濃紺の作務衣を着た少年が、早朝の街を歩いていた。
少年の右手にはステンレス製のボウルが抱えられている。
ボウルの中では水と豆腐がゆらゆら揺れて、朝日を反射させていた。
その少年が履いている下駄は、アスファルトの歩道を踏み鳴らし、からころと小気味のいい乾いた木の音を響かせる。
隠れた名店と噂される老舗の豆腐屋にて、最高の絹ごし豆腐を手に入れたこの少年、比企谷八幡は上機嫌で帰路についていた。
家に帰って、最愛の妹である比企谷小町に、美味しい味噌汁を振る舞うという使命を帯びた八幡の脳裏には、小町の笑顔が浮かんでいる。
「むしろ、小町の笑顔しか浮かんでいないまである」
妙な独り言を呟きながら、見通しの悪い交差点を右に曲がった八幡の目に、リードが外れているミニチュアダックス犬が映った。
対向車線側の歩道を疾走するその犬の後方では、犬の飼い主であろう少女が、外れたリードを握りしめて必死に追いかけている。
しかし、お世辞にも速いとは言えないそのスピードでは、捕まえられそうに無い。
楽しそうに、自由に走るその犬は、何を思ったのか急に進行方向を変えて車道へと飛び出し、八幡が歩いている側の車道に突っ込んできた。
運の悪い事に、そこへ一台のリムジンカーが走って来る。
リムジンの運転手はどうやら犬の存在に気づいていない。
放っておけば、間違いなく犬の命は失われるだろう。
それを見た後の八幡の行動は早かった。
リムジンに向かって走りながら、右手のボウルを瞬時に空高く放り投げる。
走る八幡の下駄がかき鳴らす音は、静かな早朝には場違いな騒音として運転手の耳に届いた。
そして、その音の発生源である八幡が歩道を飛び出したのを目にした所で、やっと運転手はブレーキを踏んだ。
運転手の男は、背中に冷や汗が流れるのを感じながら、唇を噛み締めた。
犬の飼い主の少女、由比ヶ浜結衣は最悪の場面を想像して、両手で顔を塞いだ。
リムジンの後部座席に乗っていた少女、雪ノ下雪乃は横の窓から外の景色を見ていた所為で、何が起こったのかよくわからなかった。
雪乃が聴いた衝突音は二回だった。リムジンの前方で一回と、リムジンの上方、雪乃の真上で一回。
彼女はその聡明な頭で直ぐに理解した。どういう当たり方をしたのかまではわからないが、間違いなく交通事故を起こしたのだ。
とにかく被害者の状態を確認しなければと、シートベルトを急いで外して車を降りる。そして恐る恐る車のルーフ部分を見た。
おそらく、そこには被害者がいるはずだ。彼女はそう思い込んでいた。
自分の真上で鳴った派手な衝突音は、間違いなく被害者がルーフに乗り上げた時のものだ。
だから今ーー私の目に写る光景は何かの間違いだーーと、雪乃は思った。
リムジンのルーフの上には、左手に犬を抱えて右手を空に掲げた少年、比企谷八幡が突っ立っている。
その相貌はまるで、太陽の如く輝いて見えた。
「そこは水がかかる。もう少し退がれ」不意に、八幡が雪乃へ声をかける。
しかし、不幸なことに雪乃にはその言葉の意味がわからなかった。
次の瞬間、八幡が掲げていた右手に、空からステンレス製のボウルが落ちてくる。
犬を抱える時には両手があいていた方が良いと判断した八幡は、丁度リムジンの真上に落ちてくる様に調節して、ボウルを放り投げていたのだ。
うまく肩と肘の関節を曲げ動かして、衝撃を柔らげながら片手で受け止めたものの、ボウルに張ってあった水が少し溢れた。
溢れた水は、直ぐ近くにいた雪乃の頭にかかってしまう。
突然の事態に混乱する彼女は、どう対応していいのかわからず、水で濡れた頭のまま呆然とする。
彼女の端正な顔立ちと整った肢体、それに烏の濡れ羽色の様な長髪は、普段は見る者を惹き付けるのだろう。
しかし現在は、その文字通り水の滴る長い髪が、彼女のお嬢様然とした雰囲気とミスマッチを起こして、コミカルな印象を受ける。
「退がれと言ったんだが……な」そう言って苦笑する八幡を、睨みつける雪乃。
そんな雪乃の傍に早足で駆け寄ってきた運転手の男は、車の上にいる八幡に「あのう」と声をかけるが、八幡は我関せずといった態度でボウルの中を覗き込んでいる。
そして、犬の飼い主である結衣もまたリムジンの近くまで寄ってきた。
肩のあたりまで伸びている髪は彼方此方に跳ね回り、右サイドの上方に纏められたシニョンは解けそうになっている。
かなり走ったせいか、それとも凄惨な事態を想像して焦ったせいか、息を切らして肩を上下させていた。
「あ、あの、大丈夫……ですか?」結衣は弾む息を抑えながら八幡に問いかける。
すると八幡は、周りに集まってきた三人の顔を一人ずつ見回したあと、空を見上げてこう答えた。
「おばあちゃんが言っていた……二兎を追う者は二兎ともとれってな。犬を救い、豆腐も守る。両方できてこその俺だ」
いきなりおばあちゃんのありがたい教えらしきものを語り出した八幡に、雪乃は尚も混乱してしまう。
答えになっていない八幡の言葉に、頭でも打ったんだろうかと心配になった運転手の男は、「お怪我はしていませんか?」と訊いた。
それに対して八幡は「失礼なことを言うな。あの程度で怪我などするわけがないだろう」と不遜な態度で答える。
「犬を抱えた後、咄嗟にボンネットを蹴り上がり、ルーフに着地した。見ての通り無傷だ」
水は少し溢れたがな、と呟きながらリムジンから飛び降りる八幡。
「とはいえ、車には少々傷を付けてしまった。修理費は必要か?」
「修理費など必要ないわ。あなたは被害者なのよ? 本当に怪我はないのかしら」雪乃が疑わしげに訊く。
「失礼なことを言うなと言ったはずだ。この俺が被害者だと? 俺が車程度に被害を受けるはずもない」
八幡の言葉に呆気にとられる雪乃。そんな彼女を放置して八幡は結衣に話しかけた。
「この犬の名前はなんだ?」
「あ……サブレです。サブレっていいます」と幾分恐縮しながら結衣は言った。
「サブレの手綱はしっかり握っておけよ。それと、リードは肩がけのタイプを選ぶと良い、逃げ出されることは無くなるはずだ」
八幡は左手に抱えていたサブレを結衣の方へ寄越しながら忠告する。
「あ、ありがとうございます! サブレを助けてくれて、本当にありがとうございました!」
サブレを受け取り、頭を下げて感謝の言葉を述べる結衣。
それに対して八幡は左手を軽くあげて応えたあと、その手を作務衣のポケットに突っ込み、中から透明なビニールで包装されたタオルを取り出した。
「これで髪を拭いておけ、新品だから綺麗だ」
そう言って八幡から雪乃に投げ渡されたタオルには『大石豆腐店』と印字されていた。間違いなく粗品である。
「待ちなさい、ハンカチくらい持っているわ。あなたから施しを受ける謂れはないのよ」
「人の厚意は素直に受けるものだ」
そして、彼はさっさと帰ろうと踵を返す。
「あの、待って、何かお礼をさせてくれませんか?」からんころんと下駄を鳴らしながら去る八幡の背中に、結衣が声をかける。
「礼など必要ない」八幡は振り向きもせず、歩みを止めない。
雪乃は、私には『人の厚意は素直に受けるものだ』と言ったくせに、自分勝手な奴、と内心で呆れていた。
「じゃあ、せめて名前だけでも」と食いさがる結衣。
その言葉を横で聴いていた雪乃は、おそらくこの男は名乗らずに去るだろう、と思った。
先程からこの男は傲岸不遜な態度を崩そうとしない。
こういうプライドが高そうなタイプは、常に自分が他人の目にどう映るかを気にするはず。
だから、名を名乗るほどのものじゃないとか何とか言いながら、格好つけて去るはずだ、と予想した。
雪乃はそういう気障な行いがあまり好きではない。そもそも、タオルを寄越してきたことにだって少し苛ついているのだ。
名前くらい教えてやれば良いのに、と心の中で勝手な文句を付けていると、予想を裏切る声が聴こえた。
「比企谷八幡」
足を止め、ゆっくり振り返り、右手のボウルをわざわざ左手に持ち替え、空いた右手で太陽を指差しながら、八幡は厳かな雰囲気で呟いた。
「俺は天の道を往き、総てを司る男……比企谷八幡だ」
何だこの男は、と困惑の視線を向ける雪乃と、ちょっとカッコ良いかも、と憧憬の視線を向ける結衣を置いて、今度こそ八幡は家路に就いた。
よくある洋風建築の家屋というよりは、まさしく洋館と称した方が相応しいような一軒家が、比企谷八幡の住居だった。
その洋館のダイニングルームにはシックな黒塗りの高脚テーブルが鎮座していて、その上には二人分の朝食が並んでいた。
ふっくらと焚かれた白米に湯気が立ち、食欲をそそる。おかずは鰆の塩焼きと玉子焼き、ほうれん草のおひたし、それと味噌汁だ。
八幡の妹、小町は玉子焼きを箸で一切れ掴み、品定めするように眺めた後に、その小ぶりな口に放り込む。
ゆっくり咀嚼して味わうと、いつも通りの、自分好みに少し甘く味付けされたそれに、作り手である兄の愛を感じた。
味噌汁の椀を持ち上げ、箸で豆腐をひとつ摘んで口にすると、さらりと蕩けるような食感が舌の上に広がる。
そのまま、椀に口をつけて味噌汁を啜ると、思わず感嘆の溜め息が漏れた。
「うーん……お兄ちゃん、今日もグーッ!」
満面の笑みでサムズアップしている小町に、対面に座って自身も朝食を取っている八幡は、微笑みながら答えた。
「そうだろう。味噌汁は具によって出汁を変えるのがポイントだ」
「お兄ちゃん、小町の為に毎朝味噌汁を作ってくれ……なんてね、今の、小町的にポイントたかーい!」
「言われなくても、俺は毎朝小町の為に味噌汁を作ってるだろう?」
八幡の少しズレた答えに、小町は唇を突き出しながら眉間にシワを寄せる。
「もう、お兄ちゃん! 今のは可愛い妹からのプロポーズだったのにぃ。察しが悪いとモテないよ! 小町的にポイントひくいなぁ」
鰆の身を丁寧にはがしながら笑みを浮かべる八幡は、ちょっと拗ねたように怒る妹も愛らしいな、とやはり少しズレたことを考えていた。
「別にモテなくても構わない。可愛い妹がいればそれでいい」
「相変わらず心配になるシスコンぶりだね、お兄ちゃん」小町はちょっとだけ引いていた。
朝の忙しい時間帯にも関わらず必要以上にゆっくりと食事をとるこの兄妹であるが、別に今日は休日というわけではない。
今日、晴れて高校生となる八幡は総武高校の入学式に出席せねばならないし、小町は中学二年の始業式がある。
そんな二人が朝食に時間をかけているのは、偉大な祖母の教えを遵守しているからだ。
祖母は、『食』に対して特別なこだわりがある人だ。食べるという事に敬意を持っていると言っても過言では無い。
特に一日の始まりである朝食は、たとえ遅刻してでも摂らなければならないのである。
朝食を済ませたあとは、手早く身支度を整え、二人で一緒に玄関をくぐり、二人で一つの自転車にまたがる。前に八幡、後ろに小町の二人乗りだ。
八幡が去年まで通っていた、そして小町が今も通っている中学校は、自転車通学を禁止しているので、去年までは二人とも徒歩で通学していた。
しかし、今年から八幡が通う総武高校は、自転車通学が認められているので、今日から仲良く二人乗りで通学出来るのだ。
お兄ちゃんパワーを常にフルチャージしている八幡にとって、妹の足となるのは当然の事だった。
「さあ、お兄ちゃん! 事故らないように安全運転で急行おねがいね」
「知らないのか小町。小町を後ろに乗せたお兄ちゃんは無敵だ。車なんか跳ね返すぞ」
「お兄ちゃんは無事でも、小町は無事じゃ済まないよ、それ」
だから安全運転で、と八幡の肩をとんとん叩きながら言う小町。
当然、八幡は事故など起こす気は毛頭ない。安定したハンドル捌きと力強いペダリングは、妹を送迎する兄の資格充分といったところだ。
そんなものに資格がいるのかはわからないが。
10分ほど漕いだところで、小町の通う中学校が見えてくる。小町は校門から少し離れたところで「ここで止めて」と言った。
八幡はブレーキを握りしめて止まると後ろの小町に振り返る。
「恥ずかしがらなくても、このまま教室の中まで二人乗りで送っても良いんだぞ」
「いやいや、どんな見せ物、それ。まあ、ある意味? 曲乗りの見せ物っぽいけども」
送ってくれてありがとう、と手を振りながら笑顔で駆けていく小町。
小町がその手にカバンを持っていないことを、八幡は気づいていたがあえて黙っていた。
自転車の前かごに置き忘れたカバンを、焦りながら取りに来る小町の可愛らしい姿を想像すると、とても教えることができなかったのだ。
3分後、駆け足で戻って来た小町は、案の定涙目であった。