朝食を終え、皿を洗い服に着替えてから管理人室へと向かう。
「大家さん。準備できましたよー」
ドアをノックして蘭子に呼びかける。すぐに扉があき、室内へと入る。
「すみませんね、朝早くに」
「いえいえ、こちらこそ遅刻しちゃって。それで何のようですか?」
すると蘭子はうつむく。そんなに言いにくいようなのだろうか。心なしか顔も赤いような気がする。
「その、ずっと前から言おうと思っていたんですが、お恥ずかしい話でして」
「そ、そうなんですか」
優介は動揺する。これはひょっとしてひょっとするのだろうか。つばをごくりと飲み込み蘭子の言葉を待つ。
「実は……」
「ひゃ、ひゃい!」
「101号室の住人にあってほしいんです!」
「ご、ごめんなさい!やっぱり俺……へ?」
蘭子はなんと言っただろうか。101号室の住人にあってほしい?それがずっと前から言いたかったことなのだろうか。
「えっと。よくわからないんですけど」
「実はですね。101号室の住人が家賃を半年近く滞納していまして」
「は、半年!?」
たとえ格安ボロアパートでも半年も滞納したらかなりの額になるんじゃないだろうか。
「でも、そこの住人は私の友人の子供でして……」
なるほど、あまり無下に追い出したりもしにくいということか。温厚な蘭子らしい考えだ。だが、優介はまだ疑問を払拭できない。
「いや、それなら親御さんに相談したほうがいいんじゃないですか?」
「ええと、それは……」
急に歯切れが悪くなったということはなにか事情があるのだろう。別の質問をすることにした。
「なんで俺に頼むんですか?あまり役には立てないと思うんですけど」
「それは、桜井君はお使いとか花壇の水遣りとかやってくれるので……」
つまりは優介なら簡単に断ったりはできないだろうという考えだ。事実、優介は人の頼みを断るのが苦手だ。それができるなら悠里にしょうゆを貸し続けたりはしない。
「……俺はなにをすればいいんですか?」
「引き受けてくれるんですか?」
「まあ、普通そんな簡単には断らないでしょう。とりあえず話をきいて俺にできることなら考えて見ます」
「ありがとう桜井君!」
蘭子は顔をほころばせる。そんな顔をされてはもはや断ることは不可能だろう。
「とりあえず鍵を渡しますから、部屋に入って私のところに来るように説得して欲しいんです」
「それだけですか?」
「ええ。とりあえずは会って話をしてください」
家賃を奪い取ってこいとかいわれるかと思ったがどうやらそんな心配は要らなかったようだ。
「わかりました。とりあえず行ってみますよ」
「ありがとう。それじゃあこれ、マスターキーね」
鍵を受け取り、管理人室を後にする。しかし、初めてたずねるのに手ぶらというのも悪いだろうか。一度部屋に戻り何か手土産になるものはないかと探してみるが特に気の利いたものはなかった。ふと、冷蔵庫から隆盛が置いていった酒の缶を取り出す。
「これでいいか」
缶を何本か紙袋にいれ、自室をでて101号室に向かう。
「てか、ずっと空室だと思ってた……」
実際ハイツ諏訪部に住んでいるのは優介と悠里そして蘭子を除けば上級生が数人で、しかもほとんどが2階の住人だ。それに101号室の住人と思しき人物を見かけたことがない。夜型人間なのだろうか。
「さてと」
取り合えずインターホンを鳴らしてみる。10秒、20秒、30秒たっても返事はない。もう一度鳴らしてみてもやはり同じ。留守だろうか。
「でも大家さんが鍵をくれたってことは居留守かもしれないよな」
とりあえず鍵を開け、そっと扉を開けてみる。
「すみませーん。俺、102号室の桜井というものですが……ってなに!?くさっ!?」
部屋からは明らかな異臭がする。扉を完全に開き、室内を見ると見渡す限りゴミ袋が散乱していた。なんとか足の踏み場を見つけながら部屋の中へ入っていく。
「なんだここは、本当に普通の人間が暮らす部屋なのか?カオスな予感しかしない……」
そう言いながら進んでいくとなにやらやわらかく暖かい感触を足に感じた。ひょっとして生ごみだろうか。
「んぐっ!」
「どわあ!」
踏みつけた物体からうめき声が聞こえてきたので、優介は驚いて飛びのく。
声のしたほうから人のようなものが這い上がってきた。カーテンが閉まりきった室内ではよく見えないが、だんだん目がさえてくる。
「……誰?」
目の前にいたのは、目元まで延びきった長い髪に、血走った目でこちらを見る女性だった。
「ぎ」
「ぎ?」
「ぎゃああああああああああああああ!お、おば、おば、おばけええええええ!」
今までの人生で出したことのないほどの大声をあげ、急いで部屋を出る。扉を閉めて何とか状況を整理しようと試みる。
「えっと、家賃滞納した101号室の住人を大家さんのところへ連れて行くようにいわれて、マスターキーを受け取って、部屋に入ったらごみ屋敷で、貞子がいて……」
ごく普通の思考をするのならあの貞子が101号室の住人ということになるが、はたしてあれに普通の思考が通用するのだろうか。必死に考えているともたれかかっていた扉が開く。
「どわあ!待って!ちょっと待って!まだそのときじゃないって!」
「なに言ってるの、君?」
貞子は不思議そうな顔でこちらを見ている。今度は前髪をピンで留めており、顔がはっきりと見えた。
「……」
「?」
しばらくの間優介はその瞳から目を離せなかった。それは充血こそしているが、なにか不思議な力を感じるような幻想的な瞳だった。
「ねえってば」
「え?あ、ああ。ごめんごめん。俺は隣の102号室の桜井優介って言うんだけど」
「お隣さんかー。ボクは狭霧麻耶(さぎり まや)。よろしくね」
「よろしく……ってそうじゃなくて!部屋のごみの量は何なんだよ?本当にあそこで生活していたのか?」
「ああ、そういえば結構たまってたっけ。外にでるのも1ヶ月ぶりだし道理で部屋の中が歩きづらいわけだね」
どうやら本当に101号室の住人らしい。だが外に出るのが1ヶ月ぶりだとはいくら春休とはいえ普通じゃない。それに髪もものすごく伸びているし、目の充血も1日そこら徹夜しただけではこうはならないだろう。
「それで、優介は何しに来たの?ボクの部屋にお客さんなんて初めてだよ」
「え、出会ってすぐに呼び捨て?」
急に呼び捨てにされたことに戸惑いつつも状況を説明しようと試みる。だが、よく考えてみると家賃を払わないのには何か理由があるのかもしれない。部屋の様子からして精神的に病んでいる可能性だってある。いきなり大家のところで家賃を払えといわれて彼女は大丈夫だろうか。
「い、いやあその、そういえばまだ挨拶してなかったーと思って。ほら、明日から新学期だし、あ、これつまらないものですが!」
なんとか嘘をこしらえ、平常心を意識しながら紙袋をわたす。
「しんがっき?」
麻耶はというとまるではじめて聞く言葉のように問いかけてくる。
「あ、そうか。もう一年たったのか」
これは本当に少し病んでいる人なのかもしれない。優介の頭の中で警報が鳴り響く。引き返すなら今だと訴えてくる。
「まあ、とりあえずあがってよ。あ、でもごみ邪魔だよね?ちょっと待って、すぐ片付けるから」
とてもすぐに片付く量じゃないと思うが、麻耶は腕をまくりやる気になっている。
「……俺も手伝います。いや、手伝わせてください」
「えー、いいよ。自分でできるって」
「自分でできるならこんなことになってないだろ!いいから、まずゴミ袋だして!それから服も着替える!男の前でそんな薄着で長時間いないの!」
「はは、なんだか優介ってお母さんみたいだね」
「俺は狭霧みたいな娘はほしくないね!」