ジャブジャブ顔を洗って、パッパと拭いてピットに戻ってきた。
一度部屋をあとにする前と同じく、室内はずっと妙な緊張感が漂っている。
みんながみんな、目配せし合っていた。あるいは牽制か。
「織斑くん」
清香は発案者に向かって努めて笑顔で告げた。一夏の周りでは谷本と箒がジャンケンで遊んでいる。
一夏が顔をあげた。
「で、誰にするんだ?」
目が本気だ。自信たっぷりに腕組みしている。男子は選ばないだろうという確信があるに違いない。
清香は再び周りを見回した。
本音は隠し持っていたまんじゅうを味わっている。鏡ナギは菓子箱の表示を見て青ざめ、本音の肩を揺らして食べるのをやめさせようとしていた。
「だったら、アレ」
本音を指さした。理由は一番気にしなさそうだったから。
「んんん~?」
本音は指名に気づいて食べさしのまんじゅうを呑みこむ。飲み干したお茶の紙コップを机に置く。清香の手招きに応じ、ゆったりとした足取りでやってきた。
「なになに~」
「検証に協力してよ」と清香は無心で告げた。
「いーよー」
え! 本音以外の全員が驚きの声を発した。「よくない、よくないよ!」と鏡が慌てふためく。
「女の子同士でも! ノット・ノーカウント! キスなんて! もっと自分を大事にしなくちゃ!!」
「数に入らないよ~。きにしなーい、きにしなーい」
外野との温度差が激しい。
清香は明鏡止水に至らんと本音の正面に向き直った。チラ、と一夏を見た。
紅顔がさらに赤らんでいる。谷本が背後から彼の顔を覆っているが、微妙に隙間をあけている。無造作を装って胸を後頭部に押しつけており、一夏の心拍数が跳ね上がった。
「近いっ。近すぎるっ」箒は後ろから谷本を引きはがそうと必死だが、上手くいっていなかった。
「ナギさん」
あれ。と一夏たちを指さす。「一応恥ずかしいんだから」
鏡ナギが一夏の視線を遮る。「男の子は見ちゃダメです」「ええー」谷本が不満の声を上げた。
さて準備は整った。
(本音のことだから結果がどうなるか、何も考えていない気がする。念のため)
本音が逃げないよう、両手で頭をがっちりと押さえる。
「じゃあ、軽くで」
「んー」
グッと抵抗があった。薄目を開けると本音も清香の頭を押さえていた。(あれれっ!?)
「グギギギ!」「ギグググ!」
動かない。清香は顔を近づけようとした。本音は顔を遠ざけようとした。双方血管が浮き出るほどに力を強める。
「グギギギ!!!」「ギグググ!!!」
「めっちゃ嫌がってんじゃんか!」
ぜーはー。ぜーはー。と手を離してから荒い呼吸をつく。
本音は直前になって怖じ気づいたのだ。
清香は諦めて振り返った。本音とのやりとりで疲れており、手近な人間に声をかける。
「ナギさん。私より適性高かったよね」
「えええ! 待って。待って。私!?」
ナギは自分を指さす。
清香は構わず頬に手を掛け、顔を少し傾けた。そのまま距離を縮めていく。
唇が触れあいそうになったところで、ナギが手を差し入れて危機を脱した。
「待ってって! 私は女子でもカウントすることにしてるからっ! パス! 私はパスっ! 癒子っ、癒子でっ!」
清香は谷本たちを見た。
椅子に座る一夏。谷本がいつの間にか対面で膝の上に座っている。一夏の頭を抱きしめ、彼の視界を覆っている。が、一夏は胸に顔面を埋めており至福の状況。 谷本は箒を見やりながらニヤニヤ笑みを浮かべている。
(篠ノ之さんのほうが大きいから、代わってあげれば織斑くん喜ぶのにな……)
などと考えつつ谷本の肩を突いた。
「どしたの。相川ちゃん」谷本が振り返る。
「ナギさんがパスだって」
「何でわたしのところに?」
「パスしたナギさんが癒子を指名したから」
谷本がとっさに鏡を見やった。「ごめーん」鏡が両手を合わせる。
谷本は深々とため息をついた。
「ナギがダメならわたしはダメだねー」
「どうして?」
「残念ながらナギよりも適性が低くってね」
「……確かに」
言われてみればそうだった。入学して知り合ったばかりの頃に適性を教え合っていた。
谷本が一夏から身体を離し、膝から降りた。
一夏は新鮮な空気を求めて喘いだ。谷本は清香の肩を小突いてから、ナギのもとへ向かった。
清香は深呼吸してから口を開く。
「じゃあ、おりむ」「ダメだ! ダメに決まってるだろう!! やるなら私にしろ!!!」
「らくんじゃなくて、篠ノ之さんで」
清香は箒の志願に心打たれた。「篠ノ之さん……」
(おねーさんとは違って妹さんは高潔な人格者なんだ……)
本音が視野の裾を音も立てずに移動していた。携帯端末を机に据え付け、おねーさんとのテレビ回線を繋ぐ。
「やるならやれ! 武士に二言はないぞ!」と腹を決めた箒の背後に忍び寄った。
「おのれっ卑怯なっ!」
箒の叫び。清香をギロリとにらんだ。
あわてて顔を左右に振って否定の意思を示す。……あまり届いていなかった。
「くそぅ! 動けんっ!」
「暴れるともっと関節極まっちゃうよ~」
谷本と鏡が箒の両手を押さえる。一周回って自分に番が回るのを恐れたようだ。
「友達を売る気かア! 一夏! 助けてくれ! 男だろう!」
「俺は見てないっ。何もきーてないっ。何も起きてないんだあっ!」
だが、肝心の一夏は背を向けており、両手で耳を塞いで目を瞑っている。
いざ箒が腹を決めたので、一夏自身は恥ずかしくなって正視できなくなってしまっていた。
清香は本当に爽やかな顔つきで迫った。途中、本音の携帯端末におねーさんの姿が映ったので話しかけてみた。
「おねーさん。おねーさん。妹さんの適性値はいくらでしたっけ?」
「E……ゴホンッゴホンっ……いやAだね。練習すればSいっちゃうよん」
即答だ。こういうときだけは速い。
「検証に最適だね」
「……――やっ、ヤメロォォォォオオオ」
箒がなおも抵抗を試みるが、本音たちの拘束がしっかりしていて身体が動かせない。
清香は男子としたことはなかったが、女子となら別に初めてではない。なに、粘膜と粘膜がちょっと触れあうだけだ。
(気にするだけ、損、損)
清香は明鏡止水の境地に足を踏み入れていった――。