結論から言おう。由比ヶ浜先輩には料理スキルが欠如していた。足りるだの足りないだのの問題ではく、最初から存在しない。
由比ヶ浜先輩は不器用な上に大雑把で無駄に独創的というおおよそ料理をするのに向かない人間だった。化学の実験とかも、手順どおりにこなせないタイプだ、この人。僕と一瞬でも似てると思ったが、それはどうやら見当違いだったらしい。
例のブツが焼きあがったころにはなぜか真っ黒なホットケーキみたいなものができている。それは、うちの彼女が作ってくれたものとは大きく異なり、匂いからして苦いっていうかヤバイ。
「な、なんで?」
由比ヶ浜先輩は愕然とした表情で、物体ⅹを見つめている。いや、なんでとか思う余地ないだろ。
「理解できないわ……。どうやったらあれだけミスを重ねることができるのかしら……」
雪ノ下先輩が呟く。小声であるあたり、由比ヶ浜先輩に聞こえないように配慮はしているんだと思う。さっき、エプロンつけてあげたり何気に面倒見てあげたりしてるので、それなりに由比ヶ浜先輩を好意的に捉えているんだと思う。
それでも、我慢できずに漏れ出たという感じだ。
「見た目はあれだけど……食べてみないとわからないよね!」
「そうね。味見してくれる人もいることだし」
言いながら雪ノ下先輩は師匠の方を見る。ああ、確かに僕は師匠に『味見』という体で食べて頂こうと思ってはいた。でも、これは『味見』じゃない。
「ふははは! 雪ノ下。お前にしては珍しい言い間違いだな。……これは毒見と言うんだ」
「大丈夫ですっ! 師匠、僕が代わらせていただきます!」
「そうか? お前、いい奴だなぁ」
師匠が、ごしごしと頭を撫でてくださった。やばい、極楽すぎる。彼女に撫でてもらうのもいいが、これは力が少し強くて、彼女とは別の気持ちよさがある。
「どこが毒よっ! ……毒、うーんやっぱ毒かなぁ?」
威勢よく突っ込んだわりに見た目が不安なのか由比ヶ浜先輩は小首をかしげて「どう思う?」みたいな視線を向けてきた。いや、どう思うも何も紛れもない毒ですから……。
師匠は由比ヶ浜先輩の子犬チックな視線を振り切って雪ノ下先輩に水を向けた。
「おい、これマジで食うのかよ。俺は食わないけど、日木にだけ食わせるのもヤバイんじゃないか? ジョイフル本田で売ってる木炭みたいになってんぞ、これ」
「食べられない材料は使っていないから問題ないわ、たぶん。それに」
雪ノ下先輩はそこで言葉を切ってから髪を耳にかける。
「私も食べるから大丈夫よ。というか、あなたも食べなさい」
「えぇ……俺の分も日木が食ってくれるって言ってるじゃん」
「……あなた、本当に最低ね」
「雪ノ下先輩! 師匠を悪く言うのはやめてください! 僕は師匠の体内に有害物質を入れてはいけないと思ったんです!」
「はあ……そう、でも一枚くらいは食べないと問題を解決できないのではないかしら? 知るためには危険を冒すのも致し方ないことよ」
なるほど、納得。皿を自分の側に引き寄せ、鉄鉱石ですといわれても信じてしまいそうな黒々とした物体を摘み上げる雪ノ下先輩の言葉にうんうんと僕は頷いた。
確かに、少しだけでも食べて頂かないと師匠のご手腕を見せて頂けない。僕は深々と頭を下げ、師匠に懇願した。
「一枚、食べて頂けますでしょうか?」
「頭下げなくていいっての。まあ、雪ノ下も食うんだしな」
師匠はそう言いながら由比ヶ浜先輩のほうを見た。彼女は仲間になりたそうな目で師匠を見ている。……あ、こういうところは似てるな、と思った。
× × ×
由比ヶ浜先輩の作ったクッキーはぎりぎり食べることができた。
よくマンガに出るような食べた瞬間ゲロを吐いて倒れるようなことはなかった。が、気絶できるだけ彼らは幸せだったんだな、とまずいものを食べてきた登場人物達に思いを馳せるほどのリアルな不味さだった。
即死するようなものではない。が、長期的に見ると発癌リスクが高まりそうなレベルだった。僕は由比ヶ浜先輩の料理の下手さを舐めていたのだ、と思った。
まずいだの、苦いだの、やっぱり毒だのとぼやきながら、四人でなんとか食べきり、今は僕が用意した紅茶で口直しをしていた。あぁ、でもこれじゃ足りないな。今度、彼女にクッキー作ってもらお。
それぞれがようやく一息ついて、ため息を漏らしたとき、そんな弛緩した空気を引き締めるように雪ノ下先輩が口を開いた。
「さて、じゃあどうすればより良くなるか考えましょう」
「由比ヶ浜が二度と料理しないこと」
「師匠に賛成です!」
「二人に全否定された!?」
「二人とも、それは最後の解決方法よ」
「それで解決しちゃうんだ!?」
驚愕の後に落胆する由比ヶ浜先輩。がっくりと肩を落として、深いため息をつく。
「やっぱりあたし料理に向いていないのかな……。才能ってゆーの? そういうのないし」
それを聞いて雪ノ下先輩がふうっとため息をついた。
「……なるほど。解決方法がわかったわ」
「どうすんだ?」
師匠が尋ねると、雪ノ下先輩は平然と答えた。
「努力あるのみ」
「それ解決方法か?」
師匠が問う。が、僕は今ばっかりは雪ノ下先輩の意見に賛同せざるをえなかった。
由比ヶ浜先輩には、確かに才能がない。料理に関して言えば、もはや最悪レベルに非才だろう。そんな人間はもう頑張るしかない。その他のどんな要素も入れることなど出来ないのだ。はっきり言って無策。見込みがないからやめろ、と言われたほうがずっとマシだとは思う。でも。それでも凡人だって努力すればそれなりになれるはずなのだ。努力しない天才を追随するくらいには。
「努力は立派な解決方法よ。正しいやり方をすればね」
彼女の発言は師匠の問いに答えた。けれどもその代わりに僕の賛同を裏切る。
ああ、やっぱりダメだ。この人は所詮、〝強者〟。
「由比ヶ浜さん。あなたさっき才能がないって言ったわね?」
「え。あ、うん」
「その認識を改めなさい。最低限の努力もしない人間には才能がある人を羨む資格はないわ。成功できない人間は成功者が積み上げた努力を想像できないから成功しないのよ」
雪ノ下先輩の言葉は辛辣だった。けれど、それはどこまでいっても強者の言葉。才能がある奴の意見でしかなかった。
ふざけるな、と言いそうになる。
努力したって成功なんてしないんだよ。成功者が積み上げた努力と同じ分だけ努力したって、成功できないから凡人は凡人たりえるんだ。
それなのに、成功できない人間ハ努力が足りないみたいな言い方、許せるはずがない。
由比ヶ浜先輩の顔には戸惑いと恐怖が浮かんでいる。ただ、正論を言われるのに慣れていないだけなんだろう。
それをごまかすように由比ヶ浜先輩はへらっと笑顔を作った。
「で、でもさ、こういうのさいきんみんなやんないって言うし。……やっぱりこういうの合ってないんだよ、きっと」
へへっと由比ヶ浜先輩のはにかみ笑いが消えそうになったとき、カタッとカップが置かれる音がした。それはとても物静かで小さな音でしかないのに、透き通った氷のような音色だった。有無を言わさず音の主へと視線が引き寄せられる。そこには強者たる、怜悧な雪ノ下先輩がいる。
「……その周囲に合わせようとするのやめてくれるかしら。ひどく不愉快だわ。自分の不器用さ、無様さ、愚かしさの遠因を他人に求めるなんて恥ずかしくないの?」
雪ノ下先輩の語調は強い。色んな意味で〝強い〟。その姿に、僕は彼女からにじみ出る嫌悪よりも大きな、深い嫌悪を彼女に抱いた。
「なんですか、それ。それじゃ、由比ヶ浜先輩が不器用で、無様で、愚かみたいじゃないですか。まあ、不器用なのは否定しないですけど。でも、どこが無様で愚かだっていうんですか? 自分の望みのために、自分が得意じゃないことに手を伸ばして、才能がないことなんて分かりきってるのにそれでも奉仕部にきたんですよ? そうやって必死こいてやって、その上で諦めようとすることのどこが無様で愚かだって言うんですか」
由比ヶ浜先輩は気圧されて黙り込んでいる。きっと誰も求めているわけではないだろうに口を出してしまった自分に僅かな嫌悪を抱く。でしゃばってしまった。コミュニケーション能力が高い由比ヶ浜先輩にとっては、きっと僕の言動は邪魔でしかないんだと思う。
由比ヶ浜先輩は、僅かに驚いて僕の方を見ていた。その目は潤んでいる。
僕が何も言わなきゃ、普通に謝るだけで済んだ。なんなら、投げ出して帰るとか言って、依頼を放棄できた。
でも僕が下手に言ってしまったせいで、きっと優しい由比ヶ浜先輩は動けない。こんな愚行、師匠なら決してなさらないだろう。
「か……」
やはり、帰るのだろうか。いや、むしろそうしてくれるならよかった。下手に気にせずに出て行ってくれるなら気が楽だ。今にも泣き出しそうなか細い。肩が小刻みに震えているせいで、その声をゆらゆらと頼りなげだ。
「かっこいい……」
「「は?」」
「え?」
師匠と雪ノ下先輩の声が重なり、追尾するように僕の声を被る。これには険悪ムードになっていた雪ノ下先輩と僕、そしてそんな雰囲気から逸脱していた師匠も顔を見合わせてしまう。
「建前とか全然言わないんだ……。なんていうか、そういうのかっこいい……」
由比ヶ浜先輩は熱っぽい表情で雪ノ下先輩と僕をじっと見つめる。へ? 僕も? 理解できずにいると、雪ノ下先輩が強張った表情で二歩ほど後ろに下がる。
「な、何を言っているのかしらこの子……。話聞いてた? 私、かなりきついことを言ったつもりだったのだけれど。実際、日木くんもああ言っているわけだし」
「ううん! そんなことない! あ。いや確かに言葉はひどかったし、ぶっちゃけ軽くひいた。ハチが庇ってくれて嬉しかったけど、正直、そのせいで余計パニックになっちゃったけど……」
うん、まあそうですよね。それは分かってましたよ。突然、由比ヶ浜先輩と雪ノ下先輩のやり取りに口出してるわけだしね。馬鹿でしかないわな。
「でも、本音って感じがするの。ヒッキーと話してるときも、ひどいことばっかり言い合ってるけど……ちゃんと話してる。あたし、人に合わせてばっかだったから、こういうの初めてで……」
由比ヶ浜先輩は逃げなかった。
今逃げても、その勇気は気高いのに。それでも逃げずにやろうとした。
「ごめん。次はちゃんとやる」
謝ってからまっすぐに雪ノ下先輩を見つめ返す。
予想外の視線に今度は雪ノ下先輩が声を失った。ざまぁみろと言いたいところだが、僕も同じように声を失っていたので言える立場になかった。
「…………」
雪ノ下先輩はふいっと視線を横に流して、手串で髪を払う。何か言うべき言葉を探して、けれども見つからないといった表情をする。……なるほど、この人、アドリブに弱いのか。
「……正しいやり方ってのを教えてやれよ。由比ヶ浜もちゃんと言うことを聞け」
その場の無言を壊すように師匠が言うと、ふっと短いため息をついて、雪ノ下先輩が頷く。流石師匠だ。一番大切なところで口をお出しになるのだから。僕とは大違いだ。
「一度手本を見せるから、そのとおりにやってみて」
そう言って立ち上がると雪ノ下先輩は手早く準備を始めた。
そうなると、もう僕は出番がない。おとなしく依頼の解決を待つことにした。
× × ×
「なんでうまくいかないのかなぁ……。言われたとおりにやってるのに」
心底不思議そうな顔をして由比ヶ浜先輩は自分が作ったクッキーに手を伸ばした。
雪ノ下先輩の完成度が高いクッキー(うちの彼女には劣る!)を食べた後、由比ヶ浜先輩は雪ノ下先輩に一つ一つ細かく説明されながら第二号のクッキーを作った。
第一号と比べればはるかにこっちの方がいい。食べ物の体を成しているわけだし。
しかし、二人の様子を見て僕は思った。
天才や強者の天敵は非才や弱者なのだ、と。
本当に頭のいい奴は人に教えるのも上手だとか、どんなバカにも分かるように説明するというが、そんなことはない。だってそれがあったら、科学のテレビでアホみたいに難しい言い回しをする科学者なんていなくなるはずだ。
天才の天敵は非才。何故なら見えているものが違いすぎるが故に、天才が理解するまでの順序で教えると非才は理解できないのだ。
「うーん、やっぱり雪ノ下さんのとは違う」
由比ヶ浜先輩は落ち込み、雪ノ下先輩は頭を抱えている。
師匠はそんな二人の様子を見つつ、クッキーをもう一つ齧った。この陰鬱な空気じゃなきゃ、写真でも撮りたくなるクールさだ。
「あのさぁ、さっきから思ってたんだけど、なんでお前らうまいクッキー作ろうとしてんの?」
「はぁ?」
由比ヶ浜先輩は「こいつ何言ってんの? 童貞?」みたいな顔で師匠を見た。あまりに馬鹿にしくさった顔に、僕はムッとしてしまう。師匠は童貞に決まってるだろ、師匠につりあう女性がいないんだから。
「お前、ビッチのくせに何もわかってないの? バカなの?」
「だからビッチ言うなっつーの!」
「男心がまるでわかってないのな」
「し、仕方ないでしょ! 付き合ったことなんてないんだから! そ、っそりゃ友達にはつ、付き合っている子とか結構いるけど……そ、そういう子たちに合わせてたらこうなってたし……」
由比ヶ浜先輩の声は見る間に小さくなっていき、もう全然聞き取れない。はっきり喋りましょうよ、小学校の頃の僕ですか……。
「別に由比ヶ浜さんの下半身事情はどうでもいいのだけれど、結局、比企谷くんは何が言いたいの?」
「師匠。お恥ずかしいのですが、僕も理解できません」
師匠は充分のためを作ってから勝ち誇ったように笑った。
「ふぅー、そうやらおたくらは本当の手作りクッキーを食べたことがないと見える。十分後、ここへきてください。俺が〝本当〟の手作りクッキーってやつを食べさせてやりますよ」
「何ですって……。上等じゃない。楽しみにしてるわ!」
自分のクッキーが否定されたのがカチンと来たのか、そう言って由比ヶ浜先輩は雪のした先輩を引っ張って廊下へと消えていく。
「あ、お前はここにいていいぞ」
師匠は実に楽しそうに仰る。
これで、勝負は師匠のターンということだろう。実に楽しみである。