「こいつ、最近佐蔵と一緒にいるガキじゃね?」
ルビィがもたれかかっていた転落防止用のガードパイプは、当然川へ続く堤防に落ちないように設置してある。つまり道路と堤防の際にあるということだ。そしてこの喫茶店の目の前の道路は沼津駅へと続いている。
「あ、あ……」
つまり、狩野川高等学校へと続いていると言っても過言ではなかった。
「佐蔵に気に入られてるからって調子こいてんじゃねーぞ」
いつか見た、五人組だった。
「女とかカンケーねーから」
「痛い…! や、やめて下さい…!」
やにわに髪の毛を引っ張られ、近くの擁壁まで連れて行かれる。流石に今回は、ダメかもしれない。そう、思うしかなかった。五人の学生は、いつぞやと変わらぬ姿でこちらを睨みつけている。今までと似てはいる状況だったが、相手は既にすごく怒っている。助け舟を出してくれる友人もいない。周りの人には気づかれないだろう。ああ、私はなんてバカなんだ。言われた通り喫茶店で待っていればよかった。
「お前、佐蔵のなんなの?」
「ぁ……ぅ……」
一人がずい、とルビィに詰め寄る。恐怖のあまり言葉にならない。
「喋れねーのかよ!!」
「ぁっ!」
胸ぐらを掴まれて、壁に打ち付けられる。鈍痛が背中を走った。ルビィはそのままコンクリートの地面に崩れ落ちる。
「あー、腹立つ。こういうはっきりしねー奴、一番むかつくんだよね」
「お、ヤッちゃう?」
「お前そればっかだな」
「俺パス。そんな趣味ねーよ」
五人は思い思いの感想を述べ、下品な笑い声をあげている。ルビィは動くことができなかった。蛇に睨まれた蛙とはこのことを指すのだろう。恐ろしさのあまり、動くことも、助けを呼ぶことも、泣くことすらできなかった。
「ま、でも一発くらいはぶちかましてもバチあたんねーだろ」
髪の毛を掴んできた男が、右足のつま先をトン、トン、と地面に当てる。眼光はルビィの顔面を捉えていた。
「ゃぁ……やめ……」
わかってしまった。彼が何を考えているのか。この人は、私の顔を、蹴ろうとしているんだ。ルビィが呻きながら必死に頭を守ろうとする姿を見て、周囲の四人がニタニタとぼうぞくな笑みを浮かべていた。だれか、たすけて……だれか、こうたさん…!
「やめろ!!」
そこに、息を切らして走ってくる、一人の青年の姿があった。
「あー?」
「佐蔵…!」
「ルビィを離せ!!」
晃太さん…!
ルビィの目に希望が宿る。来てくれた。三度に渡るルビィの危機に、彼は駆けつけてくれたのだ。まだ幾分か離れていた距離を、晃太は駆け足で詰める。それを見て、五人のうちの一人がルビィを指差して晃太に告げた。
「いいのかな? 愛しのルビィちゃんが傷物になっちゃっても」
ルビィを指差し、晃太に静止するよう呼びかける。まるでアニメかゲームの小悪党のようだ。
「ふざけたこと言ってんじゃねえ!」
一瞬足を止めた晃太であったが、意味のない煽りであると理解し、再び走り出す。
「もう俺限界。やっちまおうぜ」
「そうだな、その前にルビィちゃんにも一発入れてだな」
「ひっ…!」
「てめえら…!」
晃太が全力で駆ける。すんでのところで晃太はルビィの元へたどり着くことができた。が、ルビィの顔面を捉えそうな蹴りを体で受け止めることしか叶わなかった。
「ぐぁ……」
蹴りが腰付近に当たり、晃太はその場でうずくまってしまう。晃太の様子がどこか可怪しいのは五人組にも、ルビィにも一目瞭然だった。
「こいつ、もしかして腰痛持ち?」
「ぎっくり腰とか?」
「てめえら、ふざけん、うっ……」
蹴られた腰の痛みで、晃太は立ち上がることすらできない。が、それでもルビィをかばおうと覆いかぶさるようにして害が及ばないよう賢明に守った。
「弱点みーっけ!」
しめたとばかりに五人組は晃太を蹴り続ける。標的はもう、ルビィから晃太へと変わっていた。腰、脇腹、背中。頭を踏みつけるものもいた。
「やめて! 晃太さんに、これ以上乱暴しないで!!」
ルビィの悲痛な叫びは虚しく響くだけだった。危害を加える手を止めるものは誰一人としていない。
「ははっ、だっせーな佐藤!」
「ぎゃはは! 佐蔵だろ!」
「ぐっ、がっ…!」
「どっちでもいいだろ!」
「やめて……お願い……」
それどころか、五人はこの状況を楽しんでさえいるようだった。鈍く重い音が擁壁に反射して響く。
「そこまでです」
「お姉、ちゃん…!」
「善子さんは駅前の交番へ、花丸さんは警察へ電話して下さい」
そこには見知った三人の姿があった。両脇にいた一人はその場から走り去り、もう一人は一歩下がってポケットから携帯電話を取り出す。
「女が何の用だよ。こっちは取り込み中なんだけど」
「そこにいる二人は私の妹とそのお知り合いです。今すぐ解放していただきたいのですが」
黒澤ダイヤは、何事もなかったかのように冷静な様子で一歩、一歩とこちらに向かって歩いてくる。
「んだぁ? てめえもぼこされてえのか」
「……頭の悪そうな言葉遣いですこと」
男子学生たちの低俗な言葉遣いに、心底呆れた様子でそれらの目の前に立った。
「ああ!?」
「いいでしょう、お相手して差し上げますわ」
そういってダイヤは何か拳法のような構えを取る。
「私、少々武道の心得もありますのよ」
「五人相手にするつもり? ばかじゃねーの?」
物々しい構えに一瞬怯んだような五人組だったが、五対一と気づくや否や再びヘラヘラとした笑いを携えてダイヤの方へと向き直った。
「そうですわね。きっと私一人では勝てないでしょう。ですが、警察が来るまでの時間稼ぎにはなるのではなくて?」
構えはそのままにしてダイヤがしたり顔でそう語る。違和感に気づいているのは妹であるルビィだけだった。この中に、武道の心得がある者など
「おい、そういえば一人駅の方走ってったぞ」
「電話してるやつもいたな」
「……ちっ」
警察を呼びに行った善子や、電話をかけていた花丸の影響もあって、どうやら作戦は成功したようだった。男子学生たちは恨めしそうな目つきでその場を去っていく。それを見届けたダイヤは謎の拳法の構えを解き、額に滲んだ脂汗を拭った。晃太は安心したのか、ルビィに覆いかぶさるのはやめて、その真横でごろりと転がった。
「ルビィちゃん!!」
花丸が横たわっているルビィに駆け寄る。
「怪我はない!?」
「う、うん……少し擦りむいちゃったみたいだけど……」
「ああ!! よかった!!」
抱きつく彼女は目にいっぱい涙をためて親友の無事を喜んだ。きつく、きつく抱きしめられ、息が苦しくなる。そしてそれが、無事助かったんだ、という実感をわかせた。
「サクラさん、とおっしゃいましたか。
一息ついたダイヤも三人のもとへやってくる。一度ルビィの方を向き、大きな怪我がなさそうなことを確認してから、恩人である晃太に話しかけた。
「ぅ……ぁ……」
しかし、その言葉は晃太の耳には届いていないようだった。息は荒く、呻き声のようなものをあげながら、片手で腰を押さえる。眉間にしわを寄せ、歯を食いしばり、苦悶の表情を浮かべていた。
「サクラさん!?」
どこか痛いのだろうか、いや、ルビィをかばってくれていたんだ。どこかは痛いに決まっている。でも、この痛がりようは、普通ではない。ただならぬ雰囲気を感じたダイヤは慌てて晃太に駆け寄る。その光景を見たルビィは、涙を流しながらダイヤに懇願した。
「晃太さん、ルビィをかばって五人からずっと蹴られてて……腰がすごく痛そうなの! お願い、救急車を呼んで…!」
◆
「…………」
ルビィは待合室のソファーに腰掛けていた。診療時刻を過ぎているため、院内はどこか薄暗いような気がする。周囲に通院患者は誰一人としていなかった。
ダイヤが呼んだ救急車は五分ほどで到着した。救急の電話で腰を異常なまでに痛がっていると伝えてくれたからか、近くの形成外科に搬送されることになっていた。ルビィは救急車に同乗した。ダイヤが一度、一緒に帰ろう、と言ってきたが、ルビィはそれを断った。それよりも、花丸と善子を無事お家まで送り届けてあげてほしいとお願いすると、わかった、と言ってそれ以上は何も言わなかった。
院内の時計に目をやる。午後七時。三人は無事家に着いただろうか。
善子が呼びに行ったと思われる警察の人が病院に来た。事の顛末を話し、加害者が誰かわからない、被害者――晃太さんのことだ――が今話せない状態だと言うことがわかると、ルビィの話を手帳にまとめて帰っていった。今できることは、ないらしい。ルビィも被害者の一人として怪我の具合を聞かれたが、擦り傷程度だったのでほとんどない、と答えておいた。
すると、背後にある自動扉が開き、慌てた様子で初老の男性が院内に入ってきた。そのまま小走りで受付まで向かう。
「失礼します。すみません、佐蔵晃太の父親ですが……」
受付でそう告げた男性は、看護師から今は病室で安静にしていると教えられ、少し安心したように待合室へと歩いてくる。そして、先客を見つけて少し驚いているようだった。
「……あの、失礼ですが、貴女は?」
「……黒澤、ルビィです。この度は、息子さんにお怪我をさせてしまって、申し訳ありませんでした…!」
受付で父親だと言っていたのを聞き逃さなかったルビィは、男性が話しかけてくると、立ち上がって謝辞を述べた。それを聞き、男性は再び目を丸くする。
「晃太は、喧嘩してここに運ばれたと聞きましたが…?」
ルビィは何があったのか、洗いざらいすべてを父親に話した。
「そう、でしたか……」
「ルビィのせいなんです…! ルビィが、ルビィが……」
もう三度目ともなると、自分のせいだという事実がまざまざと実感され、涙が止まらなかった。嗚咽で言葉が途切れ、何を言っているのか、何を言いたいのか、もう自分にもわからない。
「ルビィさん、自分を責めるのはよしてください。貴女は何も悪くない」
「でも、でも…!」
父親は泣きじゃくるルビィに椅子へ座るよう促し、ルビィは目元を拭いそれに従う。そして父親も隣に腰掛けた。
「晃太が一度だけ、私の前で『ルビー』と言う言葉を口にしたことがありました。その時は、宝石か何かに興味を持ったのかと思いましたが、きっと貴女のことだったんですね」
父親は一度言葉を切って、虚空を見つめながら思い出すように語る。
「最近の晃太は、見違えるように生き生きしていました。それこそ、陸上を頑張っていた中学時代を見ているようで、何か打ち込めるものができたんだなと内心嬉しかったんですが、貴女のおかげだったんでしょう。お礼を言わせて下さい。ありがとう。」
「そ、そんなこと……」
「自分の体を顧みず、守らなくては、そう思ったんでしょう。だからそんな無茶を」
晃太とって、自分は守るべき存在だったんだろうか。そう考えるとなんだか嬉しいような恥ずかしいような、そしてそれをかき消すくらい申し訳ない気分になる。もし、もしそうなら、やっぱり自分のせいでこうなってしまったんだ。握った拳の爪先が手のひらに食い込む。
「ルビィさん、晃太は――」
「佐蔵晃太さん、目を覚まされましたよ」
奥の部屋から看護師がこちらに顔を出し、二人に呼びかける。
「行きましょう」
あまり大きいとは言い難いこの病院は、診察室の奥に簡易な病室が作られていて、二人は三台ある内の一番手前のベッドへと案内される。そこには晃太が薄目を開けて苦しそうに横たわっていた。
「晃太さん…! ごめんなさい! ルビィのせいでこんなことに!」
「ルビィ、無事か…? 怪我は…?」
「ルビィなんかより、晃太さんが!」
私は晃太さんの姿を見るや、謝らなければという気持ちが抑えきれなくなり急いで駆け寄った。それでも晃太は、自分のことよりルビィのことを心配する。そんなところが実に彼らしかった。
「ねーみてーだな……良かった……」
「晃太さん!」
ルビィの無事を確認すると、晃太はその少し後方に立つ父親に視線を向ける。
「親父」
「……ん?」
「悪ぃ、もう、ダメ、かも」
「……そうか」
そういった晃太は父親をまっすぐ見つめ、ルビィがこれまでに見たことがないくらい悔しげな表情を見せる。対する父親は、気にするな、といった様子で、優しげな笑みを浮かべていた。
「もっと早くに……」
「いいんだ、今日は、もう休みなさい」
「すまねえ……」
そういって晃太は一筋の涙を流し、再び気を失った。
◆
「晃太さん、もうだめって、もう歩けないってことですか!?」
晃太が意識を失ってしまったため、ルビィは病室を追い出された。もっとも、そうでなくてももう診療時間はとうにすぎている。院内にいさせていただいているだけでも十分だった。晃太の父親は、医師から少し容態について説明があるようで病室に残った。
ルビィは、晃太が意識を失う間際につぶやいた「ダメかも」という言葉が気になり、説明を聞き終えた晃太の父親に詰め寄ってしまった。
「ル、ルビィさん、落ち着いて下さい」
「もう歩けないなんて、そんな、ルビィ、どうしたら…!」
足の感覚が無いんだろうか。それとも先生からなにか言われたのだろうか。悪い方向へ悪い方向へと考えてしまう。ルビィは父親の服の裾をギュッと握り、懇願するように問う。
「……」
「うっ……うぅっ……」
しばらく黙っていた父親だったが、一向に泣き止む気配のないルビィを見て観念したのだろうか、ゆっくりと口を開いた。
「少し、晃太の話をしましょうか」
その口調は、どこか重たいものがあった。
「晃太が陸上をやっていたというのはご存知ですか?」
「はい……」
まだしっかり泣き止んでいないルビィであったが、父親の話に耳を傾ける。
「晃太は、高校一年生の夏までは陸上部に所属していたんです」
父親は病室から離れようと歩き始めた。そして先程まで座っていた受付のソファーに腰掛ける。ルビィもそれに倣った。
「やめた理由、聞きましたか?」
「……いいえ。部活の話になると、話すのが辛そうだったので……」
「そう、でしょうね……晃太には悪いが、お話しましょう」
父親は、どこか遠くを見つめながら切なさに満ちた雰囲気で語り始めた。
「晃太は、怪我で陸上をやめたんです」
怪我…?
「
ルビィは思い出す。
『それから、怖かったのかもしんねーけど、あんま強くしがみつくなよ。あれ地味に痛ーんだぞ』
もしかして、あの時痛がってたのって……
「この怪我はですね、治療が難しいそうなんです。手術の成功率も高くない。様子を見ながら養生をする方法で治る方もいらっしゃるみたいですけど、晃太はそううまくはいかなかったようです」
「それで、陸上を……」
「ええ。そのことで喧嘩もしました。私は手術を勧めたんですが、晃太は受けたがらなかった。きっと手術が成功したとしても、元のようには走れない、それでは意味がない、と考えたんでしょうね。日常生活には支障が出ていなかったので余計でしょう」
それに、失敗することを考えたら……と父親は小さくつぶやいた。
以前晃太が言っていたことがルビィの頭をよぎる。風を切るのが好きだと。だからバイクに乗るのが好きだと。違うんだ。ホントは走るのが好きなんだ。
あの日見た夕陽を思い出す。あのときの晃太は、どこか懐かしそうで、でも、悲しそうな目をしていた。きっと、また走りたいんだと思う。
「手術すれば、治るんですよね?」
「…………」
目を覚ましたら、私も話してみよう。そんなことを思いながら尋ねる。私からも説得して、それで手術して治して、また陸上をすればいい。前みたいに走れなくても、いっぱい練習すればきっと昔みたいに走れるようになる。
ルビィは、自分がAqoursに加入する際、花丸に背中を押してもらったことを思い出していた。ためらっているのは、怖いから。その恐怖を取り払ってあげたい。そう思ったのだ。しかし、父親はルビィの言葉を聞いて押し黙ってしまった。
え、だって、手術すれば、成功すれば治るんですよね…? 晃太さん、また陸上できるんですよね…?
父親の口から出たのは、ルビィの期待を大きく裏切る。
「先程先生から、手術をしても、日常生活以上のことはできないかもしれないと」
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気づいた時には、ルビィは家にいた。正直どうやって帰ったのか覚えていない。終バスはとっくに終わっていた。お金も持っていない。一体どうやって帰ったんだろうか。あの日の夜のことは、何も覚えてなかった。ただ一つ覚えていたのは、自分のせいで、晃太はもう二度と、陸上をすることができなくなってしまった、という事実だけだった。