普通。それは特に代わり映えない、ごく一般的な様のことだ。
大抵の大人は達観したように「普通が一番」と言う。それ自体は何も間違っておらず、普通に生きることは悪いことではなくむしろ賢い生き方だとも言える。
だが、それを理解できるのは大人であり、アイデンティティの獲得を目指す子供たちにとって普通なんてものはなんの価値もない。ただ毎朝時間通りにおきて、飯を食い、学校へ行き、勉強する。似たような毎日を淡々と過ごすことに何の意味があるのかなんてことを理解するには学生って役職はあまり向いていない。それが高校生だろうと大学生だろうと。でも、いつからかわかり始めてくる。染まっていくのだ。
普通の世界に。
「なー、飲もうぜ優介―」
「いや、だから俺はまだ未成年なんだって」
とある町のとある学生街のとあるアパートの一室。この春から大学2年生になる桜井優介はおなじく2年生になる友人、手島隆盛(てしま りゅうせい)からの誘いを必死に断り続けていた。新学年をあさってに控えた今日、朝の8時にインターホンの音で強制的に起こされた優介を待っていたのは、大量の酒をもった隆盛だった。とはいっても優介はまだ19歳。多少ならまだしもそんなにたくさんのアルコールを摂取して何かあっては今後の大学生活に悪影響を及ぼすこと間違いなしだろう。もっとも困るのは退学措置。ばれなければ犯罪じゃないという人間のほとんどはばれて犯罪になっているこの世の中においてちょっとのことが大事に発展するなんてことはよくあることだ。
「一歳うえの大人の俺の酒が飲めねえのか!」
「いや、単に一年浪人しただけだろ!大体普通の大人は未成年に酒勧めねえから!アルハラだぞ!お願いだから俺の普通の大学生活を脅かさないで!」
すでに酔っているかのような隆盛の魔の手を何とか回避しようとする優介。
「なんだよ普通普通って。お前いつもそればっかだよな」
「ぐっ……。いいだろ、俺は普通に生きるんだよ」
とはいっても別に優介の過去が特別だったわけではない。普通の家庭に生まれ、普通の学校へいき、普通に進学して今に至る。むしろ普通以外のなんでもない人生を送ってきたのだ。
「だいたい普通に生きるって、それじゃあサークルとか恋愛とか何もしないのかよ?」
「いや、サークルも恋愛も普通の範疇だろ、どんなスペシャルな恋愛する気だよ」
「スペシャルな恋愛……なにそれエロい!」
なにやら怪しげな妄想を始めた隆盛をよそに優介は机の上の今年度の履修要項を手に取る。「深奥(しんおう)大学」。どこにでもある俗に言うところのFラン大学で、二人は同じ心理学科の所属だ。とはいっても優介はフロイトに感銘を打たれたわけでもなく、カウンセラーを志しているわけでもない。単純に大学進学は多くの人が選ぶ普通の道だから、それだけの理由で地元北海道からはるばる関東までやってきて一人暮らしをしているのだ。
「今年は何履修すっかなー」
「なんでもいいべー単位さえとれれば」
「お前それで去年必修科目落としただろ……」
「うげ、そうだった!再履修とかマジ勘弁だわー」
隆盛はまったく危機感なく寝そべってテレビをつける。ついでにテーブルの上のポテチをあけ、むしゃむしゃと食べ始めた。
「いや、自分の家かよ!どんだけ俺の家に適応してんだ!クマムシ並みの生命力だなおい!」
「そうカリカリすんなよ。冷凍庫のドリアでも食ってゆっくりしろよ」
「ゆっくりしてるのはお前だろ!なんで俺の冷凍庫の中身まで把握してんだ!」
優介のツッコミもむなしく、隆盛はその間にポテチを完食した。これで太っていないのは彼が中高とサッカーをやっていたからだろうか。
「とにかく今日は帰れって。このあと大家さんに呼ばれてるんだよ」
「なに、家賃滞納でもした?」
「してない」
「夜に声出しすぎだって苦情きた?」
「誤解を招く言い方するな!だいたいはお前がゲームに負けて発狂してる声だろうが!」
隆盛がうるさいのは確かだがそれで苦情があったという話はまったく聞いていない。それに、ここの大家はとても温厚な人で、いきなり呼びつけたりはしないはずだ。だからこそ優介はさっさと済ませようと8時半に目覚ましをかけ、9時に大家を訪ねる予定だった。もっとも隆盛のおかげで30分前行動をとることになったわけだが。
「わかったよ、それじゃあ大家さんの用事が終わったら連絡くれよ?」
「しぶといなお前も」
「最後まであきらめないことが大事なのだよ」
「はいはい、じゃあまたな」
なんとか隆盛を追い返し、優介は朝食を作ろうと冷蔵庫を開ける。ふと、テーブルを見ると大量の酒が置かれていた。
「あいつ、もって帰れよな……」
しぶしぶ缶を冷蔵庫に入れていく。入りきらなかった分は玄関においておくことにした。
「さてと、朝飯朝飯っと」
冷蔵庫から卵を取り出そうとするとインターホンがなる。放置するわけにも行かないので優介は玄関の扉を開ける。
「あ、桜井。悪いんだけどしょうゆ貸してくれない?」
そこにいたのは103号室住人の天草悠里(あまくさ ゆうり)。身長が高く、大学でもバスケットをやっている。102号室の優介とは1年のときからの知り合いで同じ心理学科だ。彼らが住むここ、ハイツ諏訪部はかなり古い建物で床が抜けたり壁が破れたり、あまつさえ最近では心霊スポットと評されるほどだが家賃は格安、大家の諏訪部蘭子(すわべ らんこ)はかなりの人格者で28歳独身で男性入居者からの人気も高い。ハイリスクハイリターンボロアパートなのだ。
「またしょうゆかよ。こないだも貸さなかったか?いい加減買えよ」
「いやあ、ほかにもいろいろ買うとお金がぎりぎりでさ。桜井に借りれるからしょうゆの優先順位はひくいんだよね」
「お前、いつか金とるからな……」
「そういえば蘭子さんに呼ばれたんだって?家賃滞納でもしたの?」
完全にデジャヴな問いかけだが、確かに大家に呼ばれる理由なんて限られているはずだ。いろいろと考えてみるがやはり該当するものが何も思いつかない。
「ねえ、ぼーっとしてないでしょうゆ貸してよ」
「え?ああうん」
ほとんど何も考えずに悠里にしょうゆを渡す。
「ありがとー。こんどなんかお返しするねー」
そういって悠里は自室へ戻っていった。優介は大家に呼ばれた理由を考えながら卵を割る。
「ってしまった!考えてたせいでまたしょうゆ貸しちゃった!」
優介は頭を抱える。こういう駆け引きにおいて悠里に勝てたことは一度もない。それがしょうゆを貸し続けている理由でもある。とはいってもちゃんとあとでお返しはもらっているのであまり文句も言えない。仕方ないので目玉焼きには塩コショウをかけることにした。
「よし、完成っと」
出来上がった目玉焼きを皿にのせ、焼きあがった食パンにバターをぬる。いい香りが部屋いっぱいに広がる。
「いただきま……」
食べようとしたその矢先に本日3度目となるインターホンの音が鳴り響く。また悠里だろうか、それとも隆盛だろうか。
「ああもう!」
少し乱暴にドアを開ける。立て続けに朝の行動を妨害されているのだから仕方ないといえば仕方ない。
「きゃっ!」
声を上げたのは悠里でも隆盛でもなく、大家の諏訪部蘭子だった。
「わっ、すみません大家さん。びっくりさせちゃって」
「いえいえ、私のほうこそ。9時になっても桜井君が来ないので様子を見にきたんですけど……」
優介は時計のほうをみる。確かに悠里としょうゆの貸し借りをしたりしてはいたがそんなに時間がたっていただろうか。時計をみるとあろうことかまだ8時を指していた。
「……すみません。時計が止まってました」
どう考えても犯人は隆盛だろうが、学校のある日じゃなかっただけましだろう。そう自分に言い聞かせ、優介は穏やかに謝る。
「あ、いいんですよ。用があるっていったのはこっちですから。それじゃあ準備ができたら来てくださいね」
蘭子はそういって管理人室へ戻っていく。しかし、用とやらはいま口頭で言うわけにはいかなかったのだろうか。ひょっとしたらものすごく面倒なことなのかもしれない。
「いや、考えすぎだよな。普通に生活してきたんだから多分普通の用だよきっと」
すっかり冷めてしまった朝食を口にしながら携帯でネットニュースを閲覧する。最近人気のゲームの情報やスポーツの記事を流し読みする。その後はお気に入りのネット小説の更新状態を確認する。「引きこもりの異世界放浪記」という小説で、サイト内でもかなり評価がついており優介も一日に一回は読みに行くほどだ。ただこの作者は読者からのコメントや質問にはいっさい返信をしない。といっても返信は義務ではないので問題視されているわけでもないが。
「今日は更新無しか。まあ、まだ朝だしな」