海だ。
鼻につく潮風が吹いて、髪を揺らす。砂浜を爆ぜる白波が、微かに残って引いていった。
ぼう、と私がそれを眺めている横で、隣の男は小さな子と戯れている。
「次はどこへ行こうか、姫」
「…お前、戻らなくてもいいのか。人の皇子だろう。あと姫はやめろと何度言えばわかる」
「兄はたくさんいるからなあ。私一人いなくなったところでどうにもならぬさ。ならばなんと呼べばいいのかいつも聞いているじゃないか」
海は好きだ。
春のぼやけた空を映した優しい海も、夏の輝くようなそれも、冬の厳しさも。海はまるで人のようだ、気まぐれである。
でも、それが好きだった。幼少の頃から、周りにあったものだから、というのもあるのかもしれないけれど。
「姫」と呼ばれるのは好きではない。というかもう姫ではない。そうしたのは貴様だろうに──まったく、緊張感のない顔だ。
「その名はもう捨てた名だ。お前といるならば新しい名をつけないとな」
「あ、私につけろと言われても困るぞ?」
「知っている」
お前が私とお前の子に付けようとした名前は壊滅的だったからな。必死で止めたが。
私もお前にだけはつけてほしくない。絶対に、嫌。
「ひどいなあ。まあ、名付けの才能がないのは認めるが…。私も皇子という身分を捨てた身、新しい名を考えなければ」
「…そんなホイホイ捨てていいものなのかは、鬼の身にはわかりかねる」
「お前のためなら惜しくはないさ」
「皮肉だったんだがな…」
少し熱くなった頬をそっぽを向くことで隠す。くっくっく、と笑いを噛み殺す声が聞こえてきて鳩尾に一発叩き込みたくなった。娘の手前、遠慮はするが。
愛おしい、と思っているのだ。
一目見たときから。人の里ですれ違ったあの日から。戦場で花開いた、赤い花を見た時から。そして、なによりも───薄暗い部屋の中で、貴方が手を差し伸べてくれたときから。
だからこそ、恐ろしいと思う。恋や愛などとは違う、私の心に巣食うもうひとつの焔が、貴方も、そして愛しい子すら焼いてしまうのが。
「うむ、“桃太郎”というのはどうだ? ほら、黄泉から帰る伊邪那岐命様が桃を投げつけただろう。昔から桃には破邪の力が───」
「…………いい、のでは、ない、だろう、か」
「決まりだなあ」
にこにこと愛嬌のある、朗らかな笑みを浮かべる貴方に私も笑った。
愛おしい、愛おしい、愛して、好き、大好き、こんなにも、愛しているのが。
私は、それが、たまらなく恐ろしい。
◆
背景、お姉様。日いづる国は冬を越えましたがお姉様はどこでいかがお過ごしでしょうか。前にお話した娘は、日に日に大きく、可愛らしく成長していきます。人の子の成長は早いのだと、少し、ほんの少しだけ寂しく思います。
彼と歩く大地はとても大きいのです。ずーっと島にいたものですから、自分がどれだけ世間知らずが知りました。いつかお姉様がお話してくれた、大陸というものが幼い私には理解出来ませんでしたが、今ならわかる気がします。また会えたら、お話してくださいね。
お姉様、私は一度も人の子に会ったことがなかったので知りませんでしたが…
私達は愛してしまうと、喰いたくなるのだと、前お教えしてくださいましたよね。もし、本当にそうなら…それが私達の愛なのなら。私はあの人と、あの子と、共にいるべきではないのではと思ってしまうのです。愛しいあの子を、愛おしいと思うままに、もしそんなことを思ってしまったら。
私はそれが、ただただ怖いのです。
(大江山に保管されていた、比較的保存状態のよかった古い手紙より抜粋)
◆
部屋で寝かす、と言っていたのはどこの誰だったろうか。とアタランテは嘆息する。
幼子は深く、深く眠っている。調子外れな寝息が微かにアタランテの耳に届き、少し微笑ましく思った。
子供は好ましい。特にこの世界のこれからを担う子供達は。見目ではおそらく、15かそこらの少女。
“親の野望のために子供を贄に捧げる”? 言語道断だ。今はもう死んでいるらしいが、まだ生きていたのなら千里先からでも射抜いていたところ。
「汝」
「…」
「その子はパトロクロスではない。いい加減ベッドで寝させてやったらどうだ。男の硬い腕の中よりは寝心地はよかろう」
空飛ぶ庭園。雲と丁度同じ高さを浮遊する城のバルコニーに、彼らはいる。言の葉を交わすことはせず、ただただ風を感じて───恐らくは皆、天草四郎の話を考えていたのだろう。
「やあ、皆様!」
だからこそ、アキレウスとアタランテはその人物を睨んだ。
晴れた空を曇らすような、健気に咲く花を散らすような。嵐を舞い込む文作家を。
「お前、知っていたのか?」
「『
「あの男は…何を考えている。とてもじゃないが、まともではなさそうだぞ」
「さて、どうでしょう。正気か狂気か、そんなことは些細な問題では? 我らのマスター───天草四郎時貞は苦難と絶望の道のりを歩み、あの結論に至ったのです。ならば吾輩は万難を排してそれを叶えるだけでして」
腕の中の少女が、少し唸って身動ぎをした。どうも少し煩かったらしい。
「キャスター。汝の頭がおかしいのはわかってはいるが、それでもあえて問おう。何故、シロウに協力する?」
「それは無論、面白そうだからに決まっているではありませんか! 何しろ人類救済ですよ、誰かを救いたいなどと矮小なものではない。全人類、この世界に住む60億の救済。しかも、彼はただの聖人などではない。善行を積み、祈るだけで救われようとした面白味のない連中とは訳が違う! 彼は戦い、そして敗北し──無惨に全てを奪われた! そう。彼は恨んでいるはずです! 3万7000人を皆殺しにした統治も、それをただ見過ごした人々も! だが彼は恨まない! そればかりか、彼らも救済の対象だ。全人類を救うというのは、そういうことでしょう。それを彼も理解している! その苦悩、その煩悶、なんたる悲劇! それ故に──彼はひどく面白い。ならば退屈なマスターなど放逐して当然でしょう。吾輩はマスターに仕える者ではなく、物語に仕える者故に!」
また唸って、少しだけ瞳を開けた。騒々しいこの場所で、呑気に寝ていられるのが無理というものか。
「……や、だ」
「どうした、マスター。まだ寝ていていいぞ…まあキャスターがいてはおちおち眠れはしないか…」
「どう、して…」
その紫の瞳から一筋、涙が溢れたことにアキレウスはぎょっとする。いやだ、どうして、なんで、うわごとのように呟いて涙を零すヒマリに───いや、これは、誰かの夢を…。
「マスター?」
「愛してなんか、いない。好きなんかじゃ、ない。だって彼奴は、仇だ。私は恨むべきで、私は彼奴を殺すべきで。そんな、どうして、いやだ。愛したくない…!!」
一瞬。一瞬だ。
零す涙が赤色に見えて、彼女の“奥”から魔の気配が覗いたのは。
「だってわたしたちは、愛してしまえば、その愛を通さなければならないから…」
夢を、夢を。
見ている。ずっとずっと、過去のもの。何千年か、そのまた先か。物語では語られなかった、一人の姫の夢を。
人と鬼、英雄と悪、仇と恋。
目から零れるそれは、果たして英雄のものか。それとも鬼のものなのか。
もやがかった思考で、もうこんなものなど抱えては生きていけぬと思った。この身を灼く愛も、憎しみもなんてことはない。ただ、それ以上に───“愛しいものを目にした時に、思わず美味しそう”などと、思ってしまった自分がいて。もう駄目なのだと、これが私達の愛なのだと。
そして、どうして貴方だったの。と、暴走した思考がついに爆発をして。
喉には刃を、それではきっと死にきれぬだろうから。“あの人”は崖から身を落として───
「そんなの、いやだ…」
「ヒマリ、マスター。戻ってこい、それは夢だ。現実じゃあない」
「…う」
頬をつたうこの涙は、一体誰のものなのか。夢か現かの狭間の中で、おのがサーヴァントを見上げるヒマリにはわからないことだった。
あったのは、ただ───悲しいという想いのみで───
この作品1話見に行ったんですけど主人公の性格を「それなりに大人で男勝りなイケメン女子(要約)」にしようとしていた片鱗があって笑う…真反対やんけ……
アキレウスに聖杯2個目渡してきました