ショートランドへと出立する前のことだ。
入渠して骨折を治した皐月を司令官が待ち構えていた。皐月は自分が思わず嫌そうな顔をしたのに気づいたが、とりつくろわずに司令官に見せつけた。とはいえ司令官は取り付く島もなく、皐月に『武功抜群』の銘が入った日本刀を投げてよこしてきた。工廠にある皐月の艤装から取り外してきたらしい。
「今から行動を開始する。出立は三日後。それまでにお前の艤装の改造を完了したうえで、お前に白兵戦の腕を叩き込む」
「司令官が?」
皐月はこの佐世保に着任してから結構経つ。この司令官が武術に関して秀でているのは聞いていたし、先ほども身をもって知った。とはいえだ。
「いくらなんでも、三日でってのは無理じゃないの? それに艤装の改造って?」
「お前も見ただろう。『長月』がリュックを背負ってたのを」
「……あれが、艤装?」
「そうだ。艤装は本来海戦のためにタービンや砲塔、魚雷なんかを搭載しているが、それを全部オミットして縮小、そのうえで防御フィールドと身体能力の向上にすべて傾ける。言ってみれば艤装の出力を使ったパワードスーツとなるわけだ」
「じゃあ、あのリュックは単なるカバーか」
「そのはずだ。今、明石に急ピッチで設計を組ませているが、やはりリュックくらいのサイズに納まる計算だ。そして、あの『長月』は、入手できなかったからか必要ないからか、主砲もオミットしているが――お前の場合は、その日本刀を組み込む」
「日本刀だけ? 主砲もなし?」
「そうだ。主砲は地上で使うには出力が多すぎる」
「機関銃は?」
「そっちにエネルギーを振ると出力が落ちるうえ、艤装が大きくなりすぎる。近接武器のみがベストだ」
無茶な話だ。自分にとって、この日本刀はあくまで飾りだ。改装したときに艤装の一部として賜ったときは嬉しかったが、武器としてふるったことはない。
「三日で剣術を実践レベルにするのは無茶じゃない?」
「そう思うだろうが、裏技を使えばできる」
「う、裏技?」
どんどん話がキナ臭くなってきた。
「俺はこれから三日間、剣術に限らず白兵戦の技術をすべてモーションとしてデータ化し、お前の艤装に組み込む準備をする。そうすれば艤装をつけているときに限ってだが、お前にも同じ動きができるはずだ。……まあ当然、部外秘だ。黙っていろよ」
「待ってよ。そこまでする?」
司令官が裏技というだけのことはあり、皐月は戦闘技能のデータ化なんて聞いたこともない。話が本当ならば有用なのは明らかなのに、表ざたになっていないのは、それなりにリスクがあるからだろう。日夜砲撃や戦闘の訓練に励んでいる艦隊の皆に使わせないだけの理由があるのだ。
「危ない技術なんじゃないの?」
「確かに危険はある。しかし今はこれしかない」
「マジで、やるの」
「ああ」
「そこまでする理由は? ショートランドの司令官に借りでもあるの? でなきゃ、その『長月』を野放しにできないから? それとも……」
自分に心構えとやらが足りないからか。そう言おうとした皐月に、司令官は意外な一言を言い放った。
「一番の理由は、お前の身の安全のためだ」
「へ?」
思いもよらない理由に、皐月は目を白黒させた。
「正直、技術なんてなくても、艤装をきちんと白兵戦使用に改造できれば、よっぽどのことがなければ問題ない。『長月』の持ってる拳銃じゃ傷一つつかないだろう。ロケットランチャーか対物ライフルでも持ち出されない限り大丈夫だ」
「流石にそんなのは出てこないでしょ」
「まあ、そう思いたい。だが、どうにもキナ臭い。根拠はないが……ショートランドの司令官とは古い馴染でな。俺の知る限り、こういう事態でのヤツは危ない。だからできることはやっておきたい」
「そこまで言う?」
「ああ。そのために、だ」
司令官は皐月を見据えて言い放った。
「この三日間、お前も暇を持て余してもらっては困る。その刀を三日間持ったままでいろ。体になじませるんだ。それと艤装適合者派遣規定にもきちんと目を通しておけ。破られると俺の立場が悪くなる」
「派遣規定って――要するにヨソで粗相するなっていうお約束みたいなもんでしょ。それより刀を持ったままってどういう意味? 寝るときも?」
「ああ。手に握ったままにしろ。脇に置くのも無し、体に立て掛けるのも無しだ」
「頭に乗せるのは?」
「無しだ」
「口にくわえるのは?」
「無しだ」
「お風呂の時も?」
「そうだ」
「トイレの時も?」
「そうだ」
「……いや、マジで?」
「マジだ」
皐月は頭が痛くなってきた。
「マジでぇぇぇぇ……」
*
気配を感じて目を覚ますと、響が皐月の持っている日本刀に手を伸ばそうとしていた。
「あ、起きた?」
「……何してんの」
「昨日、武器を持ったまま寝た方がいいって注意するのを忘れててね。でも心配なかったみたいだ」
皐月は大げさに肩をすくめる響をにらみながら、刀でぽんぽんと自分の肩を叩いた。
「まあ、ちょっと鍛えてきたから。三日間こいつとは寝食を共にしたんだ」
ルームメイト、演習相手、通りすがりのランニング中の重巡たち、忍者の軽巡、鎮守府中がグルとなって隙あらば皐月から刀をかすめ取ろうとしてきたものだから、もうすっかり参ってしまった。皐月から刀を奪うことに成功した艦娘は間宮券をもらえるということもあり、三日間サバイバル状態だったのだ。寝込みを襲われたのも一度や二度ではない。
大きく伸びをすると皐月は響に提案した。
「今日の朝ごはんこそ一緒に来てもらうよ。南国の料理ってなにがあるんだろ。ナシゴレンとか?」
「ナシゴレンはハワイだよ。あと、いいことを教えてあげよう。中華料理が一番安全だ」
「うまいかどうかじゃないんだね……」
朝食を食べ、その後は市場を散策した。艤装は宿に置き、ヘッドセットで通信を受けられるように準備していたが、ターゲットに動きはない様だ。勝ち逃げされたとはいえ、相手もこちらを甘く見ていないということか。あるいはただ単に仕事がないだけなのか。
「暇だなあ。艤装があれじゃ海上にも出られないし……」
「ここにも船で来たくらいだからね」
「まあ、どのみち派遣規定のせいで、そっちの司令官の許可を得ずにこの島は出れないからね。どこかに刀を振れる場所はない? 体を動かしたいんだ」
「だったらいいところがある」
響は皐月をバスケットコートに案内した。周囲がフェンスではなく見通しの悪い塀に囲まれており、刀を出しても不審がられることはないだろう。受付の男は金髪と銀髪の少女の二人組を見て流石に怪訝そうな顔をしたが、響がカウンターに札束を積むと手のひらを返して笑顔になった。
「ちょ、おま、それってアレ?」
「アレだよ」
「いいの? いやダメだろ?」
「ちょっとくらいバレないよ」
「バレたからここにいるんじゃなかったっけ?」
半目で抗議するが、響はマイペースさを崩さない。コートの反対側へ行くと一人でバスケをやり始めた。
「まあいっか」
どうせ叱られるのは響だ。皐月は日本刀をロッドケースから取り出すと正眼に構えた。
「まずは……」
切り込む。踏み込む。横なぎから返す刀で切り、そこで敵の攻撃を想定して、いなす動作。ややぎこちないが体が覚えている。艤装のアシストを受けて実際に剣をふるったのは、佐世保を出立する前のテストと、『長月』との対峙の二回のみ。それでもここまで体に染みついているのは、やはり司令官が『裏技』とまで言うことはある。
と、同時にこの裏技の危険性もわかってきた。あまりに型にハマっている。おまけに、司令官とは体格も得物の長さも違う。剣をふるうごとに、わずかなズレが蓄積していくのを感じる。昨日の実戦で露呈しなかったのは幸運としか言いようがない。
「あくまでモーションというか、体の使い方を覚えるだけだからか」
体が勝手に動いてくれるのはいいが、それで対処できないならば終わり。技術に体を使われているだけだ。雑魚相手ならともかく、実戦で叩き上げた相手に通用するのは難しい。そしておそらく『長月』はまさにそういう相手だ。彼女自身の技術で、あの拳銃の扱いと身のこなしを実現している。
「厳しいな」
次また戦ったらどうなるかわからない。平地での短期決戦、しかも中距離からのスタートという圧倒的に皐月に有利な条件ですら勝ち逃げされたのだ。問題がどんどん山積みになっていく。
「なるほどね」
声に振り返ると響はとっくにバスケに飽きていた。ボールの上に片足で乗り、両手はポケットに突っ込んでいる。どんなバランス感覚をしているんだ。
「艤装なしでそのバランス……すごいもんだね」
「そちらこそ。ずいぶんと身についているようだけれど」
「身についているだけだよ。今、素の状態で剣を振って分かった。ちょっと、ヤバいかも」
「ふむ」
響はボールに乗せる足を素早く入れ替えながら唸った。フラミンゴか何かだろうか。
「そういうことなら、軽く手合わせしながら調整しようか」
「いいのかい?」
「怪我しない程度にね。宿じゃ応急修理くらいしかできないから、そのつもりで」
響はボールから飛び降りると、一見無防備な姿勢でこちらに歩み寄ってきた。
「刀はさすがに無しで頼むよ。さ、かかっておいで」
「……よし」
刀を脇のベンチに置くと、皐月はさっそく響に一発撃ちこんだ。素早いステップからの掌底。これもやはり、今までの自分では考えられないほどの鋭さだ。
しかし響はそれをあっさり受け流すと、すれ違いざまに皐月の額に手を添えてそのまま引き倒した。コンクリートのコートに後頭部をぶつけそうになり、慌てて受け身を取る。
「ちょっ」
「まだまだ甘いね。さて。ちなみに言っておこう」
距離を取った響は、皐月が起き上がるのをのんびり待ちながら語る。
「私がロシアに傾倒しているのは昨日説明した通り。これも例外じゃない。システマという。呼吸、リラックス、正しい姿勢、移動を保ち続け、いかなる状況にも対応する護身術さ」
「まさか、『響』の艤装が覚えていた技術を……」
「いや全然。システマは海軍とはあまり関係ないし。艦娘になってから通信教育で覚えたんだ」
「つ、通信教育?」
なんでこいつはいちいち胡散臭いんだ。
「でも、ショートランドにステゴロで私に勝てる駆逐艦はいない」
そしてなんでいちいち極端なんだ。
「流石に巡洋艦以上だと勝てない相手もいるけど」
「キミでも勝てないやつがいるのか……相手したくないなー」
「まあ、まずは私でどうだい? いい経験をさせてあげよう」
「ちっくしょー……。でも、今はやるしかないか」
皐月は起き上がると構えを取った。響は相変わらず、一見脱力した姿勢のままだ。
「行くよ」
「来なよ」
訓練は日が沈むまで続いた。
*
「いてて……」
シャワーを浴び、体を拭いている最中も体のあちこちにできた痣が痛んだ。コンクリートの地面で組み手なんかするもんじゃない。それに気づいて砂浜に場所を移したが、結局痛いのには変わりはなかった。むしろ全然整備されていない砂浜に埋まっていたゴミに困らされたくらいだ。
「お風呂あがったよー」
しかし響は部屋にいない。ちょっと探すと、顔に十字傷のある宿屋の主人と何やら話し込んでいた。ロシア語だろうか、全く何を言っているのかわからないが、盛り上がっている。
「響?」
「え? ああ、すまない。今行くよ」
響は主人と二言三言会話するとこちらにやってきた。
「仲よさそうだけど、もともとの知り合い?」
「……知りたい?」
響がニヤリと笑う。皐月は無言でぶんぶんと首を振った。
「賢くなったね」
そういう響が部屋に戻るなり一杯やり始めようとしたので皐月は尋ねた。
「定時報告は?」
「キミがシャワーに入っている間に済ませたよ」
「……これ、このまま相手がこの街から逃げちゃったらどうするの?」
「そうならないように昨日は深追いさせなかったんだ。それに、逃げたら逃げたで私たちの仕事ではなくなるよ」
「ふうん」
手持無沙汰になった皐月は、響に合わせて晩酌することにした。今日は帰りがけにスーパーに寄ったため自前のビールとつまみがある。艦娘は飲酒も喫煙も許可されているためレジで止められても問題なかったが、さすがGARDENというべきか、年齢確認もされなかった。冷蔵庫から取り出したビールを開け、つまみに柿ピーの類似品を一口食べた。
「うわ、この柿ピーまっず! どこ製だよ……!」
「日本のお菓子は美味しいからね。日本のスーパーには日本の製品しか置いてないせいで感覚がマヒするけど」
「確かに、ここのスーパー全然読めない商品がいっぱい置いてあったなあ。韓国、中国、シンガポールに……」
「まあ、この街の場合、中国系マフィア、ロシア系マフィア、イタリア系マフィアが幅を利かせているから、闇ルートの店に行けばもっといいものが買えるよ」
「い、か、な、い!」
「クソ真面目だね、君は」
響は皐月に日本製のスルメを投げてよこした。
「代わりにビール一本頂戴。
「ホント、バカだよキミ」
皐月は響と少し仲良くなれた気がした。
翌日、爆弾の飲みすぎで二日酔いの響にゲロを吐かれたのでやっぱり気のせいということにした。
*
『長月』は憂鬱だった。
三日ぶりの仕事だ。今日はロシア本国での裏切り者がこのGARDENに逃げ込んだというマフィアからの依頼だ。全員殺すだけの簡単なお仕事だ。
しかし、それに不釣り合いな得物を『長月』は持ち出してきていた。一応雇い主の許可は取り付けているが、できればやめろと言ってほしいくらいだった。
仕事そのものはあっさりと終わった。事務所に突入して僅か二分で掃除を終え、引き上げようとしたとき、窓を蹴破って金髪が乱入してきた。
「げっ」
金髪はあたりに散らばる死体に一瞬顔をしかめたが、こちらから意識を逸らすことはない。なぜか顔に治りかけの痣があるが、それ以上の変化があった。思わず『長月』がつぶやいてしまうほどに。
『馴染んでいる……』
剣が。動きが。物腰が。構えが。すべてが馴染んでいる。三日前に見たときよりもいっそう、この金髪自身のものになっている。『長月』は舌打ちしたい気持ちをこらえ、仕事に使ったベレッタを投げ捨てた。どうせいくらでも手に入るものだ。今は少しでも身軽でいたい。そして金髪のために――こう言うと癪だが――用意した拳銃を取り出した。
ベレッタが玩具に見える、無骨極まりないマグナムだ。
「げ、なんだそりゃ」
金髪が日本語で言う。艤装を使い始めてから日本語が分かるようになったのは、やはり艤装のもととなったのが日本の艦だからか。
そしてその艤装が言っている。自分と相手は同じものだ。同じ由来で、同じ戦場を駆け抜けたことがあると。それが巡り巡ってマフィアの始末屋とそれに差し向けられた追手となっている。数奇な運命もあったものだ。
「そのゴツイのでボクとやり合う気なの?」
『不足か?』
「さあ。でも痛いのはやめてよね!」
金髪が切り込んでくる。『長月』は足元のベレッタを蹴り飛ばして金髪の進路に割り込ませた。しかし金髪は流れるような動きでアドリブを入れつつこちらに迫ってくる。
『こいつ……』
三日前とは動きが違う。切り込み、刻む、鋭い動きから変わっている。流れて即応し撫で切る動きが止まらない。何かを新しく覚えたのか。
細長い事務所の中は金髪に有利なフィールドだ。しかも足元の死体や家具の残骸までも相手の動きに味方している。三日前の動きなら障害物を直線的にかわしてきただろう相手は、今日は流動的な動きでそれらをすり抜けてくる。距離が足りない。こちらが一歩離れる間に相手は一歩半を詰めてくる。せっかく持ち出してきたマグナム弾はかすりもしない。あと少しが躱せない。二度、三度、剣先がこちらの肌を割き、赤黒い床の上に新しい赤を足していく。
どうしてだ。
どうしてこうなる。
どうしてお前はこうも自分を――。
「ふざけるな!」
一か八か。相手が残心を終えた瞬間に日本語でそう叫ぶと、金髪の虚をつくことに成功した。一つの動作の終わりが次の初動へと続く流れが、ほんの一瞬だけ立ち消える。そこに無理やり『長月』はこぶしを突っ込んだ。
文字通り、破れかぶれに近い右ストレート。金髪は少し驚きつつも左手で受け流そうとする。
「どうしてお前は――」
『長月』の狙いは金髪の上着の袖口だった。腕に当たれば角度で流される。だから、あえて服に沿って展開しているフィールドを狙った。金髪の動きで膨らんだ袖口に対し、垂直に『長月』のこぶしが突き刺さる。
「オレの邪魔をするんだ!」
力を逸らしきれず金髪が体勢を崩す。その瞬間を逃さない。左手一本で胸へと発砲する。心臓をわしづかみにするような音が響き、金髪の体がわずかに揺れる。
『長月』はその成果を確かめずに事務所から離脱した。右手は艤装のフィールドを直接殴りつけたし、左手はマグナムを無理やり片手打ちして反動を処理しなかった。おかげで両手にジンジンと痛みが走っている。しかし構うものか。今は逃げる。仕事は済ませた。ならばもう――。
頭をぶん殴られたような衝撃が襲った。思わず飛び移ったビルの屋上から落ちそうになるが、今そんなことをしたら確実に追いつかれる。とにかくこの場を離れる。セーフハウスのほうに行くことを考えず、とにかく勘に任せて走りまくる。
「畜生、畜生、畜生――」
どうしてオレがこんな目に。
*
「参ったな、逃がした」
支給品のM24では威力不足らしい。肌の色からすると『長月』は艤装の調整が完全ではないようだが、それでも対人狙撃銃程度では必殺ではないということか。
「響! あいつは!?」
「逃がしたよ。すまない」
事務所から遅れて飛び出してきた皐月も、胸の中央をさすっているものの平気そうな顔をしている。S&W M29の接射を受けてその程度とは、自分たちがサイボーグかターミネーターにでもなった気分だ。いや、間違ってはいないか。下手をすると、海上でのチューニングより、余剰出力を身体能力アシストと防御フィールドに回しているため、より一層化け物になっているかもしれない。
「くっそ……。今度こそやれると思ったのに」
「……何が原因だと思う?」
「あいつ、破れかぶれで攻撃してきたんだ。驚いちゃったよ。情けない……」
皐月は自分の動きに自信があったようだ。それだけに自分の不甲斐なさを責めているように見える。
その自信には確かな根拠があった。響もこの三日間で皐月がめきめきと成長したのを感じていたし、そもそも半端な適合者と改二では引き出せる艤装の地力が違うことも計算に入れていた。だから正面から『長月』を倒すのに不足はないと踏んでいた。
しかし足りなかった。正攻法の、実力差での攻め方では仕留めることができなかった。それは何故か。
「……なるほど。私と組み手をしたのは、身のこなしの向上という意味ではよかったけど、そういう点ではマイナスだったね」
「どういうことさ」
「一度、泊地に戻ろう。司令官の許可を取ってみる」
「いいの? またあいつが……」
「これでまたすぐに出てくるような馬鹿なら、もうとっくにお縄についてるよ。……あいつのバックに、慎重な奴がいるみたいだ」
響自身、あまり今回の任務の全容が見えていない。皐月は響が情報を持っているのに開示してくれないと思い込んでいるようだが、それはこちらも同じだった。司令官は意図的に響たちに情報を伏せている。この三日間は皐月の特訓の合間を縫って、金に物を言わせて情報を集めていたが、おかげでようやく大体の構図が見えてきた。
『長月』はただ雇われているだけ。仕事の斡旋、艤装の提供、メンテナンス――それらを引き受けているバックがいる。いわば飼い主だ。そして、司令官が抑えたいのはこちらだろう。ならばむしろ――皐月と響の役目とは……。
「おーい、響。どうしたのさ、ボケっとして」
「考え事をしてるんだよ」
必要なピースがある。自分たちが最後に笑うエンディングが欲しい。そのために……。
「皐月」
響は自分がいま、初めて皐月の名前を呼んだことに気づいた。それに一人ほくそ笑む。
「なんだい、響?」
「死ぬ気はある?」
皐月はなぜか右腕を抑えて嫌そうな顔をしたが、こちらを見据えて言った。
「あるもんか。死んでたまるもんか。死ぬくらいなら――やってやる」
「
響は満面の笑みを浮かべた。皐月が驚く。
「やってやろうじゃないか!」
うずうずする。泊地に戻ったら忙しくなる。
指先が引き金を欲していた。
*
『長月』は雇い主のオフィスを訪れた。ドアを壊しかねない勢いで開け、奥まった場所に机を構える雇い主に詰め寄る。
「どうしました? ここには用事がない限り来ないように言ってあるでしょう。燃料なら十分に……」
「わかってるだろ。次仕事に出れば、おそらくまたあの金髪が来る」
「皐月」
「なに?」
「あなたの『長月』と同型の『皐月』という駆逐艦のようです。派手な金髪を隠しもせず街を出歩いてくれているおかげで、すぐに情報が集まりましたよ。日本の佐世保に所属する駆逐艦で、しかも改二――かなりの手練れのようです」
「……そこまでわかってるなら、言うことがあるだろ」
「何も?」
『長月』は机をこぶしで叩いた。
「このままじゃ勝てない!」
「勝つ必要があるのですか? 一度目は仕損じましたが、二度目はちゃんと仕事を片付けてきた。これからもこの調子で頼みますよ」
「オレは……」
『長月』が肩を震わせていると、雇い主はため息をついた。
「……どうしたものか。今が潮時なのですがね。GARDENから引き上げるには絶好のタイミングです」
「逃げた先に、あの金髪が来ると思うか」
「いいえ。皐月はおそらくショートランド泊地からの差し金でしょう。このGARDENはある種の治外法権になっていますが、それでも艤装を使った犯罪を見逃すのはメンツにかかわる……そういうことでしょうね。ならば、ここを離れればまた手管を変えてくるはず」
「……オレは悔しい。負けっぱなしは嫌だ」
「そうですか。つまりこう言いたいのですね」
雇い主はぞっとするような声色で言った。
「次やったら勝てると。そういうのでしょう?」
「そ、れは……」
勝てない。火力が足りない。腕前が足りない。どうしようもない。
「そこで、です」
雇い主は身を固くする『長月』をよそに立ち上がると、部屋の隅の箱を開けた。
「必要なものは取り揃えてあります」
「なに?」
「技師ももうじき到着するでしょう……。これで、互角に戦えますよ」
箱の中には資料でしか見たことがない艦娘用の単装砲のほか、機関部の増設に使うパーツが入っていた。
「何を企んでいる?」
「言っているでしょう。GARDENから引き上げると」
「ふん」
雇い主の意図はわからない。それでも確かなことがある。
次は勝てる。そのための手段が手に入った。
『長月』はほくそ笑んだ。
*
「一時の帰還ではありますが、お疲れ様です。入渠して疲れをいやしておいてください」
「わかったよ」
ショートランド泊地に帰り着くと、皐月と響は司令官に対面した。無線で状況は報告してあるが、一応形式としてだ。用事を終えた皐月はさっさと立ち去ることにした。
「それじゃあ、失礼します」
「……皐月、先に戻ってて。話があるからさ」
「え? そう? じゃあ、先に行くよ」
退出しようとすると、響が残ると言い出した。少し妙だと思ったが、探りを入れても藪蛇になるだけだろう。それに、早くこの場を離れたい理由もあった。
司令官と秘書官の龍田だ。
ここに派遣されてきたときも一度顔合わせはしているが、やはり身にまとう雰囲気が違う。物腰は丁寧だが、鋭い刃物のような本性が見える。以前の自分では気づかなかっただろうが今ならわかる。GARDENを見て、『長月』と対峙した自分にはそういう感覚が身についていた。
イカれたやつらだ。
「あとで連絡するからさ、よろしく」
「うん」
そして響もまた、そういう空気を身にまとっていた。
*
「……ということなんだけど、どうだろう。許可をもらえないかな」
「ほう? なるほど、面白い」
司令官は響の提案を聞き、胡散臭い笑みを浮かべた。
「だろう?」
「……まあ、言い訳臭いところもありますが、いいでしょう。持ち出しを許可します。それと、誰かつけますか?」
「じゃあ、日向さんで」
「わかりました」
響は許可を取り付けるとスキップで倉庫の奥へと向かった。そこには厳重に封印された保管庫の中で木箱が眠っている。司令官からもらったキーでセキュリティを解除し、箱をいとおしげに撫でる。
「ああ、やっと出してあげられるよ。
明日が待ち遠しい。
*
翌日。朝食を終えるなり、皐月は響に演習を申し込まれた。今はショートランド泊地郊外の林間演習場の指定されたポイントに、艤装を装着した状態で待ちぼうけを食らっている。
よその泊地に派遣された艦娘――艤装適合者は現地の司令官の許可を得ずに泊地を出ることができない。どうにか抜け道はないかと佐世保から持ち出してきた規定書を読んでいたところに話がやってきたので、渡りに船だと引き受けたが結局退屈な時間を過ごす羽目になっている。
「また規定書でも読むか……」
不毛だ。佐世保を出る前、刀と一緒に過ごした三日間にも穴が開くほど読んだそれは、一言一句頭に入っている。内容にしたって、他所の鎮守府では現地の司令官の許可なく行動するなとか、他所の海域で得た資源や捕虜を現地の司令官の指示なく持って帰るなとか、ごくごく当たり前のことしか書いていない。
そんな時、とうとう救いの声がヘッドセットから耳に飛び込んできた。
『聞こえるかい』
「あ、やっと?」
待ちくたびれていたところにようやく通信が入った。
『今から、君にいいものをあげよう』
「演習じゃないの?」
『必要なものさ』
皐月は背筋に氷を押し当てられたような悪寒を感じた。思わずその場を離れる。
艤装により強化された皐月の目でも見えない速度で飛来した弾丸が地面をうがち、遅れて銃弾が遠く大きく響いた。射線を推測し、岩陰に隠れてヘッドセットに叫ぶ。
「おい、今の何だよ!」
『私は二キロメートル離れた場所にいる。同志ガングートに流してもらって没収されたこいつの出番が来たということだ』
いつだか言っていた。拳銃は大丈夫でも、ガングートに流してもらった大物はダメだったと。
「……ちなみに、何?」
『KBP OSV-96』
皐月は銃のことは詳しくないがロシア製であることはわかった。そしておそらく、ろくでもない代物であることも。
『専用のB-32装甲貫通弾を使えば二キロ弱離れた軽装甲車両を破壊することも可能な逸品さ』
「対物ライフルじゃないか! そんなもん人に使うな!」
没収されて正解だ。しかし残念ながら今は響の手の内にあり、こちらを狙っている。
『さっきのはわざと外したんだ。けれど次からは本当に殺しに行く』
あっさりと響は言い放った。
『君に足りないのはそれだ。私の見方では、君と『長月』がやりあえば十回に九回は勝てたはずだ。けれど君はたった一回を掴まされた。なぜかわかるかい』
「……死ぬ気でやらなかったから」
『口で言うだけなら誰でもできる。けれど本当に人間を殺すつもりで、死ぬ気でやれるか? 『長月』にはそれができた。実力差をひっくり返し、十回に一回の勝ちをつかみ取れた。君を鍛えたのはそういう意味ではマイナスだった。昨日の君には実力に裏打ちされた自信があった。しかしそれが驕りになったんだ』
「油断したつもりはなくても、勝てる気でいたから負けたっていうの?」
『そうだ。だから今度は勝てる実力で、確実に仕留めに行けばいい。それができる心構えを身に着けてもらう』
心構え。ずっとついて回るそれを皐月は苦々しく思う。
「だから、殺す気で撃ってくるって?」
『シンプルでいいだろう。君はここまで来て、私を切れ。もちろん殺す気でだ。さもなきゃ殺す』
こちらの位置はわかっているとでもいうように、皐月の隠れている岩に振動が伝わった。遅れて銃声が届く。音より早い弾丸を潜り抜け、殺しに来いと誘う。
『通信終了。次は顔を見て話そう』
「……勝手なこと、言ってくれちゃってさ」
刀を抜いた。
「やってやるよ」
覚悟はまだ決まっていない。しかしどうにか手繰り寄せなければいけない。
海の上で化け物たちを相手にするときは、大義があった。人々を守るため、化け物を倒すため、死ぬ気で戦えた。けれど、自分と同じ形をした人間相手に任務とはいえそれができるか? 言い訳せずに、どす黒い殺意に身を任せることができるか?
「やるしかないんだろ」
『長月』に勝つにはそれしかないことが皐月にもわかっていた。響には損な役目を押し付けたと思っている。それでも。
自分を殺すつもりで撃ってくるなら、こっちも殺す気で行く。
*
「動いたぞ」
「了解」
響はひときわ高い丘の上で伏せ撃ちの姿勢のまま日向に答えた。日向には観測手を務めてもらっている。
「しかし、本当にやるとは」
皐月の位置や風の情報を伝え終えた後の日向のつぶやきをよそに響は狙いを定めた。箱型のマズルブレーキを備えた対物ライフルを操作し、スコープに皐月の姿を収める。木の根が縦横無尽に走り、スコールの絶えない地面のコンディションは悪い。しかし足元すらろくに見ずにトップスピードを維持して走ってくる。さすがの身のこなしだ。
「やらなきゃやられる。それが足りないんだよ」
引き金を引くと、轟音と閃光が一瞬だけ周囲を埋め尽くした。さらに燃焼ガスがマズルブレーキから吐き出されて左右へと吹き荒れる。軽減されているとはいえ馬鹿にならない反動が響の体を襲うが、艤装で強化された今ならば問題なく対処できる。
胸を狙った弾丸をスコープの向こうの皐月はかわした。それくらいしてくれないと困るが、本当によけるとは。正直なところ、半殺しにするだけでも皐月の戦意を引き出すという目的は達成できると思っていたのだが、こうなると徹底的にやりたくなる。
「よくよけられるものだ。この距離では銃声より銃弾のほうが早いだろうに」
「まあ、皐月はかなり勘がいいからね。おそらく殺気を読んでいるんだよ」
「馬鹿げた話だ。龍田くらいならやってもおかしくないが」
「その域に達しつつあるんだよ。本気の死線を渡ってこようとしている」
「……つまり、お前が本気で殺す気で撃っているということになるが」
「まあ、そうなるね」
「人のセリフを取るな。右だ」
「スパシーバ」
皐月がフェイントをかけ、木陰に姿を隠したのを見て日向は響に正しい位置を教えた。即座に響が狙いを修正し、皐月へと銃弾を送る。海の上で砲声に慣れているとはいえ、そこに込められている意味が違うのを日向も感じ取っていた。
「……これが、本気の殺意か」
「そうだよ。人を殺すための殺意さ。あの深海からやってくる化け物どもじゃない。掛け値なしに人間を殺す。そのために撃つんだ」
響はさらに撃つ。もうじき皐月との距離が1キロを切る。
「おい、響」
「なにかな」
「笑ってるぞ」
「わかってるよ」
ぞくぞくする。冷たい興奮が指先を研ぎ澄ます。
「ハイになるなって方がムリさ」
*
皐月は道なき道を走っていた。右手に刀。左手に鞘。ようやく響たちの姿が見えてきた。今も散発的に銃弾が送られてきている。当たればお陀仏だ。それが分かる。本気で殺すために飛んできているのが分かる。殺意が皮膚を粟立たせる。額だ。皐月は横に飛んで回避した。
「はあっ……はあっ……」
息が切れる。体力の問題ではない。頭に血が上って血管が切れそうだ。脳味噌がフル回転している。普段使わない感覚と感情が使われているのが分かる。
これが死線か。
血が熱いのに心が冷たい。手に握った刃が体の一部となる。司令官からもらい、響に鍛えられた技術でも実現できなかった感覚がある。
ああ、自分はこういう形のケモノだ。
「待ってろ――!」
口が細く開いて獲物を求めていた。殺意が体を突き動かす。敵がいる。殺せ。殺せ。殺せ!
銃弾をかわしてさらに進む。もう五百メートルもない。
「ん?」
殺意の質が変わった。一撃必殺の研ぎ澄まされたものから、めった撃ちにしてやろうという粘り気のあるものへと変わる。
「やばいっ……」
咄嗟に身をかわすと、皐月のいた場所へと銃弾が降り注いだ。単発ではない。十数発も連続でだ。だというのに、銃声はほとんどない。
「どうなってる!」
*
「
VSS。OSVでは近すぎる距離になって切り替えた自動狙撃銃――無論ロシア製だ。有効射程は四百メートル。しかし、完全消音で防弾ベストを貫通可能な威力の銃弾を二十発フルオートで叩き込めるという逸品だ。
高揚せずにいられない。指先が絶頂する。
「さあ死ね!」
「……お姉さん、心配だなー」
日向は無視して皐月に銃弾を撃ち込む。皐月はこちらから見て左手に回り込もうとしている。意外だ。刀を持った右側ではなく、無防備な左半身をさらすことになる。威力は対物ライフルに劣るとはいえ、足止めを食らった途端にハチの巣にしてやれる。いい度胸じゃないか。
撃つ。撃つ。マガジンはたっぷりある。予算を気にしなくていいのが最高にハッピーだ。一発撃つごとに相手に追い詰められる感覚が背筋を焦がす。皐月がどんどん近づいてくる。その顔がくっきり見える。
自分のように笑ってはいなかったが、冷えた殺意がただただその顔を険しくしていた。
「ああ……」
本気で殺しに来ている。とうとうその地平に達してくれた。それがはっきり理解できた。形容しがたい官能が脳をとろけさせる。
これが死線か。
相手がこちらに左半身をさらしている理由もわかった。あえて無防備な側を向け、こちらの殺意を感じるアンテナの感度を上げているのだ。
もう百メートルもない。自分たちのいる丘へと皐月が駆けあがってくる。
「日向! そいつを貸せ!」
VSSを投げ出し、日向に預けておいたOSV-96をひったくる。伏せる時間はない。肩付けで狙いを定める。この距離でスコープは使えない。勘だけを頼りに殺意を皐月にぶつける。
「
響は撃った。皐月は鞘を銃弾に突き立てた。当然そんなもので銃弾の勢いは消えない。皐月の左手の指を砕きながら鞘が遥か後方へと吹っ飛ぶ。しかし皐月はその勢いを糧に、身を右前に投じ、宙にはねた。
響は銃の反動を殺しきれず、無防備に仰向けになるがままに皐月を見上げた。皐月の目が逆光の中で濁った輝きを放っている。
皐月の口が本能をつぶやいた。
「死ね」
「いいよ」
剣が振り下ろされた。
「そこまで、だ」
響に伝わったのは鈍い痛みだった。皐月の刃は、地に大の字になった響をとらえていなかった。日向が咄嗟にVSSを割り込ませていたのだ。日本刀が直接接触しなかったおかげで響の艤装のフィールドを突破するには至らなかった。とはいえ艤装で強化された渾身の一閃の勢いは完全には殺しきれない。響は肋骨に鈍痛を覚えた。VSSはフレームが無残にゆがんでいる。もう使い物にならないだろう。
水を差され、空気が一気に弛緩する。皐月はたたらを踏んで後ずさった。
「ふー、ふー、ふー、ふー」
「皐月。落ち着け」
「ああ、うん、ボクは大丈夫だよ、日向さん」
そういう皐月もただでは済んでいない。左手は無残なことになっているし、擦過した銃弾がフィールド削ったおかげであちこちに傷がある。アドレナリンのせいで痛みを感じていないのだろう。
響は仰向けのまま皐月に声をかけた。
「皐月。先に帰っててよ。入渠の申請は出してある」
「あっそ」
先ほどまでの獣じみた気迫はどこへやら、皐月は冷淡にふるまっている。それが強がりだと見抜いた響は意地悪をしてやった。
「皐月」
「何だよ」
「気持ちよかったよ。君もそうだろう?」
「一緒にすんな、変態」
皐月が丘を下りていく。
「ボクは殺し合いなんて、真っ平御免なんだから」
「そう。でも、実戦ではよろしくね」
「……わかってるよ」
皐月が去ってなお、響は起き上がることができずにいた。気が抜けた。
「あー……疲れた」
「響も皐月も、ヤバい目をしていたぞ。深海棲艦に強い憎しみを持ったやつには時々いるけど、人間相手にそれはまずい。私たちは人を守るための艦なんだから」
「わかってるよ」
分かっている。それでもなお、高揚せずにはいられない。人間同士だから味わえる禁断の味。死線の甘さ。
響はそれを楽しみ、皐月は唾棄した。それが分かっただけで十分だ。
皐月はもう迷わない。次は確実に殺しに行ける。
「とりあえず、一つ片付いたかな」
まだまだやることはある。しかし第一段階はクリアした。
あとはドミノを倒していこう。
*
ストレートチルドレンだった自分は、かつて身を寄せ合うようにして仲間たちと暮らしていた。けっして恵まれない状況だったが、それでも懸命に生きていた。理由なんてない。将来の夢なんて語る暇もない。ただ、死にたくなくて生きていた。必死にもがいていた。
そんなある日、格別に怪しいうわさが路地裏に広がった。顔写真を撮らせて、髪の毛を渡せば三日は食うのに困らない額をくれる商人がいる――。馬鹿らしい噂だし、事実だとしたら胡散臭いことこの上ないが、盗みや売り、運び屋で稼ぐよりはよほどマシに思えた。
当時、グループのリーダー的立場だった自分は、みんなの不安と期待が入り混じった視線を背後にその商人のもとへ向かった。するとなんということはない。本当に、写真を撮らせ、髪の毛をくれてやるだけで、信じられない大金が――今思い返せばはした金が――手に入った。それを知らせると、仲間たちもこぞって顔と写真を売りに行った。肉のスープと柔らかいパンで腹いっぱいになり、みんなでつかの間の幸せを味わった。
そして翌日、自分以外を残して仲間たちは全員殺された。
「ぐ……」
悪い夢を見ていた。呻いて、身を起こそうともがく。のどがカラカラだった。どれくらい寝ていたのか。
どうにか起き上がると全身が痛く、重かった。『長月』は部屋の隅に置きっぱなしになっていたぬるいビールでのどを潤すと、ベッドに戻る気力もなくその場にへたり込んだ。
「大丈夫なのか、これ……」
部屋の隅にある艤装をにらむ。雇い主を訪れたときに見せられたパーツはすべて組み込まれた状態だ。
あの後、雇い主は『長月』に新しいセーフハウスを用意し、そこに技師を呼んで艤装の改造をさせた。一度装着して問題がないことを確認すると、次の指示を待つように言い残してその場を去った。今はどこにいるのかわからない。
前に使っていたセーフハウスから金目のものは持ち出してきたが、酒や薬は足りない。こんなに体調が悪化するのなら、鎮痛剤や睡眠薬をもっと買っておくべきだった。おそらく艤装を改造したせいで、それに合わせて体の方も影響を受けているのだろう。
「ちくしょう」
前髪が邪魔だ。鏡の前に立つと、髪がぼさぼさに伸びていた。それだけではない、皮膚も吹き出した大量の垢で塗り固められたようになっており、乱暴にぬぐうとその下からやや薄い肌の色がのぞいた。たった一年前のことなのに忘れていた。かつてもこんな風に髪と目の色が変わっていったのだ。
「ちっ」
日本人めいた肌色に、あの金髪のことを思い出す。不愉快だ。あれと同じものになろうとしている。シャワーを浴びて垢を落とし、髪を乱暴に切りそろえると、もはや自分とは思えない見た目になった。ますます苛立ちが募る。
体だけではない。精神もバランスを欠いている。あのクソみたいな路地裏での暮らしを思い出すなんて。薬が必要だ。どうにか立ち上がり、近場で薬を売っている場所を思い浮かべる。そう遠くない。行けるはずだ。
「はあ……はあっ……」
めまいがする。足元が雲のようだ。地を踏む感覚が薄い。壁を伝い、どうにか前に進む。
「……ん?」
鋭くなった感覚が自分を見る視線を感じた。ふと前を見れば、自分と同じくらいの年のストリートチルドレンが残飯を漁る手をやめてこちらを見ていた。今日はなんて日だ。どうしてこうも巡り合わせが悪い。
薬屋はこの路地を通るのが最短だ。視線を無視して横切る。
「なあ」
無視する。
「なあってば。大丈夫かよ。クスリでもやってんのか?」
無視する。
「おい――」
「うるさい!」
叫び、にらみつけてやると、その目に宿るものに気づいたのだろう。関わったらヤバい。それを遅ればせながら気づけるくらいにはこのガキは賢かったらしい。怯えた顔で足早に逃げ去る。
「お前らとは違うんだ――」
そうだ。あの日、仲間だったガキどもを全員殺され、自分だけ拉致され、今の雇い主に売り飛ばされた。雇い主は『長月』の艤装に適合する子供を探していたのだ。最初は雇い主を殺してやろうともがいたが、雇い主にこういわれて気が変わったのだ。
――路地裏に戻って飢えるのと、少しの手間で金と宿と食事が手に入るのと、どちらがいいですか?
艤装をつけ終えて初めての仕事は、自分を拉致した実行犯の始末だった。雇い主としても、用事があったのは自分だけで、余計な殺しをした実行犯のやり方は好かなかったらしい。
「お前らなんかと一緒にするな――」
雇い主からもらった初任給で宿をとった。服を買った。酒を買った。肉を腹いっぱい食べた。柔らかいベッドで眠った。何たる贅沢か。いや、これが普通の暮らしなのだ。あの路地裏での暮らしがクソだったのだ。
「戻ってたまるか――」
かつての仲間たちに申し訳ないなどと思わない。あいつらは選ばれなかった。運がなかった。弱かった。それだけだ。
だから。
「
這ってでも進む。生き残ってやる。もうあんな日々に戻らないために。邪魔をする奴は全員殺してやる。
GARDENの夜が明ける。