あれは小学校高学年くらいの時だったかな。いや、くらいまで。
私は、それまでの私は、当たり前のものをまだ求めていた。当たり前の弱さには、見合った助けを欲していた。
でも、私がそうするのは、それは人を傷つけることに他ならなかった。
私はちょっとだけ大きい。その分力も強い。でも、それだけで、私が当たり前のことをして周りを壊すのには十分だった。
自分の身体的特徴を理由に虐められたら反撃する。それでもだめなら涙という名の発煙筒で助けを求める。痛みを感じる前に身を守る、痛みを感じたら弱さを吐露する。全部、当たり前のこと。
助けを呼ぶとは、身を守るとは、即ち足りない分の「優しさ」を自身の外側に求めること。
でも、私が「優しさ」を求めることは、破壊にしか繋がらないようで。他の人にとって私の助けを求める声や身を守るための行動は、不条理な力の暴走に映るようで。
私の体格をからかった男子生徒。とっさに私が振り払った彼は、激しく横転して捻挫してしまった。私はただ、嫌なことはやめてと振り払っただけ。でも、原因を生んだ体格から繰り出される一撃は、子どものじゃれあいには強すぎたようで。
当然、先に、故意に口で心を傷つけた者より、後から、不意に肉体を傷つけた方が罪は重かった。
周囲が哀れみの眼差しを向けるのは足をくじいた男子の方で、きらりに向けられたのは恐れの眼差し。問題を処理した先生は後からきらりだけを職員室に呼び出し、「君は体格も良くて力も強いから、他の子よりいっそう気をつけなきゃいけない」と言った。
ならば助けを呼ぶことに専念すればいいの?
それもダメ。義務教育を受けているとは思えない身長の女性が、泣き叫ぶ光景は、肩をすぼめて先生に守ってという光景は、あまりにも異様だった。周囲の空気を読むなら、教室の和を破壊しないなら、自らそんな異物になることが許されるはずもないわけで。
そう、私が「優しさを求める」ことは、弱さを見せることは、人の和を破壊すること。私はが当たり前の自己防衛をすることは、私自身をも壊してしまう。
なればこそ、私はそれを回避できる存在になるしかなかった。
怖がられるくらいなら、変に思われた方が良い。
調和を破壊するなら、自身を破壊した方が良い。
一般的に言う優しさを求めることが、弱さを吐露することが許されないなら、せめて一般から離れて自分の中にそれを封じよう。
私は忘れるしかない。優しさを求めることを。
私は与えるだけに徹せねばならない、優しさを。自分の弱さが壊したものと同じ分だけ。
私が求めるべき優しさのリソースを拡散させたもの。いつしか、私が「ハピハピ」と呼んでいたのは、それだった。