それからの毎日はかなりのハードスケジュールだった。朝起きてから学校に行くまで、学校でも講義の合間、さらには帰ってから食事と風呂以外はすべての時間を執筆に当てた。なにせ麻耶と同じ枠で出品するのだから中途半端は許されない。とはいっても最初から中途半端にするつもりなんて全く無かったのだが。
そんな生活を始めて数週間。優介と麻耶の作業場所である優介の部屋では今日もキーボードをたたく音が響いている。
「うーん。ちょっと休憩~」
麻耶が大きく伸びをする。
「休憩するならついでに冷蔵庫から飲み物取ってくれないか?」
そう頼みつつ作業する手は止めない。ここまで来ると優介ももはや普通とは程遠い粋に達しつつある。
「えーっと飲み物飲み物……」
麻耶が冷蔵庫を開け物色する。もはや優介の部屋というよりはみんなの共有スペースになりつつある。
「はい。いろは水でいい?」
いろは水は特に変わったところのない飲料水だが、こういう作業をしていると変に癖のある飲み物よりこういったシンプルなほうがいいと思い、備蓄している。
「さんきゅ」
麻耶からいろは水のペットボトルを受け取り、ふたを開け飲みながら壁にかけられたカレンダーでスケジュールを確認する。
深奥祭当日が10月27日。業者に製本を依頼する締め切りが10月10日。今日は10月1日。結構ぎりぎりだが、もう少しで執筆は終わる。あとは業者への依頼だが、これは原稿さえ出せば文芸部がやってくれるので特に問題は無い。
「優介~ちょっとベッド借りていい?」
「ん?ああ。いいぞ」
麻耶が眠そうな表情で問いかけてくる。ここのところ麻耶の睡眠時間はほとんど無かったので、こうなるのも仕方ない。なので優介は快くベッドを貸すことにした。すぐに麻耶は横になり、スヤスヤと寝息を立て始めた。その間も優介はキーボードをたたく。今書いている章が終われば後は細かい見直しで完成する。おそらく麻耶の方もそうかからずに完成するだろうし、順調すぎて逆に不安になるというのはこういうことなのだろう。
「ここの主人公のセリフ、ちょっとわざとらしいかな……」
最後の章だけあってかなり試行錯誤する。文章の表現ひとつで名作にも駄作にもなる。それは麻耶の小説をいくつも読んだからこそ分かったことでもある。
「よし……これでよしっと。ん~やっと完成だ!」
カタン、とエンターキーをたたく。夏に執筆を終えた時も感じたこの達成感はやはり気持ちがいいものだ。
「顔でも洗うか」
そう思い立ち上がるとベッドで眠っている麻耶が視界に入った。作業中だったので服装は引きこもり時代と変わらない白のパジャマ。もう見慣れていたので特に意識することも無かったが、ちょうど麻耶が寝返りを打ったところ、シャツがめくれておなかがあらわになった。
「え、ちょっ!」
細いウエストに透き通るような白い肌。優介の視線はしばらくくぎ付けになる。よくよく考えると男女が二人きりで一つ屋根の下、しかも片方が無防備に寝ている状況というのはいろいろまずいんじゃないだろうか。
「って、なに考えてるんだ俺は!」
自分の頬を思い切りひっぱたき麻耶から視線をそらす。
「あれだな、集中しすぎて疲れてるんだな。俺」
誰かいるわけでもないのに言い訳をする。すると再び麻耶に動きがあった。
「ううん……優介ぇ……くすぐったいよお……」
「ほえ!?」
発言内容にびっくりして再び麻耶に視線を戻す。どうやら寝言のようだ。
「どんな夢見てんだよ……」
思わず抱きかけた邪な妄想を振り払い、麻耶に布団をかけ、自分も座布団を枕に眠ることにした。疲れていたせいか、すぐに優介の意識は夢の世界へと旅立った。
***
そこは初めて麻耶と出会ったハイツ諏訪部の101号室だった。だが、ゴミ屋敷だったあのころとは違い、すっかり片付いている。
「え?いや片付いているというかなんというか……」
優介の記憶が正しければ麻耶の部屋には備え付けの物やパソコンくらいは備わっていたはず。それなのに今優介がいる部屋には何もない。それなら何故ここを麻耶の部屋だと認識したのだろうか。
答えは簡単、目の前に麻耶が立っているからだ。長かった髪を切り、可愛いメイクをして女の子らしい服装をした後期からの麻耶。
「なあ、麻耶」
「……」
「学祭、どれくらいの人が俺たちの小説を読んでくれるかな」
「……」
「ま、麻耶?」
何かがおかしい。目の前にいるのは確かに麻耶なのにそこから麻耶らしさを微塵も感じない。表情も、仕草も、態度も。何一つ優介の知っている麻耶では無かった。
「優介」
ようやく麻耶が口を開いた。
「お、おう。なんだ?」
「ボク、好きなんだ」
「は、はい?今なんて?」
何かの聞き間違いだろうか。麻耶がとんでもないことを言った気がする。
「好きなの」
「お、お前、そんないきなり……」
「いきなりなんかじゃないよ。ずっと、ずっとね……」
これは一体どういう状況なのだろうか。急に告白されて優介の心臓は跳ね上がる。
「ずっと、チーズ蒸しパンが好きなんだ」
「……はい?」
これは一体どういう状況なのだろうか。もはや意味不明だ。
「いや、そんな真面目にチーズ蒸しパンに告白してどうするんだ?」
「でも、流石にこんなに食べきれないから優介にあげるよ」
「ついに頭が限界突破したのか?」
「じゃあね」
そう言い残すと麻耶は扉を開け部屋から出て行く。
「お、おい麻耶!待てよ!」
その声は麻耶に届いたのだろうか。麻耶の反応を確認する前に優介は自分の体にのしかかる重圧を感じた。上を見上げると、巨大なチーズ蒸しパンがそこにはあった。
「いや、どういう状況だよ!」
そう叫ぶと同時に優介の意識は現実に戻る。今まで見ていたのはただの夢だったらしい。
「ん?なんか重い……」
だが、体に感じた重圧は夢では無かったらしい。落ち着いて目をこすると、視界には自分に覆いかぶさっている麻耶の姿があった。
「は?え、ちょっと意味がわからないんですけど!」
「ん~優介ぇ。チーズ蒸しパン美味しいでしょ……?」
「さっきの悪夢はお前のせいか!」
どうやらずっと耳元でチーズ蒸しパンと連呼されていたらしい。なんという悪質な寝言だろうか。
「いや、それより今何時だ?」
部屋には窓からさす光がない。ただ蛍光灯の豆電球が灯っているだけだ。枕もとの携帯を起動すると、時刻は午後6時。さっき作業していたのが確か午後2時なので4時間は眠っていたらしい。
優介が状況確認に必死な中、唐突にノックの音がした。
「桜井、いる~?差し入れ持ってきたけど~」
悠里だ。そういえばここのところ人の出入りが多いのでドアに鍵は掛けていなかった。
こういう場合、どう返事すればいいのだろうか。「いる」と言えば向こうは普通に入ってくるだろう。返事そのものをしなければ向こうは心配して入ってくるだろう。つまるところ、悠里は入ってくるだろう。
「この状況をどう説明しろと……」
「桜井?入るよ?」
無慈悲にも扉は開く。
「あれ、真っ暗だね?」
「優介の奴寝落ちしたのか?」
しかも隆盛と望までいるという徹底ぶり。これは漫画か何かなのだろうか。
そして、電気が付けられ、部屋が光に照らされる。
「さ、桜井!?ちょ、ちょっと……」
「だ~待て待て待ってくれ!これはそういう状況じゃなくて!」
「そうじゃなくて!パソコン!線抜けてるって!」
「え?」
なんとか麻耶を押しのけパソコンの方を見ると確かにコードが抜けていた。さっき執筆を終えた時、優介はちゃんと電源を切っただろうか。
「あ……」
答えは否。あの時、あまりの眠気に保存ボタンも押さず、USBも抜かず、そのまま寝てしまった。そしていつの間にかコードが抜け落ち、パソコンはブラックアウトしたのだ。
「おい優介、お前顔真っ青だぞ」
「え?流石にバックアップくらい取ってるよね?」
望の問いかけに優介は力なく首を振る。
「いや、単純に電源が切れただけだし、中身は無事かもよ?」
悠里の考えも最もなのだが、再び起動したパソコンから小説のデータは消え去っていた。