天の道を往き総てを司る比企谷八幡   作:通雨

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奉仕部編最終話

 部室を出た雪乃は、まず最初にJ組の教室に向かった。結衣が自分を部長に選んでくれるなら、おそらく隠し場所は自分の机かロッカーの中だと思ったのだ。

 早歩きで教室まで辿り着くと、とりあえず机の中を探る。しかし、ハンカチは見当たらなかった。

 よく考えれば、結衣は自分の机の位置を知らないはずだということに思い当たり、次にロッカーへ向かう。

 ロッカーならば、扉に苗字を書いたシールが貼ってある。クラスメイトではない結衣にも一目瞭然でわかるはず。

 雪乃は、雪ノ下、と書かれたシールが貼られた、自分のロッカーの扉を開いて中を覗いた。

 だが、その整然としているロッカーの中にも、ハンカチは無い。

 クラスの教卓はどうだろうか……無い。掃除用具入れ……無い。黒板のチョーク入れ……無い。

 教室中、いたる所を探したが見つからなかった。

 そうこうしていると、教室に残って自習をしていたクラスメイトたちの一人が話しかけて来た。

 

「どうしたのですか雪ノ下さん。なにか探し物でしょうか?」

 

 話しかけてきたのは、黒縁の眼鏡をかけた大人しい女子だった。雪乃は、たしか根岸さんといったかしら、と彼女の名前を思い出した。

 

「ああ、いえ、ちょっと質問なのだけれど、この教室にA組の子が来なかったかしら? 右サイドにシニョンを作った、由比ヶ浜さんという子」

「その、由比ヶ浜さんという人は知りませんが、違うクラスの子は来てませんね」

「そう……ありがとう。邪魔したわね」

 

 雪乃は根岸に礼を言うと、教室を出た。

 J組の教室では無いなら、女子しか入れない様な場所に隠したのかもしれない。

 まさか、A組の教室に隠したとは、考えたくなかった。

 

 

 

 それから、雪乃は時間ギリギリまで方々を探し回った。

 しかし、ハンカチは一向に見つからない。

 由比ヶ浜さんは、比企谷くんを部長にしたいのか、と思うと自然に眉間に皺が寄る。

 仕方なく、奉仕部の部室に戻る為に廊下を歩いていると、背後から声を掛けられた。

 

「雪ノ下、ハンカチは見つかったかい?」

 

 声を掛けてきたのは静だった。雪乃は振り返り、静の呑気そうな顔を見る。

 

「おや、浮かない顔だね。どうやら、見つからなかったか」

 軽い物言いが少し癪に触るが、図星を指されて不機嫌になる様子を見せるのは嫌だったので、雪乃は気持ちを落ち着ける様に長い息を一つ吐いた。

 静は歩を進めて、立ち止まっていた雪乃に並ぶと、「ま、とりあえず部室に行こうか」と言って雪乃を促した。

 廊下を並んで歩く二人。部室まであと数十歩といったところで、静は徐ろに言った。

 

「人生には、上手くいかないこと、思い通りにいかないことが、幾らでもある。雪ノ下、勿論、君にもだ」

 

 雪乃は僅かに顔を顰めたが、歩みは止めなかった。

 歩みを止めれば、それは敗北を意味する様な気がしていた。何に負けてしまうのかはよくわからないが。

 

「姉は……雪ノ下陽乃は、全てを自分の思い通りにしている。そんな気がします」

 

 それを聞いた静は微笑みながら首を横に振った。

 

「そんな事はないさ、あの娘も普通の人間だ。君と、何も変わらない」静の声音は優しかった。

 

 雪乃は納得がいかない所もあったが、とりあえず反論はしなかった。

 部室に着くと、雪乃はドアをノックした。中から結衣の「どうぞ〜」という間延びした声がする。

 ドアを開けて中に入ると、八幡は雪乃が部室を出て行ったときと同じ場所に座っていた。手には現国の教科書がある。

 八幡は、雪乃と静が部室に入ってきたのを見遣ると、教科書をパタリと閉じた。

 

「明日からは、暇潰しの本を持ってきた方が良さそうだ」

 

 八幡は皮肉気に口角を少しだけ上げた。

 雪乃はさっさと、長机を挟んで八幡の対面にある自分の席に座る。雪乃の右斜め前には、結衣が畏まった様子で膝の上に手を置いて座っている。

 静は、部室の中程まで歩くと、腕を組んで八幡、結衣、雪乃の顔を順に眺めた後、厳かな雰囲気で言った。

 

「さて、私が提示したルールは『ハンカチを手にしたものが部長』ということだったわけだが」

 

 静が八幡の方へ目を遣る。

 

「暇を持て余して教科書を読んでいたという事は、比企谷は早々にハンカチを見つけたのかな?」

 

 言われた八幡は椅子を少し引いて席を立った。くるりと踵を返し、ドアの方へ歩いて行く。

 静は怪訝な表情になってそれを眺めた。

 

「ハンカチがある場所は把握している。しかし、そこは俺には触れる事が出来ない場所だ。残念だが、部長は俺ではない」

 

 八幡は振り返りもせず、そう言い残して部室を出て行った。

 何故八幡が部室を出たのか、雪乃にはわからなかった。

 ハンカチが何処にあるのかわかっている様な口振りであったことから、もしかしたらハンカチを取りに行ったのかとも思ったが、彼は、自分には触れる事が出来ない場所にあると言った。それはどういう事なのか。

 雪乃が悩んでいると、リボンタイを取り、ブラウスのボタンを胸元の当たりまで外す結衣の姿が目に写った。

 

「由比ヶ浜さん? 何を」しているの、と続く言葉は雪乃の口から出る事は無かった。

 

 結衣は右手の人差し指と中指を自らの胸の谷間に突っ込むと、そこから白いハンカチを取り出す。

 そして、そのハンカチを両手でしっかり持ち、顔の前で掲げると、雪乃と静に、ハンカチに書かれた『部長』という字を見せた。

 

「部長のハンカチを持ってるのは、あたし! だから、部長はあたし!」

 

 突然の結衣の部長就任宣言に困惑する雪乃。対して静はお腹を抱えて大声で笑い出した。

 

「あはははは! そ、そう来たか! ぷっ、あははははは」

 

 大笑いする静は放っておいて、結衣は顔の前で掲げたハンカチをそっと下げると、雪乃の顔を眺めた。

 

「あの、ゆきのん、あたしが部長じゃ、ダメかな?」

 

 恐る恐るといった様子で言う結衣に、唖然としていた雪乃は、表情を引き締め直し、目を閉じた。

 

「……成る程、確かに、由比ヶ浜さんが部長になるのが、一番バランスが良いのかもしれないわね」雪乃はそう言って、少しだけ微笑むと、目を開けて結衣に視線を向けた。

「ルールは納得していたわ。四十五分後にハンカチを持っていた人が部長。ならば、今ハンカチを持っている由比ヶ浜さんが部長というのも、ルール通りなのね」

「あたしが……部長で良いの?」

「ええ、由比ヶ浜さん。あなたに部長になってもらうわ」

 

 雪乃の言葉を聞いた結衣は、「ゆきの〜ん!」と叫んで、彼女に抱きついた。

 

「ちょ、ちょっと! 由比ヶ浜さん、とりあえずブラウスのボタンは閉めなさい!」

「仲良き事は美しき哉。とはいえ、外で待っているであろう比企谷が可哀想だ。さっさとボタン閉めなさい」

 

 二人に言われた結衣は笑顔で「は〜い」と応えてボタンを閉めた。

 リボンタイも付け直したところで、静は部室のドアを開けて、八幡を呼んだ。

 八幡が自分の椅子に座ったところで、静は片目を閉じて訊ねた。

 

「比企谷、君はこうなる事を読んでいたのか?」

「まあ、大体はな。着地点としては、こんな所だろう」

 

 静は八幡の事を、個人主義的で他人に興味を抱かないタイプだと思っていたが、意外と周りのことを観ているのだな、と目を瞬かせた。

 結衣は、少し恥ずかしそうに、おずおずと手を挙げた。雪乃、八幡、静の目が、結衣の方に向く。

 

「あの、部長になって早速なんだけど、提案があるの」

 

 結衣は、注目を集めて照れたのか、頬に赤みを帯びている。

 

「ポスター、作ろうよ! 依頼募集のポスター!」

「ポスター?」雪乃が疑問符を浮かべる。

「ほら、依頼、全然こないじゃない? それって、この学校の皆が奉仕部を知らないからだと思うの。ポスター作って部活動案内掲示板で宣伝すれば、依頼も来るんじゃないかなって」

 

 結衣の言葉に、納得する様に数回頷く雪乃。

 雪乃自身も、全く依頼が来ない今の状態は、あまり歓迎していなかった。

 

「ほう……もう少し考え無しかと思っていたが、中々、良い提案をするじゃないか、由比ヶ浜部長」

「ちょ、ヒッキー! バカにすんなし! あたしだって奉仕部の事を色々考えてんだからね!」

 

 八幡の皮肉混じりの感心に、結衣は心外そうに返した。

 

「姫菜がね、漫研に入部したらしいから、ポスターのイラスト描くの手伝ってってお願いしてみるよ。姫菜って、すっごく絵ぇ上手いんだよ」

 

 そう言って、結衣はポケットから取り出した携帯を操作した。

 静も「ポスター作りか、面白そうだな」と言って、部室の隅から椅子を引っ張りだして座った。顧問である自分もポスター作りに参加するつもりらしい。

 

 数分後、画材一式を持って現れた姫菜は、椅子に座っている八幡の肩をポンと叩き「天の道くんも奉仕部に入ったんだねえ」とチェシャ猫の様な笑みを浮かべて言った。

 

「それがどうかしたか?」

「いやいや、別にどうってことはないんだけどね」

 

 八幡の質問を適当にはぐらかして、姫菜は長机の上に画材を並べていく。

 ペンやコピックやポスターカラーなど、描く為の道具は揃っていたが、肝心の紙は無かった。

 

「漫画用のケント紙とかならあるんだけど、ポスターには向かないよねえ。紙どうしよっか?」姫菜が奉仕部の面々を見渡す。

「画用紙で良ければ、職員室にあるぞ」

「そうなんですか? じゃあ、あたし取ってきます。待ってて!」

 

 静の言葉を聴いた結衣は、善は急げと職員室に駆け出していった。

 

「騒々しい奴だ」八幡が呆れた様にポツリと零す。

「まあ、部長になったという事で張り切っているんだろう。可愛らしいじゃないか」

 

 静が言うと、姫菜が驚いて眉を上げた。

 

「結衣が部長なんだ。へえ〜」

 

 驚いた割に、姫菜はそれなりに納得している様で、腕組みしながらうんうんと頷いた。

 

 結衣が職員室から貰ってきた画用紙に、姫菜がささっと当たりを付けて、中央やや下よりに総武高校の制服を着た三頭身のキャラクターを三人描いた。

 真ん中には満面の笑みを浮かべる結衣らしきキャラクター、右には斜に構えた様な八幡、左には腰に片手を当て、したり顔の雪乃が描かれている。

 

「この右にいるちんちくりんが俺か? 八頭身にしてくれないか」

「ん〜、八頭身だと写実的にしないと途端にオタくさくなっちゃうからね。三頭身くらいのデフォルメ絵の方が逆にアーティスティックなんだよ」

 

 八幡の注文を一蹴する姫菜。描いてもらっている立場の八幡は、そう言われると納得せざるを得ない。

 

「私がいないぞ。私も描いてくれ」

「先生も描くの? こういうのは奇数の方が収まりが良いんだけど。ほら、戦隊モノも三人か五人じゃん?」

「戦隊モノなら追加戦士は付き物だろう? 四人目の新たな戦士として顧問がいたって良いじゃないか」

 

 静にそう言われ、左手を顎に当てて思案する姫菜。数瞬悩んで、中央から少し離れて右の方に新たにキャラクターを描き足した。

 脚と腕を組んでパイプ椅子に座り、ニヒルな表情で部員三人を見守るデフォルメ静が描かれると、現実の静も同じポーズと表情を見せた。

 

「んじゃ、あとは背景に学校を連想させる様な小物とか描いていこう」

 

 姫菜が他の四人に言うと、雪乃と結衣がペンを手に取った。

 

「先生とヒッキーは描かないの?」

「あまり大勢で一枚の紙に描くのも難しいだろう? 海老名はまだキャラクターに着色するつもりだろうし」

 

 結衣が訊ねると、静が答えた。姫菜はコピックでキャラクターに色塗りを始めている。

 

「学校を連想させる様なものって、例えばどんなものかな?」

 

 ペンを取って姫菜の右隣を陣取ったものの、何を描けばいいか思いつかない結衣。

 

「何でもいいよ。文房具とか、教科書とか。あ、紙の上の方と右下は空けといてね」

 

 姫菜は左手の人差し指で、上部と右下の空白をさっと指し示した。

 

「依頼者募集の宣伝文句を書くのね?」空白部分に何を書くのかピンときた雪乃が言い当てる。

「そう。それと部員の名前ね」

「私の名前も書くぞ〜。顧問だし」

 

 静は姫菜が描いた絵を余程気に入ったのか、絵と同じポーズのまま呟いた。

 

「姫菜の名前も書こうね。ポスター作成協力って」

 

 結衣が微笑みかけると、姫菜は着色の手を止めずに笑顔で頷いた。

 

 

 

 奉仕部のポスターが完成した次の日、二年D組の女子生徒、岬祐月は、職員室から出てきたところで自身が所属する部活の後輩の姿を見つけた。

 

「アキラ、そんな所で何してるの?」

 

 アキラと呼ばれた後輩は、部活動案内掲示板を眺めていた。岬に声をかけられて驚いた様に振り返る。

 

「まさか、どこか他の部活に転部しようってんじゃないでしょうね」

 

 岬は悲しそうに眉根を寄せた。岬とアキラは同じ中学の出身で、中学生の時から同じ部活の先輩後輩の関係だった。

 そういう事情もあって、岬はアキラに他の後輩以上の親しみを感じていた。

 

「三年が引退したら、一年の貴方も主力になるんだから、辞めないでよ」

 

 アキラは、苦笑しながら首を横に振る。

 

「違いますよ。これ、見てたんです」

 

 岬は、アキラが指差した先に目をやった。可愛らしいキャラクターが描かれたポスターが貼られている。

 ポスターの上部には『あなたの悩み、奉仕部に相談してみませんか? 我々奉仕部は、問題解決へのサポートを致します』と楷書体で書かれていた。おそらく筆ペンで書いたと思わしきその字は、なかなか達筆だ。

 

「貴方、何か悩みがあるの?」

「いやいや、そんなことは無いんですけど。ほら、右下に見覚えのある名前があったんで」

 

 言われてポスターの右下を見ると、

 

 

顧問 平塚静

部長 由比ヶ浜結衣

部員 雪ノ下雪乃

   比企谷八幡

 

ポスター作成協力 海老名姫菜(漫画研究会)

 

 

 と、部員の名前が並んでいた。その中に、岬にも覚えのある名前があった。

 その名前を指差しながら、「この子、私達と同じ中学だった子よね。貴方の友達の」とアキラに訊ねる。

 

「友達ってわけじゃないんですけどね」

「そうなの? 結構仲良さそうにしてたじゃない」

 

 岬の記憶では、友達の様に仲良くしていたと思ったが、アキラは否定する。

 

「面と向かって言われましたから、友達じゃないって」

「そ、それは……なかなか辛辣なのね。あの子」

 

 仮に友達じゃない相手でも、面と向かってそんなことは言えないな、と岬は思った。

 

「協調性とかあんまり無い奴ですから、部活に入るなんてどういう風の吹き回しだろう、と……ああ、でも人助けとかは意外と好きな奴だから、この部活内容なら入部するのもわからないでもないか」

 

「お悩み相談ねぇ」

 

 岬は、ポスターを眺めながらポツリと呟いた。


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