それは、二年前の記憶。
『姉さんは、どうしてものを作るのですか』
私の妹、箒ちゃんはそんなことを尋ねて来た。
篠ノ之家は神社であり剣道場。私はどちらにも興味は無かったので好きに生きていたが、妹は生まれたときから神事と武道に触れて育った。
インスピレーションの赴くまま、凡人にときどき邪魔されながら発明に勤しむ姉。少々頑固だけれど、ひたむきに剣を振るい努力する妹。幼い彼女は正反対な性格の私を、どういうわけか尊敬してくれていた。
『うん? どしたの箒ちゃん、藪から棒に』
『ヤブ……?』
『あーごめんごめん、いきなりどうしたの、って意味』
『……今日学校で、将来の夢という題の作文を書きました』
『おぉーっ箒ちゃんの夢! 聞きたい!』
価値観が違いすぎて両親とすら折り合いの悪い私を、妹はただ姉として見てくれた。天才であっても、価値観が違っても、変わり者な姉として。
そんな可愛い妹の夢だ。気になって当然だろう。
だけど実際ねだってみると、彼女は少しだけ自信なさげに俯いた。
『……私は、姉さんみたいにすごくない』
『そうかなぁ』
私にとっては鬱陶しいだけでしかないあの有象無象どもと、学校ではまあまあ上手くやっているらしい。それだけでも十分すごいことだと、私は素直に思えた。
……いっくんを狙うメス犬どもには睨まれてるみたいだけど。とはいえ何されるかわかんないし、自分を磨くより蹴落とすことを考えるような塵芥に箒ちゃんが好かれても困る。
『でも、そんな私だからこそ目指せるものもありました。……篠ノ之流を、そして神社を私が継ぐこと。そのために頑張るのだと、私は書きました』
『アレの跡を追うのかぁ。束さんなら嫌だけど……でも、箒ちゃんはそうしたいんだね?』
『はい。……それに』
『それに?』
『……私が篠ノ之をちゃんと取り仕切っていれば、姉さんは誰にも文句を言われずに自由にしていられると。そう思いましたから』
『箒ちゃん……いとうつくしっ!』
『わぷっ!?』
たまらずハグ。
……私がなに考えてるかとか、どうしてもの作ってるのかとか、なんにも知らないのにね。
よくわかんないなりに正面から受け止めようとするところは、ちょっと同門のいっくんに似てきたかな?
箒ちゃん。
私の家族。
唯一家族だと思える妹を抱きしめたまま、私はおもむろに口を開いた。
『束さんがどうしてものを作るのか、って聞いたね』
『……はい』
『むかーし、むかーし……ってほどでもないかな? もしかしたら箒ちゃんは覚えてるかも。一度ね、わざわざ星空を観に行ったことがあるんだ』
『え、姉さんが?』
『その反応は失礼じゃないかなぁー?』
『んぅっ、あの、姉さ、むね、あっいや息が……』
マイたわわで口封じしつつ。
『まー箒ちゃんの言うとおり、私一人じゃ絶対行かないよ。ちーちゃんと一緒だったんだ』
まだ私たちが中学生の頃。道場で箒ちゃんを初めて見たちーちゃんはその名前を知って、『そういえば、彗星は箒星とも言うらしいな』なんて呟いたのだ。
それが切っ掛けで、私はちーちゃんに連れられて彗星を見に行った。二〇〇五年の一月、プレアデス星団に接近したマックホルツ彗星だった。
『妹の名前の星くらい見に行ったっていいんじゃないかー、なんて言うもんだからね。それに普段お金に苦労してるちーちゃんが、珍しく向こうから遊びに誘ってくれたのが嬉しかったし』
ちーちゃんの生活の援助をしていたのがアレ……父親だったから、もしかしたらその差し金だったかもしれない。
でも、そんなことはすぐにどうでもよくなった。
『びっくりしたよ。論理や数式だけじゃ導き出せない「経験」っていう解は、こんなにも綺麗なんだって』
人生で三つしかない私の感動経験。
今も私を突き動かす、三つの原点。
『だからね、箒ちゃん』
その内の一つ。
二年前の記憶。
『私がものを作るのは、もう一度彗星に……宇宙に触れたいから。色々作ってるのはその言い訳かな?』
『言い訳、ですか? 宇宙に行きたいというのは素敵な夢ですし、言い訳なんてしなくても……』
『ううん』
箒ちゃんを置いて夢へ向かって走り始める、その少し前の記憶。
『必要なんだ。どうしても』
箒ちゃんに嫌われる前の記憶。
「どういう風の吹き回しだ」
機嫌良さげに跳ね歩く篠ノ之束を睨めつけて、織斑千冬は詰問するような口振りで言った。
「あいつ――
放課後となった今、件の少年はここにいない。まずは普段の景色を知りたいからと、束は彼を一人で帰らせた。
まるでモルモットを放し飼いするかのように、至極あっさりと。
「――言うまでもないことだと思うけどさ。とーくんに仕込んだナノマシンはね、ただ視覚をジャックするだけじゃないんだよ」
くるりと振り返った束は、セメントで固めたような笑顔だった。
「シナスタジア持ち、特に色を想起するタイプはそこまで珍しくないけど、ああやって何もかもに感じるってレベルまで行くとまあまあレアなんだ。だから脳波もバイタルも全部チェックしてる。それに何かこっちの不利益になりそうな動きがあったら、いつでも筋肉への信号を遮断して動けなくさせられるようにプログラムしてあるよ」
「……あぁ、お前ならそれくらいしているだろうな。だが、それならなぜ渾名で呼んでいる」
「……あだ名?」
「お前が渾名で呼ぶのは身内だけ。肉親である箒のことは名前で呼んでいるが、私と一夏のことは渾名で呼んでいるな」
「……そうだね。あだ名、あだ名かぁ。ちーちゃん、名前ってなんだろうね?」
「……は?」
話の流れを打ち切って、束はそんな疑問を口にした。
「名前は親からの最初の贈り物らしいね。まだ何色にも染まっていない可能性を、かくあれかしと最初に定義するおまじない」
束さんはそんなの信じちゃいないけど、なんて茶化すようにしながら、しかしその目はあまりにも真剣だった。
「私はね、ちーちゃん。凡人のことなんてどうだって良い。愚者のことだって知ったことじゃないよ。でも、害悪だけは無視できない」
それは、濁った痰。
火事の煙を吸ったような煤けたものを吐き捨てる、そんなどす黒い嫌悪の声だった。
「私がちーちゃんの名前もいっくんの名前も呼ばないのはね、その名前をつけたのが二人の両親だからだよ。私だって姉なんだ、家族の大切さくらいはわかる。両親とはどうしようもなく相容れないけど、それでも見限らないのは箒ちゃんの両親でもあるからだ。アレらも箒ちゃんを愛しているからだ。――私は、
だから、
「ちーちゃんを、いっくんを、愛すべき子供を捨ててどこぞに消えたゴミ共が残した名前なんて、私は呼びたくないんだ」
「そう、か。……つまり、秋水もそうなんだな?」
「うん、両親に捨てられてる。理由はお察しの通りかな? 躊躇なくサボったりしたのも、それで怒る保護者がいないからだね」
「……待て、保護者すらいないのか?」
「一応、どっかの孤児院の院長の名前がいろんな手続きには使われてるよ。でも交流自体は殆ど無いみたい。生活は手切れ金として渡された親戚の遺産とかに頼りつつ、無理のない範囲でアルバイト。ちょうど今、本屋でレジ打ってるみたい。……あ、混雑してる。色がごちゃごちゃ混ざって気持ち悪いことになってて、そのせいかバイタルもちょっと乱れてるね」
常にこんな視界で生きてるんだねぇ、なんて暢気に言う束を見て、千冬はふと思い出した。
いつか、束が今以上に腐っていたことがあった。世界が面白くない、既知ばかりで色褪せて見える、いっそ地球さえも飛び出せたら――そんなことを言っていた頃が。
「もしかして、羨ましいのか」
「別に。ただこういう知覚がIS、というかハイパーセンサーを使うときにどんな弊害をもたらすかってデータが欲しいだけだよ。……でも、そうだねぇ」
モニターに目を落としていた束は視線を上げて、珍しくどこかアンニュイな表情で言う。
「私がいつかISのこと、夢の話をちーちゃん以外に話す日が来るとしたら……それはとーくんなのかもしれないね」
「そこまで言わせるか。初対面のときに何かあったのか?」
「なーいしょ!」
にひっといたずらっぽく笑う姿は、兎というよりは猫のようだった。
そんな彼女を見る千冬は、これ以上は聞けそうもないと溜め息をついて話を変えた。
「昔から思ってはいたが、お前は存外ロマンチストだな」
「束さんが?」
千冬は眩しそうに目を細めていた。
両親に捨てられ、頼れる親戚もなく、幼い弟と共に今日まで生きてきた彼女にとって、束が言うところの『正しい家族』というのは幻想でしかない。援助を申し出てくれた篠ノ之夫妻のような善人はとても稀有な存在であることを、彼女は承知していた。
おそらく彼女だけではなく、世の中そんな真っ当な親ばかりではないことなど、実感とまではいかずとも誰だって知っている。
「人の根底にあるのは悪性ではなく善性なのだと、そう信じていなければ生まれない姿勢だよ。お前の身内贔屓、他人嫌いは」
もっとも善だと信じているのではなく、そうでなければ人ではないと言う方が正確かもしれないが。そう付け加える千冬から慈愛に満ちた目を向けられた束は気不味くなり、拗ねたようにふいっとそっぽを向いた。
「……そういうんじゃないよ、束さんは馬鹿が嫌いなの。凡人が凡人なのはわかりきってるからまだ許せるけど、その上足の引っ張り合いするような奴は見てらんないってだけで」
「そういえばお前、不思議の国のアリスみたいな童話以外だと漱石も好きだったな。吾輩は猫であるとか、よく読んでいただろう」
反論とも言えない反論をさえぎって千冬が笑った。
「……それがどうしたっていうのさ」
「漱石のこゝろにこんな台詞がある。当然お前も知ってるだろうが」
「…………」
「精神的に向上心のない者はばかだ、とな。初志貫徹しないもの、決意をあっけなく翻すもの、お前が嫌いな馬鹿というのはそんな奴だろう? ……Kのように板挟みの果てに自決すらしてみせるようなら、お前にとってはまだマシなのだろうがな」
「……束さんはあの作品、そんなに好きじゃないんだ。ただの凡人でしかない
束は思い出すのも不快だと言わんばかりに眉を顰めた。
「Kは特にだよ。死んじゃったらどうにもならないのに」
「……お前でも、死ぬのは嫌か」
「いつか死ぬのは構わないよ。でも、それは夢を叶えてから」
束は今、個人で宇宙へ飛び出すためのマルチフォーム・スーツ――ISことインフィニット・ストラトスの開発に邁進している。千冬も束の発明品に対する使用料の一部をアルバイト代として、テストパイロットとしてその開発に携わっていた。
側で見ていたのだ。束がISにかける思いは自分が一番知っていると、そんな自負が千冬にはあった。
なので、次の一言に彼女は度肝を抜かれた。
「そういえば、ISを学会で再発表するという話はどうなった? 具体的にいつ、とは聞いていなかったのだが」
「ん? もうやったけど?」
「……………………なに?」
「だから、もうやったの。あのときは束さんがわかるようにしか書かなかったから今度はちゃんと馬鹿でもわかるようにレイアウトまで考えてやったのに見向きも」
「おい束、私は聞いてないぞそんな話!? いつだ、いつやった!」
「一昨日」
絶句する千冬を尻目に愚痴は続く。
「次の日愚痴聞いて貰おうと思って珍しく学校行ったらちーちゃんバイトでいないし、そんなことにも思い当たらないとか束さん結構まいっちんぐだぜー、と思って腹いせに教室水浸しにしようと思ったらとーくんに見つかるしもうほんっと散ざ……あ、でもとーくんのことに気付けたのは幸いだったかな」
ぶちぶちと文句は言いつつも予想よりずっと大人しい様子の束に、千冬は不発弾を扱うように尋ねる。
「……大丈、夫、なのか?」
「大丈夫じゃない」
千冬は彼女が自分の夢をどれだけ大切にしていたのかを知っている。普段から素っ頓狂な発明に振り回されていてもなお、自ら手を貸してまで応援したくなるくらいには。
悲痛な表情で絶句する千冬に、束は続ける。
「まったく、全然、これっぽっちも大丈夫じゃないけど……うん、馬鹿を相手にするのは、なんか、もう疲れちゃった」
からん、と。
心の底が抜けて感情が落ちた人間はこうなるのだろうと、そんな風に思わせられる表情を束はしていた。
「そうだ、答えてなかったね。私がとーくんにちょっかいかけたのは息抜きだよ。あんな馬鹿どもに私のISを無理やり認めさせるよりは、ずっと面白そうだし」
彼女はそう言って笑みのような形の無表情を作り、千冬は後悔の砂を噛み潰した。
きっと、私は期待したんだ。
宇宙船なんて小さな部屋から飛び出して、手足を広げて広大な星の海を泳いで、遥かな彗星に手を触れる、そんな夢が理解してもらえることを。
そしてそれを私という一個人が作れるのだから、人間に秘められた可能性は、世間にのさばる凡人どものが見せているような程度ではないのだということを。
だから地道に発明品の発表を続けて実績を作り、先日のあの学会に至るまで他人の前に出続けた。
学究の徒が努力していない筈がない、それに二度目なのだ、あるいは。そんな願いは、期待と呼ぶのが一番合っている。
でも。
その結晶を奴らは結局認めてくれなくて。どうしようもないほどの怒りと、初めて徒労感なんてものを覚えたりして。
期待するのには疲れちゃった。
だから、これは息抜きなんだ。
私みたいに頭脳が優れているわけでもなければ、ちーちゃんみたいに身体能力が飛び抜けているわけでもない。ただちょっと変わった知覚を持つだけの、なんの変哲もない凡人の彼に興味を抱いたのは。
いつもなら地下のラボにこもって発明に勤しんでいるのに、こうして駅前で待ち合わせなんてしているのも。
不思議の国のアリスがコンセプトなのは変わらないけど、いつもよりは人混みに紛れやすい服装を選んだのも。
ただの息抜き。
きっと、それだけのはずだ。
「さぁとーくん! どこに行こうか!」
開放されてない春の海に駆け出して水上で朝日を見たり、ISにも使ってるPIC技術の応用で空中散歩をしてみたり、そうこうしているうちに半月経って。
ちーちゃんには言えた本心を、どうしてか彼には言えていなかった。
今日も今日とて叫んだ私に、とーくんは弱腰な抗議から入る。
「あの、束。平日なんだけど。どこ行っても補導不可避なんだけど」
「よーしとりあえず街に出よう!」
「ほんっとに話聞かないね!?」
現在私の左眼にはコンタクトレンズのように、特殊なホログラムによって脳波やバイタル、そして視覚情報――つまるところ例のとーくん丸裸モニターがそのまま映されている。
……ゆえに、束さんはわかってるのだよ。口ではあーだこーだ言ってるくせに、こうやって手を引かれて連れ回されるのは満更でもないと思ってることを。
「内緒だけどね」
「なにが?」
「なんでもなーいっ」
どうやら今の景色はキラキラした碧に見えているらしい。これからどこに行くんだろうという期待と……心配? 何に対してだろう。
どこへともなく歩きながら素知らぬ顔で聞いてみる。
「とーくん、なんか不安そうだね」
「不安? ……あー、不安といえば不安かも」
「どうしたのさ。束さんと一緒ならゴーエニホウェアドゥーエニシングだよ? なんにも気にすることなんて」
「なぜに英語? まあそりゃあ束ならどうにかするんだろうけれども」
とーくんはちょっとどもって、私の左眼には恥じらいを示す数値と薄い蛍光レッドが映る。
「……僕のせいで連れ回してるんだしさ。なんかあったらって思うと、少しはね」
君も女の子だし、と言われてきょとんとする。
迂闊に遠出して私が怪我をしたりするようなことがないかとか、そんなことを心配しているらしかった。
おかしくって忍び笑い。
「今更だし、私やちーちゃんにする心配じゃないよねー、それ」
「……笑うことないでしょ。良いじゃん別に、友達の心配くらいしたって」
彼はむすっとした。背があまり高くないとはいえ、十八歳の青年がする仕草としては幼くて面白い。
「というか、そんな風に心配する割には束さんの頭思いっきり蹴っ飛ばしたよね」
「あっ……そのー、咄嗟だったものでつい考えなしに」
「嘘でしょ」
「うぐっ」
脳波にも出てるけどそれ以上に顔に出ている。
やがて観念したのか、とーくんは渋々口を開いた。
「…………僕の親のことは、知ってたっけ」
「なんとかって孤児院で育ってそこの院長が保護者ってことになってるけど、そいつとの交流がほぼほぼ断絶してるってところまではね」
「……そ。なら、これはまだかな」
「うん?」
「僕の両親、血の繋がった肉親と暮らしてたときのことはろくに覚えてない。孤児院にいたときのことが、覚えている限り最古の記憶なんだけど」
少し、驚いた。
ちーちゃんがそうなんだけど、捨てられた子供はその親のことを話したがらない。そんな奴らのことを口にもしたくないというのもあるみたいだし、ともすれば不幸自慢みたいに受け取れるから情けなくて嫌だ、ということらしかった。
でも、とーくんの口振りも脳波も視界の色も酷くニュートラルで、親に対して思うことが一切ないのだとわかった。
隠しごとがバレたから、説明のために仕方なく話しているだけでしかないという語り口。
「なんかね、親に虐待食らってたせいか、暴力を振るい合うのが当然だと思ってたみたい。殴られるのも殴るのも怖くなかったし、痛みは痛いんだってことを知らなかった」
痛みは痛い。
箒ちゃんに嫌われた日を、思い出した。
慕ってくれたあの子との齟齬。極めて単純な、相互の不理解によるもの。
――ただ尊敬だけがあった瞳が、次第に化物を見る目になっていく。
そんな変化に気付けたのは、あの子にいいとこを見せようと剣術をやってみたときだ。箒ちゃんの稽古姿を眺めて覚えた篠ノ之流を、見様見真似で構えてみせたとき。
戯れにした立ち合いが終わってみれば、彼女はもう目も合わせてくれなかった。打たれてもいないのに胸が痛かった。
ちーちゃんが友達から親友になった日を、死闘とも呼ぶべき大喧嘩をした日を思い出した。
そりゃあもうボッコボコにされたけど、殴られた顔やお腹だけがひたすらに痛かった。
痛みは痛い。
真っ向から向き合うために血みどろになるまでやった大喧嘩より、お互い理解する気なんて少しもなかった、防具をつけての軽い打ち合いの方がずっと痛かった。
だってそれは、拒絶でしかないから。
「今は十八年生きたなりに学習して、暴力はいけないことだっていう当然の倫理も身についた。だけど、多分抜けきってないんだ。ほとんど原体験みたいなものだから」
原体験というのは、思想形成の核になるものだ。
……あらゆるものに色がついて見えるのなら、初めて見た色は拒絶の色だったのかな。
「そうだ、束。話を戻すけど」
「……あっ、どこに行こうかって話だったね」
「うん。行きたいところはないけど、ちょっとやりたいことができたよ」
「なになに? 孤児院にいたそいつに復讐してやりたいとか?」
「しないよ。……君の原体験を聞きたい。なんでものを作るのかとか」
何でもとは言わないけど、お互いのことを知ろうとしてこそ友達だと思うから。そう言って笑う彼に、私は語ってみることにした。
私の目的は息抜きだから、普段しないことをするのもありだ。
それに建前上は彼の目について知りたいからってことになってるんだから。
「いいよ。私の夢の話はどんな色なのか気になるし」
「……そうだった、視界ジャックされてるんだっけ」
「ふっふっふー、最初は胸の方に視線が行きかけては頑張って逸らしてたね?」
「申し訳ない……」
「許して進ぜよーぅ。だから耳かっぽじって聞くといいさ、天才の誕生秘話を!」
「誕生秘話!」
「私の原体験、もの作りを志したきっかけと言える感動経験は三つあるんだ。最初は妹、箒ちゃんが私の玩具で笑ってくれたとき。次はちーちゃんと初めて喧嘩したとき。最後は――」
かつてちーちゃんと一緒に歩いていた道を歩いて、懐かしい話をする傍ら。
脳裏を掠めるのは二つの情景。
一つは先日、二度目となるISの発表――それも以前よりずっと詳細で、ちゃんと勉強してるならわかるよう解説まで丁寧に入れた論文によるものだ――を手酷く扱き下ろされたこと。
夢の結晶が、受け入れてもらえなかったこと。
もう一つは――
『はぇっ!? えっ、何今の!? 格好良いっ!』
『篠ノ之すごい! 最高! 時空一!』
『ありがとう。認めるもなにもとっくに僕の完敗だ。おみそれしました』
期待するのは疲れたけど。
とーくんなら、認めてくれるのかなぁ。
教室について鞄を置くと、何ごとかを話していた二人の男子生徒に声をかけられた。
「なぁー、オマエ紬だっけ? あの篠ノ之と仲いいんだよな」
「え?」
僕はもう高校三年生、中には三年間同じクラスの人もいたりするのだけれど、束に指摘された通りこれっぽっちも目立たない生徒だった。
……いや、正直に言ってしまおう。本を読んでばかりで休み時間には図書室にこもる、ろくに会話もしない根暗な生徒だった。
そんなやつが、よりによって滅多に学校に来ない天才と話しているところを目撃されて、もう半月。こうなるのも当然だったのかもしれない。
「そりゃあ、友達だし」
「トモダチ……? あ、じゃあさ。聞きたいことがあんだけど」
「なに? 悪いけどそこまで何でも知ってるわけじゃ……」
千冬という絶大なカリスマを誇る委員長がいない。
彼女と束の関係を詳しく知る人間もおらず、いたとしてもまだホームルームには早い。生徒の数はまばらだ。
そして何より――束は彼らにとって、画面の向こうのように他人だった。
「やっぱ具合イイの? あいつ」
「…………っ、……は?」
耳どころか、脳機能全部を疑った。
「だから、あいつ胸でかいしケツ丸いしぜってーエロいだろ? な、どうなんだよ」
「バッカおまえ、ケツは大体どの女子も丸いだろ。……でも気になる。あいつ裏口入学したんだろ? そういう噂聞いたことある」
「マジかよ、ずりぃ!」
喉が乾いていく。
頭の中が筒になったみたいに空っぽだ。目の前の誰かの声がするりと通って反響し、ススみたいな色に染まる目を裏側から押し出そうとする。
……何を言っているのか、わからない。
「ろくに授業出なくても進級してるし、やっぱそういうことしてんだよな?」
「校長とか理事長とか全部まとめて、って聞いたことあるわ。あー、でも俺篠ノ之だったらオッサンの使用済みでも」
「……れ」
「はぁ?」
「黙れって言ってるんだッ!」
僕は――
僕は、忘れていた。
束にまつわる噂は、彼女の無関心さについてしか知らなかったことを。
ああ、そりゃあ広まらない。こんなゲスな話、品性が欠片でもあればできるもんか!
襟首を締め上げて、壁に押しやって、この後どうなったって知ったことじゃない。
「グッ……ってぇなっ」
「お、おい紬っ」
「お前、その話を僕にしていいと思ったのか。彼女の悪い噂を、その友達である僕に向かって言っていいと、そんなふうに思ったのかよ!」
「な、にムキに……なってんだ……!」
「答えろ!」
「別にどうでもいいだろこんくらい! あんな怪しいやつ、噂して何がわりいんだよ!」
「何が悪い……? 本気で言ってるのか? じゃあ教えてやるよ、悪いのはお前のその性根だ!」
「……ッ、てめえこそっ、織斑や篠ノ之の腰巾着だろうが! どうやって取り入ったのか知らねえけどよ、てめえみたいな根暗野郎にできることなんてそう大したもんじゃねえんだろ!?」
「ああそうだよ、僕にできることなんてたかが知れてる! 取り柄なんてない、何で友達になってくれたのかだってわかんないよ。でもなぁ!」
痛みは痛いんだって知っている。束にだって偉そうに喋ったよ。
だから、どうか。来てくれるなよ。
今にも、これを殴りそうなんだ。
「あの子への悪意を、謂れのない中傷を、聞き捨てる理由にはならないだろぉっ!」
「秋水」
ゾッ、と背筋が凍った。
炭の色に満ちていた視界が、極点を包む雪のように漂白された。
教室の扉を開け放ち、竹刀を持った羅刹女がそこに立っていた。
呼ばれたのは僕の名前だけれど、その
「もう、充分だ。あいつは今日来るつもりがないようでな、代わりに礼を言う」
織斑千冬が、そこにいた。
「ありがとう。あいつを知って、そこまで声を荒げてくれる奴も珍しい」
「……珍しい、かぁ。他のはどこの誰だろうね」
「さぁな。少なくとも私ではないよ」
片手にただ持っていた竹刀がするりと持ち替えられる。自然体からより自然な形に。
真剣だとしたらいつでも抜いて切り捨てられる、そんな形に。
「――私はただ、素っ首落としてやりたくなるのを抑えるだけで精一杯だ」
「お、織斑……!? おま、部活は」
「無い。今日は自主練をしていただけだからな、遅刻しないよう早々に切り上げたよ。……どうやらこの判断は正解だったらしいな」
こつ、こつ、こつ、と千冬はゆっくり近付く。
その表情はひどく穏やかで、口元には笑みすら浮かべはじめたのに――その全身、足音、伸びる影に至るまでが、熱い刀の赤のまま変わらない。
「あれでも私の親友でな。事実を言われるのは構わんが……無根の嘘を吐かれては、こちらも撤回されるまで抗議する他あるまいよ」
「い、いやでもあれは……」
「ほう、釈明があるか。ならば職員室でも、生徒会室でも、生徒指導室でも……どこだっていい、担任立ち会いのもとじっくり聞かせてもらう」
そう言って、千冬は二人の男子の襟首を掴み引きずっていった。
他のクラスメイトは一連のやり取りを擁護もせず、かと言って否定もせずにそそくさと席に戻っていく。嵐が吹き去ったあとの荒れ地と晴天に安堵するのに近い、妙な落ち着きと一緒に僕も着席した。
――さて。何ごとも一段落ついてホッとすると、しょうもないことが気になり出すのは人の性だと思うんだけれど。
「……もしかして僕、すっごい恥ずかしいことをしてたのでは……?」
いうまでもなく恥ずかしい生き物をしていたらしいことは、帰りに訪れた篠ノ之神社で突き付けられた。
束が映像を流しながらしれっと言う。
「いやぁ……とーくん越しにとんでもない汚物を見せつけられたけど、音声は届いてないから実はよくわかってないんだよね。ちーちゃんさ、今、この場で、状況説明とかできたりしない?」
「音声が届いていなかったのなら仕方ないな。今、この場で、秋水と共に説明してやろう」
「おぉ! それなら精確さが増すねぇ」
「どうか勘弁してくださいっ!」
一瞬で謝ると、千冬がにやりと意地悪そうな笑みを浮かべた。君意外とからかうの好きだね! 薄々わかってたけど勝てる気がしない。
「……まあ、お前は知らなくていいことだよ。私と秋水だけでいい」
「むぅ、仲間はずれみたいで面白くないんだけど……というかちーちゃんちょっと昨日までよりとーくんに心許してる? とーくんもとーくんでなんか好感度上がってるっぽいし」
「さぁ、な」
「それ事実だけど肯定も否定もしないときの『さぁ、な』だよちーちゃん!? なに! なにがあったの!?」
「言わん」
「ごめん束、こればっかりは言いたくない……」
あんな聞くに堪えないもの、どんなにねだられたって教えてたまるものか。
「……結構ストレスかかってるみたいだし、本気で言いたくないみたいだし。うん、しょうがないか」
思ったよりあっさり引き下がってくれてありがたい。
「とーくん、疲れてるっぽいし帰って大丈夫だよ? なんならちーちゃんが送ってくし」
「……束、せめて自分も行く素振りくらい見せろ」
「や、そこまでは大丈夫だよ。じゃあ悪いけど帰るね」
「うんっ! また明日ーっ」
「あぁ、またな」
「また明日、二人とも」
夕暮れの中で手を振って、鳥居をくぐって帰路につく。
一人だ。
「下校中に寄り道とか、ましてや誰かと遊ぶとか。夢だったよなぁ」
影法師がゆらりと伸びて先を行こうとするので、置いて行かれないように少し早足になる。
「……明日も会えるように、さっさと帰って休まなくっちゃ」
僕なんかと一緒にいて楽しそうにしてくれる、二人の友人のために。
「束」
「んぃ? なにーちーちゃん」
「もういいぞ。足音も聞こえない」
「…………」
二人だけになった境内。
千冬の言葉が合図になったかのように、束の顔はみるみる赤くなっていく。
数秒後には湯気を上げた。
「……んぁぁぁぁああああああああああっ! どうしようちーちゃん! 結構恥ずかしい! というか照れる!」
「だろうな。お前はあそこまで直球で庇われたことなんてないだろう」
束が今日学校に行かなかったのは、秋水の五感全てを自分にフィードバックする……つまり、彼の目に反映される色を構成する光や音を、全て自分で体験しようと思い立ち実験していたからだ。
要するに。
彼女は秋水と全く同じものを聞いていた。
「……なんで、あそこまでオープンに受け入れてくれるんだろうね」
「あいつなら聞けば答えてくれそうだがな」
「そうだけどぉー……」
賽銭箱の前で膝を抱えて唸ったかと思えば、横に倒れた勢いのままよく掃除された境内を転がる。
ここのところよく見かける天才らしからぬ姿は、千冬にとって中々に愉快なものだった。
「なぁ、束」
「……どしたのー、ちーちゃん」
「息抜きはできそうか?」
「……そだね。息抜き、できたかなぁ」
「なんだ歯切れの悪い。少し前までは鬱陶しいくらい自信に溢れていたくせに」
「鬱陶しいは余計ですぅー。……ねえ、ちーちゃん」
「なんだ、束」
おもむろに起き上がり、一人不思議の国のアリス、といった衣装を緩慢にはたいて立ち上がった束の目に、常人離れした知性の光はいささか弱く……しかし、人間味に溢れた感情の色があった。
「もしも。もしもとーくんにISのこととか全部、ぜーんぶ話したら。受け入れてもらえるかな」
「……お前は
「…………」
「お前があいつを
「……話してみるよ。私は、とーくんなら人だと思えるから」
束は決心した。
人間にもう一度期待してみようかと、そう思い直した。
それが裏切られるのは、半月後のことだ。