張り詰めた空気の中、引いた弓がしなり、擦れるような音をたてる。視線の先、的の正鵠を真っ直ぐに見据え、右手の指に込めた力をすっと緩めた。
刹那、耳元を掠めるような風切り音を伴い、矢が射られる。若干ブレるような軌道を描きながら山なりに飛翔した矢は、正鵠から僅かに外れた箇所に突き立った。
「よっ、お見事!」
「やっぱ瑞穂は上手だね〜」
「……茶化すのはやめてよ、もう」
一気に空気感が軽くなる。私――橘 瑞穂は弓を下ろしてジト目を向けた。
「いや、本当に上手いよ。さすが学年トップ」
「……学校ならね。全国じゃ全然」
「全国を見据えてるあたりが天才って感じ!」
「ホンモノの天才に言われたくないね」
本心で私を褒める、裏表のない少女は近江すみれ。そして私を茶化すのは山城朝日。二人共私の親友であり、同じ弓道を選択するクラスメイトだ。
手ぬぐいで汗を拭き取る。弓道はその見た目とは裏腹に全身の筋肉と体幹を求められるスポーツで、いかにも日本人が好きそうな、『わびさび』に溢れる武道だ。私はこの空気が張り詰めて全身が凍りつくような感覚と、的を射抜いた時の何とも言えない開放感が堪らなく好きで、こうして続けている。
「瑞穂に比べたら、私もまだまだ下手だわー」
「朝日は練習しないのが悪い。天才とはいえスポーツまで万能じゃないんだから」
「頑張らずにそこそこ出来るってのが私の取り柄なので」
「……あっそ」
朝日にそっけなく返し、道場を後にする。後輩たちに片付けを任せて部室へ。こういう上下関係がカタいところが、武道って感じだ。
「今日はどうする?」
「うーん……私は勉強しないと。中間近いし」
「朝日はどうするの? って聞かなくてもわかるや」
「うん、帰る。送ろうか?」
「じゃあお願いしようかな」
更衣室で着替えながら話は進む。朝日は天才肌の秀才で、すみれは努力家の秀才。互いに互いを羨み合っているようだが、それが原因で邪険な仲になったりしないのはお互いにマイペースだからだろう。
他愛もない話に区切りをつけて、部室の前ですみれと別れる。
「家まで直行でいい?」
「あー、いや、一回街まで出て欲しいかな。確かトイレットペーパー切らしてた」
「そんなおっきいの買ったら帰り大変だよ?」
「片手で持ってりゃいいでしょ」
たどり着いた駐輪場で、朝日から受け取ったヘルメットを被る。安いやつだけど、ちゃんとしたフルフェイスだ。ちょっと面倒な構造のあごひもを通して、しっかりと固定する。
「じゃ、行こっか」
「ん。お願いね、運転手さん」
空油冷のフラットツインエンジンが奏でる重厚なサウンドが体を揺さぶる。BMW製のR nine Tは1169ccという大型でありながら、手中に収まるベストなサイズで取り回しやすい――と朝日が言っていた。
夕景が橙に彩る学園艦の外周路を駆け抜ける。切る風は華やぐ潮の香り。とてもロマンチックな光景だ。左手に担いだトイレットペーパーさえ無ければ。こうも綺麗だと、少し後悔もする。
途中、朝日はR9Tを展望台の前に止めた。夕陽はその光を少しずつ弱めながら、水平線に沈みゆくところだった。カメラを向ける朝日の隣で、私はぼーっとその光景を眺めていた。
「……ねぇ、アナタ」
「えっ、はい」
突如かけられる声。朝日ではない。振り向くとそこには、私よりも少し小柄な少女。夕陽に照らされてオレンジに輝く白髪と、真紅の瞳が特徴的な、小動物のような少女だ。
どこかで見たことがある。話したこともある。聞き覚えのある、可愛らしい声だ。しかし、誰かは分からない。どこで出会い、何をしたのかも。
「瑞穂、だよね。橘 瑞穂」
「……そうだけど、あなたは?」
「私は、瑠衣。仲河 瑠衣。――覚えてないよね。そうだよね」
目を伏せる瑠衣。分かる。知っている。けれど確証を得られない私はそんなことを口には出せなかった。
「私はね、瑞穂に会いに来たんだ。覚えてなくてもいい。ひとつ、お願いがあって」
「お願い……?」
話の展開が早すぎる。けれど私は、不思議と彼女の話を遮ることが出来ずにいた。普通に考えれば、とてつもなく怪しいのだ。それでも、彼女を信じている私がいた。
「……私と、戦車に乗って欲しい」
心音が跳ね上がる。体が熱くなっていく。しばらく感じていなかった感覚だ。
戦車。私が諦めた道に、彼女は引き込もうというのだ。
二年と半年ほど前。戦車道特待生としてここ――黒森峰女学園に入学した私は、当然ながら選択授業は戦車道を選ぶことになる。自意識過剰みたいで気持ち悪いが、私の砲手としての実力は十分なものがあったと思う。
それを証明するように、二軍の隊長車砲手に抜擢された私は、ぐんぐんと知名度を上げた。きっと三年生になる頃には、隊長車砲手として活躍しているのだろうと、疑いもしなかった。
しかし、ある時。私は長期にわたって体調を崩し、練習に参加できない日が続いた。その日を境にチームに私の居場所は無くなり、戻るに戻れなくなってしまったのだ。
チームのメンバーにきっと悪気はなかった。ただ、チームを構成する大事な時期に抜けてしまったために、私の入る場所が無くなってしまっただけだ。そう納得はしても、内心はかなり傷ついた。
そうして去った戦車の道。彼女はそれに引き戻そうというのだ。
「でも、もう戦車道チームは……」
「個人的な話よ。黒森峰の戦車道チームは関係ない」
「―― 一体、何が目的なの」
「戦車に乗りたい。それだけだよ」
まっすぐに私を見つめる赤い瞳。私はすっかり射抜かれていた。
きっと、着いていけばいいのだ。彼女のこの強い意思に。
「分かった。付き合うよ」
「……! やったぁっ! ありがとう! ありがとう!!」
胸元に抱きつかれる。私は苦笑いする他になかった。
「これで、よかったの?」
「いいんだよ、これで。だけどさ」
私に問いかける朝日。ここで、私はひとつの悪巧みをする。
「戦車って、二人じゃ動かせないんだよね」
「で、私も巻き込まれたと……」
「なんか、ごめん」
私たち仲良し三人組は、黒森峰女学園の片隅、忘れ去られたような森の中に来ていた。戦車道の演習場と真逆の場所なのは偶然ではなく、狙ったものだろう。
「いいんだよ、別に。瑞穂の頼みとあっちゃ断れないよ」
「ありがとね、ほんと……」
両手を合わせて拝んでおく。宗教とか信じてないけど。
そこに、近づいてくる振動と音。無限軌道がアスファルトを踏みしめる音が、衝撃となって体に微振動を伝える。そしてその発生源は森の影から姿を現す。
少しムラのある白に塗られたボディ。無骨なシルエットを描く車体に掲げられる砲は、75mmの長砲身タイプ。
ドイツにおいて機甲師団の主力を務めたワークホース、Ⅳ号戦車。そのG初期型――F2型とも呼ばれるそれだろう。
「お待たせ。そこの方は初めましてかな」
「あっ、近江すみれです。よろしくお願いします」
「仲河瑠衣だよ、よろしく。今日からこの4人でチームだね」
すみれが少し不審がるような顔をしたのが窺えた。それもその筈だ。今日初めて会った見ず知らずの人物と突如チームを組むだなんて、疑わない方が不味い。そんな天敵を警戒する小動物のような目でこちらを見るから、私はその若草色のポニーテールを撫でるしかなかった。
「編成はどうする? 私は砲手がいいんだけど」
「私は車長しかやったことないからなー……2人はどこがいい?」
「えっ……私不器用だから、簡単なところがいいかな」
今回の編成は4人のため、通信手は簡易無線機を用いて車長が兼任する形になるだろう。となると、最もシンプルなのは装填手だと考えられる。
「装填手がいいんじゃない? 朝日は操縦手がいいだろうし」
「そうだね。運転は何でもスキだよ」
案外サラっと決まってまずは安堵。配置が決まったら、とりあえず動かしてみることになる。各々ハッチから身を滑り込ませる。
「結構綺麗にしてるね。どこから持ってきたのこれ」
「借り物だよ。元は学園からの払い下げだってさ」
車内はそこそこ綺麗に保たれており、サビなども殆ど見受けられない。ゴムやビニール系の部品に破れ等もなく、売り払えばかなりの額で売れる程度のいい状態だ。
「とりあえず動かしてみよっか。砲塔旋回、3時の方向」
「えっと……こうかな?」
砲塔旋回用のレバーを引くと、モーターによってゆっくりと砲塔が右に回る。右に90度ほど回ったところで停止した。
「装填、模擬徹甲弾」
「模擬徹甲弾……これだ」
貫徹力を下げる目的で柔らかい素材の用いられた徹甲弾。撃破判定システム用のセンサー等も搭載していない連盟非公認の汎用品だ。練習の時はこれを使用する学校が多い。
すみれはマニュアルに書かれている通り、砲弾を握りこぶしで押し込む。素早く手を引くと、閉鎖機が閉まり砲撃の準備が完了する。
「微速前進」
「ほい」
回転数が上がる。クラッチをミートさせ、軽い衝撃と共にⅣ号は対の無限軌道で地面を踏みしめ前進し始める。
「射撃用意」
何をするか一瞬で分かった。瑠衣は、初っ端から行進間射撃を行うつもりだ。車両は速度を上げ、森林の中をゆっくりと進む。車内に緊迫感が満ちる。弓道で矢を射る前と同じ、全身が凍るような緊張感。
しばし、沈黙。
「撃て!」
私の覗く照準器に的が映るのと同時に、私は砲弾を放った。75mmの凶弾は寸分の狂いもなく的へと吸い込まれていき、木っ端微塵に砕いて森の中に消えた。
余韻にビリビリと震える車内。私の手にもその名残が残る。
「うん、いい感じ。これなら心配無いね」
私も同意見だ。初めて乗って動かしてこれだけスムーズに事が運ぶなら、恐らく習熟に時間はかからない。チームの半数が経験者であることもそうだろうが、2人の対応力の高さはさすが成績優秀者といった感じ。
「ふぅ……今から勉強することが、沢山ありますね」
「私は何とかなりそう。しばらく乗ってれば不自由なく動かせるようになるよ」
「じゃあ、もう少し転がしてみよっか。戦車前進っ」
朝日がクラッチを繋ぎ、Ⅳ号は再び動き始める。先ほどよりも速いスピードで、森の中を走り抜ける。途中、瑠衣が肩を軽く蹴ることの意味も察したらしく、操縦は少しずつスムーズになってきた。
「装填、模擬徹甲弾」
「よいっ……しょ」
先ほどと同じ手順ですみれが模擬徹甲弾を装填する。閉鎖機が閉じて射撃準備が完了する。
「目標、9時の方向」
その指示を受けて、私は砲塔を180度旋回させる。電動式の砲塔旋回装置は、手回しに比べてはるかに楽である代わりに、入力を終えたあとも惰性で回ってしまうデメリットを持つ。それを考慮して、少し手前で旋回を止めた。そして微調整を手動旋回用のハンドルで行う。
「停車、射撃用意」
再び緊張感が走る。普通に喋っているときは天真爛漫でキュートな印象を受ける瑠衣の声だが、戦車に乗ると一変、鋼のように強く冷たい声になる。それが、私の緊張の弦をキツく張る。
車体の揺動が収まり、安定した。手動にて若干の修正を行う。
沈黙ののち。
「撃て!」
轟音。空薬莢が排出されて車内のカゴに落とされる。照準器を通して見る砲弾の軌跡は、若干のぶれを孕みながらも見事に的へと収束していく。
粉微塵に砕かれたターゲットは割れて地面に落下する。それを確認して瑠衣が指示を続ける。
「全速前進、模擬徹甲弾装填」
車両が動き出す。模擬徹甲弾が装填され、閉鎖機が閉まる。
「停車、射撃用意」
躍進射撃だ。同じ方向に設けられた的が視界に収まる。微調整を行い、照準を収束させる。
「撃て!」
三度、砲撃を行う。今度は的を掠めるに留まり、撃破とはならず。
「旋回しつつ後退、模擬徹甲弾装填!」
朝日がリバースギヤに叩き込み、クラッチをつないだことでⅣ号は後退を始める。レバーを非対称に操作し、旋回しつつ後退していく。その間に模擬徹甲弾が装填され、砲撃準備が整う。
「目標、照準できてる?」
「バッチリ。いつでも行けるよ」
「了解。停車後、揺動が収まり次第発砲」
車両が停車され、ぐらりと揺れた後にその揺れも収まる。微調整を終え、私はさらに引き金を引いた。
今度こそ、的は撃ち抜かれる。
「……ふぅ」
「お見事! さすが瑞穂、『昔と変わってない』よ!」
「……昔?」
「――覚えてないんだっけか。何でもないよ」
昔の話。私は覚えていないけれど、彼女とは恐らく戦友だったのだ。どこの戦車道チームで、いつ一緒になったのか……
すっかり日が暮れて、私たちは練習を終えた。初日にしては出来過ぎなほど――いや、事実出来過ぎだ。
「一緒に帰ろうよ。まだお互いに何も知らないし」
「そうだね。息はピッタリだったけど、お互いがどういう人か分かってないもんね」
夕景の町並みを歩く。黒森峰学園艦は非常に大型のものだが、その半分は森林や田畑などの自然が割り振られている。というのも、戦車道との強い結びつきの元生まれた学校であるために、その演習用地として広大な平野が必要とされたためだ。
ただ荒野を作るだけより、作物の栽培などにも使えるよう田畑とし、主にイモ類を栽培している。その為に街は学園艦中心部に集中している。
「でもこんなにちょうどいい森林、よく見つけたね」
「ずっと考えてたんだ、こうやって誰かと一緒に戦車に乗りたいって」
「なら、どうして戦車道チームに入らないの?」
朝日が投げたシンプルな疑問。私もそれは気になるが、同時に結構デリケートな話題であるように思い、ずっと避けていたのだ。その辺ずけずけと踏み込んでいけるのは、彼女の良さであり悪さ。どちらに振れるか、ヒヤヒヤしながら二の句を待つ。
「そんなの簡単。この学校にいなかったからよ」
「じゃあ、その前はどこにいたの?」
「いや、正確には黒森峰にはいた。学校には、いなかったけど」
「……? よく分かんないけど、居なかったなら入れないね」
朝日は追求をやめた。このへんの踏ん切りの良さが、彼女の間合いの取り方の特徴かもしれない。よく言うところの、心地よい距離感というやつだ。
「あっ、そうだ。好きな食べ物とかある?」
「アイスクリームっ!」
「即答だね。そんなに好きなんだ」
「うんうん。特にチョコミントは外せないよ」
「じゃあ、今から食べに行こっか。ちょっと歩くけどいい?」
「大丈夫だよ。うはー...すっごい楽しみ!」
瑠衣の魅力。天真爛漫な少女らしさと、戦車に乗った時の強く逞しい立ち振る舞い。そのギャップは彼女の少女らしさを強調し、常日頃の可愛らしさとして出力される。今の彼女は、私の知る限り最も純真無垢な少女そのものだ。
「あっ、そうだ。連絡先交換しよーよ」
「うん、いいよー。えっと携帯携帯……あった」
お互いに電話番号とメールアドレス、そしてSNSのIDを登録する。『るい』と平仮名表記のアカウントがヘッダーに設定しているのは、幼い少女と戦車が一緒に映った写真。
「これ、瑠衣ちゃん?」
「そうだよー。いつごろかな? 小学生くらい、かな?」
真っ白な髪に真っ赤な瞳。小さな背丈と柔らかな曲線を描く体が、どこかうさぎを思わせる。その姿に私は強い既視感を覚えていた。小学生の時に、彼女と同じチームにいたのだろうか? だけどこんな特徴的な少女を忘れるわけがない。
「かわいーっ。うさぎさんみたいだね」
「よくそうやってからかわれたよ。嫌な気分はしなかったけどね」
「やっぱ誰が見てもそう思うんだ。私もそう思ってた」
歩きながら話していると、目的地はすぐだ。注文して会計を済ませ、二階の席につく。
「アイス……久しぶりのアイス……背徳っ」
「好きなのにあんまり食べないんだ」
「セーブしないと……ね、ほら、大変なことに」
何を意味しているかはすぐに分かる。私は幸いそのへんの感度が低いからいいが、瑠衣の細身はこうした弛まぬ努力の結晶なのだと思うと、シンプルに羨むのも違う気がした。
「まぁ、今日くらいいいでしょ。いただきまーす」
私は丸いチョコミントのアイスを口に運ぶ瑠衣を自然と眺めていた。どこかで見た少女。だけど私はそれを覚えていない。申し訳なく思うけど、思ったところで思い出すことはできない。
「そういえば、どうして今私たちを誘ったの? 全国大会も終わっちゃったよ?」
「それがね……ここだけの話なんだけど、『ある試合』が開かれるらしいんだ……ほら、これ」
開いて見せたのはあるホームページ。そこには『第4回 UWリーグ』という表題に続いて、参加校がつらつらと並べられている。それらはどれも見たことのある名前で、黒森峰の名前を連なっていた。
「UWリーグ。全国大会への布石として、戦車同連盟非公認で行われる、[[rb:一対一 > サシ]]の試合だよ」
「へぇ、初めて聞いた。それに出ようってこと?」
「そう。今の状況からして、いい勝負くらいは出来る。……どうかな?」
誘って、練習までした後に打ち明けることに申し訳なさを感じている様子で、私たち三人は思わず顔を見合わせた。そしてクスリと笑いが漏れ、収まってから頷きを交わす。
「いいに決まってる。それに、目標があったほうが物事にはアツくなれるでしょ」
「いいの? ホント?」
そうやって何度も尋ねてくるのが小動物のようで可愛らしい。私は思わず頭を撫でていた。
「いいよ。一緒にやろうよ」
「……ありがとうっ!」
瑠衣が私に抱きつく。少し照れるけど、彼女の最大限の表現だというのは理解できた。
さて、目標は定まった。戦車に乗る覚悟も決まった。あとは、練習あるのみ。
止まっていた私の戦車道が、再び動き出す――――