前の話でもいっているようにこの章はかなり偏見的なので、読みたくない方はお待ちを。
視界に山が飛び込んできた。
「おお、すげぇ、山だ」
「そうですね! 山です!」
「ほんと。山ね」
「ふむ。山だな」
師匠がこぼした呟きに、雪ノ下先輩と平塚先生、そして僕がおうむ返しに頷いた。
日々、広大な関東平野に抱かれて暮らす千葉人にとって山は珍しいものだ。
かなり晴れている日には海岸線沿いに富士山が見えることもあるが、それ以外の山、特にこういう緑深い山々を見る機会はあまりない。それ故に、ちょっとした山を見かけただけでもテンションが上がる。あの無感動そうな雪ノ下先輩ですら、感嘆のため息を漏らすほどだ。
それきり車内は静かになる。
僕も師匠も雪ノ下先輩も窓の外に広がる景色を見ていた。普段は車酔いする僕だが、どうやらこれだけ自然パワーにあふれている場所だと、酔わないらしい。
由比ヶ浜先輩とここは、それぞれ雪ノ下先輩と一色の肩に頭を乗せてくぅくぅと寝息を立てている。音を更に巡らせれば最後列の小町と戸塚先輩も眠っている。師匠はそんな二人の様子もチラチラ見ていた。ちょっと犯罪者に見えなくもない。
少し前まではトランプやらウノやらやって騒いでいたが、飽きたらしい。一色の会話スキルならもう少し場を盛り上げられるのではと思っていたが、思ったより一色は静かにしていた。……なんか、様子が変なんだよなぁ。今も、一色は眠るわけではなく、どこか掴みにくい顔をしている。どこを見ているのかは、僕にはわからない。
こういう光景は懐かしい。修学旅行や林間学校の帰りのバスみたいだ。はしゃぎ疲れたクラスメイトたちは元気を使い果たして静かになっていて、その瞬間が数日間で一番気が休まる時間になる。気が楽になったおかげで一人、清々しい目で外を見ていたものだ。
高速道路の高い塀と、それを圧迫するようにそびえ立つ山並み。ぽっかりと闇の口を開けたトンネルに煌々と光るオレンジ色。
窓の外を流れる風景を見ていて、強烈な既視感と悪寒に襲われる。
分かっていたことだ。
師匠は、何かを思い出したかのように呟いた。
「そうか……。千葉村って中学のとき、自然教室で行ったところだ……」
「確か、群馬県にある千葉市の保養施設、だったわね」
雪ノ下先輩が補足するように言った。
あれ? 雪ノ下先輩、中学のとき留学したんじゃなかったのか? 陽乃お姉さまはそう言ってたんだけど……。
「ああ、お前も千葉村行ったの?」
「私は三年のときにこちらへ戻ってきたから、自然教室には参加していないの。卒業アルバムのおかげで行事の存在自体は知っているけれどね」
「戻ってきた? どっか行ってたのか? むしろなんで戻ってきちゃったの?」
「聞き方に悪意があるわね……、別にいいけれど」
二人の様子を見ようと振り返ると、雪ノ下先輩は窓の外を見ていた。わずかに開けた窓から吹き込む風で黒髪がはためいているせいで、窺い知れないその表情を僕と師匠はぼんやりと見つめた。
「留学していたのよ。前に言わなかったかしら。記憶容量がフロッピーディスク並みなのね」
「容量少ねぇ……。磁石とか向けんなよ、忘れちゃうから」
「ふろぴ? すみません、師匠、なんですかそれ」
「大丈夫だ、日木。普通、君たちの年齢でフロッピーディスクは知らない」
平塚先生が、無知な僕を慰めてくれた。そういうところ、ほんと結婚さえできればいい母親になると思うんだよなぁ……。
「いや、たぶん生まれた前後くらいはあったと思いますよ」
「よく覚えているな。MO並みの記憶力だ」
「えむお?」
話に乗っかり、上手い事を言ったように平塚先生はむふっと楽しげに笑った。が、僕としては笑えない。話についていけない。
「いや、MOとか普通知らねぇから……」
「MDなら知っているけれど……」
雪ノ下先輩もこの話にはついていけてないようだった。よかったよかった。
「くっ! MOも知らないとは……。これが若さか……」
平塚先生は悲壮な叫び声をあげた。少し可哀想になってしまったので、慰めてあげることにした。
「まぁ、あれですよ? 僕は結構知識偏ってますし、雪ノ下先輩も世間知らずみたいな部分あるんで平塚先生が年老いてるってわけじゃないと思いますよ」
「そ、そうだな!」
平塚先生は笑顔を取り戻して、ノリノリで運転をしはじめた。
車は一路、千葉村へと向かう。
平日だというのに、道はそれなりの混み合いを見せていた。時折、一キロの短い渋滞などが発生している。
こういうところも、小学校の頃と同じだ。
嫌だなぁ、と心底思った。
千葉村。それは僕の中で、いじめの象徴みたいな場所なのだ。
本当なら楽しげな林間合宿を送るはずだった。自然は好きだし、イベントごとも好きなので本当なら楽しめるはずだったのだ。
でも、班決めで僕をいじめる人ばかりの班に入れられてしまって、部屋が班ごとという風になってしまってから僕は絶望した。
班でいるときも地獄。部屋に帰っても地獄。眠ろうとしても、幾人もに襲われ、荷物整理も邪魔をされ。そんなクソみたいな三日間を、僕は決して忘れない。
でもそれは決してあの時のことを恨んでいるから忘れないわけではない。いじめた側にはいじめた側の理由があって、それを忌むのは間違っていることだ。人には人の理由がある。それがどんなに軽薄なものだとして変わらない。
だから僕はいじめが悪だとも思わないのだ。
強大な権力に対して、反抗できないの弱さがいけないのだ。強者がその弱さを救うのは強者の余裕であって、権利であって、義務じゃない。だから止めてくれない人を恨むのは間違っているし、そもそも、反抗する力のない人間には手を貸すべきではない。
反抗したい、という意思があるのならどんなにちっぽけな反抗だってできる。極論、助けてと叫ぶだけでもいいのだ。その反抗をした者だけが人の力を借りる事が許される。それさえせずに、ただ助けてもらうのを待つのは愚かだ。
無論、僕はそんな弱さを責めるつもりはない。弱者は往々にしている。そして弱者は悪ではない。
ただ、弱者は弱者のまま、悪意ある強者に踏み躙られるだけだし、そのことに文句を言ってはいけないと思うのだ。弱肉強食。強者に食われることに文句を言う動物は、反抗の術を身に付けるべきなのだ。
だから僕はいじめが悪だとは思わない。ただ、弱者である自分を呪うだけだ。いじめられて、被害者面していた自分を憎むしかない。
もう、あの頃の僕は死んだ。
× × × ×
車を降りると、濃密な草の匂いがした。心なしか酸素が多そうだ。緑深い森がそう感じさせるのだろう。この匂いが、またしてもトラウマの引き金を引こうとするが、眠たげなここを見て、なんとかとどめる。
やや開けた場所にはバスが数台止まっている。千葉村の駐車場だ。平塚先生はそこに車を止めた。
「んーっ! きっもちいいーっ!」
「ですね。んにゅ……」
由比ヶ浜先輩と、ここは車から降りると思いっきり伸びをした。やはり、寝起きのここは可愛い。なんか小学生感漂ってるけど。
「……人の肩を枕にしてあれだけ寝ていればそれは気持ちいいでしょうね」
「んんー、ココ可愛かったなぁ」
雪ノ下がちくりと言うのとは対照的に、一色は非常に満足げに言った。うわぁ、ずるい。僕もここの寝顔、間近で見たかった。
「わぁ……、本当に山だなぁ」
戸塚先輩は一足遅れて山に感動している。平地で暮らすが故に山に憧れを抱くあたり、さすがは千葉人である。もうね、スーパー千葉人とかなれるレベル。まあ、戸塚先輩にはなってほしくないけど。小町も「小町は去年来たばっかなんですけどね!」と言いながらも深呼吸していたりそれなりに楽しんでいるようだ。あ、ちなみに小町のことは前から比企谷ではなく小町と呼んでいたので、その呼び方で今も呼んでいる。師匠曰く「お前なら小町とくっつく気配ゼロだから許す」だそうだ。まあ、当然だな。
心地よい木漏れ日と高原の涼しい風。その気持ちよさに僕は吐息を漏らした。
「うむ、空気がおいしいな」
そう言って平塚先生は煙草を吸い始める。それじゃ空気の味、わからんだろ……煙草、好きじゃないんだよなぁ。
「ここからは歩いて移動する。荷物を降ろしてきたまえ」
すはーっと実にうまそうに息を吐いて、平塚先生が言った。
指示の通り、車から荷物を降ろしていると、もう一台、ワンボックスカーがやってきた。キャンプ場もあるみたいだし、一般のお客さんも来るのだろうか。そういえば、僕のときもちょこちょこいたような気がする。
人を降ろすと、車はそのままもと来た道を引き返していく。どうやらただの送迎らしい。
ふと、たまたま一色のほうに目が行ったのだが、一色は非常に嫌そうな顔をし始めた。それで、なんとなく察した。
この合宿、奉仕部だけじゃないんだもんな。そしたら、そりゃ、わちゃわちゃしたリア充も参加する可能性はあるよな。
車から降りてきたのは若い男女五人組。
いかにも真夏の果実かじってそうな男女五人恋物語風だ。マジ、ほんと最悪。僕やここが一番苦手とするタイプだ。それに、一色も今回に関しては求めていない相手らしい。
一団の一人が、師匠に向かって軽く手を挙げた。
「や、比企谷くん」
「……葉山か?」
そう。師匠に話しかけたのは葉山先輩だった。師匠の名前を間違えていない点は評価できるが、ここに来ちゃった時点で最悪だ。彼の後ろには彼のグループの面子がいる。ボス猿、戸部とかいうちゃらい先輩、眼鏡女子の先輩、さらには速水までいた。チェーンメールの犯人である大岡先輩と、かの大和先輩はいない。部活がかぶったのだろうか。
「……なんでいるんだよ」
「え? それは葉山先輩が誘ってくれたからだよ」
にこにこ笑顔で近づいてくる速水は、ほんとに馴れ馴れしく話しかけてくる。マジで鬱陶しいし、更に言うとこいつには頭の回転で負けてるからちょっと身構えてしまう。
こいつなんだよなぁ……僕が大岡先輩を貶めようとしているのに気付いて、大岡先輩にアドバイスをしてうまく、チェーンメール問題を解決したのは。やり方は甘いが、その実非の打ち所のないやり方だった。大岡先輩と速水で協力して、完全にネタに変えやがったからな。
「ふむ。全員揃ったようだな」
「ですよね。わかってましたよ、はいはい。もう、なんか面倒ですし暑いんで、さっさと荷物置きにいきましょう。先生が若手だから、奉仕活動の監督を申し付けられたんですよね? 小学校の林間合宿のスタッフ」
「お、おう……まあそうだな」
「じゃあ、もういきましょ。なんかこのメンバーだ話が逸れまくる気がしますから」
ほんと、リア充メンバーと師匠や雪ノ下先輩を混ぜたらろくなことにならない。あと、なんか眼鏡の先輩が怖いんで、ちょっともうさっさとここを離脱したい。
「そう、だな。時間は無い。本館に荷物を置き次第仕事開始だ」
納得してくださったようでなにより。平塚先生が先導する。僕たちはそれにつき従って歩き始めた。
ほんと、呆れるくらいにまとまりのない集団だ。平塚先生のすぐ後ろに師匠と雪ノ下先輩、その後ろに小町と戸塚先輩、由比ヶ浜先輩と続き、更に下がって葉山先輩たちがだらだらと続く。僕たちは、と言えば葉山先輩のグループに巻き込まれるようにして入っていった一色に助け舟を出せるように、一番後ろにいる。車内で話せなかったし、ここの彼氏アピールをしておかないと誰が惚れるかわからないからな。
駐車場から本館まではアスファルトで舗装されている。道々、ここは遠くをぼんやりと見ていた。
「いろは、面倒臭そうだね」
「だなぁ……超猫被ってるし。多分、葉山先輩がいるからああなってるんだよ」
「あー、なるほど。いろはも、可哀想だなぁ……こればっかりはなにもしてあげられないからなぁ」
「だよなぁ」
色恋のことに関しては、僕たちは本当に無力だ。
いや、葉山先輩と一色が付き合うためのサポートというのであれば、それくらいはやれる。以前の失敗があるにはあるが、あれはイレギュラーなケースだ。
しかし、一色の問題はそんなところにはない。
実際のところ、一色は葉山先輩の事が好きではない。ある程度の興味は持っているだろうが、それは絶対に本物ではない。
人気だから、みたいな理由。それを恋とは呼ばないのだと思う。
そして一色もそのことは分かっている。けれど、それと同時に彼女は恋を知らないのだ。本物の恋を知らないから、彼女は猫を被り続ける。
「それに、一色のやってることは悪いことじゃないからなぁ」
「だね……」
きっと、僕たち二人が思い浮かべていたのは同じ人物だと思う。
一色のように猫を被り、人とうまくやることにかけて一色よりもずっとうまい人物が僕たちの周りにはいた。一色よりも不恰好で、人気もなかったけれど、僕は彼が紛れもなく人生の天才だと思う。
そう、省木だ。
あの猫の被り方はもう、超人的だった。そのまんま、猫が憑依しているレベルだった。究極の人たらしで、リア充ともうまくやっていた。
彼や一色のように人とうまくやる、というのはきっと重要なことなのだと思う。そして、たぶんそう難しいことではない。仲良くなるというのは感情の問題なので難しいかもしれないが、うまくやるというのはもう技術の問題だ。
話題を振り、話を合わせ、相手に共感する。そうやって、距離を近づけるのは容易い。会話の技術だって、他の技術と同様、反復で身に付くのだ。
つまり、人とうまくやるという行為は、自分を騙し、相手を騙し、相手も騙されることを承諾し、自分も相手に騙されることを承認する。その行為の連続でしかないのだ。
それは正しいものなのだ。彼ら彼女らが学校で学び、実践している行為なのだから。
「ま、いろはは渡さないから! 私の妹だし! 私が認めた人じゃないと、渡さない!」
「ほんと、一色のこと好きだな?」
「そりゃそうだよ! だってあんなにかわいいんだよ! 声とかもう、やばいし! 髪もさらっさらだしさぁ」
元気になったここが、一色のよさを語るのを横目に僕はふと思った。
人とうまくやること。結局それは虚偽と猜疑と欺瞞でしかない。
――それを、ずっとやり続ける省木や一色はいつか本物を手にできるのだろうか。