少し湿り気を帯び始めた初夏の風が足元を通り抜ける。
半袖にするにはまだ肌寒い五月の始め、世間はゴールデンウィークで賑わっている中、誰もいないカフェテリアで、一人の少女が穏やかな笑みを浮かべて座っていた。
オープンテラスから
集合時間までまだ少しある。少女はその笑みをたたえたまま、ちょうどあの日も二人を待ってたんだっけ、と頬杖をついて半年ほど前のことに思いを馳せていた。
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「善子ちゃんはともかく、花丸ちゃんまでドタキャンだなんて……」
すっかり寒くなってしまった日曜の沼津を、
朝の天気予報で一段と冷え込むと聞き、白いセーターの上にはベージュのダッフルコートを羽織った。首にはタータンチェックのマフラー。褐色のスカートの中は黒タイツ。やっぱりデニール値が高いと幾分か温かい。沼津へお出かけだったということもあり、頭のツーサイドアップは黒いリボンで結っていた。自分なりに少しはオシャレしてきたのだが、ふいになってしまって残念でならない。
廃校は決まってしまったものの、ラブライブで優勝して浦の星女学院の名を後世に残すという新たな目標を掲げた
「ルビィちゃんごめん! お寺の用事で今日は出られそうにない……」
「
との連絡が、つい先程入ったところだった。
「どうしよう……お買い物、してもいいんだけど、ルビィ一人で行っても悩むだけで何も買えなさそうだし……」
自身のイメージカラーでもあるピンク色のカバーを付けたスマートフォンを見つめながら、何を探すというわけでもなくただ歩く。駅前を過ぎ、商店街に入るがそれも過ぎ、きっと家の中でてんやわんやしているであろう善子の家も通り過ぎ、次第に周りに映る景色から販売店は減っていた。
「あ、こんなとこまで来ちゃった。何か買うにしても、帰るにしても、駅の方まで戻らなきゃ」
港の方まで歩いてきてしまってから、もう三十分も歩いていることに気がついた。この辺から
「って」
直前までスマートフォンを覗いていたからか、はたまたよく周囲も確認せず方向転換をしたからか、すぐ後ろを歩いていた五人グループの学生の一人とぶつかってしまった。短髪、長髪、長身、小柄、それぞれ違った特徴を持つ五人ではあったが、全員がブレザーの制服を着崩しており、そしてこぞってガラの悪そうな学生だった。
「あ、ご、ごめんなさ」
「ってーな。ちゃんと周り見て歩けよガキ」
「あーあー、怒らせちゃった。お嬢ちゃん、謝っといたほうが良いよ~」
ルビィが謝ろうとするも、間髪入れずに
「あの、その……ご、ごめ」
「ん~聞こえないなぁ~? もっとおっきな声ではっきり言わなきゃ」
男たちはルビィをからかって面白がっているのか、もはや聞く耳を持たない、そんな素振りだ。ルビィは思う。花丸ちゃんと善子ちゃんにはドタキャンされて、三十分も無駄に歩いて、怖い男の人に絡まれて、あぁ、なんてついてない日なんだ、と。
「あれ、この子結構可愛くない? ちょっと子供っぽいけど俺的にはありかな」
「はは、お前ロリコンかよ!」
「あ、えっと、ぅ……」
男子学生たちの勢いはとどまるところを知らない。どんどんヒートアップしていった。男性恐怖症のルビィにとって、見知らぬ男に――しかも五人も――囲まれるのは苦痛で仕方なかった。早く解放してくれ、涙を目にためながらじっとこらえているその時だった。一人の学生が、ルビィの顔を覗き込んでつぶやく。
「おい、この子、今流行りのスクールアイドルの子じゃね? 何つったっけ、あくあ?」
「えまじで?」
幸か不幸か、Aqoursの名はこんなところにまで知れていたようで、この一言を皮切りに、男達は代わる代わるルビィの顔を覗き込む。ついにはスマートフォンでAqoursについて調べ始め、女子校出身だと知るやいなや、お祭りでもあったかのようにはしゃぎ始めた。
「こいつ女子校じゃん! 仲良くなって可愛い女の子紹介してもらおうぜ!」
「いいねいいね、どこ行く? とりあえずカラオケ?」
「い、いや……やめてください……離して…!」
男たちは矢継ぎ早に誘いの言葉をかけ、嫌がるルビィを無理やり自分たちの輪の中心に入れようとする。ルビィは必死に抵抗するのだが、男達がそれを意に介す様子はない。いくら部活でトレーニングしているとは言え、ルビィは女の子なのだ。腕力で勝つのはやはり難しい。それでも、せめて口だけでもと拒絶の意思を見せていた。
「せっかく誘ってるのにノリ悪ーな。来いっつってんだよ」
「きゃっ!?」
しかし、男達はそれを良しとは、当然思わない。苛つき始めたのかルビィの扱いも段々と
「おい、こんな小さな子いじめて何が楽しいんだよ」
通りかかった学生だろうか。ルビィを囲んでいた男達と制服を同じにして、長身で茶色い長髪の男が、ルビィの体を受け止めていた。
「ちっクソ
「あーなんかもうどうでもよくなってきた。帰るか」
ルビィを囲んでいた男たちは、
「おいチビ、なんでこんなとこ
ガラの悪い五人組が立ち去ったことを確認すると、
「あ、あ……」
対するルビィは、恐ろしさのあまり何も言えないでいた。口からは言葉にならない音が漏れ出るばかり。青年は呆れた様子でこう続けた。
「あー、もういい。これに懲りたらこんなとこ来るんじゃねーぞ。わかったらさっさと帰れよ」
青年は、そう言い終えるとルビィの肩を、ぽん、と一度叩き、あの五人組が向かったのと同じ方向へ歩いていった。
怖かった。ルビィの頭の中はそれしかなかった。恐怖から解放された安心感からか、歩道の真ん中でしばらく座り込む。幸いにも、ルビィがへたり込んでいる間にこの道を通る人は誰もいなかった。
どれくらい時間が経っただろうか――ルビィには永遠にも感じられていたが――、放心状態だった心に、ようやく周囲の様子を気にする余裕が生まれ始めた。慌てて立ち上がり、服についた砂や塵を払いながらあたりの様子を伺う。
ルビィは、よかった、誰もいない……こんなとこ見られたら恥ずかしくって死んじゃうよ……とひとりごちた。口に出してしまう辺り、まだ本調子ではないようだ。もっとも、本調子でも口に出してしまいそうではあるが。
ふと、足元に何か小さな本のようなものが落ちていることに気がつく。本は
◆
「これ……どうしよう……」
無事に家までたどり着いたルビィは、すぐさま自分の部屋まで戻った。顔色までは元に戻らなかったのか、帰ってそうそうに姉である
ベッドにうつ伏せになったルビィは、生徒手帳だった小さな本を手の中でくるくると弄ぶ。中身は一応、(当然?)確認した。
手帳の持ち主は
もちろん、渡しに行くべき。ルビィもそれくらいの常識はわきまえているつもりだ。が、どうしても、あの恐ろしい体験を思い出してしまう。五人の男に囲まれる。無理やり連れて行かれそうになる。きつく握られた左手首が、まだ痺れているような気がした。
調べてみた所、
あの辺りまで行くのはそこまで苦ではないのだが、ルビィが気にしているのは、その
「でも、返さなきゃ。きっと困ってるだろうし」
ぱたぱたと動かしていた足を止め、もう一度手帳を開く。年度の初めに撮ったであろう青年のバストアップの写真が視界に飛び込んできた。
一重まぶたの鋭い目つき。長身であることが実物の威圧感を更に増長させていた。写真撮影のために気合を入れていたのか、髪は先程会ったときよりもきれいに染め上げていて、セットもどこかよそ行きの様相をしている。制服については、着崩してはいるものの、あの五人組よりはいくらか整えた様子だった。
「
写真の横に、お世辞にも綺麗とは言い難い字で書かれた名前を指でなぞる。珍しい名字だった。
高校三年生かぁ。先輩だったんだ。お姉ちゃんと同い年だ。なんてことを考えながら彼のことを思い出そうとした。
と、ここでルビィは助けてくれた恩人なのに記憶が曖昧なことを思い出す。写真を見ても、多分、こんな感じの人だった、と思う……程度にしか覚えていなかった。あの時はパニックになってはいたが、まさかここまで覚えていないとは。そういえば、ろくにお礼も言っていないような気がする。いや、しっかり顔も覚えてないほどだ、言っているわけがない。
「ルビィ、起きてます? お夕飯の支度ができたみたいですわ。参りますわよ」
まだ結論も出ないうちに夕飯の時間になってしまったようで、部屋の外からダイヤの呼び声が聞こえる。
「今行くよ、お姉ちゃん」
ルビィは手帳をサイドテーブルの上に置き、部屋の外で待つダイヤの元へと向かうのであった。