結局、ポスターを貼り終えた日に、お化粧研究部の入部希望者が現れることは無かった。
まあ、まだ初日であるし、焦ることはないだろう、と翌日に期待してその日は帰宅した。
そして翌朝、登校してきてすぐに、教室で八幡の姿を見かけた結衣は、徐ろに八幡に話しかける。
「ヒッキー久しぶり! ゴールデンウィークに加えて二日も休むなんて、何してたの?」
「家庭の事情で休んだだけだ。気にすることはない」
八幡は特に説明する気は無いらしく、机に頬杖をつきながら適当な様子でそう答えた。
「あのね、ヒッキー、今ね、奉仕部に依頼が来てるんだよ。B組のかずみんと、D組の百合子ちゃんから。百合子ちゃんは、ヒッキーの知り合いらしいね」
「百合子? 誰だ、それは」八幡は中山百合子の事は覚えていないようだ。初めて聴いた名前だと首を捻る。
「中山百合子ちゃんだよ。部活勧誘のビラを拾ってもらったって言ってたよ」
「ああ、あいつか」
そういえば、名前は聴いていなかったな、と思い出した。
「それって、お化粧研究部の子だよね。結局、創部はできたのかな?」
偶々近くにいて、何とは無しに話を聞いていた隼人が話しかけてきた。
「あっ、隼人くん。隼人くんも百合子ちゃんのこと知ってんの?」
いつの間にか結衣は隼人のことを名前呼びしていた。どうやら、初対面から名前を呼び捨てにしていた優美子に影響されたらしい。
「俺もビラを拾うのを手伝ったからね。あの子が創部できたのかどうかは、ちょっと気になってたんだ」
「そうなんだ。あのね、百合子ちゃんたちの依頼は、部員募集を手伝ってほしいって相談なんだ。だから、お化粧研究部は、まだできてないんだよ」少し残念そうに結衣は応えた。「でもね、部員募集のポスターを学校中にいっぱい貼ったから、今日にも新入部員が来てくれるかも」
まだお化粧研究部は設立できていないのに新入部員という言い方はおかしいかもしれないが、結衣は希望を持ってそう言った。
「いや、無理だろうな。ポスターを貼った程度では、部員は揃わないだろう」
八幡の無遠慮な言葉に、結衣は「えぇっ!?」と驚く。
「……そういえば、ビラを拾った時にも同じようなこと言ってたね、比企谷くん。どういうことだい?」
疑問を覚えた隼人が八幡に訊ねる。地道にビラ配りやポスター掲示をすれば、それを見た生徒が入部したいと思ってもおかしくないはず、少なくとも隼人はそう思う。
「簡単なことだ。サッカー部ならばサッカーを、野球部ならば野球をする部活だとすぐにわかる。部活名を聞けば、程度の差こそあれ、活動内容は類推できるからな。だが、お化粧研究部とは何をする部活だ?」
「そりゃ、お化粧を研究するんだよ。部員みんなで」何を言っているのか、という様子で結衣が応えた。
「化粧を研究する、といってもその指導をするのは誰だ? そいつの腕は確かなのか? 具体的に、研究とは何をするんだ? 少し考えただけでも疑問は次々と浮かぶ。多少メイクに興味がある奴でも、飛び込んでいくのは勇気がいるだろう。せめて、既に創部されていて、活動実態があれば別だろうがな」
八幡に言われて、結衣は「う〜ん」と考え込む。
「じゃあさ、ヒッキー、もしかして奉仕部のポスターも意味なしだったり?」
「いや、あのポスターには俺の名が書いてある。人が太陽を求めるように、悩める者は俺という太陽を求めるだろう」
「おぉ〜」と拍手する結衣と、「ははは……」と少し呆れる隼人が対照的だった。
ホームルームが終わって放課後、結衣は鞄を掴むと、跳ねるように八幡の席に駆け寄った。
「ヒッキー! 一緒に部室いこ!」
「そう慌てるな、焦っても徳はない。早起きは三文の徳だが、拙速を尊ぶのは雑兵のみだ」
「も〜う、そういうのいいから! さっさと部室いくよ!」
結衣は八幡の制服の肩口を掴むと、強引に引っ張って教室を出て行く。
その様子を、優美子は面白くなさそうに眺めていた。
そんな優美子に、姫菜が話しかける。
「優美子、私、今日は部活休むからさ、どっか遊びに行かない?」
「……なにそれ、暇人のあーしに同情してるわけ?」
「別に、そんなんじゃないってば。漫研って緩い部活だから、普段の参加は自由なんだよ。今日はどっか遊びに行きたい気分なだけ」
「……まっ、そんなら良いけど。適当にその辺ぶらつくかな……」
少しだけ不機嫌そうな優美子と、飄々とした顔の姫菜は、連れ立って帰って行った。
職員室で部室の鍵を取り、早足で特別棟の部室へ向かう結衣と八幡。
浮き足立ったような足取りで先を歩く結衣の後ろを、八幡は数歩遅れて付いていく。
「由比ヶ浜」八幡は結衣の背中に話しかけた。
「なぁに? ヒッキー」
「なぜお前は、そんなに浮かれているんだ」
「いやあ、だって百合子ちゃんとかずみんに、ヒッキーを早く会わせたいんだもん。特に百合子ちゃんは、ヒッキーが二日も学校休んでたから残念そうだったよ」
「中山百合子、だったか? 先月、ほんの少し話しただけなんだがな」
「お化粧研究部のビラ、拾ったげたんでしょ? ヒッキーって結構優しいとこあるよね」
結衣は振り返って八幡の顔を見ると、満面の笑みを見せた。
そんな会話をしているうちに奉仕部の部室へと着いた二人は、各々の席に着く。
数分程、ゴールデンウィークは何をしていたのかなどと、取り留めのない会話をしていると、部室のドアからノックの音が響いた。
「ゆきのんかな? 開いてるよ〜」
果たして、ドアを開けて入ってきたのは雪乃だった。後ろには、和美と百合子の姿も見える。どうやら、偶々廊下で出会って一緒に来たらしい。
「やっはろーっ、ゆきのん。かずみんと百合子ちゃんも、やっはろーっ」
「やっはろー、結衣ちゃん」
「やっはろー、です。結衣さん」
百合子と和美はノリ良く合わせて挨拶するが、雪乃は目を逸らして「こんにちは、由比ヶ浜さん。サボり谷くんも、久しぶりね」と言った。
どうやら、雪乃は由比ヶ浜風挨拶はお気に召さないらしい。現地民と挨拶する時は、現地語で話した方が仲良くなれるのに、勿体ないことである。
「今日は、比企谷くんもいるんだね、こんにちは、比企谷くん。あの時は、ビラ拾ってくれてありがとう」
百合子は、ここ二日で奉仕部の部室に馴染んだようで、半ば自分の席と化した椅子に座りながら、比企谷に言う。
「礼ならあの時受け取った。気にするな」
「いやいや、感謝してるよ。あと、あの時は名前言いそびれちゃったけど、私、中山百合子、よろしくね」
「初めまして、比企谷くん。私は風間和美です。君のことは岬先輩から聞いていますよ」
和美も自分の席に着きながら言う。すると、八幡は和美の顔を見返した。
「岬? なぜここで岬の名前が出るんだ。知り合いなのか?」
「ええ、先日知り合いました。君の中学の時の先輩らしいですね。ご存知ですか? 岬先輩も総武高校なんですよ」
「……先輩といっても、知り合いの知り合い程度の関係だがな。そうか、岬も総武だったか、知らなかったな」
「岬先輩が、比企谷くんによろしく伝えといて、と言っていましたよ」
和美がそう言うと、八幡は何か思い出した様に、雪乃の顔を見た。
「なに、比企谷くん。私の顔に何かついているかしら?」
急に顔を向けられて、訝しいものを感じたのか、雪乃が訊ねる。
八幡は少し皮肉げに微笑むと、「そういえば、陽乃がお前によろしくと言っていた。確かに伝えたぞ」と言った。
「姉さんが? ちょっと待ちなさい比企谷くん、何故貴方が姉さんの事を知っているのよ」
陽乃は既に総武高校を卒業している。八幡と接点があるとは思えない。
「先日、世界の花展に出かけた所、偶然カフェテラスで茶を飲んでいた陽乃と平塚に出会った」
言われて雪乃は、ゴールデンウィークに姉から電話がかかって来た事を思い出した。確か、世界の花展のチケットがどうだこうだと言っていたはずだ。
「あんな太陽みたいな女、初めて見た」
奇しくも八幡は、陽乃が静に言った言葉と同じ事を言う。
すると、雪乃は何か気に入らなかったのか、呆れた様な笑みをこぼした。
「比企谷くん、貴方の洞察力も、その程度なのね。貴方は、あの人の外面に騙されているだけだわ」
雪乃が吐き捨てる様に言うと、八幡は声を立てて笑った。
「何がおかしいのよ」不機嫌そうな雪乃。
「……なに、太陽も余りに近過ぎると、眩しくて目を開けていられないのだな、と思っただけだ」
八幡は陽乃を見た瞬間に悟っていた。
彼女は、その人当たりのいい外面に隠された、仄暗い内面のその更に奥に、眩しく輝く光を持っている。
八幡が陽乃に光を見たことなど、雪乃は知らない。
雪乃は、結局陽乃の内面を真に理解できるものなどいないのだな、と思った。
傍らで二人の会話を聴いていた結衣たち三人は、言っている事はよくわからないが、とりあえず、雪乃とその姉はあまり仲が良くないらしい、と理解した。
「ところでさ、ヒッキー、あの話はしなくていいの? ポスターはあんまり意味ないかもって話」
結衣が話を変えるように、八幡に話題を振る。
「ポスターの意味がない? なにを言うのよ比企谷くん。確かに、昨日貼ったばかりだから入部希望者はまだ来ていないけれど、宣伝すれば効果はあるはずだわ」
雪乃が少し怒ったように言うと、八幡は厳かな雰囲気でこう言った。
「おばあちゃんが言っていた……本当の名店は、看板さえ出していないってな」
「……どういう意味よ、なにを言っているの?」
いつもいつもこの男は、おばあちゃんおばあちゃんと、訳の分からない事を言う。雪乃は自らの眉間に、自然と皺が寄るのを感じた。
「名店の料理には、その味には、実績と信頼がある。実績と信頼があれば、宣伝せずとも客は来る、と言う事だ。逆に言えば、実績も信頼もなければ、いくら宣伝しても客が寄り付く事はない」
八幡は、他の四人の顔を見回しながらそう言った。和美はその言葉に一理あると思ったのか、「我々には、実績も信頼もない、ということですか。確かにそうかもしれません」と言って嘆息した。
「そもそも、活動実態がないからな。実績以前の問題だ。活動内容はどういったものを考えているんだ? 指導は顧問がするのか?」
「いえ、顧問を引き受けてくれた小雀先生は、合唱部との兼任ですし、彼女はあまりメイクが得意ではないそうです。逆に、部を創設できたら、自分にもメイクを教えて欲しいと頼まれてしまいましたよ。部員への指導は、私が行うつもりです」
和美が答えると、八幡は、「ならば、部員を得るにはお前が信頼されるしかないな」と彼女の目を見て言った。
「う〜ん、信頼されるって言っても、具体的にはどうすれば良いのかな。私が言うのもなんだけど、カズのウデは確かだよ。昨日だって結衣ちゃんに、バッチリかっこいいメイクしたげたんだから」
ねえ、結衣ちゃん、と百合子が結衣に向けて言う。
「そうそう! かずみんのメイク、スゴイんだよ! 昨日そのメイクのまま家に帰ったら、ママに『その顔だと、知的なお嬢さんにみえるわね』って褒められたんだから!」
母親の言葉は、メイクは褒めているものの、結衣自体は貶している気がしないでもないが、結衣は特に気づいていないので放っておこう。
「ならば、その技術を人前で存分に披露する事だな」
「人前で披露ってどうするの?」
八幡に結衣が訊ねる。
「デモンストレーションだ。場所はエントランス前の広場が良いだろう」
「デモンストレーション……実演宣伝? 結局、宣伝じゃないの」雪乃は肩を竦めてそう言った。
八幡は机に頬杖をつきながら雪乃を見遣る。
「ポスターでの宣伝よりは、実力をアピールできる。腕次第で、信頼を得ることも出来るだろう」
「むう……」特に反論が思いつかないのか、押し黙る雪乃。
「デモンストレーション……」和美が天啓を受けたように眉を上げて呟いた。
そして和美は顎に手を遣りながら、考え込むように目を閉じる。
デモンストレーションを行うならば、モデルが必要だろう。
パッと目を見開いた和美は、そっと結衣に近寄ってその右肩に手を乗せた。
そして、百合子もまた、そっと結衣に近寄ってその左肩に手を乗せた。
八幡は口角を少し上げて笑いながら、結衣の顔を眺めた。
「どうやら、モデルは決まったようだな」
「え? え!? ふえぇ!?」
八幡がぼそりと呟くと、結衣は右に左に首を振りながら驚きの声をあげる。
結衣は慌てた表情で雪乃を見遣り、「ゆきのん、あたしじゃモデルとか無理だよ」と言った。
思案気に溜息をついた雪乃は、「頑張ってね、部長さん」と結衣に苦笑を向ける。
おそらくだけれど、由比ヶ浜結衣はモデルに向いている。雪ノ下雪乃はそう思った。