囚われた夢の檻の中。
魂の領域にて、少女は邂逅を果たす。
その先にあるものは、悪夢か、あるいは――
光明
大地に深く、どこまでも深く穿たれた大穴の中。
今まさに地底面へと激突せんばかりに落下する緒川の身体を、神獣鏡のシンフォギアを纏った未来は、その飛行機能を持ってして受け止めた。
「大丈夫ですか、緒川さん」
「立場が逆になってしまいましたね」
気遣う未来に対し相変わらず笑っては見せるものの、その顔色はひどく青ざめているのが見て取れる。
抱きかかえた手に、ぢわりと生温かい感触が広がり、その出血量の多さを想わせた。
おそらく、一刻を争うほどの傷なのだろう。
「飛びます。しっかり掴まってて下さい」
遥か上空――カ・ディンギルの口許より射す光を見据え、未来は緒川の身体を落とさぬように強く抱くが、「お願いします」と答える声は、随分と弱々しく――今にも途切れてしまいそうな程であった。
未来は、その飛行機能をなんとか制御して、カ・ディンギル趾地の上空へと向かう。
響と渡り合った時とは違い、自らの意思でギアを――その力を使うのは初めてではあったが、それでも、不慣れながらにも真っ直ぐに、地上を目指し空を駆けていく。
「未来さん! 緒川さん! 無事ですかッ!?」
半分ほどを昇った頃、高エネルギーの残滓より解放された通信機器は、ようやくにその機能を回復させたらしく、安否を問うエルフナインの声が聞こえてくる。
随分と心配していたのだろうその声は、緊迫感と安堵を綯交ぜにしたものであった。
「わたしは大丈夫です。ただ緒川さんがひどい怪我を……このまま本部へ向かいます!」
カ・ディンギルの口許より飛び出し様に、未来はそう答え、一気に本部へと向かう。
本部のモニタには先程の迸る光の柱と、その後飛び出して来た未来たちの姿が映し出されていたが、望遠の映像からは緒川の詳しい様子は見て取ることは困難であった。
しかし、未来の緊迫した声――そして無言のままの緒川の様子が、その傷の深さを窺わせる。
エルフナインはウェルに目配せすると、ウェルもまた、その意図を言外に察してメディカルルームへと向かい、発令所を後にした。
「わかりました。こちらも受け入れの準備をしておきます」
「お願いします」
手短にやり取りを済ませると、未来は真っ直ぐにS.O.N.G.本艦の停泊する港へと飛び立っていく。
それは、神獣鏡の飛行機能をもってすれば、さほど長い距離では無い。
事実、二人が本部へ到着したのは、まだ受け入れ態勢が整う前の事であった。
「あったかいもの、どうぞ」
緒川の処置も無事に終わり、自身のメディカルチェックを終えて一息ついた未来の元へ訪れたのは友里であった。
その後ろにはエルフナインとウェルの姿も見える。
「あったかいもの、どうも」
未来はそれを受け取り、口へ運ぶ。
カップに満たされたそれは、強張った身体を解しでもするかのように、温かく沁みていく。
メディカルチェックの結果は、まだ正確には聞かされていない――が、チェックを受けている間に聞こえた医療スタッフの口振りからすると、特に異常は無さそうだと未来は感じていた。
「神獣鏡のおかげで皆さんを蝕む黒い靄は取り除かれました。あとは目を覚ますのを待つだけです」
エルフナインもまた、ようやくひと段落ついた様子でほっと一息をつく。
戻ってきた未来は緒川をメディカルルームへと預けると、そのまま眠り続ける他の装者へ向けて、その輝きを照射したのであった。
そうして未来の意思により調整された神獣鏡の輝きは、無事に装者たちを取り巻く黒い靄のみを取り除くことに成功し、今や彼女たちは安らかな寝息を立てている。
切歌と調に至っては、時折まるで同じ夢でも見ているかのように寝言で語り合っているのが実に微笑ましい程である。
「果たしてそうでしょうか」
安堵した表情で語らう一同へと、怪訝そうな面持ちで声を上げたのはウェルであった。
端末を手に、その内容へと向けられた横顔には、どこか暗い影が落ちているように感じられる。
「彼女たちは、依然として夢の世界に囚われているのかもしれませんよ」
「どういうことですか?」
ウェルに差し出された端末を受け取ると、エルフナインはそこに表示されたデータへと目を通していく。
それは、黒い靄に囚われていた間の――そして、それが除去された後に記録された、装者たちの脳波を示すモニタリングデータであった。
一通り目を通してはみたものの、エルフナインの目には、現在の状況に特に異常は見られなかった。
一体ウェルはそこから何を読み取ったというのだろうか。
「これを見る限りでは皆さん一様にレム睡眠……つまりは、夢を見るような睡眠状態だと考えられます。それ自体は勿論異常な事ではない。しかし、気になるのはこの二人の脳波です」
そう言ってエルフナインの持つ端末を操作し、切歌と調、二人分のデータのみを抽出すると、それらを重ね合わせた状態で表示させた。
その重なった像を見て、エルフナインもまた「あっ」と小さな声をあげて、驚きをその顔に浮かべる。
「ほぼ同一の波形……これは」
「例の黒い靄が取り除かれて以降、ずっとこのように似通った波形を繰り返しています。先程寝言で会話していた事も偶然では無いのかもしれません」
その言葉通り、二人のデータはずっと――時折差異を見せながらも、ほぼ同一のパターンを示していた。
それは宛ら、二人が夢の中で同一の体験をしているかのように見て取れる。
エルフナインは慌てて他の三人のデータも表示すると、全員分のデータを照合していくが、特に類似性を示すのはあくまで切歌と調のみであった。
「つまり、二人が同じ夢を見ていると?」
友里もまた、それを覗き込むようにしてエルフナインに訊ねる――が、データへと意識を集中させているためか、返事は無い。
ただただその横顔に、焦りのようなものが浮かんでいる。
「博士、彼女はたちに覚醒のための投薬を――」
「もうやってますよ。その結果がこれだ」
エルフナインが気付くよりも早く、覚醒を早めるための投薬はとっくに済ませている――にも関わらず彼女たちは目覚めなかったのである。
例え被験者がどれだけ疲弊していたとしても、覚醒作用のある薬物の投与があれば、麻酔でも効いていない限りは目覚めるはずだった。
しかし、それでも彼女たちは一向に目を覚ます気配が無い。
「どういう……事ですか?」
未来もまた、不安そうな表情を浮かべる。
神獣鏡のギアを手に入れ、その黒い靄を打ち払った。
これでようやく皆が目を覚ませば、響に会いに行けると期待していたというのに、どうやら別の問題が起こっているらしい事だけは、その様子から窺い知れた。
「夢の共有……無意識の繋がり……まさか」
エルフナインは、何かを思いついたように声を上げ、その端末を、宛ら突き付けるようにしてウェルへと手渡すと、おもむろに立ち上がった。
なおもブツブツと何かを呟くその姿を見る限りでは、何か心当たりがあったのだろう。
「皆さん、すみませんが十分後にボクの研究室まで来てください!」
しばらくそうして思案した後、エルフナインはそれだけ言い残し、薄暗い廊下を駆けて行った。
置き去りにされた未来たちの間には、振り払う事のできぬ不安に満ちた空気だけが残されていた。
「観測地点にてフィールドの歪みが複数確認されました。いずれも非常に小さな反応で、確認された物体に『活動体』らしき反応は見られませんでしたが……」
「彼奴等もまだこちらの状況を探っている段階なのだろう。しかし――」
配下の者からの報告に、訃堂はその表情を苦々しげに歪めて見せた。
眼前に表示されたレポートへざっと目を通し、より深く、眉を顰める。
「はい……間隔は徐々に、明らかに短くなっております。他にも関連機関からの報告で――僅かながらですが、KAGRAが重力波の歪みを捉えたとの報告も上がっております」
『重力波』
その言葉を聞いた瞬間、その表情に憤怒が宿る。
訃堂は「ぎり」とその歯を鳴らすと――
「そのまま収集と観測に務めよ」
――とだけ言い残し、その場を後にした。
憤りをぶつけるように荒々しく足音を立てては、廊下をひた進む。
古びた廊下はその足音を四方八方へと響かせては、ぎしぎしときしむ音を立てる。
それらは、かえって訃堂を苛立たせ、時折壁へ拳を打ち付けては、内に湧き上がる憤怒を、何とか堪えようと努める。
やがて訃堂は、ヴィマーナの安置されたその部屋へと入ると、その中へと乗り込んだ。
依然、何ら反応を示すことの無いヴィマーナの中、訃堂は小さな匣を取り出すと、そこに入れられた金色の聖遺物を取り出す。
「未だ起動へと至ったのは『ヴァジュラ』のみ。鏡に至っては道半ば……果敢無き者どもが! この『力』無くしてこの国を防人る事が出来るとでも思うたか!」
訃堂は一人、声を荒げる。
膝をつき、まるで癇癪を起した子供のように、その両の手を、拳を握り込み、何度も床面へと叩きつけて吠える。
「歌……歌、歌ッ! 貴様は吾の、この有様を笑っておるのだろう! 歌うことの出来ぬこの身を! 人として老いさらばえるこの吾を!」
その怨嗟は、いつしかその――小さな匣へと向けられていた。
「母よ! 巫女の血を、防人たるその血を授けておきながら、何故吾を男と生んだのだッ!」
訃堂はその身を焦がす怒りに身を任せ、匣を横薙ぎに叩き払うと、中に入っていたいくつもの遺物はぶちまけられ、小さな小瓶がコロコロと転がった。
それらは――その匣は、風鳴の始祖が娶ったとされる女の持ち物であった。
かつて風鳴の始祖は、この舟に乗ってやってきた女を娶り、その持ち物であった匣の中に納められていた数々の異端技術――そして聖遺物の力を以ってして、その家を興したのである。
立花 響に起動させた『ヴァジュラ』もまた、元々そこへ納められていた聖遺物の一つに過ぎない。
しかし、いつしか消耗の末に力を失い、基底状態となったそれらは、動かせぬ事には最早ただのガラクタでしかなく、歌による起動も望めない訃堂の目に、忌々しい呪いの品々としか映らなかった。
「吾が女であれば……貴様が生きてさえおれば、先の大戦であのような辱めを受けることなど無かったのだ」
訃堂はそう言い終えると、しばらくそうして「ふうふう」と息を荒げる。
歌う事の出来ぬ己が身を、そう産んだ母を、そして聖遺物を再び起動することなく死した母を、訃堂はただただ憎んでいた。
そうしてどれくらいの時が過ぎただろうか。
やがて気を取り直すと、訃堂は散らばったそれらを一つ一つ匣へと納めて安置する。
動かなくなっているとはいえ、貴重な――そして希少な聖遺物である以上、粗雑に扱おうとも、他の者たちに渡すわけにはいかないだろう。
配下の者が現れたのは、ちょうどその頃で合った。
あるいは、訃堂の様子に、出てくる機を伺っていたのかもしれない。
「小日向 未来が神獣鏡への適合を成功させたようです」
その報告に、不動の目には僅かばかりの光が宿る。
それは事実として、停滞したこの状況に於いては光明と言えるに違いないだろう。
S.O.N.G.の装者が今どうなっているかは訃堂自身も当然把握している。
立花 響の暴走と沈黙により塞がれていた、その閉ざされていた可能性が、再び日の目をみるのだ。
これを光明と言わずして何と言うのだろうか。
「なれば今ひととき、彼奴等の出方を観るとしよう」
やや焦燥した様子で、それでも、先ほどに比べて僅かながらに力強さを取り出した声色で訃堂は配下の者へ声を掛ける。
まずは、再び装者たちが歌えるようにならなければ何も始まらない。
それを改めて思い返し、訃堂はまたも忌々しげに「歌め」と一人呟いたのだった。
「来ましたか、皆さん」
エルフナインは、椅子に座ったままに一同を迎え入れた。
目の前のモニタ上には、既にいくつかの資料が並べられている。
ウェルと未来。そして友里と合流した藤尭の四人は、それぞれに出力された資料に目を通す。
「皆さんは『集合的無意識』というものをご存知ですか?」
エルフナインは、真剣な眼差しで問う。
その自信に満ちた様子は、既に何かしらの結論に至った表れなのだろう。
「集合的無意識というと、ユングの提唱した概念。ですかね」
「確か、人は無意識の領域で繋がっているって話だったかな」
先に答えたウェルの言葉を補足するように、藤尭はそれらを思い出す。
はっきりと学んだわけではないが、どこかでそう、聞いたことがあった程度である。
「はい。世界中に点在する神話や伝承――その中に描かれるイメージは、時代や地域に関わらず、共通するものが散見されています。ユングはそれらを、人々の無意識の領域に存在する共通の、共有される認識。つまりは『元型』から来るものだと考えたのです」
そう言ってエルフナインは、水面に浮かぶ二つの山のような図解を指し示した。
それぞれが個人の意識として描かれたそれは、水面の下を個人的な無意識とし、その更に下――海底のように他の山々と連なる部分を『集合的無意識』として描かれているようだ。
「確かに、神様のイメージや神話の物語……その他にも死後の世界や、世界の創造だって似たイメージが存在する事も少なくないわね」
友里もまた、考え込んだように、いくつもの伝承をうーんと思い浮かべる。
「でも、その集合的無意識と夢が関係あるの?」
――と、未来はエルフナインに問う。
仮に無意識の領域が繋がっていたとして、それと眠りながらにしてみる夢とはまた別物だろう。
それらを同一に考えるのは、それだけの理由があるのだろうか?
未来の問いにエルフナインは「そうですね……」と呟くと、次なる質問を投げ抱える。
「では『This Man』については?」
聞き覚えのない言葉に、一同は答えも無くエルフナインの顔を見ていた。
すると、エルフナインはコンソールを操作して、画面にある男の顔を表示させる。
扁平な顔立ちに、左右に大きな口。そして特徴的な太くーー眉間の辺りまで繋がりそうな眉と、頭髪の薄い額。
特徴的なその顔は、しかし誰にも見覚えのないものであった。
一同の様子を確かめると、エルフナインは小さく頷き、説明を続ける。
「二〇〇六年頃から観測されるようになったこの人物こそ『This Man』と呼ばれる存在です。彼は、世界各地の人々の夢の中に、共通した姿で現れると言われています」
エルフナインはコンソールを操作し、『その人物を夢の中で見た』というレポートを順に表示していく。
それらは、アメリカやドイツ、中国やインドなど、各地から様々に報告が集められているのが見て取れた。
「世界中で数千件にも及ぶ報告例がありますが、その報告はいずれも関連性を持たない人々です。人種・性別や年齢に関わらず、同じ人物を夢の中で目にしていると言われています」
「それってまるで……」
エルフナインは、未来の声にこくりと頷くと、同じように先ほどの、集合的無意識に関する様々な例や図解を表示させていく。
そして、それらを指して――
「まるで『元型』のようだと思いませんか?」
――と、一同に問いかける。
「夢も、集合的無意識も、同じように人の深層……いわば『魂』の領域で繋がっているのだとすれば……」
端末のキーが弾かれて、モニタ上の図面が書き換えられる。
それは、簡略化されてはいるものの、響を中心に、眠り続ける装者達が無意識を共有しているかのような図を示していた。
「この仮説が正しければ、響さん自身もまた、装者の皆さんと繋がったまま、今も夢の中に囚われているものと考えられます」
「響が……」
――そこに居る。
だとすれば、声を掛ければ届くだろうか?
触れて揺さぶれば、伝わるだろうか?
未来は、逸る気持ちをぐっと堪える。
おそらくはきっと、そんな単純な事ではないだろう。
そうでなければ、わざわざこんな研究室へと一同を招くはずがないのだ。
「だけど、ここにいない響さんをどうやって起こすって言うんだ? まさか、未来さん単身で旧風鳴邸へ……」
未来も、友里とウェルも抱いていた疑問を、藤尭は投げ掛ける。
まずは響を目覚めさせなければならないとして、一体どうすれば良いと言うのだろうか。
「一つだけ方法はあります。ですが、それが可能だとすると……」
エルフナインは、藤尭の問いに少しだけその表情を曇らせると、ちらりと未来の方を見る。
何か言い出しづらいような、未来にしか出来ないことがあるのだろう。
それは、危険を伴うことかもしれない。
あるいは、苦痛を伴うことかもしれない。
だとしても――
「教えて、エルフナインちゃん」
未来は、強い眼差しをエルフナインへと向ける。
そこに迷いなど、有りはしなかった。
「……わかりました」
ため息交じりに頷くと、エルフナインはその概要を一同へと伝える。
それはやはり、危険を伴う作戦に他ならなかった。
ブーシャースプの檻
無機質な部屋の中に、装者たち五人が寝かされている。
その誰もが、頭部に――ヘッドギアにも似た装置を取り付けられていた。
この部屋も、装置も、エルフナインにとってはまだ、記憶に新しいものだろう。
マリアと共にLiNKERの製法を探るため、その記憶の中へと飛び込んだあの部屋。そしてその装置を、こうしてまた使うことになろうとは。
ましてや今回は、仮想空間への複写ではない。
未来の精神そのものを、全員と繋げようと言うのだ。
その危険性は、以前の比較にならない事を、エルフナイン自身も良く分かっていた。
「大丈夫ですか、未来さん」
特殊ガラスの向こう側、エルフナインはスピーカー越しに声をかける。
その、押し殺したような声色は、不安からだろうか。
あるいは、自らに対する憤りを表に出さぬよう堪えているのだろうか。
「うん、大丈夫……だと、思う」
睡眠導入剤による影響か、どうにも抗えない睡魔を感じながら、途切れ途切れに、そのうえ呂律すらも怪しくなりながらも、なんとか未来は答える。
油断すればすぐにでも眠りについてしまいそうな、そんな意識の痺れに支配されているようだった。
「今回ボクは一緒に行けません……しかし、ここで状況はモニタリングしているので、何かあればすぐに停止させますから、安心してください」
力強く、安心させるようにエルフナインは未来へとそう伝える。
未来は、既に言葉を発する気力すらも無い様子で、力なく頷いてはそっと目を閉じる。
間もなく呼吸は安らかな寝息へと変わり、穏やかな表情で未来は眠りの世界へと落ちていった。
「皆さんを……お願いします」
既に眠りの世界へと旅立った未来へと、そう囁くように声を掛けると、エルフナインは機器を作動させていく。
幾つもの機器がそのランプを明滅させ、しずかな作動音が起こる。
それらはやがて安定化すると、装者たちの脳波をそこから得られる信号を、半ば複写させる形で未来の脳領域へと照射していった。
それに伴い、未来は苦痛に呻きを上げ、身をよじるようにして悶え始めていく。
逸らしたくなる視線を、それでもしっかりと未来へと向けて、エルフナインはその動静を見守った。
一つ間違えば、未来は――その人格や精神は、不可逆なまでに破壊されてしまうだろう。
そうならないよう、目を逸らさずに未来の状態を、モニタに表示される波形をしっかりと監視しなければならないのだ。
その危険域を、デッドラインを見極められるのは、エルフナインを於いて他は居ない。
藤尭と友里もまた、傷ましい眼差しで未来を見守る。
いたいけな少女に、少女たちに、背負わせることしか出来ない自らの無力さを噛みしめながら。
「ひとまずは小康状態……と言ったところですかね」
表には出さなかったまでも、ウェルもやはり内心に不安だったのだろうか。
容態の安定し始めた未来を見て、深い息を吐きながらエルフナインへと声を掛ける。
「はい。でもまだ安心はできません……ボクがしっかり見ていなければ」
額に汗を浮かべながらも、ウェルと同じように深くため息を吐きだすと、少しだけリラックスした様子でエルフナインはモニタリングを続ける。
既に未来の様子は落ち着いており、その脳波も、寝息も、寝顔も、平常時のそれとさほど変わらない様子であった。
今、彼女はどんな夢を見ているのだろうか。
しかしそれは、未来自身にしか分からないことだった。
――微睡。
心地よい静寂に包まれ、安らかな眠りの中で未来はゆっくりと沈んでいく。
――どこへ? 意識の底へ。
まるで、温かな羊水に包まれる赤子のように、どこまでも続く平穏の地平を、未来の精神は揺蕩う。
ふと、その静寂を破るように、どこからともなく声がした。
――声、誰の声?
その声は、未来の名を呼んでいる。
聞き覚えのある声。
いつもそばで聞いていたその声。
忘れることなど出来るはずのない、その声。
それは――
「未来ってば」
「えっ……ひ、響?」
その声に、思わず未来は顔をあげた。
目の前に、物珍しそうな顔をした響が、半ば覗き込むようにして未来の顔を見つめていた。
窓からは明るい陽射しが射し込み、柔らかな春風が窓際のカーテンをゆらゆらと揺らしている。
周囲の喧騒に気が付いて目をやると、制服を着た同級生たちが楽しそうに談笑していた。
ふと、口元に水気を感じて、思わず未来は袖で涎を拭う。
垂れてやしないかと視線を落とすと、そこには堅い机と、くしゃくしゃになったノートがあった。
どうやら未来は、いつのまにかうたた寝してしまったらしい。
覚めやらぬ意識で時計へと視線を移すと、時刻は既に午後四時を指していた。
「未来が居眠りなんて珍しいね。具合でも悪いの?」
響は心配そうな顔で、未来の前髪をかきあげるとそっと額を合わせた。
柔らかくも温かい感触と、思わず接近した響の顔に、未来は思わずどきりとしてしまう。
「ひゃッ、響!?」
「んー……熱は無さそうだけど」
うーん、と悩んだような顔で未来を見つめる。
響の言うように、居眠りをするのはいつだって未来ではなく響の役目である。
心配をするのも無理からぬことかもしれなかった。
それでも、思わぬ響の行動に、その眼差しに、未来は顔がかーっと熱くなるのを自分でも感じる。
自覚して、意識するほどに、その熱は高まっていくように感じられた。
「あ、でも顔赤いね。やっぱり熱でも――」
「無い! 無いから! 熱なんて!」
再び額を合わせようとする響を、未来は思わず両の手で押し退ける。
これ以上接近されようものなら、それこそ熱を出してしまいかねない。と、未来は何とか響を遠ざける。
「本当? でも、無理しちゃ駄目だよ? 具合が悪くなったら言ってね」
そんな未来の様子に、響はかえって心配そうな表情を浮かべ、その身体を気遣ってくれていた。
その優しさが嬉しくもあり、申し訳なくもあり、未来は笑顔を作って平静を装う。
「うん、ありがとう。でも本当に、大丈夫だから」
赤らんだ顔を、その熱っぽく火照った頬を冷ますように、両手で顔を覆うと、未来は何度か深呼吸を繰り返す。
やがて、ようやくに気持ちが鎮まった未来は、帰り支度のために鞄へ荷物を仕舞い込んだ。
響はというと、その間もずっと未来の方を見つめていた。
まだ体調を心配してくれているのだろうか。
ふと、帰り支度をするその手が止まる。
――あれ? わたし、これから帰るんだっけ?
居眠りしていたせいか、意識はともかく記憶がはっきりしなかった。
今日――居眠りをするまでの間、何をしていたのかも、どんな授業を受けていたのかも、うまく思い出せそうに無い。
はっきりしない記憶に違和感を憶え、ぼんやりと考える未来だったが、廊下から聞こえてくる騒がしい足音によって、それらの思案は寸断されることとなった。
「立花! 立花は居るか!」
「響ちゃん、ちょっと良いー?」
「立花さーん! お願いがあるんだけど!」
大勢の大きな声に、教室の入り口辺りにいた同級生の殆どが、思わずたじろいでいた。
未来もまた、同じようにして「何事?」といった顔でその様子を見ている。
よくよく見ると、やってきたのは学年もバラバラの、それも十人以上がドアのあたりでひしめいていた。
これは、ますますもってただ事ではないのでは? と狼狽える未来の横で、響は立ち上がって大きく手を振って合図をする。
「あ〜、ごめんね。今日はちょっと先約があって」
頭を掻きながら、苦笑いで響が詫びると、一同から落胆の声が上がる。
一体何を、誰と約束しているのだろう?
未来自身も心当たりが見つからず、不思議そうに響の横顔を見上げていた。
「すまない、ちょっと通してもらっても良いだろうか」
そこに現れたのは、他ならぬ翼であった。
しかし、どうにも普段と比べて雰囲気が違う。
剣道着を着たその姿は、まるで在学生のようである。
「あ、翼さん。ちょうどこれから向かおうと思ってたんですよ」
響はそうとだけ伝えると、未来の方へと振り返り、小さく舌をぺろっと出した。
「ごめんね、未来。そういう事だから、今日は先に帰ってて」
笑いながら謝ると、響は自分の鞄を持って翼の元へと駆けていった。
先ほどまで教室の入り口を埋め尽くしていた他の人々もまた、口々に「風鳴さんが先なら仕方ない」「いっつも風鳴ばかり……ずるいなぁ」などと言いながら、散り散りに去っていた。
未来は思わず、去りゆく響の背中に「『今日は』じゃなくて『今日も』でしょ」とこぼしては、自分でもその言葉が何を差しているのか分からず、声を掛けた事そのものに思わず首を傾げるのだった。
夕暮れの帰り道を未来は一人歩いていた。
合唱部の歌声や吹奏楽部の演奏が、傾いた陽に照らされた校舎に響いている。
春先の暖かな風は、それでもこの時間帯ともなれば、冷たく撫でるようなそれへと変わり、思わず未来は身震いをする。
グラウンドの近くまで来ると、その喧騒はいつの間にか運動部の掛け声へと変わっていた。
「元気だなぁ」と呟きながらも一人歩く未来は、ふと構内の隅にある弓道場に目をやった。
その目に、一人の小柄な少女が映る。
どうやら向うもこちらに気付いたらしく、その少女は小さな身体で大きく手を振ると、未来の名を呼んだ。
未来は小走りにその少女の元へ駆け寄ると、軽く挨拶を交える。
「よぉ、今日はあのバカと一緒じゃないんだな」
相変わらずの口の悪さで、クリスは未来へ笑いかけた。
その笑顔に、未来も「そ、今日も」と笑って返す。
弓道場は相変わらず静かで、不慣れながらも何となく落ち着く雰囲気があった。
あるいはそれは、他に部員がいないことも理由としてあるのかもしれない。
顧問の先生とクリスと、たった二人だけの弓道場は、今日も声一つ無くがらんとしている。
「あーあ、あたしが卒業したらこの弓道部も終わりか」
クリスは、不満気味に漏らした。
普段のクリスの素行からか、あるいは元々の弓道に対する人気からか、どうにも新たな部員が入ってこないらしい。
それを日々嘆きながらも、響を新入部員として迎え入れれば、あるいはその人を引き寄せる性格で弓道部も盛り上がるのではないか? と、考えて、クリスは事あるごとに響を勧誘するために教室にやってくるのだった。
「あのバカが入ってくれれば、つられてて入部するやつも増えそうなもんなんだけど……」
年上にも関わらず、小柄で可愛らしいこの先輩は、ぷぅ。と頬を膨らませては口を尖らせる。
しかし、何にしろ頼まれごとをされれば断れず、自分に予定があったとしても人助けを優先してしまうあの性格である。
一処に身を落ち着けるとも思えず、仮に入部したとしても部活よりも他を優先してしまうのではないだろうか。
容易に想像のつく響のイメージに、「多分、無理だと思うけど」と苦笑いすると、クリスもまた「だよなぁ」とため息をこぼした。
そうしてしばらくクリスと談笑した後、未来は再び帰路へとつく。
いつも通りの部屋。
いつも通りの生活。
いつも通りの――と、部屋のあちこちを指差しながら、確認するように呟く。
けれど、どこか、心の奥底に、何か言い知れぬ違和感が拭えないでいた。
それは、着替えている最中も、帰ってくる響のために料理を作っている間も変わらない。
今日、あの時。教室で居眠りから覚めて以来ずっと、その違和感が付きまとっている。
――いつも通りって、何だっけ? と首を傾げていると、ドアがガチャリと開いた。
「たっだいま〜!」
「おかえりなさい、響」
いろんな人の手伝いや人助けをしてきたであろう響は、それでも元気良く未来に「ただいま」を言う。
そうして手も洗わずに食卓を覗き込んでは、「おいしそう!」と、唐揚げの一つを摘もうとするのだった。
「こら、響! ちゃんと手を洗ってきなさい!」
――と、まるで母親の様にそれを叱りつけると、響は「しまった」といった表情で洗面所へと逃げていく。
そんな響を見て「まったく……」とため息を吐きつつも、こうして響と平穏な時間を送れることが嬉しくて、未来は思わず顔を綻ばせるのであった。
その晩も響は饒舌だった。
どうやら今日は、翼の手合わせに付き合っていたらしい。
もうすでに剣道部の部員では、翼の相手が務まるような部員が居らず、今は響を相手に研鑽を積んでいるそうだ。
響は元々運動神経がずば抜けて良いというわけでも無かったはずなのに、いつからそうだったんだろう? と未来はまたも首をかしげる。
けれども、答えなどはどうにも出てきそうにない。
他にも、帰り道に迷子の子供を保護してお母さんを探してあげたり、歩道橋の前で大きな荷物を抱えたおばあさんを手伝ったりしたのだと、響はよく喋った。
そのおかげで、未来は胸に湧いた違和感について思いを巡らす暇もなく、響の話に夢中になってしまうのである。
それでも、相変わらずに思えるその姿は、どこか懐かしいような、憧れていたような、そんな遠い感覚を思わせて、未来は時折押し黙ってしまう。
その度に響は未来を心配したように声をかけるが、言葉にできないその感覚に未来が答えあぐねていると、「変な未来」と言ってけらけら笑うのだった。
「そういえば、今日は訓練だけだったの?」
食事を終えて洗い物をしていた未来は、無意識にそうぽつりとこぼした。
直後「訓練って何だっけ?」と思い返す。
どうにも心当たりは無いそれは、けれど、いつもそうして響に訊ねていたような気がする。
――どうしてそんなことを聞いてしまったんだろう? と、内心に自問自答する未来の背中へ、響は――
「訓練って、なに?」
――と聞いた。
その言葉に、声色に、未来は思わず背筋が凍りつきそうになった。
響の声が、言葉が、背中へと突き立てられたように、冷たく刺さる。
さっきまでの明るさが微塵も感じられないそれは、静かな怒りを燃やしているかのように、低く、少しだけ震えて聞こえた。
はっとして振り向くと、響は表情も無く、人形のような顔で、未来をじっと見つめていた。
瞬き一つしないその姿は、まるで未来が知らない、響ではない別の誰かのように感じられて、未来は思わずたじろいだ。
自分自身よく分からない言葉を浮かべた。と、分かってはいる。
けれど、響は逆に、その言葉を――その意味を知っているのではないか? という疑念が湧く。
自分の知らない、思い出せない言葉の理由を、響は知っているのだろうか。
だったとすれば、何故それを自分は思い出せないのか。
何故響はそれを未来に教えようとしないどころか、思い出すことを許さないかのように振舞うのだろうか。
いくつもの疑念と不安が、未来の心の中にぢわりと湧き上がっていく。
「ご、ごめん。わたし今日はちょっとぼうっとしてるみたいで……くんれんって何だろうね、あはは」
未来はそれを押し殺すように、平静を装って笑って見せるが、思わず声が上ずってしまう。
響は、そんな未来の返答に「そう」とだけ呟くと、押し黙ってしまった。
ピリピリとした、張り詰めた空気が室内に充満して、未来は息苦しさすら憶える。
しかし、それ以上響は詮索しようとはしなかった。
結局、それまでに比べて口数が少なくなった響は、特に未来を責めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただただ静かに入浴や課題を済ませていく。
そうして二人は、同じベッドでいつものように眠りにつくのだった。
ただ一つ、互いに背を向けて眠りについたことを除いて。
狂気の闖入者
「未来さん……未来さん、聞こえますか? 未来さん!」
エルフナインの悲痛な声が響く。
しかし未来は眠り続けていた。
脳波の同調が続き、危険を察したエルフナインは、強制的にそれらを停止させた――が、既に手遅れだったのか、各種の機器を取り外され、覚醒を促すための投薬すらされているというのに、未来は一向に目を覚まそうとしなかった。
他の装者たちと同じく、眠りに取り込まれてしまったのだろうか。
「未来さん……どうすれば……」
未来を揺さぶり、困惑するエルフナインの横を、ふと誰かが横切った。
振り返ったその視界に、真っ白な白衣が翻る。
慌てふためくエルフナインとは対照的に、落ち着いた様子のウェルは、「やれやれ」とため息を吐くと、その機器を手に取って頭部に装着した。
「ウェル博士……何を?」
怪訝そうに訊ねるエルフナインに、ウェルは不敵な笑みを浮かべる。
「決まっているでしょう? 助けに行くんですよ、彼女たちを」
「しかし、危険です。未来さんも取り込まれてしまった今博士まで……」
思わぬウェルの提案に、エルフナインは慌てた様子で制止する――が、ウェルは一切聞き入れる様子もなく、その場に身体を横たえると、手元の端末を手早く操作していく。
「眠り姫を起こすのは王子様――即ち英雄であるこの僕を於いて他にないでしょうッ」
ウェルは、狂気じみた自信を漲らせ、スイッチに手をかけると、エルフナインが止めるのも聞かずにそれをオンにした。
直後――ウェルは脳を焼くような衝撃に叫び声を上げながら全身を痙攣させ、間もなくその意識を失った。
「ウェル博士ッ! ウェル博士―ッ!」
エルフナインの呼び声も虚しく、ウェルの意識は無意識の底へと落ちていく。
果たしてウェルの存在は、装者たちの夢を照らす光となるのか、あるいは毒となるのか。
それは未だ、誰にも分からない。
やがてウェルの意識は、夢の世界にて覚醒する。
それは薄暗い、実験室のような部屋の中であった。
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