「麻耶がいなくなったってどういうことですか?」
状況がよく飲みこめないまま優介は蘭子に問いかける。電話越しに聞こえる蘭子の声は震えているように聞こえる。
「それが、少し用事があって麻耶ちゃんの部屋に行ったんですけど……返事が無くて、悪いとは思ったんですが予備の鍵を使って入ったらいなくて……」
「でも、買い物に行ったってことは?」
麻耶が部屋から出る用事は優介の知る限り、優介の部屋に来るかスーパーに買い物に行くかしかない。優介の部屋は現在無人なのだから消去法で買い物に行ったと考えるのが妥当だ。
「私もそう思ったんですけど、机の上に財布が置きっぱなしになってて……それにもう3時間も帰ってこないんです……」
財布も持たずにスーパーに行くとは考えにくい。それに3時間もとなると本当に消息不明ということになる。それを理解した時、優介は自分の手が震えていることに初めて気づいた。
「と、とりあえず俺もすぐに戻って探します!大家さんは麻耶が戻ってくるかもしれないのでアパートで待っててください!」
「わ、わかりました!桜井君も無理はしないでくださいね」
「はい」
そこで電話を切る。一刻もはやく戻らなくてはいけない。バスの時間を待っている余裕はあるだろうか。それともタクシーを使うべきだろうか。様々な思考を巡らせる。
「桜井?今の電話誰から?」
優介の表情の変化が分かったのか、悠里が心配そうに聞いてくる。説明している時間も惜しいくらいだが、悠里の話を遮って出た電話なのだからそれはあまりに失礼だろう。
「大家さんが、麻耶がいなくなったって……」
「狭霧さんが?いつから?」
「短く見積もっても3時間以上は前だって……」
「それ、まずいんじゃねーか?」
急に後ろから聞こえた声に驚いて振り向くと、さっきまで少し離れたところにいた隆盛と望がいた。
「まずいってどういうことだよ?」
「天気予報だとこの後、さらに荒れるらしいぞ」
流石に麻耶だって傘ぐらい持っていっただろうが、傘一本でしのげる程度の雨では無くなってしまうのなら良くない可能性がいくつも考えれられる。
「とにかく一度向こうへ戻らないと!」
優介は走りだす。
「まって!」
それを引きとめたのは望だった。
「いなくなってから3時間以上経つんでしょ?もしかしたら学生街にはもういないかもしれないんじゃない?」
「それは……確かに」
「ハイツ諏訪部から徒歩3時間で行ける所って言うと……」
隆盛が携帯で調べながら呟く。
「……ちょうどこのあたりだな」
「……!」
「でも、一か所に留まっている可能性もあるよね?」
「天草の言うことも最もだし、ここは手分けしよう。俺と望は学生街に戻る。優介たちはこの辺を探せ」
「分かった。そっちは頼む」
すぐに隆盛と望は近くでタクシーを拾って学生街へ向かった。それを見送った後、優介たちも捜索を開始した。まずは体育館の周辺を、そこが終わると次はバス停の方へ。
「なあ、悠里」
走りながら悠里に話しかける。
「なに?狭霧さんいた?」
「そうじゃなくて、話、途中でごめん。麻耶が見つかったらちゃんと聞くから」
悠里の話の内容は分からないが、さっきの態度からすごく大事な事なのは感じ取れた。だからしっかり謝っておく。
「……ありがとう。それじゃあ狭霧さんを見つけないとね!」
「そうだな」
答えながら二人は足を速める。とはいっても今日優介が通ってきたバス停までの道は粗方探しつくした。それでも見つからないところを見ると学生街の方にいるのだろうか。そう思った矢先、隆盛から電話がかかってきた。
「もしもし!見つかったのか!?」
「落ち着けって。今タクシー降りて探し始めたんだけど、交差点に傘が落ちてた。いま写真送るけど、これって狭霧ちゃんの部屋の玄関にあったのと似てないか?」
いったん通話を切り、隆盛から送られてきた画像を見る。写っているのは水玉模様のピンクの傘。だが、これが麻耶の部屋にあったかどうか明確に思い出せない。
「これ、前に片付けた時にあった」
「本当か悠里!」
ということは現在、麻耶は傘をさしていない。この雨の中そんな状況で歩くのは危険だ。一刻も早く見つけなくては。隆盛に返事をしてから再び走り出す。
「麻耶……麻耶……!」
気付かないうちに麻耶の名前を呼んでいた。麻耶に会って伝えたいことがある。あの時からずっと伝えたかった優介の本当の気持ち。
「あ、桜井!あれ!」
悠里が指差したのは少し先の横断歩道。腰まで伸びた後ろ髪、ピンでとめた前髪。間違いなく麻耶だ。服も髪もびしょぬれで、寒そうに震えている。ちょうど信号が青になり、それに従い麻耶が渡りだす。
「くそっ!」
気付いた時には傘を投げ捨て走っていた。周りの景色がすごいスピードで巡っていく。自分でもこんなに早く走っていることに驚いていた。横断歩道の前で足を止める。麻耶は既に渡り終えるところだった。
「麻耶!」
雨にかき消されないように、自分が出せる一番大きな声で彼女を呼ぶ。それが届いたのか、麻耶がこちらへ振り向く。その幻想的で大きな瞳が揺れている。
「ゆう……すけ……?」
「麻耶!」
麻耶の瞳に光が灯る。心の底から嬉しそうな顔をしている。今までで一番の笑顔。
「優介!」
優介はほっと胸をなでおろす。が、それもつかの間。優介に気を取られて足をとめた麻耶に向かって雨でスリップした車が突っ込んできた。
「麻耶!危ない!」
「ちょ、桜井!待って―――」
制止する悠里の声を振り払って横断歩道を走って渡る。もう視界には麻耶しか入っていなかった。
次の瞬間、鈍い音とともに優介の視界はブラックアウトした。
***
暗闇の中、優介は走っていた。どこへ向かっているのか、どこを走っているのか、何も分からないまま、がむしゃらに走り続けている。時折、誰かの声が聞こえる。どこから聞こえているのか分からないその声は優介の名前を呼んでいるように聞こえた。誰が呼んでいるのだろう。
隆盛だろうか
望だろうか
それとも、悠里だろうか
違う
どれも違う
その声の主はいつも優介を呼んでいた
楽しい時も嬉しい時も悲しい時も
いつもいつも優介の事を呼んでいた
優介に夢をくれたその声の主は
狭霧麻耶
お隣さんにして引きこもり、そんな破天荒な彼女が優介を呼んでいる。それに気付いた時、真っ暗だった空間に光がさした。
「……!」
目が覚めるとそこには見慣れない天井があった。実家でも友達の家でもハイツ諏訪部の自室でもない、真っ白な天井。天井が見えるということは必然的に寝ていたということだ。どうして寝ているのか、それを思い出すのにはそう長く掛からなかった。
「そうだ、麻耶!」
勢いよく起き上がる。すると視界には、いつものメンバーが揃ってこちらを見ているのが映った。
「お、起きたか王子様」
お茶らけた事を言う隆盛。
「まったく、心配したのだぜ?王子様」
それに便乗する望。
「桜井……よかった……」
ほっとした表情を浮かべる悠里。
そして
「優介!」
麻耶が胸に飛び込んでくる。突然の事にどうしていいか分からなかったが、何となく麻耶の髪に触れる。その髪はまだ濡れていた。よく見ると服も濡れている。ということはあれからそんなに時間は経っていないのだろう。
「そっか、俺あの時車にはねられて……てことはここは病院?」
「幸い大きな怪我もない。今日だけ検査入院らしいぜ」
隆盛は立ち上がる。
「帰るのか?」
「俺は性格悪くないからな。ほら、行くぞ望」
「あ、うん」
そう言って二人は個室を出て行く。後には悠里とベッドにいる優介、それに抱きつく麻耶だけが取り残された。なんというか、凄く気まずい状況だ。
「じゃ、じゃあ私は飲み物買ってくるね!」
「テンプレだな」
「うっさい!察して上げてるんでしょ、桜井のバカ!」
憤慨しながら悠里も出て行く。これで残ったのは優介と麻耶の二人だけ。しかし麻耶は一向に離れようとしない。
「え、ええと……麻耶さん?離れていただけると……」
「怖かった」
「え?」
「優介が死んじゃうんじゃないかって、また大切な人がボクの前から消えちゃうんじゃないかって……ホントに怖かった……」
「麻耶……」
久しぶりに麻耶と話していると、なんだかすごく落ち着いた。
「俺は麻耶の前から消えたりしないよ」
「優介……」
「だって、まだ麻耶とのゲーム勝負に決着ついてないからな」
「……はは、何それ。バカみたい」
「普通って言われるよりはいいかな」
「そっか……えへへ」
麻耶が笑顔になる。その表情が、優介が一番見てきて、一番好きな麻耶の表情だ。
「そういえばお前、なんで急にいなくなったんだ?」
よく考えるとそれがはっきりしていない。傘もささずに隣町に来た理由。
「それは……優介に会いたくて」
「え、俺に?」
「優介とちゃんと話したかった……」
つまりは優介を探していたということだ。それにしたって3時間も歩く体力がよくあったものだ。
「でも、よく俺が隣町にいるって知ってたな」
「悠里が昨日メールで大会があるって、優介も応援に行くんだろうって思ったから」
どうやら返事はしていなくてもメールは見ていたようだ。
「そっか。でもみんなに心配かけたんだから、後で謝っとけよ?」
「うん。そうだね……優介も、ごめん」
「俺はいいって。俺もみんなに心配かけちゃったんだし同罪だよ」
「そうじゃなくて、この前の事……」
麻耶にしても、あの時の喧嘩は思うところがあったのだろう。それは優介だって同じだ。
「俺も……ごめん。でも、あの時俺が言ったことは紛れもなく俺の本心だったんだと思う」
「……優介」
「人生で初めて本気で取り組んだものがダメで、打ちのめされて、本当に悔しかった。自分の経験の無さを思い知ったよ。だからこそ、才能があるお前が羨ましかった。お前の書く小説が大好きだから、その才能をくすぶらせてるお前に腹が立った」
溜まっていた想いを吐き出す。でもそれは、あの時の様などす黒い、醜い感情とは違う。純粋に優介が思っていた、麻耶への憧れの感情だった。
「俺は、ずっとお前に憧れていたんだろうな」
「……」
「でもさ、俺もバカだったよ。たった一回書いた小説で賞をとれるわけなんて無いんだよ。麻耶だってそうだったんだろ?何度も没を出して、編集にはねられて。でもそれがあったから『月末のバルコニー』は完成したんだよな」
「優介、読んだの?」
無言で頷く。『月末のバルコニー』の主人公は女性作家。優れた文才を持ちながらなかなか満足する小説が書けずに悩んでいたが、出版社のパーティーに参加したところ、パーティー会場のバルコニーでヴァイオリンを弾く少女と出会う。彼女のヴァイオリンはとても上手で、その音色を聞くと何故か小説のアイデアが湧いてくる。それ以来、月に一度月末にそのバルコニーで二人は会い、いろんな話をした。だがある月末、バルコニーでまっていても彼女はこなかった。それは主人公が自分の本を出版できた月で、周りの人に聞いてもそんな少女は知らないと言う。あの少女は何者だったのか、分からないが分からなくていい。だって、少女と過ごした時間が、その記憶が、主人公にはあるから。
その後書きで、麻耶はこの本が出版されるまでの事を書いていた。
『何度も没を出し、賞も取れず、諦めかけていたけれど、両親がずっと応援してくれていたからこの本を書きあげることができました』と。
「失敗したのならもう一度やればいい。何度でも、何度でも。挑戦をやめればその先にはなにも無いけど、挑戦し続ければわずかでも可能性はあるんだ。だから、俺は諦めない。いつか、お前に追いつけるように!」
「……そっか。じゃあ、ボクは待ってるよ。ずっと優介を待ってる」
「止まってたら追い抜くかもしれないぞ」
「ははっ、そしたらすぐに追いついてみせるよ!」
いつの間にか雨はやみ、窓から日差しが差し込んだ。天気予報は意外と当たらないものだ。
7月26日、天気、雨のち晴れ。