それから一カ月たち、5月となった。外の気温も地元北海道の同時期よりもかなりたかい。
相変わらず隆盛は家に押し掛けてくるし、悠里はバイトとバスケットに勤しんでいる。湯優介も今まで通り普通に過ごしている。ただ、一つ変わったのは摩耶の存在。週に一回はみんなで101号室に集まり、ご飯を食べたり、他愛もない話をしたりしている。
「ふーこれで終わりっと」
講義で出されたレポート課題を済ませて、大きく伸びをする。
「そういえば、まだ家賃の話し出来てないな」
蘭子も特になにも言ってこないのでなあなあになっていたが、そろそろやらなければ拙いだろう。
しばらく考え込んでいたが、ふとゴミが溜まっていたことを思い出し、ゴミ置き場へと持って行くことにした。
ゴミ捨て場にゴミを投げ入れる。この地域では基本なんでも燃やせるゴミに出来るので非常に楽だ。とはいっても限度はあるが。ゴミ捨て場の錠をしめ、建物に戻ろうとすると蘭子の姿が目にはいった。一応あいさつでもしておこうと近づいてみるとなにやら話し声が聞こえたがあたりに人はいない。電話だろうか。
「ですから、あの子はもうその気は無いんです。無理強いしないで下さい。これ以上麻耶ちゃんに期待しないで下さい!」
普段温厚な蘭子がここまで声を荒げていることに優介は驚きを隠せなかった。そして、それ以上に驚いたのは電話の話題が麻耶ついてのことだということ。だがあまり聞き耳を立てるのはよくない。その場から立ち去ることにした。
はずだったのだが運悪く携帯の通知音が鳴ってしまった。こんな時に限って音量は最大。当然蘭子にも聞こえたらしくこちらへ振り向く。
「えっと……」
「すみません。そういう事なのでもう電話はしないで下さい。それでは」
どうしたらいいか分からないでいるといると蘭子は急いで電話を切り、優介を見る。それはいつも通りの優しい表情だった。
「こんばんは桜井君」
「あ、はい。こんばんは」
「聞いちゃいました?」
「え、な、なんのことですか?」
すっとぼけてみたが、自分でも嘘をつくのが下手なのは重々承知している。
「聞いたんですね」
思ったとおりあっさり見破られてしまった。
「すみません。すぐに立ち去るつもりだったんですけど」
「いえいえ、私が大きな声出しちゃったのがいけないんですから」
蘭子は申し訳なさそうに笑う。
「それじゃあ、俺はこれで」
「聞かないんですか?なんで麻耶ちゃんの名前がでたか」
「……個人情報ですし。ただでさえあいつのとんでもない状況を知っているのにこれ以上は」
なんて言ってみたがすごく聞きたいというのが本心だ。麻耶についてもっと知りたい。なぜそう思うのか。単なる興味本位だろうか、それとももっと別の何かなのだろうか。考えてみてもわからない。
「……今のはとある出版社からです」
優介の本心を見抜いたのか蘭子は話し始めた。
「桜井君は、麻耶ちゃんが小説を書いているのは知っていますか?」
「ええ。没になったのを読ませてもらったし、あいつが投稿している小説も読んでいます。俺の友達も読んでいて、書籍化しないのはもったいないって」
「じつはあの子は一度本を出しているんです」
それは衝撃的な事実だった。麻耶が本を出していた。だがこの前の鍋の席で彼女はそうする気は無いと言っていた。自由に書きたいからと。
「『月末のバルコニー』という小説です。知っていますか?」
「いえ……」
「でしょうね。今あの子が書いているライトノベルとは違って純文学ですから。あの子が中学1年生の頃に書いた本です」
中学一年生。そんな時期から麻耶はあの文才を遺憾なく発揮していたというのか。優介が何となくでテニスをやっていた時に。
「特別大人気という訳ではなかったのですが、結構多くの人に評価されていました。その時の出版社の方が次回作をお願いできないかと言ってくるんです。もう何年も前の作品なのに」
それほど可能性に満ちた作品だったということだろうか。
「でも、何でその電話が大家さんに来るんですか?普通本人とか両親に連絡が来るんじゃ?」
「それは……」
蘭子は少し言い淀んでから意を決したように口を開く。
「私が彼女の保護者という扱いだからです」
「……え?」
保護者。世間一般ではそれに当てはまる人物は一人の子どもに対し二人いる。父親と母親。だが、諏訪部蘭子は自分が狭霧摩耶の保護者だと言った。摩耶の家賃滞納の事を聞かされた時、蘭子自身の口から摩耶は友人の娘だと聞かされていた。だが、保護者は蘭子。それが意味することはいくつか想像できるがどれも良い話では無い。だから、優介には何も言えなかった。じっと蘭子の方を見つめる。
「摩耶ちゃんの両親は私の大学の同期でとても親しくしていました。その当時から二人は交際していて、卒業後に結婚しました。摩耶ちゃんが生まれた時、私も病院に行って彼女を抱っこしたりしてね。成長と一緒に送られてくる写真と手紙をとてもうれしくみていました」
蘭子はとても懐かしそうに、それでいて苦いような表情で言葉を紡いでいる。
「でも、麻耶ちゃんが中学2年生の時に交通事故で二人は亡くなってしまいました」
「……!」
予想していた中で一番最悪な答えだった。
「そして、当然ですが中学生の摩耶ちゃんは親戚に引き取られることになりました。でも……」
「でも?」
「実は、彼女の両親の結婚は親戚たちには大きく反対されていたんです。父親の方の家庭は俗に言う名家で、母親の家は普通の家庭。ふさわしくないと言われていました。それに、母方の親戚も急に一人の子どもの養育をしろと言われても金銭的にも厳しかった。だから、麻耶ちゃんは父方の親戚に引き取られることになりました」
身分違いで反対されていた結婚を押し切ったということは父方の親族には母親は良く思われてはいなかったのだろう。もしかしたら娘の摩耶もうとまれていたのかもしれない。
「そして、親戚たちは摩耶ちゃんを引き取るために激しく争いました。何故だか分かりますか?」
「……『月末のバルコニー』ですか」
優介は震える声を絞り出す。
「その通りです。摩耶ちゃんの作家としての才能を利用しようと考えたんです。そして、引き取ることが決まった家庭で摩耶ちゃんは「小説を書け」と強要されました。何度も何度も何度も。いつからかあの子は社会や大人に対して激しい嫌悪感を抱くようになりました。それを悟った親戚たちは摩耶ちゃんの事を両親と親しかった私に任せて来ました。彼女が高校2年生の時の話しです」
「だから、あいつは頑なに書籍化を断ってるんですね。大人の道具になりたくないから」
言っていて優介は怒りがこみ上げてくるのを感じた。それは摩耶の親戚や出版社に対するものではなく、自分自身へのものだった。摩耶はちっとも自由なんかじゃなかった。才能を持つ彼女を羨ましく思ったのも、明るくて人と関わるのが好きなんだなと思ったのも全て自分の勝手なエゴだった。彼女の表面しか見ていないのに、勝手に知った気になっていた。そんな自分に腹がたって仕方がない。
「でも、なぜ俺にそれを話したんですか?大家さんだって話していて気分がいいとは思わないんですけど」
「それは……桜井君なら摩耶ちゃんの世界を変えられるんじゃないかと思ったからです」
「摩耶の世界?」
「彼女の小説を呼んで何か思うことはありませんでしたか?」
「それは……」
摩耶の小説をいくつも読んで思ったこと。それは隆盛に話したように、パターンやキャラの描写が似通っていること。最初は同じ作者だから当然のことだと思っていた。だが、今の話を聞いてようやく理解できた。あれは、狭霧摩耶という人物の世界が両親を亡くした時のまま、『これ以上』を求めなくなっている事の表れだったのだ。
「だから、半年の家賃滞納なんて嘘をついたんですね」
蘭子が保護者なら、麻耶の家賃滞納は成り立たないのだから。あれはただ、優介に、麻耶に会ってもらうための口実に過ぎなかったのだ。
「気付かれてしまいましたね。騙してごめんなさい」
「いいですよ、それはもう。でも、俺には他人の世界を変えることなんて……」
「できます。私はそう信じています」
「一体何を根拠に……」
「似ているからです。桜井君が、彼女の父親に……私が好きだったあの人に」
摩耶の父親がどんな人物だったか優介は知らない。だが、蘭子の言葉には何故か説得力があった。それは彼女が摩耶を、そしてその両親をとても大事に想っているからだろうか。
「改めてお願いします。桜井優介君。摩耶ちゃんの世界を変えてあげてくださいお願いします」
蘭子は深く頭を下げる。
優介には、それを断ることはできなかった。