「あー死にそう……」
そんなことをぼやきながら、優介はキーボードを叩く。
「おお優介よ、死んでしまうとは情けない」
「本当に情けないよ、俺……」
もはや隆盛の言葉にまともなリアクションを取ることもできない。
「この間までの勢いがウソのようだな」
「そりゃあ落ち込みもするだろ!半月近くかけて書いたデータが全部消えて3日後に締めきりなんだぞ!ケツカッチンどころかすでに燃えてるわ!」
結局、あの後いろいろやってみたがデータを修復することはできなかった。なので、優介は半月でやっと完成した小説を9日間で打ち直さなければいけないという危機的状況に追い込まれたのだ。唯一の救いは、書いている途中に隆盛達に感想を貰うために見てもらっていたこと。そのおかげで今のところほぼ完全に復元ができている。
とは言っても、締め切りまで残り3日の10月7日午後8時、全体の6割までしか到達していない。
「てか、そろそろなんか食えって。体もたないぞ」
隆盛の言うとおり、今朝食パンを一枚食べただけで他には何も食べていない。
「こんな時に、食べてる場合じゃ……」
強がってみたものの体はウソをつけないようで腹の虫が盛大に鳴いてしまった。
「ほら、これでも食えって」
隆盛は悠里が持ってきてくれた差し入れの袋から適当に取り出し、こちらに投げてくる。それをなんとかキャッチする。
「おっと。おい、食べ物を投げると罰が当たるぞ」
「せっかくの差し入れを食べない方が罰当たりだろ」
「はいはい……」
適当に相槌を打ちながらキャッチしたものを確認する。
「チーズ蒸しパン……」
「あれ、嫌いだったか?」
「別に嫌いじゃないけど……」
チーズ蒸しパンで連想するのはあの時の夢。かなりクレイジーな内容だったせいか、なかなか忘れることができない。なにより、麻耶が「好き」といったあの時の心臓の高鳴りが忘れられない。
「そういえば、他のみんなは?」
今日は一日中部屋で執筆していたが、隆盛以外だれも来ていない。
「望はゼミの課題。天草はなんか用事があるって言ってて、狭霧ちゃんは知らん」
「そんで、隆盛は何してんの?」
テーブルの陰になって見えないが、隆盛は寝転がりながら何かしている。
「ん?ああ、俺は今宣伝用のポスター書いてた」
そう言って起き上がり、書きかけのポスターを見せてくる。
「え、めっちゃ上手いじゃん。お前、こんなこともできるんだな」
「ま、俺は大抵のことにおいて人並みよりちょっと出来るからな」
これでちょっととは、優介ならこれより数段劣る出来になるだろうに。これなら当時天才と呼ばれていたのも理解できる。
「ま、当日までには量産して掲示板に貼っとくよ」
「なんかすまんな」
「いいってことよ」
話しながらチーズ蒸しパンを頬張る。すると、隣、101号室から大きな物音がした。
「なんだ?狭霧ちゃんがベッドから落ちたのかね」
普通に考えればそんなところだが、優介は何故か底知れない不安を感じた。
「悪い、ちょっと麻耶の方見てくる」
「え?ああ。そう?」
急いでくつを履き、自室を出る。麻耶の部屋の前でインターホンを押す。だが、返事はない。
「麻耶?どうした?入るぞ?」
マスターキーをつかって鍵をあける。思えばここ最近麻耶の部屋には入っていなかった気がする。お好み焼きをした時も、麻耶は「散らかってるから」と言って部屋を貸してくれなかったのだ。
ドアノブをひねり、ドアを開く。ドアを開けた優介を出迎えたのはいくつも積まれた段ボールだった。
「は?ええと……?」
良く分からないまま段ボールを避けて部屋にあがる。そこに広がっていた光景は、綺麗に片づけられた……と言うよりほとんどの物が段ボールに詰められている部屋だった。
「……優介」
その段ボールだらけの部屋の中央に麻耶はいた。
「えっと、麻耶さん?これはどういう状況なんだ?」
全く状況が分からないまま問いかける。
「見られちゃったか。まあ、いつか言うつもりだったんだけど」
「え?」
状況が飲み込めず、間抜けな声を出してしまう。だが、麻耶の表情は真剣そのものだった。
「ボク、福岡へ引っ越すんだ」
麻耶が何を言っているのか、それを理解するのにはかなりの時間を労した。
「引っ越す……?」
「うん。福岡に」
「え?いや……え?」
「福岡にいるお母さんの親戚が一緒に暮らそうって言ってるんだ」
福岡の親戚。そこでようやく繋がった。麻耶が夏休に福岡に行っていたのは全てそのためだったのだ。
「それじゃあ、大学は?」
「やめるよ。そもそもこのまま通っても単位不足で卒業できないしね」
「やめるって……それじゃあ、なんで学校に来たんだよ?」
「それは……優介たちとの思い出が欲しかったから」
「そんなのって……」
「ボク、優介には感謝してるんだ」
麻耶が真っすぐこちらをみて笑う。今日まで何度も見てきた麻耶の笑顔だが、今の優介にはそれに心から答えることができなかった。
「優介がボクの世界を変えてくれた。優介に出会わなかったら、今もずっと引きこもってたんだと思う。現実から、大人たちから、社会から逃げ続けるだけのつまらない人生だったんだ」
世界を変える。最初に蘭子にそれを頼まれたとき、そんなこと出来ないと思っていた。一人の人間の世界を、人生を変える力なんて自分には無いと、そう思っていた。
だが、優介は変えた。麻耶の世界を、そして自分自身の世界も。
「優介。4月に、ボクに聞いたこと憶えてる?」
「聞いたこと?」
「引きこもりなのになんで大学に進学したのかって話」
そういえば、そんなことを聞いたことがある。あの時ははぐらかされてしまったが。
「ボクが大学に進んだのはきっと、優介に会うためだったんだよ」
「……そんなの結果論じゃないか」
「ははっ、そうかもね。でも、それでもボクは優介に会えて良かったよ」
「俺は……」
なんだろうか。今この場で麻耶に伝えたいことはなんだろうか。「行かないで」だろうか、それとも「行って来い」だろうか。そもそも麻耶と離れたくないとすればその理由はなんだ。小説の事をもっと話したいからか、作家として麻耶の技術をもっと吸収したいからか。
「だからさ」
それでも、麻耶は言葉を紡いでくる。
「学祭は、優介たちとの最後の思い出は、人生で最高のものにしたいんだ」
その瞳には一切の揺らぎが無い。そんな瞳で見つめられて、なにを言えば良いというのだろうか。
***
それからどれくらい時間が経っただろうか。近所の公園のベンチに座り、ずっと空を眺めていた。
麻耶が福岡に引っ越す。別にそれは一生の別れでは無い。メールだってあるし、日本国内にいるのだから会おうと思えば会うこともできる。
それでも、麻耶がいなくなった後の自分の生活を、人生を想像できない。それほどまでに狭霧麻耶という人物は優介の深いところにいるのだ。
「はあ……」
「幸せ、逃げるよ」
いつのことだったろうか、いつかも優介がこんなため息を吐いた時、彼女は同じセリフで話しかけてきた。
「……悠里」
「手島が、桜井は多分ここだろうって」
「あいつ、俺のストーカーなのかな」
「知らない。それより隣、座ってもいい?」
無言で隣を促す。悠里はそれに従い隣に座る。
「狭霧さんのこと、ばれちゃったんだね」
「知ってたのか?」
「うん。お好み焼きした日に、狭霧さんに荷造りを手伝ってほしいって」
「それは、妥当な判断だな」
薄く笑ったつもりだが、実際には全く笑えていない事に優介は気付いていない。
「狭霧さん、言ってたよ。『言ったら優介はきっと困るだろうから、学祭が終わるまでは内緒にしてほしい』って」
「麻耶が、そんなことを……」
「ねえ、桜井はどうなの?狭霧さんがいなくなってもいいの?」
一番聞かれたくないことを聞かれ、一瞬返答に詰まってしまう。
「……麻耶が決めたことなら、俺が口出しすることじゃないだろ」
せっかく麻耶が親戚や他の大人たちと距離を縮めようとしているのに、それを止められるはずがない。
「それは、事実を言ってるだけでしょ。私が聞いてるのはそんなことじゃないよ」
「……」
優介本人の気持ちを聞いている。そんなことは分かっている。だが、優介にはもう自分の気持ちが分からなくなっていた。
「ねえ、桜井。大会の時に、話があるって言ったよね?」
「あ、ああ。」
「今、聞いてもらってもいい?」
「いいけど、なんで今なんだ?」
すると悠里はそれには答えずに立ち上がり、優介の方に向き直った。
「一度しか言わないからね」
悠里の表情は真剣そのものだった。思わずこちらも姿勢を正す。
「私ね、私はずっと……」
その時、悠里を移す視界の隅に、流れ星が見えたような気がした。
「私は、桜井の事が好き」