しばらくの後、家庭科室は剣呑な雰囲気に包まれていた。
「これが『本当の手作りクッキー』なの? 形も悪いし、不揃いね。それにところどころ焦げているのもある。――これって……」
雪ノ下先輩が怪訝な表情でテーブルの上の物体を眺めている。その脇から由比ヶ浜先輩がひょいと覗き込んできた。
「ぶはっ、大口叩いたわりに大したことないとかマジウケるっ! 食べるまでもないわっ!」
「ま、まあ、そう言わずに食べてみてくださいよ」
あまりの暴言に口角がひくひくと動きそうになるが、努めて笑う。これが師匠の作戦なのだと、逆転の一手があると、その勝利の確信を胸に師匠の隣で笑う。
「師匠がこう仰ってるのですから、ぜひ食べてみてくださいよ」
手本を見せるかのように僕はそのクッキーに手を伸ばし、口に放る。別においしいわけではないそれをおいしそうに食べて見せる。
「そこまで言うなら……」
由比ヶ浜先輩は恐る恐るクッキーを口にした。雪ノ下先輩も何も言わず一つ摘む。
サクッと快い音がしたのち、一瞬の沈黙。
それは嵐の前の静けさに他ならない。
「っ! こ、これはっ!」
由比ヶ浜先輩の目がくわっと見開かれた。味覚が脳にまで到達し、それにふさわしい言葉を探し出そうとする。
「別に特別何かあるわけじゃないし、ときどきジャリッてする! はっきり言ってそんなにおいしくない!」
驚きから一転、怒りへと感情が揺れ動いた。そのせいなのか、由比ヶ浜先輩は師匠のことを睨む……くっそ、後でおぼえとけよ。
雪ノ下先輩は何も言わないが師匠を訝るような視線を向けている。食べてすぐ気付くあたりは流石というべきか。
師匠は二人分の視線を受け止めてから。そっと目を伏せる。
「そっか、おいしくないか。……頑張ったんだけどな」
「――あ、ごめん」
師匠が俯くと、由比ヶ浜先輩は気まずそうに視線を床へと落とす。
「わり、捨てるわ」
「師匠! そんなことする必要ないですよ!」
「いや、あいつらまずいって言ってるし、いいんだ。悪いな、かっこいいところ見せられなくて」
師弟による猿芝居。悲しそうな顔をする師匠を必死で引き止めるような仕草をする。それでも捨てようとする師匠を見て、僕は由比ヶ浜先輩に懇願する。
「ま、待ちなさいよ」
「……何だよ?」
由比ヶ浜先輩はそんな僕の懇願よりも先に師匠の手を取って止めていた。そのまま師匠の言葉に返事をする代わりにその不揃いなクッキーを掴んで口に放り込んだ。
ばりばりと音を立て、じゃりじゃりとしたそれを噛み砕く。
「べ、別に捨てるほどのもんじゃないでしょ。……言うほどまずくないし」
「……そっか。満足してもらえるか?」
師匠が笑いかけると、由比ヶ浜先輩は頷いてすぐにぷいっと横を無入れしまう。窓からは夕日が差し込んでいて、その顔が赤く見える。
「まぁ、由比ヶ浜がさっき作ったクッキーなんだけどな」
「……は?」
クールに、そつなく、師匠は真実を告げた。僕も師匠も一言も師匠が作ったとは言っていないので嘘はついていない。
由比ヶ浜先輩が間抜けな声をあげる。目が点になって口が大きく開いてむしろ間抜けだ。
「え? え?」
目をぱちくりさせながら師匠と雪ノ下先輩、そして僕を交互に見つめる。何が起こったのかさっぱり把握できていないようだ。
「比企谷くん、今の茶番になんの意味があったの?」
雪ノ下先輩は不機嫌にそう尋ねる。
師匠の顔が、一気に優越感に染まるのが見ていてわかる。何故だか、僕まで誇らしくなる。
「お前等はハードルを上げすぎなんだ。せっかくの手作りクッキーだ。手作りの部分をアピールしなきゃ意味が無い。味なんて悪くたっていいんだ」
まあ、いいに越したことはないと思うけど、と心の中でぼやく。
だが実際、男とはちょろい生き物なのだ。
「そうなの?」
「ああ、そうだ。上手に出来なくても、一生懸命作りましたっ! ってところをアピールすれば『僕のために頑張ってくれたんだ……』って勘違いすんだよ、悲しいことに」
「そんなに単純じゃないでしょ……」
由比ヶ浜先輩は疑わしげに師匠を見る。またしても何言ってんの、童貞? みたいな視線を向けている。僕も余計かもしれないが援護射撃をすることにした。
「少なくとも師匠はそうだってことですよ。僕もそうですしね。それに、由比ヶ浜先輩みたいな可愛い女の人の手作りでしたら、大抵の人は喜ぶと思いますよ。ね、師匠?」
「あ、ああまあそうだな」
「ふーん」
可愛い、という点に師匠が同調したからなのか由比ヶ浜先輩の頬が一気に赤くなる。ああ、ちょっと見てて楽しい。
「由比ヶ浜さん、依頼のほうはどうするの?」
「あれはもういいや! 今度は自分のやり方でやってみる。ありがとね、雪ノ下さん」
振り向いて、由比ヶ浜先輩は笑っていた。その笑みは、決してリア充の偽りの笑みではなく、無邪気な子供っぽい笑みだった。
「また明日ね。ばいばい」
手を振って今度こそ由比ヶ浜先輩は帰っていった。エプロン姿のまま。
「……本当に良かったのかしら」
雪ノ下先輩はドアの方を見つめたまま呟きを漏らす。
「私は自分を高められるなら限界まで挑戦するべきだと思うの。それが最終的には由比ヶ浜さんのためになるから」
やはり、正論。強者の考えに僕は鬱々とした。
努力がどうしてその人になると決め付けるのだろう。努力によって失うものと得るものを計算して、本人が納得できるかどうかをどうして推し量れるのだろう。
その人間のことを知らないくせに努力がその人のためになるだなんて、そんなのは傲慢でしかない。そのことを理解できないのは、彼女が強者で、持つ者だからだ。持つ者だから努力には必ず見合う結果が返ってくるのだと思い込んでいるのだ。
「まあ、正論だわな。努力は自分を裏切らない。夢を裏切ることはあるけどな」
だからだろう。師匠の言葉が耳朶を打つように心地よかったのは。
「どう違うの?」
振り返った雪ノ下先輩の頬を風が撫でる。わずかに温かいその風は今が春なのだと主張しているように感じた。
「努力しても夢が叶うとは限らない。むしろ叶わないことのほうが多いだろ。でも、頑張ったって事実さえありゃ慰めになる」
救われたな、と思う。
ジョークで笑わせてもらっただけじゃなくて今度は本当に。
才能がなくて苦しんでいて、自分の努力が足りないんじゃないかと思い苦しんだ頃の自分に聞かせてやりたい。
別に結果が出ないのは、夢が叶わないのは努力が足りないからじゃないのだ。そういうこともある。そういうことの方が多い。それだけなのだ。そんな、自分を庇う言葉を師匠に正当化してもらえた気がして、僕は嬉しくなる。
「ただの自己満足よ」
「別に自分に対する裏切るじゃねぇさ」
だからいいじゃないか、自己満足でも、と言われた気がして、うっかり涙がこみ上げそうになる。
師匠、やっぱりすげぇな。本当にかっこいい。
「甘いのね……。気持ち悪い」
「お前含めて、社会が俺に厳しいんでな」
「師匠! 僕はもっと師匠に優しくさせていただきます!」
「ああ、ありがとさん……なんか、例外もいるみたいだけどな」
「そうね。よかったじゃない。慕ってくれる人がいて」
そう言った雪ノ下先輩の言葉には他意があるような気がした。
ま、まさか雪ノ下先輩に限って、由比ヶ浜先輩の好意に気付いたということはあるまい。
それと、すごいどうでもいいかもしれないが今のこの辺のやり取りはばっちりボイスレコーダーで録音しているので明日までに文字に起こさなければならない。
まあ結論は確定だな。
師匠、まじかっこいい。
ちなみに。
由比ヶ浜先輩はたまたま僕が外せない用事で奉仕部を欠席した日から奉仕部に入り浸り始めた。
雪ノ下先輩曰く、入部届けはもらっていないとのこと。あと、どういうわけか雪ノ下先輩と由比ヶ浜先輩が仲良くなっていた。本当に何があったんだろうか。ちょうど欠席してしまったことが惜しまれる。
だがまあ、いつの間にか奉仕部は四人の部活となり大所帯となったのだった。
短いですね、すみません。
まあ、あまり途中の話を入れても同じようになりすぎてしまうので。
次回あたりには一色さん、だしますかね