ゴールデンウィークの最終日、春の陽気に誘われて、お気に入りのサマーニットキャップをかぶった中山百合子は、相棒と共に公園に出かけていた。
その公園は野球場や球技場などが何面もある大きな複合施設で、森林生い繁る散歩道は目的もなく歩いているだけでも晴れやかな気分になるものだ。
しかし、百合子の気分はイマイチ晴れてはくれなかった。相棒の気分も同様である。
家の中でダラダラと過ごすのにも飽き飽きしていたが、散歩道をダラダラ歩くのにも飽きてしまった。
今は、風と共に木洩れ日が揺れるベンチで二人、ダラダラと休んでいた。
木製の白塗りベンチに腰掛けた百合子は、膝の上にのせた相棒の頭を撫でている。
相棒はその長身痩躯をベンチに横たえ、タイトジーンズを履いた長い脚を放り出していた。
商売道具が詰まったハードカバーのギターケースはベンチの足元に、そっと置かれている。
「ねぇ、カズ?」
「なんだよ、ゴン」
カズと呼ばれた相棒は、目を閉じたまま気だるげに答えた。
「それだよ」
「ん? どれだよ」
百合子の言葉は要領を得ない。それ、と言われても何のことだかカズにはわからなかった。
「私のこと、ゴンて呼ぶのやめようよ。私達もう高校生じゃん? ゴンは恥ずかしいって」
「ゴンはゴンだろ? それよりカズって呼ぶのやめてくれないか?」
「えー、何で? カズってあだ名かっこいいじゃん。キングカズみたいで」
「ゴンだってかっこいいだろう。ゴン中山みたいで」
女子高生に対してゴン中山はどうなんだ、と中山百合子はカズの事は棚に上げて思った。
まあ、当分はゴンでもいいか、と一人納得していると、ベンチから20メートル程離れたところで二人の男がもめているのが目に写った。
一人は、絵の具を頭からかぶったような発色の赤髪で、ヒョウ柄のパーカーに黒いエナメルのロングパンツという、いかにもチンピラでございといった風体で、太めの体格の男だ。
そして、もう一人は総武高校のジャージを着た少年だった。明らかに、ジャージ少年がチンピラに因縁をつけられている様子だ。
「大変だよ、カズ。総武高の子が、チンピラに絡まれてる」
「女性か?」
カズは閉じていた目をカッと見開いた。視線の先には百合子の細い顎が見える。
しかし、百合子の「男の子」という返答を受けると、また目を閉じた。
「ほっとけ。男なら自分でなんとかするだろ」
ジャージ少年はカツアゲでもされているのか、チンピラに胸倉を掴まれている。
そこへ、総武高校の制服を着た女子生徒が割って入る。どうやら、見兼ねて救けようとしているらしい。
「あ、女の子が仲裁に入った」
「行くぞ! ゴン!」
「おっけー! カズ!」
カズは颯爽と起き上がり、ギターケースを引っ掴んで駆け出した。
そのすぐ後ろを百合子が追い掛ける。
チンピラは標的を少年から女子生徒の方に替えたようで、少年は一目散に逃げ出してしまった。よくよく見れば、少年はカズと同じクラスの生徒だった。
カズは、チンピラも少年も男の風上にも置けない奴だ、と舌打ちする。
チンピラが女子生徒に殴りかかろうとしたところに間一髪間に合ったカズは、体を割り込ませてギターケースでチンピラの拳を受け止めた。
「ちっ! 商売道具で受けてしまった!」
「なんだぁ? テメエ」
突如現れたカズに、チンピラが困惑していると、背後から近付いた百合子がその赤頭に目隠しをする様にサマーニットキャップをかぶせた。
「ナイスだ! ゴン!」
カズは言いながら、チンピラの金的を蹴り上げる。
「ぶげっ」というくぐもった呻き声を上げ、チンピラは地面に伏せた。
「さあ、今の内に逃げますよ! お嬢さん」
女子生徒を連れて、カズと百合子は公園の出口に向かって走った。
公園を出て五分ほど走ったところで、此処まで来れば大丈夫だろう、と三人は足を止める。
「救けてくれてありがとう。怖かったわ」
女子生徒はホッとした様子で言った。それに対してカズは、気障な笑顔で応じる。
「なに、可憐な乙女を救けるのは当然です」
「か、可憐な乙女って……貴方だって女の子じゃない」
『カズ』こと風間和美。総武高校一年B組に所属する、歴とした女子高生だった。
昼下がりでお茶には丁度良い時間という事もあって、救けて貰った御礼に御馳走すると言われた和美と百合子は、女子生徒に連れられてカフェに入った。
彼女の奢りで、ケーキセットを三つ注文する。このカフェのケーキセットは好きなケーキに紅茶かコーヒーが付いて500円と、女子高生のお財布にも優しいリーズナブルな価格だ。
女子生徒は野球部のマネージャーをしていて、今日は公園の野球場で練習試合があったらしい。
女子生徒は名前を、岬佑月と名乗った。
「岬さん、総武高ですよね? 私達も総武高校なんです。何年生ですか?」百合子が訊ねる。
「二年よ」
「やはり先輩でしたか。貴方の様な美人が同学年にいれば、私の眼に留まらないはずが無い」
髪型はベリーショート、メンズのサマージャケットにタイトジーンズを履いた和美は、ともすれば男装の麗人に見える。
そんな和美に美人だと褒められれば、悪い気はしない岬だった。
「私の方が先輩ってことは、二人共一年生?」
「ええ、一年B組、風間和美です」
「私は中山百合子、一年D組です」
「因みにあだ名はゴンです」和美は百合子を指差して言う。
「因みにあだ名はカズです」返す様に、百合子も和美を指差して言う。
「カズなんてあだ名は嫌だ」
「私だってゴンはヤダよ」
和美と百合子が顔を見合わせて言ったところで、岬が噴き出して笑った。
「仲良いのね、二人共」
「ただの腐れ縁ですよ。中学から一緒なので」
和美が言うと、岬は更に笑顔を深めた。
岬の笑顔を見た和美は、なにやら納得する様に一つ瞬きした。
「やはり、美人には笑顔が似合う。特に、岬さんの笑顔は……えー、えっと……その笑顔は……」
調子良く褒めていた和美が言葉を詰まらせると、「ダイヤモンドの様に輝いている」と百合子が続く言葉をフォローした。
「そうそう、それそれ」百合子のナイスなフォローに和美は微笑みながら頷く。
そうこうしていると、ウェイトレスが注文した品を運んできた。
和美はチーズケーキ、百合子と岬はフルーツタルトを頼んでいた。飲み物は三人共紅茶だ。
「さあ、遠慮なく食べて。と言っても、ワンコインのケーキセットなんだけど」
「いえいえ、大した事はしてませんから。奢っていただいて、お礼を言わなければならないのはこちらの方です」
和美が遠慮がちに言うと、百合子も同意する様に頷いた。
和美はケーキの皿に添える様に置かれたフォークを手に取り、チーズケーキを少しだけ切り取って食べた。
女子高生の割にスイーツはそれほど好きでもない和美だったが、このチーズケーキは結構美味しいと思った。スフレ状に湯煎焼きされたそれはなめらかな口当たりで、甘味と酸味の調和も取れている。
頬張ったチーズケーキが口の中で蕩けると、クリームチーズの爽やかな香りが、和美の鼻腔を抜けた。
「でも、中山さんなんてニットキャップを失くしちゃったじゃない。ニットキャップ代も払うわ」
岬に言われて、フルーツタルトを食べる手を止めた百合子は、自分の頭を触る。確かにニットキャップはかぶっていなかった。
「あー! チンピラにかぶせたまんまだ!」
今さら気付いた百合子が慌てた様に言うと、和美は「詰めが甘いな、ゴン」と呆れて呟いた。
「本当にごめんね。あのニットキャップ、いくらだった? 三千円で足りるかしら?」
「あ、いえ。岬さんが悪いわけじゃないですから、ケーキ奢って貰っただけで充分ですよ。あのニットも安物ですし」
百合子は片手を顔の前で横に振りながら言った。
「でも……」岬は自分の財布の中身を確かめながらさらに言う。
「大丈夫です。あのニットキャップは百合子の誕生日に私がプレゼントした安物ですから。980円だったかな」
和美の言葉を聞いて、百合子は内心で『え、本当に安物だったの!?』と驚いていたが、余計な事は言わないでおいた。
「誕生日プレゼントだったなんて……お金で弁償できるものでもないけど、これは取っておいて」
申し訳なさそうにしながら、岬は百合子の前に千円札を置いた。
百合子は、千円札と岬の顔を交互に見遣った後、困った様に和美に顔を向ける。
和美は短く吐息をついて、『受け取っておけ』という意味でウインクした。
「あと、風間さんのギターは大丈夫だった?」
「ギターですか? ああ、これはギターではないんです」
和美は傍に置いたギターケースを胸の前に持ってきて、岬に中身を見せる様に開けた。
「化粧品?」岬が驚きながら首を傾げる。
果たして、ギターケースの中には様々なメイク道具が詰め込まれていた。
和美はギターケースを膝の上に置き壊れた物が無いか確かめる。
「ふむ、壊れた物は無いようです。弁償してもらう必要は無さそうだ」
ギターケースをバタンと閉めて傍に置き直すと、岬に顔を向けて安心させる様に頷いた。
「いつも、そんなに大量の化粧道具を持ち歩いてるの?」
岬はベースメイクにパウダーファンデーションくらいしかしない。精々、ペンシルで眉毛を整えるのが精一杯のお洒落だ。
ちなみに、今日は野球部の練習試合という事もあって思いっきり素っぴんである。
和美のギターケースの中身は、そんな岬が良く知らないメイク道具が山程あった。
「実は、将来の夢がメイクアップアーティストでして」
和美は少しだけ照れながら、ギターケースを眺めて言う。
「私達、総武高校にお化粧研究部を創ろうとしてるんです」
「将来の夢の為に、部活で練習しようってわけね」
百合子が最近の目標を言うと、岬が合点した様に頷いて言った。
「残念ながら、創部には三人以上必要なので、人員があと一人足りないんですがね」
表情に陰りをみせながら言う和美を眺めて、岬はちょっと困った様に顎に手を当て顔を俯けた。
「私が入部してあげられたら良いんだけど、兼部になっちゃうから、余りお化粧研究部の活動には参加できないかもしれないわ。幽霊部員でも、良いかしら?」
申し訳無さそうに言う岬に対して、和美と百合子が同時に首を横に振る。
「気持ちは嬉しいですが、岬さんを無理にお誘いはしませんよ。今は、メイクに興味がある帰宅部の子を探してるんです」和美は岬に負担をかけない為にやんわりと断った。
「そうそう、顧問をしてくれる先生は見つかったんで、あとは部員を一人ゲットするだけなんです」百合子も補足する。
岬は、それなら部員勧誘について何か良いアイディアはないだろうか、と尚も考える。
そんな彼女の脳裡に、ふと先日見たポスターが過ぎった。
「奉仕部!」ポンと掌を合わせ、声を上げる岬。
「奉仕部?」疑問符を浮かべる百合子。和美も、よくわからないといった顔をしている。
「ええ、部活動案内掲示板に宣伝ポスターが貼ってあったんだけど、奉仕部っていう、お悩み相談所みたいな事をしてる部活があるの。私と同じ中学出身の後輩が部員にいるんだけどね、それほど親しいわけじゃないから詳しくは知らないけど、結構頼りになる子だと思うわ。相談してみたらどうかしら?」
名案を思いついたという風に、岬は明るく言う。
「岬さんの後輩ですか。名前は?」和美が訪ねる。
「比企谷くんっていうんだけど、知ってる?」
岬から出た名前を聞いて、百合子は先日、部員勧誘のビラを拾ってくれた男子の顔を思い出した。
ゴールデンウィーク明けの総武高校は、連休終わり独特の何処か気の抜けた雰囲気が漂っていた。
弛んだ空気に流される様に淡々と授業をこなした結衣は、放課後になると一つ気合いを入れて、職員室に部室の鍵を取りに行く。
しかし、壁際の鍵掛けには既に、奉仕部の部室の鍵は無かった。
雪乃の方が先に鍵をとったのだろうと理解した結衣は、足早に部室へと向かう。
部室のドアをコンコンとノックすると、中から「どうぞ」という聴き慣れた声が返ってくる。
「今日はあたしが一番だと思ったのに、ゆきのん早いね」
「ええ、今日こそは依頼があるかもしれないもの」
ポスターを作成したものの、まだ依頼者はやってこない。とはいえ、それはポスター作成後すぐにゴールデンウィークに入ってしまったからであって、ポスターによる宣伝の効果があるかどうかはこれからわかるのだ。
いつもの様に、雪乃は鞄から本を取り出した。それを見て、結衣も嬉しそうに鞄から本を取り出す。タイトルはハリー・ポッター、ちなみに賢者の石。
「ゆきのん、今日はあたしも本持ってきたよ」
「そう、読書は良い習慣だと思うわ」
結衣は照れた様に笑った。
椅子に座って本のページを開くと、まあ、当然ながら文字ばかり目に写る。
漫画にしとけば良かったかなあ、と結衣が少し後悔しつつも読み進めていると、部室にノックの音が響いた。
結衣は驚きと共に、ドアの方へと視線を向ける。ポスターを貼った成果が出た、と彼女は喜んだ。