――あいつと過ごしたのはほんのわずかな時間だった。それは長い人生から見ればとるに足らない時間なんだろう。でも、その間に、俺の、俺たちの世界は大きく変わったんだ。あいつは今なにをしているだろう。何を見て、何を感じているのか。俺には知る由もないけれど、あいつなら大丈夫。だってあいつは『さよなら』とは言わなかったから――
「うん。この原稿ならバッチリです。桜井先生、お疲れ様です」
担当編集の馬渕は満足そうに原稿を眺める。
「いえいえ、馬渕さんも、お疲れ様です」
大学を卒業して2年。優介は駆けだしとはいえ作家として活動を始めていた。今は都心部のアパートに間借りしている。
「桜井先生はいつも締め切りを守ってくれて助かりますよ~」
「いや、締め切りを守るのは普通でしょ……」
「いやいや、結構いるんですよ、締め切りを1週間も伸ばす先生とか」
「それは……大変ですね」
オーバーなアクションをとる馬渕に苦笑いしつつも言葉を返す。
「あ、そうだ先生。来週の土曜日、出版社の方でパーティーがあるので、参加のほうお願いしますね」
馬渕はそう言ってハガキを渡してくる。
「あ、はい。わかりました」
「それじゃあ、失礼します。次の原稿もお願いしますね~」
次の打ち合わせがあるらしく、馬渕はどたどたと出て行った。
「パーティーか……」
呟きながらベッドに横になる。すると、携帯の着信音が鳴った。画面を見て、ため息をつきながら通話ボタンを押す。
「よう、久しぶりだな」
「先週も……というか毎週電話してるけどな!」
「優介センセイがさびしくてさびしくて震えてると思ってな」
いくつになっても隆盛は相変わらずだ。聞くところによると今はスポーツカウンセラーとしてサッカーチームで働いているらしい。
「俺はそんなに女々しくないって……」
「そうか?この前の小説のヒロインの描写はなかなかだったぜ?」
「それとこれとは関係ないだろ……。隆盛こそ、望先輩とはどう?」
「昨日は激しい夜だったよ」
「そんな生々しい話は聞きたくないね!」
「まあまあ、そんでさ、今週の土曜暇?久々に飲もうぜ~」
隆盛から飲みに誘われるのはかなり久しぶりだ。すぐに返答しようとしたがテーブルの上のハガキが目に入った。
「ごめん、土曜は出版社のパーティーがあって」
「えーまじかよ。でもそんなら仕方ねーな。また今度誘うわ」
「ごめん」
「いいっていいって。パーティーでいい人見つけろよ?」
「いや、婚活パーティーじゃねえから!」
その後しばらくくだらない話をして、電話を切った。
「さて、晩飯でも作るか」
今日はオムライスにしよう。そう思い冷蔵庫から卵をとりだそうとするとインターホンが鳴った。このアパートにはインターホンのモニターが設置されていないので、卵を戻しながら大声で答える。
「はーい」
「すみませーん隣の者なのですがお風呂がこわれちゃって~」
「え!?風呂が?」
このアパートの風呂は流石にそんな簡単に壊れるほど脆くは無いはずだが、どうやったら壊せるというのだろう。だが、それ以前に一つ疑問があった。
「隣って人住んでたっけ……?」
優介がここに引っ越してきてから隣に新しい住人がやってきたなんて話は知らない。だが、隣の部屋の住人なんて見たことはない。だが、声の主は隣に住んでいるという。
取りあえず、このまま放置するわけにもいかない。よくわからないままドアを開ける。
「風呂が壊れたなら業者に言った方が……」
優介の声は途中で途切れた。目の前にいる人物に言葉を失ったからだ。
「――えへへ。久しぶりだね」
その長い髪も、ピンでとめた前髪も、白いパジャマも、屈託のない笑顔も。すべてが懐かしかったから。
「お前、なんで……?」
「なんで、ってボクは隣に優介が住んでたことになんで?だよ」
「ならもう少し驚いたリアクションをとってくれるかな……」
隣の部屋に引っ越してきた住人はいない。なのに彼女は隣に住んでいる。これはつまり……。
「なあ、ひょっとしてお前……」
「なに?」
「また引きこもりしてんの?」
「そうだよ?」
「そうだよ?じゃねえ!全くお前は……」
「――好きだよ」
優介の言葉を遮って彼女は想いを伝えてくる。
「あの時も今もずっと、ボクは優介が好きだよ」
その言葉に優介は小さく笑い、答えた。
「俺も、今までも、これからもずっと麻耶が好きだよ」
「優介!」
そして二人はあの時のように、唇をかさねた。
――普通、それは特に変わり映えない、ごく一般的な様の事だ。大抵の人はみんな自分は普通に生きていると思い込んでいる。でも、ちょっとしたきっかけで。その普通な人生は無限に姿を変える。誰にだって、自分の世界を変える力はあるんだ。そして俺の、俺と麻耶の世界はこれからも変わり続けて行くんだ――
今回で完結となります。優介たちの物語を描いている間、とても充実した日々でした。また、本作を読んでくれた、楽しんでくれた方へは感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました!