それは、蜜月のような日常。
少女はその甘やかな夢に溺れ――そして縋る。
例えそれが、目覚めれば消えてしまう幻想でしか無いとしても。
睡蜜
「大体にして、あなたは余計な頼まれ事を抱えすぎなのよッ」
食堂のちょうど真ん中の、大きく開けたホールの中央で、マリア・カデンツァヴナ・イヴは演劇部部長の名に恥じぬ声量もって、立ち上がり様に響を叱責した。
そのあまりに大きな声に――オーバーなアクションに、食堂中の視線が一点へと集中し、しばしの静寂が辺りへ立ち込める。
「ま……まぁまぁ、落ち着くデスよ、マリア」
痛いくらいに集まる視線に耐えきれず、切歌はマリアを横で諫めようとするも、マリアはまだその憤りが治まり切らない様子だった。
「わたしたちも頼みに来た立場は同じ……」
調もまた、そう言ってマリアを諫める。
確かにその言葉通り、マリアも他の人々同様、響に頼み事に来た立場であった。
そう言われてしまうと、大きな事は言えないことを自覚し、然しものマリアとて、口を噤まざるを得ない。
「ぐうぅ……」と唸るようにして、歯噛みしながらもマリアは席に座るのだった。
気付けば辺りは相変わらずの、雑多とした喧騒を取り戻し、視線はいつしかあちこちに散っていた。
「いやぁ〜、面目無い。マリアさんのお手伝いもしたかったんですけど、どうしても先約が……」
響は、相変わらずの苦笑いでマリアへと詫びる。
どうやら響は、今日も今日とて余計な頼まれ事を沢山抱え込んでいるらしく、先ほどから何度も、他の人々の頼み事をそうして断っているのだった。
一体この少女は、日々どれだけの頼まれごとを抱え込めば気が済むのだろうか?
あるいは、逆に頼まれごとをされない方が気が気でないのかもしれない。
――まったく難儀な性格ね。と、マリアはかえって響の事が心配になってしまうのだった。
「まぁそう責めてやるな。我々とてそんな立花の人の良さに助けられている立場ではないか」
そんな二人を取り持つように、翼が間へと入ってくる。
マリアは「それを言われたら何も言えないじゃない」と年甲斐もなく頬を膨らませて、不満をこぼしていた。
またもや噴き出しそうなマリアの不満に、切歌と調は「まぁまぁ」と抑えようとするが、二度目の爆発はどうやら無いらしく、ようやくマリアはしおらしくなっていた。
「でも、そんなにいつもいつも抱え込んでちゃ、本当に何かあった時に身動き取れなくなっちゃうんじゃない?」
度の過ぎた響のお人好しに、心配ばかりしているのは未来とて同じである。
いくら人助けをするのが響の響らしい部分とはいえ、いつもそうやって、ボロボロのへとへとになって帰ってくるのは、やはり何度見ても辛いのだ。
ましてや、怪我をして帰ってきた日には、未来はもう気が気でない。
「へーきへーき、わたし身体は頑丈だから、へっちゃらだよ」
「へっちゃらじゃない。あなたこの前だってそうやって怪我をして帰ってきたじゃない」
先日もそうして、身体に幾つも傷を作ってきたことを思い出し、未来は響の――自らの危険を顧みない響の生き方に、ついつい辛らつに当たってしまう。
責めるつもりは無いとはいえ、もっと自分を大切にして欲しい。と、常日頃から未来は考えていた。
そんな思わぬ身内からの指摘に、然しもの響とて、言葉に詰まって苦笑いを浮かべるのだった。
「あ、そうだ翼。あなたにもお願いしたい事があったのよ」
「わたしに? マリアが?」
そんな二人の様子を呆れたように眺めながら、マリアはふと、思い出したように声をあげる。
唐突なマリアの言葉に、翼は目を白黒させて、聞き返した。
接点が無いとは言わないまでも、マリアに頼まれるような事はこれといって思いつかない。
そもそも、演劇部が剣道部に一体どのような頼みごとをするというのだろうか。
殺陣のための指南をするほど、学園の演劇部は本格的ではないはずである。
見当も付けられず悩んでいる翼の様子に、マリアは「ふふ」と鼻を鳴らすと、翼の目の前に分厚い手製の本を突きつけた。
「これは?」
そこには表題と思われる文字と、『演劇部』の文字が記されていた。
見るからに台本と分かるそれをみて、嫌な予感が翼の頭を過る。
「今度やる劇なんだけどね……是非とも翼にも出て欲しいのよ」
「なッ……わたしが!?」
的中した予感に――マリアの提案に、翼は思わずたじろいだ。
演劇と言える演劇など、これまで一度もした事がない。
生まれてこの方、剣道一筋に生きてきた翼にとって、演劇などというものは遥かに遠い世界だと言える。
考えただけで緊張からか顔が熱くなってくるのを翼は自覚した。
「この中に出てくる剣士の役が、翼にぴったりだと思うのよ」
そう言って肩を寄せるようにして、マリアは開いた台本の何箇所かを指し示すように、翼へと突き付ける。
一瞥しただけでも、『男装の美麗な剣士』という単語が何度も目に入り、思わず翼は台本を叩き合わせるように閉ざすと、マリアへと突き返した。
羞恥の炎に焼かれた翼は、今にも顔から火を噴き出しそうなほどである。
「どうしたのよ、ぴったりでしょ? きっと翼なら似合うわ」
マリアは、心から不思議そうにきょとんとして、台本を開き直して目を通すと、そのセリフと翼とを見比べるようにして、首を傾げた。
顔を赤らめてそっぽを向いた翼の袖を引っ張るようにして、台本の細かなシーンを一つ一つ説明するも、翼は「知らない」「興味ない」と頑なに突っぱねるのだった。
「やれやれ、始まったデスよ……」
「マリア、ずっと言ってたものね」
そんな二人を、切歌と調は呆れた様子で眺めていた。
台本が出来上がった頃――いや、正確にはその少し前から、マリアは二人にその役を演じるのは翼しかいないと何度も豪語していたのだった。
いつの間にか翼とマリアの後ろへ回りこんでいた響は、興味深そうにその台本を覗き込むと、ふんふんと頷きながら目を通していき、感嘆の声を漏らした。
「ぴったりじゃないですか翼さんッ!」
「なッ……立花までッ!」
目を輝かせて縋り付く響に、翼は思わぬ伏兵が。と驚いては、深いため息を吐く。
そんな翼へ追い討ちをかけるように、通りすがり様に騒ぎを聞きつけたクリスが興味深そうに割って入る。
「へぇ~、先輩演劇やるんすか?」
「ほう、面白そうじゃないか」
その更に後ろから割り込むように顔を覗かせたのは弦十郎であった。
体育教師の弦十郎と、社会科全般を受け持つ八紘。
そして理事長である風鳴 訃堂と、目の前にいる風鳴 翼という生徒。
その誰もが血縁者であることは、今や校内において周知の事実となっている。
それでも、文武両道眉目秀麗。抜きん出たその才覚ゆえに「血縁だからと翼を不当に扱っている」などと考える隙も与えないのだろう。
事実、翼は憧れを集めこそすれ、妬みや嫉みといったものを受ける事はそうそう無かった。
対して弦十郎はというと、豪快にして気さくな性格で生徒受けは悪くないものの、どうにも人の心といった部分には気が回らないらしく、こういった場面で翼の気持ちを慮ってくれることなどは期待するだけ無駄である。
「雪音……それに叔父様まで……」
翼は、神も仏も居ないのかといった表情で項垂れるも、マリアはそんな翼の落胆を気にもかけない様子で「ほらほらみんなも言ってるじゃない」と、追い詰めていくのだった。
「あ、先生もそう思います?」
突然の現れた弦十郎へと、響は嬉しそうに笑いかける。
普段から、どうにもこの二人は気が合うらしく、よく映画についての話をしたり、二人で『特訓』と称してトレーニングしている姿が散見されるものの、あまりに大っぴらなその健全っぷりに、男女仲としての噂は皆無であった。
ふと、未来はその『先生』という呼び方に違和感を憶える。
響が弦十郎の事を呼ぶのは、もっと別の呼び方ではなかったか? と記憶を手繰るように思い出そうとするが、どうにもはっきりとせず、一人「うーん」と思い悩むのだった。
「わたしも、翼ちゃんの演技見てみたいわァ」
――と、そこへ現れたのは。保健と科学担当の櫻井 了子その人である。
ニマニマと、いかにも好奇心を抑えきれぬ様子で加わってくる了子に、思わず翼は身震いする。
生徒たちは皆、了子のことを『ゴシップの女王』と呼ぶ。
街を歩けば、すれ違った男との怪しい噂が立ち、学園内でも男性教員との噂が絶えることは無い。
中には、黒服の男たちと密会している。だとか、黒塗りの高級車に乗り込む姿を見た。など、ドラマやアニメでも見過ぎたかのような噂が立つことすらある。
そんな了子に目を付けられたのだ。
もしもこのまま演劇に加わったりでもしようものなら、それは瞬く間に学園中に知らされることとなり、本番では好機の目に晒されることは間違いないだろう。
「櫻井教諭まで……とにかく、わたしは演劇なんてするつもりは無いからッ!」
翼は大きな声と大きな音を立てて席を立つと、大げさに怒りを露わにしながら一人、食堂を出ていく。
その後ろ姿に、どうやら相当に怒っていると思わせる事には成功したようで、残された一同は互いに顔を見合わせると、「やりすぎた」と反省の色を浮かべて苦笑いするのであった。
そんな彼女たちの姿を遠目に窺い、ため息を吐く男の姿があった。
白衣を纏い、化学準備室から食堂を見下ろすその男。
それは紛れもなくウェルであった。
「まったく……ミイラ取りがミイラになる。とはこの事ですね」
やれやれといった様子で大きくため息を吐くと、ウェルはおもむろに左腕の袖を捲りあげる。
男にしては随分とほっそりと、そして病弱な白さを浮かべているものの、綺麗な肌の腕がそこにある。
それは、とうの昔に失われたはずの生身の腕であった。
忌々し気にそれを一瞥すると、ウェルは固く目を閉じて左手の拳を握りしめる。
「これが夢であるというのなら……来いッ! ネフィリムッ!」
その言葉に呼応するかのように、左手がどす黒く染まり、膨張をしていく。
ビリビリと白衣の袖が破け、その腕の一切があらわになる。
ところどころに爪とも牙とも言えぬ白い硬質のものを覗かせて、黒ずんだ姿のそれは、紛れもないネフィリムの左腕であった。
「くくッ……ッはははははは!」
ウェルは高笑いをする。
嬉しそうに、ずり落ちた眼鏡を戻しながら、狂気に満ちた笑いを浮かべていた。
「この世界なら、これもあれも意のままだァッ!」
そんなウェルの叫びも、この世界の中では日常の風景なのだろうか。
奇声鳴り響く廊下においても、生徒たちは平然と歩いていた。
誰一人、そんなウェルの事を気にする様子も無い。
どこまで行っても、どんな世界においても、やはり狂人は狂人なのだろう。
「さてと、それじゃあまずは、彼女と接触と行きましょうか」
にやり。と、下卑た笑みで口元を歪め、ウェルは準備室を後にする。
向かう先は――そして『彼女』とは。
食事を終えて未来は一人、教室へ向かっていた。
響はまたしても頼まれごとの話し合いがあるらしく、「先に戻ってて」とだけ言うと、未来を送り出したのである。
未来はそうして一人歩きながらも、先日から続く『違和感』の正体について考えていた。
当たり前の日常。
平和な日常。
危険など何一つない、平穏そのものの世界。
けれど、何かが引っかかるのだ。
弦十郎に対する「先生」という響の呼び方。
そして、了子に対する「櫻井教諭」という翼の呼び方。
何かが掛け違っている。けれど、それが何なのか、依然としてはっきりはしない。
それでも未来は、言い知れぬ違和感に捕らわれているのだった。
携帯端末を取り出すと、どうやら予鈴まではまだ十分以上はあるらしく、安堵した面持ちでそれをポケットへとしまう。
ふと、廊下の向う側に佇む姿があることに未来は気が付いた。
それは、白衣を脱いで、細身の腕を露わにしたウェルであった。
いつも以上に異質なその様子に若干警戒しながらも、未来は廊下の反対側を、壁に沿うように歩く。
ウェルの顔が、にやにやと未来の姿を追い、思わず未来は全身が総毛立つのを感じた。
少女に対する性愛の気があるとは聞いたことがないが、それでも、舐め回すようなその視線に、身の危険すら感じて未来は足早に通り過ぎようとする。
「やあ、随分と甘い夢のようですね」
ウェルの発したその言葉に、未来は思わず一瞬足を止めた。
『甘い夢』とは何の事だろう? と、思案する。
それは、忘れてはいけない事なのではないだろうか?
この違和感の正体はそこにあるのではないか? と、考えを巡らせる。
答えは出ない――けれど、この人は何かを知っているのでは無いかと感じ、未来は振り向いた。
「夢……ですか?」
「そうとも、甘く蕩けて癖になりそうな……蜜のような夢だァ」
その顔をにやりと歪めて恍惚とした表情を浮かべるウェルに、思わず未来は身震いをしながらも、その様子を窺う。
やはり、ウェルは何かを知っているのだろう。
この狂人にも等しい化学教師は、何かを知っていて未来に声を掛けたのだ。
――だとすれば、知っているとすれば何を? と、ウェルの表情を窺う。が、その狂気の浮かんだ表情からは、何一つ読み取れはしなかった。
ふと、唐突に、その表情が――眼差しが、真剣そのものに変わる。
「けれど、君はそれで――甘い夢に溺れたままで良いんですか?」
その眼差しに、その問いに、射抜かれたようにはっとして、甘い夢、溺れたまま――わたしは今、夢に溺れているの? と、未来は自問自答する。
ウェルの言葉が、拭えない違和感が、脳の深いところをぢりぢりと焦がしているような感覚が襲う。
忘れてはならない何かを呼び起そうとしているように感じられる。
「わたしは――」
何かを掴みかけたその瞬間、大きな音で予鈴が鳴り響いた。
端末の時計を見ると、いつのまにか随分と時間が経っていたらしく、昼休憩は間も無く終わろうとしていた。
未来は、目が覚めたように顔を上げ、その音の止むのを待つと、ウェルへと向き直る。
「すみません、授業が始まってしまうので」
――と、ペコリと頭を下げると、未来は足早に教室へと駆けていった。
ウェルはその後姿にため息を吐くと――
「やれやれ。アプローチを変えるしかないようですね」
そう言って、一人愚痴を言うような声色でこぼした。
未来とウェル――この場において両者に差異があるとすれば、それは響との関係性だろう。
響の最もそばにいた彼女は、それ故に、容易くこの夢へと飲まれてしまったのかもしれない。
ふと気が付くと、落胆を見せるウェルの背後――最初に未来が歩いて来た食堂側の廊下に、一人の少女が立っていた。
その姿を視界に捉えたウェルは、目を見開いて全身に汗を噴出させる。
「あなた、何?」
それは他ならない、立花 響――その少女であった。
冷たく、突き刺すような敵意をウェルへと向ける。
ぢり。と、空気が焦げ付いたような緊張感を帯び、空気そのものが震えているかのように、怒りに満ちている。
ウェルは、額に湧き上がる冷や汗を誤魔化すように、わざとオーバーなアクションで肩をすくめた。
「おお怖い。あまりの怖さに縮み上がってしまいそうですよ」
そう強がって笑うウェルに対して、響は無言で歩み寄っていく。
ウェルの心臓が早鐘の様に鼓動を打つ。
一歩、また一歩と響が歩み寄るにつれて、ウェルの脳裏にはかつての忌々しい記憶が蘇ってきた。
それは、ネフィリムの心臓を引きちぎった暴走した響の姿であった。
それは、心臓を回収した際に目の前に現れた響の姿でもあった。
圧倒的な力を持ってウェルを――その野望の悉くまでもねじ伏せた響の姿が、フラッシュバックするようにウェルの脳裏へ浮かんでは消え、また浮かぶ。
「ごくり」と生唾を飲むウェルの横を、響はゆっくりと、通り過ぎて行った――が、ウェルは振り返ることも出来ず、ただただ視線だけでその姿を見送った。
「余計なこと、しないで」
「ひいッ」
通り過ぎ様に、冷たくそう投げ掛けられると、情けない声を上げて振り返りながら、ウェルは半ば腰を抜かすようにして地べたへと尻餅をついた。
膝ががくがくと笑って、立ち上がることはおろか、後退りさえも出来ず、みっともない姿をさらしている。
響は目を見開き立っていた。
そこには一切の感情が読めない、宛ら人形の用に冷たい目でウェルを見据える響が、立っていた。
ウェルはただただ、絶対的な強制力を伴って、心臓を鷲掴みにされたような恐怖に支配され、言葉も無く頭を大きく、何度も縦に振って頷くと、響はようやくゆっくりと振り返り、教室の方へと歩いていった。
「これは……思ったよりもまずいかもしれませんね」
もはや生きた心地のしないウェルは、振り絞るような声でそうとだけ呟くと、全身を引きずるように、震えながら準備室へと逃げ帰ることしか出来なかった。
未来が――そしてウェルが装者達の夢に取り込まれてから、既に八時間以上が経過していた。
ひとり休みなくモニタリングし続けていたエルフナインの顔には、疲労が色濃く浮かんでいる。
それでもなお、食い入るようにして、その変化の何一つを見逃さぬように、モニタを覗き込んでいたのだった。
「ひゃあッ!」
突然の冷たい感触に、思わずエルフナインは飛び上がるようにして振り返る。
誰のものとも分からない手がエルフナインの顔の辺りに伸び、そこにはカップアイスが乗せられていた。
どうやら首筋に当てられたのは、突然に差し出されたそれだったらしい。
「さて、そろそろ交代だぞ。エルフナイン」
声の主――藤尭は悪戯っぽい笑みを浮かべつつも、真剣な眼差しで、それをエルフナインに手渡すと、半ばその身体を割り込ませるようにして、端末の前を陣取った。
困惑するエルフナインに目もくれず、端末上に表示される数値やグラフのいくつもを、ぶつぶつと確かめるように視線を滑らせていく。
そうして、程なくして「よし」と小さく漏らすと、エルフナインの方を振り返った。
「ふ、藤尭さん。ボクはまだ大丈夫です。だから……」
少しだけ、疲れた目元を手で解しながらも、エルフナインは藤尭の服の裾を引っ張るように訴える。
けれどもやはり、充血したその目には疲労の色が濃い。
気を張り詰めたままずっと表示を追っていたのだから、それも無理からぬことだろう。
「そうは言っても根を詰めすぎだろ。この状況でエルフナインにまで倒れられちゃお手上げだからな」
あらかたの情報を理解し、藤尭はエルフナインをあしらうように、ひらひらと片手を振る。
エルフナインはそんな藤尭に「あうぅ……」と涙目になりながら、なおも縋りついた。
そんなエルフナインの背中へと、声を掛けたのは友里である。
「そうよ、たまには大人を頼りなさい」
その顔色にもやはり、疲労が浮かんでいる。
恐らく、弦十郎の様子を見た後で、そのままこちらの様子も見にきてくれたのだろう。
――大変なのはボクだけじゃないのに、ここで一人へばってしまうなんて。と、エルフナインは思わず自分を責めようとするが、それを察してか、藤尭は声を掛ける。
「その代わり、後でしっかり働いてもらうからな」
冗談めかした声で、優しく笑う藤尭にエルフナインは思わず目頭が熱くなるのを感じ、慌てて溢れそうになる涙を拭うと、元気よく「はい!」と返事をした。
その優しさを無駄にしないためにも、今自分はしっかりと休まなければならない。と、己に言い聞かせる。
「わかりました。じゃあ皆さんのことをよろしくお願いします」
そう深々と頭を下げると、エルフナインはカップアイスを手に部屋を後にした
藤尭は、片手を上げて挨拶を返すと、再び端末に視線を落とす。
「随分と素直になってきたわね、あの子」
「ずっと頑なだったからな……もう少し子供らしくあってもいいんじゃないかな」
二人は、互いに顔も合わせず笑い合うと、モニタリングデータへ、そして装者たちへと視線を移す。
未だ目覚める気配もなく眠る少女たちが――ウェルがそこに居た。
星彩
秋らしく色付き始めた夕暮れの空に、烏の鳴き声が響く。
屋上の床へと長く、夜の訪れを告げているかのように、響と未来――二人分の影を伸ばしている。
「あっ、あれじゃない?」
校舎の屋上で、若干息を切らしながら、遠い街並みへと未来は指差した。
その指の示す先に、一台の車が見える。
それは、器用に建物の間をすり抜けながら、向こうの方へと遠ざかっていく。
「本当だ! おーい、了子先生―ッ!」
響は大きな声を上げて両手を振る。
当然それは、気付かれる筈もなく、聞こえるはずもなく、止まる事なく車は街並みに溶け込んで、やがて見えなくなっていった。
「もう響ったら、そんな声を出しても聞こえるわけないじゃない」
呆れたように未来が声を掛けると、響は「そっか、そうだよね」と落ち込んだ声で項垂れる。
了子の退職は、生徒たち皆にとって青天の霹靂という言葉が相応しいほどに突然であった。
「家庭の事情で」とだけ説明した了子は、いつもながらの――年甲斐もなくはしゃいだような様子で皆に別れを告げると、一週間と待たずして、この街を後にしたのである。
誰もがその別れを惜しみ、『良いお姉さん』でもあった了子との別れに涙しては、学園の門の前で、代わる代わる抱き合うようにして、了子を見送った。
二人もまた、同じようにして了子に別れを告げると、校門前でその車を見送ったあとに大急ぎでここまで駆け上がってきたのだった。
「行っちゃったねぇ……」
響が、寂しそうに呟く。
その背中が、いつも以上に小さく見える。
「うん、行っちゃったね」
未来もまた、そう呟くと、響とは逆側の手すりの方へと歩いていく。
その視線は、遠い空の、高いところを見つめていた。
「未来、どうしたの?」
振り返った響は、そんな未来へと不安そうな声で訊ねる。
未来は答えず、ただただ、遠い空を見据えていた。
二人の間を、秋口の――冷たくなり始めた風が強く吹き抜けた頃、未来はようやくに振り返ると、ふっと目を細める
響の姿はすっかり夕日の逆光に照らされて、眩しくて――それでも未来には、響が不安そうな表情を浮かべているが分かる気がした。
「わたしもね、行かなくちゃ」
そう言いながら、未来は優しく微笑みかける。
そんな顔をしても、響が心配しないわけがないと知りつつも、それでも、少しでもその不安を和らげたくて、笑顔を作る。
「行くって、どこへ?」
不安そうに――それでいて、冷たく冴えたような声で響は問う。
未来がこの世界に対して違和感を抱く度。
そして、この世界に無かった出来事を口にする度に、響が発してきた、とても冷たい、問い詰めるような声。
「この夢の、外側……かな」
幾度となくウェルから投げかけられた『夢』という言葉。
この世界のあちこちに散らばる違和感が、いつしかこの世界が夢の中なのだと、未来に気付かせていた。
「なんで……?」
響の声に――その言葉に、未来は確信する。
響はずっと、この世界が夢なのだと知りながら、未来を引き留めていたのだ――と。
それは、決して嫌なことではなかった。
むしろ、この世界はどこまでも平和で、優しくて、出来ることならいつまでも、この甘い夢に溺れていたい――と、未来自身も、何度思ったかは分からない。
「わたしね、すごく幸せだったよ……みんなが居て、了子さんや弦十郎さんも、マリアさんや翼さん、クリスや切歌ちゃんに調ちゃんもすごく楽しそうで……何より、響がずっと笑っていてくれたから。だから、こんな夢も悪くないって思った」
未来は、胸の内を吐露していく。
人の命を奪う『ノイズ』や『特異災害』も無い世界。
そんな中で、居なくなってしまった人たちまで一緒に笑い合える。そんな平穏な日常を送れるのは、未来にとっても、やはり幸せな時間だった。
それは間違いなく、未来にとっての本心だったと言える。
「だったら、ずっとここに居れば良い……ここなら痛いことも、苦しいことも、怖い事も何も無いんだよ、未来」
相も変わらず逆光に隠されて、響の顔は――その表情は少しも見えなかった。
それでも、その急き立てるような言葉が、震える声が、今にも泣き出しそうな響の顔を想わせて、未来は思わず胸がつまりそうになる。
「うん、そうだね。そうできたらきっと、ずっと幸せ――なのかもしれない」
この先に続いていくであろう、その平穏な世界を想い、未来は目を閉じる。
響が――大切な人たちが、ずっと幸せそうに笑い合える平和な日々が続いていく。
争いもなく、危険な戦いも、死の危険すらもない夢の世界。
それはきっと、どこまでも甘く優しい、幸福なところに違いないだろう。
だけど――と、未来はそっと目を開く。
「だけど、それじゃ本当の響が救われない」
「わたし……が……?」
未来の思いがけない言葉に、その顔に浮かべた悲しみに、響は思わず言葉に詰まってしまう。
未来が居なくなった現実の世界で、もう二度と自分は救われるはずが無い。と、響は内心に、未来の言葉を否定する。
「わたしは、未来が居れば……そばでずっと笑ってくれればそれで幸せだよ? 例えそれが夢だって……偽りの世界だって、それでもわたしは――」
堰を切ったようにあふれ出す涙に、言葉が詰まり、響は喘ぐように、振り絞るように言葉を続ける。
続けていくほどに、ずっと心の奥底へと押し込んでいた「未来はもう死んでしまった」という事実を思い出し、胸が張り裂けそうで、苦しくて、響は嗚咽を漏らした。
涙が止めどなく溢れ、頰を濡らしては、足元へいくつもの染みを作っていく。
「わたしは、未来ともう二度と会えないなんて嫌なんだッ!」
その悲しみを、胸の痛みを振り切るように、響は声を――その飾り立てるものの何も無い、心の底からの想いを、未来へとぶつけるように吐き出した。
未来もまた、そんな響の想いに打たれ、泣き出してしまいそうになるのを必死に堪えていた。
嬉しくて、嬉しくて。
自分をそうまで大切に想ってくれることが、ただただ嬉しくて、胸が詰まる。
それでも――だからこそ、未来は行かなければならない。と、決意を固くする。
「ありがとう。そんなにも大切に想ってくれて」
「未来……」
その言葉を口にした時、堪えきれなくなった涙が、未来の頬を伝う。
未来は、それは悲しい涙なんかじゃなく、嬉しさから溢れたものだと伝えたくて、精一杯の笑顔を浮かべて、響を見つめる。
夕日はすでに雲の向うに隠れてしまったものの、すっかり薄暗くなった景色の中で、やはり響の顔は見えなかった。
それでも、見えなくても分かる。
響がどんな顔をしているか――ずっと、ずっと一緒に歩んで来た未来だからこそ、手に取るように分かる。
きっと今、響は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、縋るような眼差しで未来を見ているのだろう。
後ろ髪を引かれるような想いで、踏み出そうとした足が止まる。
――けれど、行かなければ。そう自分に言い聞かせ、未来はその想いを口にしていく。
「でもね、違うよ響」
「未来……?」
掠れてしまいそうな声を、振り絞るように。
ちゃんと最後まで、胸の想いを伝えるために、震える声を必死に振り絞るようにして、未来は言葉を続ける。
「わたしは、もう一度――本当の響と会うために行くんだ」
未来は、そう言い切ると、胸元から紅く輝くペンダントを取り出した。
かつて、同じように響に向けたその力を、止めるためでは無く、救うための力に変えて、胸に浮かんだそれをなぞるように、聖詠を紡いでいく。
「Rei shen shou jing rei zizzl……」
夕暮れに染まった薄暗い世界の中、太陽よりも眩い輝きが、その身を包んでいく。
無垢にして清廉なその輝きを衣のように身に纏い、響へと向かい合う。
ふと、空気がぢりぢりと、怒気を帯びたような緊張感を孕んでいた。
それは、他ならぬ響自身の発するものであった。
響は言葉もなく、同じように紅く輝くペンダントを取り出すと、その胸に浮かぶ聖詠を荒々しく紡いでいく。
「Balwisyall Nescell gungnir tron……」
力強い――夕陽にも似た輝きと、エネルギーの奔流が生まれ、未来の肌をびりびりと打つ。
それらはやがて黒いオーラとなり、響の身体を包み込んで行く。
未来にとっては初めて目にするそれを――黒に染まったガングニールを身に纏い、立ちはだかるように響は構えを取る。
「駄目だッ! 未来は何処にも行かせないッ! 力づくでも行かせるもんかッ!」
その怒号に呼応するかのように、辺り一面が――世界そのものが歪んだように、大地を、建物を波打たせる。
校舎の外壁に、屋上の床にいくつもの大きなひび割れを刻み、地鳴りのような音を響かせて行く。
それは宛ら、響の意思によって形作られていた世界が崩壊していくかのように、激しく揺らいでいた。
二人はしばらくの間、ただ向き合い、見つめ合っていた。
そして、どちらとも無くその一歩を踏み込むと、互いにその名を叫び合うようにして飛び込んで行く。
「未来―ッ!」
「響―ッ!」
――刹那、二人の姿が交錯する。
響の渾身の拳は――それでも接触の瞬間に、ほんの僅かな躊躇を見せて、未来は咄嗟にそれを払いのける。
未来は、バランスを崩した響へと、そのアームドギアを横薙ぎに打ち付けるが、響もまた、咄嗟に後ろへと飛び退るようにして直撃を免れていた。
その、着地しようとする足元へと追い討ちをかけるように、浮遊する鏡よりいくつもの光線が放たれて行く。
「くッ!」
何度も空中を蹴るようにして、それらの直撃をかわしながら、響は距離を詰める隙を窺うが、未来もまた、そんな隙を与えまいと、光線を乱射する。
しかし、一瞬の隙をついて懐へと入り込んだ響は、その拳を――そして蹴りを、何度も未来へと放って行く。
それらを未来は、既のところで防ぎ、いなし、躱していく。
いつだって見ているだけだった。
見ていることしか出来なかった。
フロンティアの浮上する前、直接同じようにして戦って以来、未来は以前のように、ただ戦う響を見守るだけだった。
それでも――だからこそ、響の動きが、これからどんな動きをするのか、何となく感じる事が出来た。
あるいはそれもまた、神獣鏡の助けによるものだったのかもしれない。
本気で未来へ拳を打ち込めずにいる、響の甘さのおかげかもしれない。
二人がぶつかり合っている最中、校舎から飛び出す幾人かの姿があった。
制服を着込んだ少女たちと、白衣の男がそこに居た。
「おい、何だよあれ……」
クリスは驚いて声を上げ、屋上で戦う二人の姿を目で追う。
「まさか……小日向と、もう一人は立花かッ!?」
翼もまた、その驚きを隠せずにいた。
響だけならともかく、大人しい未来が争うなどとは信じられず、思わず自らの目を疑っていた。
「この地震のようなものも、あの子たちが起こしているの!?」
二人の姿を確認した後、マリアは周囲の惨状へと視線を走らせる。
校舎はすでに崩壊寸前と思えるほどにひび割れ、歪み、軋んだ音を立てている。
「それにあの格好……」
頭の奥がぢりぢりと、何かを思い出そうとしているのか、調は痛む頭を抑えるようにしながら二人を見据える。
「何だか忘れてはいけない事を忘れてる気がするデス……」
切歌も同じように頭を抑えながら呻いていた。
しかし、その理由は見当がつかなかった。
「始まったのですよ、この夢の終わりが。そして、覚醒の時が」
それは普段の――自信に満ちたウェルの声ではなく、低く、沈んだような声色であった。
今はまだ、未来が響に敗れる可能性は充分に残っている。
未だこの可能性は、成功するかどうかも分からない、むしろ戦い慣れていない未来の事を考えれば分の悪い賭けと言えるのだ。
「はぁッ!」
「やぁッ!」
互いに直撃を逃れ、攻撃を放つ。
何度も間合いを取っては、またぶつかっていく。
拳も、閃光も、蹴りも、無数の光線も――互いに幾度となく交差させながらも、未だ決定打へと至ってはいなかった。
それでも、肉弾戦に慣れていないうえに、性能の劣る神獣鏡を纏う未来は、ウェルの危惧を体現するかのように、次第に息が上がっていく。
「未来……お願いだから、ずっとここに居てよ。わたしはそれだけで――」
未来の様子に気付いた響は、少し間合いを取ると、戻ってきてほしい一心で、未来へとそう訴る。
しかし、それでも未来は、首を縦には振らなかった。
言葉もなく、息を切らしながらも未来は、なおも響に向かってアームドギアを構える。
それを目にした響は、泣き出しそうな顔で、未来の抵抗に応えるかのように、拳を構える。
「わたしは救われなくたって良い、未来がいてくれればそれで良いんだ。だから――」
「わたしは、苦しんでる響も、悲しんでる響も、ちゃんと全部救いたい。だから――」
神獣鏡のアームドギアが、鈍い光を放っていく。
響の拳が、ぎりぎりと握られ、その硬度を増していく。
「行かせないッ!」
「行くんだッ!」
咆哮と共に二人は、そのアームドギアに――その拳に、想いの全てを乗せて、跳躍するように飛び込んだ。
未来は掴みかかる響の手を既のところで躱し、すれ違い様にその背中へとアームドギアを叩きつける。
辛うじて、僅かに前方へと跳躍する事で直撃を防いだ響だったが、それでも数メートルを弾かれて、屋上の反対側の柵へと叩きつけられた。
ぐしゃりと鉄柵がひしゃげ、土台のコンクリートが大きなひび割れを見せながらも、響はなんとか体勢を立て直し、未来の方へと向き直る。と、その目を大きく見開いた。
既に未来は屋上ではなく、その飛行機能を以って、空高くへと飛翔していた。
真っ直ぐと向かうその先――空の高みに、宛らステンドグラスのような、極彩色の反射面が、水面のように広がっている。
「今は……今は響と戦うよりもッ!」
全ての力を飛行機能へと回して未来は空を駆け抜ける。
響とぶつかり合う前に見据えていたそれこそが、この世界の出口に違いないと信じて。
「そうだッ! そのまま行ってしまえッ! それこそが意識の『境界面』……この世界に装者達を閉じ込めている蓋ですッ! そんなものはぶち壊してしまえば良いッ!」
遥かな下方から、未来の予想を肯定するかのようにウェルの声が響く。
未来は、その言葉に振り返らずに頷くと、一直線に『境界面』へと飛び込んでいく。
「あれさえ壊せばッ」
「駄目だァーッ!」
地を蹴り、響もまた跳躍する。
ギアが軋むほどにバーニアを噴かせた加速は、一時的に未来の上昇速度を上回り、見る間にその距離を詰めていく――が、それでもやがて勢いを失い、その身体は急激に失速していく。
「くそッ……止まるなッ! 動けぇぇぇッ!」
その叫びに呼応するかのように、響の全身が見る間に黒に染まっていく。
衝動に塗りつぶされ、半ば暴走状態に陥った響は、その背中から、無数の『牙』を放つ。
それらは、見る間に未来へと一気に追い縋り、間もなく『境界面』へ達しようとしていた未来の身体を捕らえ、締め上げるように巻き付いていく。
「うぐッ……あぁッ!」
それらは、未来の四肢を、その首元を、全身を、ぎりぎりと締め上げると同時に、響の身体を引き上げるようにして、その距離を縮めていく。
手を伸ばせば届きそうなそこに『境界面』を捉えながらも、未来の身体はその浮力を失っていった。
呼吸すらままならず、未来は思わず咳き込み、喘ぐようにしながらも、なんとかその『牙』へと手をかける――が、それはどこまでも硬く未来の首へと絡みつき、微動だにしなかった。
やがて、神獣鏡はその飛行能力の一切を失い、未来と響の身体はもつれ合うようにして、螺旋を描いて落下していく。
その最中、薄れかかった意識の狭間で、未来の苦痛に満ちたその表情に気が付くと、響は己の衝動に抗うようにして、涙をこぼした。
「ち……がう……わたしがしたいのは、こんな……ッ」
半ば朦朧とした意識の中、その言葉に――その涙に未来は、その力を振り絞る
「こんな事じゃ、無いんだッ!」
「ひび……きッ」
そう叫んだのと同時に、響による拘束が緩み、未来は呼吸を取り戻すと、地表面すれすれまで落下していたその身を、急上昇へと転じさせた。
響の身体を強く抱きしめたまま、未来は空へと駆けあがっていく。
「これ以上……響に悲しい涙を流させるもんかッ!」
その叫びに――想いに応えるようにして、神獣鏡からあふれ出した輝きが二人を包んでいく。
黒に染まった響を――ガングニールを、白く染め上げていく。
やがて二人の姿は、宛ら一つの流れ星となって、一直線に――既に闇に染まりつつある世界の空を切り裂いた。
「わたしはッ……わたしが響を助けるんだッ!」
一筋の流星が、空の『境界面』を貫く。
それは、万華鏡のように辺りに煌めきを散らしていく。
空はフィルムのネガを反転させたかのように幾度となく明滅し、やがて全てがやわらかな光へと変わっていく。
響は光の中で立ち尽くし、声を上げて泣いていた。
それは、未来を失う悲しみか。
それともあるいは、未来を傷つけたことで、自分を責めているのだろうか。
未来は何も言わずに響を抱きしめる。
「必ず、会いに行くから」
そう囁き、幼子をあやすようにそっと髪を――その背を撫でては、優しく響に微笑みかけた。
「だから……生きるの――諦めないで」
「未来……」
響の瞳からいくつもの、大粒の涙がこぼれていく。
響は、ただただ泣きながら、何度も頷くと、途切れ途切れな声で「うん、約束する」と微笑み返した。
やがて柔らかなその光は二人をも飲み込み、溶け合うようにして白んでいった。
しばらくの後、視界の先に見慣れない人工物の壁のようなものが映る。
しかしそれは壁ではなく、どうやら天井らしかった。
「ずっと、夢を見てた気がする……」
未来はそれを眺めながらぽつりとこぼした。
その、誰へともなくこぼしたつぶやきに答えるものがあった。
「全くですよ……どうなることかとヒヤヒヤしたじゃありませんか」
「ひッ!?」
ぼんやりとした意識は、しかし、足元から聞こえたウェルの声により一気に覚醒する。
べッドからずり落ちそうなほどに驚き後退っていた未来の視界に、翼が――マリアにクリス、そして切歌と調が起き上がってくる姿が映る。
「皆さんッ! 目が覚めたんですねッ!」
ガラス越しに、エルフナインの笑顔が目に入る。
その後ろでは、藤尭と友里も安堵した様子でこちらの様子を伺っていた。
クリス達はまだ、事態を把握できないまま、それぞれにあくびをしたり伸びをしたりと、随分と良く休んだ様子である。
ふと未来は、その手に――その身体に未だ残された、響の温もりを思い出す。
それらはまるで、つい今し方までそこにあったかのような、確かな現実味を帯びて感じられた。
未来はそれを懐かしむように、そっと自らの身体を抱く。
「待ってて、響……必ず会いにいくから」
遠く離れた響を想い、未来はその胸に硬く誓う。
かつて響が自分を連れ戻してくれたように、今度は自分が響を救い出すために。
そして何より、彼女の――本当の笑顔を取り戻すために。
Reboot
――時を同じくして、旧風鳴邸の自室で、響もまた目を覚ましていた。
いつの間にか、全身を覆っていた殻は跡形も無く消え、胸の奥をぢりぢりと焦がした憎悪もまた、まるで嘘だったかのように、心が凪いでいる。
その理由は、響自身もよく分かっていた。
「わたし……諦めないよ、未来」
未来を想い、響は拳を握る。
例えその約束をしたのが、夢の中の幻でしかないとしても、それは響にとって、確かな未来との約束だった。
それを反故になど出来るはずも無い。
ふと、廊下の向こうから足音が近付きつつあった。
「ようやく目覚めたか……」
偶然か、はたまた様子を確認してやってきたのか。
現れたのは他でも無い、風鳴 訃堂であった。
「最早一刻の猶予も無い。即時起動に努めよ」
そうとだけ言い、訃堂は響を睨め付ける
その目に、表情に、焦燥の色が濃く浮かんで見えるのは気のせいではないのだろう。
響たちが置かれている状況を考えれば、眠っていた分の遅れは、看過できるようなものでは無かったはずである。
響はふと、胸の内の――訃堂に対する憤りが、いつの間にか失われている事を自覚した。
この男もまた、やり方は違えど目的は同じなのだと、今ではわかる気がしている。
「わかっています……守りたいのはわたしだって同じ、だから――」
少女は今ふたたび、拳を握る。
大切な親友のいた世界を守るため。
彼女が幸せだと言った日常を守るため。
そして、そのための力を手に入れるため。
それこそが『正義』と信じて。
読了ありがとうございました。
ちょっとした事でも、感想やコメントを頂けると、とても嬉しいです。
返信不要な方は、お手数ですが「返信不要」とお願いします。