人を定義するものを忘れているというのはかなりの痛手だろう。少なくとも今後、自分をイコールで結ぶ何かを自分で定義しないといけないのだから。愛着ある名前にしたい、と思うと同時に朧げな自分に止めを指す様で何の気なしに付けるというのは躊躇ってしまう。名前、というのは改めて考えると非常に大切なのだ。
ふと顔を上げてみると水嶋……と言っていたか?彼女は非常に険しい表情をしていた。思考に没頭するあまりに薄れていた警戒を急いで組み直し、相手の行動に対処すべく睨みつけた段階になって自分の有様に気づいたのか彼女は苦笑を浮かべた後に真剣な表情でこちらを見据える。ハッとしたのが見て取れた。どうやら先ほどの表情は無意識だったらしい。随分と甘い表情管理だとは思うが、これくらい油断がある方が子供はなつきやすいのだろうか。
「まだちょっと疲れてるのかな?ごめんね、起きちゃったのももしかして私のせいかな」
苦笑を浮かべながらそんなことを言って、彼女は立ち上がった。
「それじゃお姉さんは少しだけ用事があるから行っちゃうけど、何か欲しいものはあるかな?」
「欲しいもの、ですか」
「そう。欲しいもの。チョコでもアイスでも買っちゃうぞ」
それってアリなんだろうか?
警察とかだとカツ丼を出すのは相手の自腹だという。なぜなら、カツ丼で自白をさそう……もう少し俗な言い方をすれば物で買収するというのは禁止されているからだ。まぁ、それでも貰えるならば貰いたい。警戒心は未だアラートを鳴らし続けているが、それでも本能とでも言えばいいのか。チョコだけは欲しい。そういえば記憶の中の自分も非常に甘党だったなぁ、なんて思いながら自分を擁護しつつ
「チョコでお願いします」
嘆願してみた。
というよりも、前世の俺の記憶に引きづられまくっているのは今更だが、警戒しつつチョコを強請るとか自分の前世が非常に気になる。思い返してみても、記憶の自分が今の自分とイコールで結ばれるのは感情抜きで事実だからとしか言い様がない。例えるなら小さい頃の写真を見て「あぁこれが自分なんだな」と思っても、その自分が抱いていた感情までは分からないような、そんな感じなのだ。だが、不思議とそのころの趣向を思い出すのには苦労しないというのは、一体全体どういったことなのか。
まぁ、考えても無駄、考えるのが無駄。無駄なんだよ、無駄無駄。
つまり理解しておけばいいのは、俺は前世があり、前世の俺は非常に甘党だった。だから警戒心があっても甘味の魅力には勝てない。それだけだ。
「……え、もらってくれるの?」
あまりにもあっさりとした対応に狼狽えたのはむしろ彼女の方だったようだ。それはそうだろう。警戒心を顕にしていた子に「お菓子買ってあげる」なんて言えば、普通ならば殊更に警戒されても可笑しくない。相手が子供だからと反射的に口を着いていた言葉にだったのだが、悪手だったと内心で冷や汗を流していたのだ。この反応に驚かぬわけもなかった。
「冗談だったんですか……」
「いいや!いやいや!冗談じゃないから!チョコだね、分かった買ってくる!……そうだね、私の用事が終わるのに結構時間掛かるだろうから一眠りしてていいよ。枕元に置いておいてあげるから」
「ありがとうお姉さん」
自分で言うのもなんだが、今の俺は甘いものに釣られてしまった阿呆として見られているのだろう。だが、それは仕方ないのだ。誰がなんと言おうと。
「うん、気にしないでね。それじゃ、またね」
「またね」
軽く手を振ってみると、彼女は満足げに微笑んだのちにカーテンを締めて出て行った。扉を開け閉めする音も聞こえたが、念の為にカーテンを少し開いて本当に出て行ったのかまで確認しておく。
ふぅ、と肺の中の空気を全部吐き出すような重い息を吐き出して、周囲への警戒レベルを少しだけ落としてその分を思考に割り振る。人参を目の前に吊るされた馬のような甘味に対しての単純すぎる思考を押し殺し、自分の姿を改めて観察する。
右手、左手と視線を動かし、軽く手足を動かす。走ったりはせずに、開閉したり指ごとに動かしたりする程度だがやはり違和感が拭えない。おそらくは体が縮んでいるからなのだろう。記憶の俺と現在の俺の身長差は如何とし難いほどのものであり、マリオネットの様な距離感もこれに基づいたものだと思われる。
なぜ縮んだのか、というのは彼方から此方に来るときに何かしらあったのだろう。理由を詳しく語れる奴がいるとすれば、あの場所でニタニタと笑っていたアイツくらいではないだろうか。幾つかの懸案事項はあるものの、解消するには情報が足りなすぎるのだ。
結局のところ今はただただ静観するしかない。静観というよりも諦観にも近い気持ちでいるのはまぁ仕方ないだろう。現状で分かっているのは転生、もしくは憑依するような形でこの体に自分が在るということ。前世と言える記憶が引き継がれているということ。肉体に目立った障害は見られないものの、どこかしらに違和感を感じずにはいられないということ。
というよりも自分の中ではチョコレートのヒエラルキーが高すぎるんじゃないか?と思わないでもなかった。実際、チョコの話題が出たときはこれを理由にして出て行ってもらおうとだけ考えていたのだが、言葉に感情が引きづられるように心からギブミーチョコレート状態になっていた。
とにもかくにも。
状況への理解が及ばない現在においてここにいてもいいのか、というのが第一の問題だ。まぁ、逆説的に外に出てもいいのかというのも問題なのだが。そしてこの肉体への違和感の正体が第二の問題だ。縮んだから、で済ませていいものだろうか。マリオネットのような感覚、と称したがこの違和感には先があるような気がしてならない。
ふと視界がズレた気がした。いや違う……腕がブレている?
小さくなった自分の手に重なるように、もう一つ小さな腕がぼんやりとある気がする。顔を近づけて見てみるが、薄すぎて分かりづらい。目が疲れているだけな気がしないでもない程度の、何かが確かにある気がする。どこまで言っても気がする程度のものでしかないが。
二三度まばたきをしてみると、ブレて見える腕が四つ重なっているように見えた。
「……疲れてる?ってか目が可笑しいのか」
自分に重なって見える数は合計で四。一つが自分のものだとして、三つは幻覚となる訳だが先程までの水嶋という人物がブレたようには見えなかった。そこで周囲を見渡してみると、ベッドもカーテンも天井も床も二重に見えるが四重ではなかった。となると自分だけが更にブレて見えているのか?
「畜生、ストレスがすげぇ事になりそうだ」
右手で口元を抑えて左腕を腰に回すようにして抱きしめる。前からの癖だが、実に落ち着く。傍から見れば格好付けてるようなものだろうが、自分の中で『落ち着く』ためのナニカがあるのは筆舌し難いほどに安心できるのだ。人格と呼べるモノは死ぬときに忘れてきたが、記憶を持つ自分だけが愛せる数少ない特別なのだから当然か。
口元を抑えながら考えをまとめていく。とは言ってもまだ殆どわかっていることはない。一つ目が記憶を持ったままあの場所へ辿りついたために、この世界にやってきたこと。二つ目が自分の姿だけが何故かブレて見えるということ。三つ目が彼女――水嶋が信頼できるかどうかは未だ定かではないということ。
それらを踏まえても今一番の問題は常識だ。この場所において最も重要なのは思考や判断の基準点となる常識が記憶と同じであるかどうかだ。知らないまま致命的な行動をしてしまった場合、自分の対処する方法によって更に致命傷を負いかねないのだから。
有名な話だと降伏宣言のつもりで白旗を振ったところ、「お前らの住む大地を真っ白にしてやるぜ!(意訳すると皆殺し」と受け取られて全面戦争とかいう話があったはずだ。
ふむ、思った以上に詰みかけている。
「……寝よう」
思考放棄でしかないが、今はやれることがない。もしもこの部屋の外に出て問題が起きたとして、水嶋が庇ってくれるのを期待するには相手のことを知らなすぎる。じっと待つしかない。寝て、起きて、少しでも情報が入ってくればいいのだけれど。
ベッドへと倒れこみ、瞳を閉じる。気のせいかも知れないが、目を閉じたのに、ほんの少しの間だけだが目の前が見えていた気がした。それもやはり気がする程度のモノでしかないのだが。
目が覚めたとき、枕元にはチョコレートが置いてあった。それもどんなチョコで良いのか悩んだらしく何種類もだ。無駄に出費したのではないかと思うが、こちらにとっては実に有難いことなので受け取っておくことにする。
数あるチョコレートの中から一口大のチョコレートが箱詰めされているものを取り出して開ける。梱包をはぎ、中身を取り出した瞬間ふわりとチョコレートの甘い香りが鼻腔をくすぐる。自然と唾液が溢れてくるのを自覚しながら、それを口の中に放り込んでやれば調整された甘味と僅かではあるが確かなカカオの苦味が口の中に広がる。
正直、悶えた。
小さい頃は苦いものが苦手という人は多い。ピーマンが苦手だという人物が大人になれば食べられるように、大人の味覚と子供の味覚は大きく違うのは知識として知っていたがこうも違うものかと。
自分でも驚くほどに細分化されたチョコレートの旨みが把握できる。おそらく苦味には弱いのだろうが、それを補ってあまりあるほどに甘味に対して性能が高い。
今ならホットチョコレートとかで昇天できる気がする。
前世の記憶でしかないのだが、ホットチョコレートの上にマシュマロを入れて溶けかけたものにシナモンパウダーをかけて飲んでいたのを思い出す。それをチョコレートと同時に味わっていたのだから友人には呆れられたものだが、それが好物であり愛飲していた自分はその呆れを欠片ほども理解していなかったように思える。
たぶん、今の自分でも理解できないだろうが。
ブラックチョコレートは健康にも良いというのに、なぜにあそこまで拒否をするのかが理解できない。まぁ、考えても無意味だ、無意味ってことは無駄ってことだ。気にするのが無駄だというのなら、この思考も無駄だろう。
さて、彼女は、水嶋さんはどこだろうか。
流石に好物を貰っておいて感謝しないわけにもいかないだろう。そこまで自分と世界の常識が剥離しているということもないだろう。おいおい詳細はすり合わせていかなければだろうが。
ベッドのそばに置いてあった子供用のスリッパを借りて、立ち上がってみる。
正直コメントに困るほどに視点が低い。常に中腰で移動してるような視界の高さなのに体は間違いなく立っている。元の体のイメージが強く残っているのに一挙手一投足に不安はなく、軽くジャンプしてみても着地の衝撃を殺し損ねるなんてこともない。不思議なものだ。
不自然すぎる感覚を意図的に無視出来るほど器用ではないが、動かないでいたとしても付き纏う感覚だと早々に判断して慣らしに徹することにする。前世の自分が骨折してギブスを付けたときは一週間程度で慣れていた。まぁ、無意識で失敗することはあっても一週間もあれば不都合に人間は順応すると学んだ良い経験でもある。
そう考え動いてから十分も経過しない内に挫折しそうになっていた。
視点の低さというのは思った以上に厄介だったのだ。床が視界に入ることもあってか、当たり前の視界の高さへと体を戻そうと反射的に背伸びをしようとするし何よりもそれを処理しようとする脳の疲労感が凄まじい。
「ぐぬぅううう……これは辛い」
そもそもこのフロアがどういった構造になっているのかを理解していないため、彷徨うことは覚悟していたし立ち上がってからはそれすらもリハビリみたいなものだと割り切っていたのだのがそれすら後悔しそうである。
第一に子供の体からするとこの病院は広すぎる。館内図でもあれば良いのだが見当たらないので、まずはエレベーターを探している。なんとか一階まで向かうことができれば、そのまま受付で彼女の場所を聞くこともできるだろう。
怒鳴り声が聞こえた。
何を言ってるのかまでは聞き取れなかったが、間違いなく怒声である。不意打ち気味に響いたこともあってかなり驚いてしまった。正直厄介事の匂いしかしないが、今現在目標にするものは階段やエレベーターだ。場所もわからないままに歩き続けるには体力が足りそうもないので、一応の指針としてもいいのではないだろうか。
一歩一歩ゆっくりとそちら側に向かう。何を言ってるのか理解できないだけだったソレが、明確に言語化されていくにつれて何とも言えない脱力感に襲われることになった。なにしろこの怒声の主、声から男性なのは分かるのだが実にどうしようもないことを喚いているのである。
曰く。自分の怪我はもう大丈夫だから退院させろ。
曰く。これ以上俺を入院させたいなら金払え。
曰く。俺が集団部屋なんていられるか、個室に移せ。
曰く。飯がまずい。これなら出前でもとったほうがマシだ。
……いやはや、何をどう成長すればこんなセリフが吐けるのだろうか。
だが、まぁ。行かねばならないだろう。この厄介極まりない男の相手をしているのが水嶋さんのようだから。
ようやく部屋の前までたどり着いた。ドアが開いたままなのが気になったが、中を見ておおよそ察した。叫び続けているのは中年の男。あれだけの大声だ、さぞかし割腹の良い男だと思っていたのだが、むしろ痩せすぎといっていい男であったことに少し驚いた。
なにやら腕を振ってジェスチャーしつつ、腹のそこから声をだしている辺りは確かに退院しても問題なさそうな気力を感じる。少なくともあまりの五月蝿さに集弾部屋にもかかわらず、中にいるのが水嶋さんと男だけというあたりからもソレがわかる。他のベッド付近にお見舞いの品が見えるので、逃げ出したのだろう。
ベッド横に備えられていた椅子に座っている水嶋さんはこちらに背中を向けているので表情は伺えないが、まぁ笑顔でも貼り付けているのだろうと推察。間違っていても問題ない、ただの愚考。
「なんだガキィ!見せもんじゃねぇぞ!」
あ、ヤバイ。見つかった。
どうやら男のほうが気づいたらしく、こちらにむかって吠える。チラリと覗いた口内は銀歯が輝き、歯並びも悪い。ついでに言えば怒鳴り続けているせいだろうが、顔も赤く息も荒い。なんというか典型的なダメな大人がそこにいた。
別に自分のなかで良いと悪いが完全に区別されているわけではないが、それでもこれは酷いと言わざるを得ないだろう。何しろあの男はこっちを見て吠えたのだ。外見年齢的には小学生と見ても問題ないだろう俺を見て、不平不満しか叫ばない怒りの矛をこちらへと向けた。実に、実に、小物である。
さて、どう動くべきだろうか。
正直アレは関わり合いになりたくない類の相手だ。見つけたら無視するし、見つからないように動くし、見つかったら逃げる。自称するには実に情けないが、自分は非常に面倒事を嫌う性格であるが故に逃避を是とする人間である。されど、時と場合によりけり、だ。
彼女のもとへと歩み寄りながら、いろいろと吹っ切っていった。
「お姉さん、チョコレートありがとうございます」
「え、え?あぁ、あのくらいならいいわよ、っていうか今は忙しいから部屋に戻ってて。ね?」
どこかあやすような言葉には切実な思いが込められていた。まぁ、確かにこの男が叫んでいるなかで来たというのは頭の痛い事だったかもしれないが、別にこれくらいの男が何を叫んでいようが俺には関係のないことである。
例え死んで生まれ変わっても。
いや、死んで生まれ変わったから。
例えこの身が縮んでしまっても。
いや、縮んでしまっているからこそ。
例え自分の名前すら忘れ去っていても。
いや、自分の名前が失われているからこそ。
どう動くのかは確定している。面倒だから逃げたい。そう思うのはきっと前の俺も同じでも、今俺が縋るものはそれしかないのだ。この程度で引いてしまっては、生まれ変わったのに『俺』が死んでしまう。
「俺を無視か?なぁ、パパとママから目上の人の言葉は聞くように言われなかったのか!」
吠える男をへと視線を合わせようとすると、それからかばうように水嶋さんが前にでる。
「待ってください!相手は小さい子なんですよ!もうちょっと落ち着いて――」
「るせぇんだよ!俺が入院してる理由は知ってるだろうが!こんくらいのガキが目の前に飛び出してきたからだ!そのせいで俺の人生めちゃくちゃだ……ガキは重症で慰謝料を払えなんて言ってくるし、警察が来ていろいろと言ってくるしよ」
イライラしてるのが見て取れる。声に篭った怒気が、水嶋さんを貫いて俺を刺す。正直子供なら耐え切れないのではないかと思うほど、男の感情は肌を、肉を、骨を、そして神経を炙る。別に相手が特別な存在ということはないだろうが、子供の体には少々厳しいものがあるのは確かだった。
まぁ、それはさておき。行動指針を決めようと思う。
名前も無いし、身長も無いし、状況も分からないから、自分の記憶に従おう。
無駄が嫌い。無駄だから。それだけで理由は十分。
でも余分は好きだ。余分は余裕でもあるからだ。行動における無駄は省かれるべきだが、行動の結果生まれた余分はきっと肥やしになる。成長するための経験値になる。そこに無駄はない。故に行動は決して悪くない。『悪くない』のだ。
ただチョコレート分の恩返しくらいはしたいな、と思った。
それが今回の行動理由。だが、それだけで誰かに立ち向かうという無駄は、決して『悪くない』ことであると断言できる。
ずるり、体から何かが生まれ落ちる感覚。自分の体からナニカが脱皮するように生まれ落ちる。生まれたソレは立ち上がるでもなく、まるで自分の延長のように見えない何かで繋がっているのがわかった。理由もなく、ただわかった。そういうもので、何が出来るのかは分からなくても、自分と同じなのだとわかった。
だから今自分には手が四本ある。今自分には足が四本ある。今自分には目が四つある。今自分には耳が四つある。今自分には口が二つある。今自分には頭が二つある。今自分には体が二つある。今自分は一人だが二つある。
自分を包み込む様に背後に現われたこれはきっと――立ち向かおうとする自分なのだと理解した。
「水嶋さん、帰ろう?」
「先に帰ってて。すぐにいくから。ね」
「あのよぉ、今水嶋先生は俺と話してんの。大事な話な。ガキは良いから帰ってろって」
「大事な話?病院のご飯がまずいとか、そんなのが?」
「あぁ、大事な話さ。病は気からって言ってな。美味いモン食わないと怪我ってのは治らないんだよ」
「さっきもう治ってるのに退院できないとか言ってたくせに何言ってるのか分かんないや。あぁ、なるほど。あんだけ声が出ておいて退院できない理由がわかった。元気も元気だが、悪いのは頭か」
「黙ってろガキ!」
安い挑発。買われた喧嘩。振り抜かれる拳に宿る意思の薄いこと。
水嶋さんがその一撃から庇うように抱きしめてきたため、顔に柔らかいソレが押し付けられて前が見えなくなる。だが、今の自分は独りではなく、立ち向かおうとする自分がいる。
自分の目が見えずとも、『立ち向かうもの』がソレを見据える。自分の体が動かせずとも、『立ち向かうもの』は自由だ。自分の力では止められなくても、『立ち向かうもの』は不屈である。
振り抜かれる拳を器用に横から殴り飛ばし軌道をずらす。
目の前の出来事に驚き動きが止まったのを見てニヤリと相手に見えないことを理解しつつ笑みを浮かべた。殴り飛ばしたままの勢いで『立ち向かうもの』は体を回転させ、無様を晒す男の顎に左手の裏拳を叩き込む。虚に虚を突いた形になった男がグラリと揺れる。そのままこちらに倒れ込まれても困るので、両手で頭を鷲掴みにしてベッドへと押し戻してやる。
ドサッ、という音と倒れ込んだ男を見て満足したのを察したのか、『立ち向かう意思』はゆらりとその姿を煙のようにかき消した。だが、消滅したわけではなくじんわりと体の内側にあるのを感じる。そうすると、消えたというよりも帰ってきたというべきか。
「……あれ痛くない?って、白目むいてます?!」
なかなか訪れない衝撃にゆっくりと背後を振り向いた水嶋さんの驚き方に少しだけ罪悪感を感じながら、まぁこんな結末なら決して『悪くない』のだと満足した。