結衣をメイクモデルに、生徒たちの前で実演をする事は決まった。
部活に所属していない者の大半は既に帰宅の途についているだろうから、今からでは諸々の準備の時間を考えても間に合わないだろう。
とりあえず結衣は、エントランス前の広場でデモンストレーションを行う許可を取るために職員室へと向かった。
広場の使用許可を得るなど、誰に頼めば良いのかわからない結衣は、まずは顧問に訊くべきだろうと考えて、平塚静に相談する。
「ーーというわけで、明日エントランス前で、でもんすとれぇしょんをさせて欲しいんですけど」
傍らに立つ結衣が言うと、職員室で自分の席に座っていた静は目を瞬かせて結衣の顔を見遣り、その長い脚を組んだ。
「ふむ、なかなか面白い事をするようだな。良いだろう、使用許可なら問題ない。私が申請しておいてあげるよ。滞りなく、ね」
「ホントですか!? 良かった! あたし広場の使用許可申請とかよくわかんないから、どうすれば良いのか心配だったんですよ〜」
安堵して顔を綻ばせた結衣は、胸の前で掌を組んだ。
静は、「ところで話は変わるが」と断って、結衣の目を見上げるように視線を合わせた。
「君は空気を読む能力に長けているようだから、最近の三浦の様子にはとっくに気づいているんだろう?」質問というよりは、確認といった様子で言う静。
結衣は少し戸惑った様に「えっと……」と言って俯いたが、静が言っている事の意味は理解しているようで、「まあ、わかってます」と頷いた。
「新しい友人を作ると、旧い友人が蔑ろにされたと感じる事は有りがちだ。特に、放課後の活動という物は高校生の交友関係に於いて大きな役割を持つからな。君が奉仕部に入部した事で、三浦は寂しく思っているのかもしれないよ」
「新しいとか旧いとか、そんな区別をしてるつもりは無いんです。ただ、優美子とゆきのんって、ちょびっと相性悪いかな、なんて」
結衣はゴールデンウィークに、優美子と姫菜、そして雪乃を誘って遊びに出かけた事を話した。
結衣と姫菜は比較的誰とでも仲良く出来るパーソナリティを持っているが、雪乃と優美子はその個性がぶつかり合って、喧嘩という程ではないが、あまり友好的な雰囲気ではなかったらしい。
静は、然もありなんと首を縦に振った。
「あたしとゆきのんが仲良くなるのは、優美子的には気に入らない事……なのかもしれません」
「友人の友人と仲良く出来るかどうかなんてのは、コミュニケーションの経験がモノを言うからな。君も含めて、君たちはまだまだ未熟な青い果実という事だ」
「はあ……」
結衣は、果実なら未熟で酸っぱい桃よりも、甘い桃が良いなあ、と思った。
放課後に、お化粧研究部のデモンストレーションを行う当日。その日は朝から、教室の雰囲気は最悪だった。
数十人いるクラスメイト達の中には、その理由を理解していない者もいたが、原因自体は分かりきっていた。
今日の三浦優美子は、明らかに機嫌が悪い。
優美子は高校入学以来、クラスの中心人物として振る舞ってきたし、クラスメイトからも実際そう扱われていた。
彼女自身の派手な外見と強烈な個性は、人を惹きつける魅力を充分に備えている。
しかしそれだけに、教室の内側という狭いコミュニティの中では、優美子自身の機嫌で雰囲気が左右されがちになってしまうのだ。
優美子のストレスが頂点に達したのは、本来ならば長閑であるはずの昼休みだった。
四限の終礼が終わって直ぐに、優美子は結衣の席に近寄る。優美子の背後には、気不味そうに顔を引攣らせた姫菜の姿もあった。
姫菜は優美子からは見えない様に、両腕でバツ印を作って結衣にサインを送っていた。
そんな姫菜の様子に結衣は全く気付かずに、「ごめん優美子、今日も用事があるから部室に行くよ」と言った。言ってしまった。
あちゃー、と姫菜は手のひらで顔を覆う。
そんな結衣に対して、遂に優美子は声を荒らげた。
「あんさぁ! 結衣! 放課後に部活があるのはわかるよ! でも、昼休みくらい教室にいても良いんじゃないの!?」
「いや、その、今日は色々と、準備がありまして、と言うか、あの……」
眉間に皺を寄せて睨む優美子に、しどろもどろになって答える結衣。
教室の中の空気はピンと張り詰め、クラスメイトの大半はヘビに睨まれたカエルの様に動けず、優美子と結衣を凝視している。
それ以外の数人の生徒は付き合いきれない、巻き込まれたくないとばかりにさっさと教室を出て行ってしまった。
我関せずの態度で弁当を食べる用意をしているのは八幡くらいである。弁当箱の蓋を開け、行儀良く両掌を合わせて、「いただきます」と呟いた。
然程大きな声でも無かったが、誰もが無言の教室では、その声はよく通った。
当事者である優美子と結衣の二人以外が、空気読めよ天の道、と思ったのは当然の帰結である。
「……天の道は、教室で食べるみたいじゃん。結衣も、あーしらと一緒にいても良いんじゃないの?」
優美子は八幡を指差してそう言った。結衣はおっかなびっくり、反論する。
「ヒッキーは、『メシくらい静かに食わせろ』って言って、昼休みは手伝ってくれないんだ。でも、あたしはちゃんと、昼休みも部室に行かないといけないから……」
「結衣がいなくても、大丈夫っしょ。雪ノ下さんって優秀らしいじゃん」
優美子の『結衣がいなくても大丈夫』という言葉に、結衣は少し悲しいような、とても悔しいような、上手く形容できない苛立ちを感じた。
結衣の白い頬にほんの少し赤みがさす。俯き気味だった顔を上げて、優美子の目を正面から見る。
「あたし、部長だもん! ゆきのんもヒッキーも、部長になりたいって言ってたのに、あたしが部長になったんだもん! それなのに、約束をすっぽかすなんて、出来ないよ!」
突然の剣幕に、優美子は少々たじろいだ。
「あたし、奉仕部の活動、楽しいと思ってる。遣り甲斐も感じてる。なのに優美子は、あたしのこと応援してくれないの?」一転して悲しそうに呟く結衣。
「なっ、応援しないとか、そんなこと言ってないじゃん! あーしが言いたいのはさぁ!」
このままだと平行線で、話が終わりそうも無いな、と思った隼人が二人の間に割って入る。
「まあまあ、二人共ちょっと落ち着いて。俺もサッカー部だからわかるけど、部活が忙しい時期ってのはあるもんだよ。それを認めてやるのも、友達ってもんじゃないかな」
調和を重んじる隼人にとって、目の前で行われる喧嘩は放って置けなかった。
「ほら、結衣は部室に行く用事があるんだろ? 早く行ってやらないと、雪ノ下さん、待ってるんじゃないか?」
隼人は、とりあえず結衣を遠ざけようと、部室に行くように促した。
結衣は数瞬、迷うように唇を噛んだが、結局踵を返して教室を出て行った。
「優美子っ! お弁当食べよ! 私、お腹空いちゃった」姫菜は殊更明るく振る舞って、優美子の肩を軽く叩いた。
優美子は、不機嫌な気分を隠そうともしなかったが、仕方なく自分の席に戻っていった。
なんとか丸く収まったかな、と隼人は安堵する。
八幡は弁当を食べながら、何とは無くそれらの様子を眺めていたが、「メシが、不味くなるな」と誰にも聴こえない声音で言った。
結衣が奉仕部の部室の扉を開けると、和美も百合子も、そして雪乃も自分の席に座っていた。三人の目の前には、弁当が用意されている。
「やっはろーっ」和美と百合子が、声を揃えて結衣に挨拶した。
「ごめんね、みんな。ちょっと遅れちゃった」
無理に笑顔を作ってそう言う結衣。
百合子は、あれ? 今日はやっはろー言わないんだ、と疑問に思った。
「由比ヶ浜さん、なにかあった?」
「えっ? なにかって?」
雪乃が問うと、結衣は瞬きしつつ自分の席に座った。
「また、比企谷くんが何かしでかしたんじゃないかしら?」
「あはは、ヒッキーはなんにもしてないよう」
ヒッキー『は』、という微妙な言い回しに、勘のいい雪乃は気付いていたが、結衣自身があまり言いたくなさそうな様子なので、敢えて詮索する事も無いだろうと軽く流した。
「それにしても、サボり谷くんは本当に来ないようね。怠慢にも程があるわ」
「いや、まあ、デモンストレーションを提案してくれただけでも感謝してますよ。あとは、我々お化粧研究部員が頑張るだけです」
険のある表情で言う雪乃に対して、和美は取り成すように応えた。
「それと、結衣さんにもモデルとして頑張って頂くわけですが、よろしくお願いします、結衣さん」
「あっ、うん。任せといて、精一杯がんばるよ!」
結衣は、やる気を見せるように、両手の拳を握り締めて胸の前で構えた。
「それは頼もしい。では、これ台本です」和美は鞄から、A4用紙を取り出して結衣に渡した。
「うっ、がんばるけど、物覚えはあまり良くなくて……」一転して不安そうに冷や汗を流す結衣。
「大丈夫ですよ。結衣さんの台詞は少ないし、台詞を忘れてしまったとしてもアドリブで返してくれて構いません」
和美はそう言うが、自分が何かやらかしたら、それが原因で和美と百合子に迷惑をかける事になるかもしれない。責任重大だぞ、と結衣は気を引き締めた。
「さて、台本を読むのは後にして、先にお昼にしましょうか」雪乃が話を区切る様に言うと、百合子が待ってましたと手を打った。
「実はさっきからお腹ペコペコでさぁ」
「食い意地張ってるからな、ゴンは」
「なんだとぉ!」
和美と百合子の掛け合いに、結衣は声を立てて笑った。
けれど、結衣の表情はほんの少し翳りが見えた。
昼休みが終わって五限目、教壇には担任であり現代文担当でもある平塚静が立っていた。
普段の授業と変わることなく、冷静に淡々と講義を進めていく静だったが、内心では余りにもどんよりとしたクラスの空気を心配している。
元凶であろう、顔を顰めてブスッとしている優美子と、どこか元気のない結衣の顔を交互に盗み見る。
想定よりもぶつかるのが早かったな、と結構楽観視していた自分の考えを悔いる。
やはり、この年代の少女というものは、山の天候よりも読みにくい。
優美子と結衣を職員室に呼び出して、握手させてハイ仲直り、と簡単にはいきそうもない。
いっそのこと、優美子と雪乃を仲良くさせてみてはどうだろうか……いや、無理があるだろう。二人とも個性が強いタイプだ。
そういうタイプの人間は長い時間を掛けてぶつかり合って、少しずつ譲り合って、さらに何がしかの利運的きっかけが無ければ、お互い交わらない平行線を辿るだけだろう。
静は、そういえばこのクラスには、もう一人個性が強いヤツがいるなぁ、と八幡に視線を持っていく。
八幡は、何を考えているのかよくわからない無表情で、ジッと黒板を見つめていた。
「平塚」
視線を感じたからでもないだろうが、八幡が声をあげた。
「平塚先生、な。なんだ比企谷」
「誤字があるぞ」八幡は黒板を指差して言った。
「えっ、ウソ、どこだ?」
「語弊の弊は、力ではなく攵だ。右上が力になっている」
「あっ」
慌てて黒板を見ると、確かに八幡の指摘通りだった。静はサッと黒板消しで拭って書き直す。
静は、「お、お前達が気付くかどうか試したんだ。よく気付いたな、比企谷……アハハ」と有りがちな言い訳をして眉を下げた。
静自身も、薄暗い曇天の様な教室の情調に影響されて、本調子ではないのかもしれない。
五限の授業が終わったあと、静は八幡に向かってチョイチョイと手を振って、廊下に呼び寄せた。
意外にも素直に近寄ってきた彼を、静は階段の踊り場まで連れて行く。
彼女は腕組みをして背中を壁に預けると、八幡に自身の危惧を訊ねた。
「由比ヶ浜と三浦、何かあったか?」
「……さあな」八幡は興味無さげに言った。
「さあなって、由比ヶ浜は君の友人だろう? 心配じゃないのか」
「俺に友人はいない」きっぱりと、奇異なことを告げる八幡。その表情には、悲痛さも羞恥もなかった。
「おまっ、比企谷、そんな悲しい事言うなよ。大丈夫だって、由比ヶ浜は君の事、友人だと思ってくれてるって!」
励ますように肩を叩きながら言う静だったが、八幡はうざったそうに目を細めるだけだった。
「……昼休み、確かにメシが不味くなるような事はあったな」
「メシが不味くなるような事? なんだ、それは?」静の眉がピクッと動く。
「有り体に言えば、ただの喧嘩だ」
「……喧嘩、か。深刻そうかね?」
生徒たちだけで解決出来そうになければ、自分が介入しなければならないだろう、と静は思った。それも、担任教師の務めである。
しかし、八幡は何も問題はないとばかりに、首を横に振った。
「放課後には解決する。放っておけ」
「放課後に? なんだ、君、仲直りさせる秘策でもあるのか?」
「別に、秘策という程の事でもない。まあ、見てみなければわからない事もある、という事だ。化粧の腕も、友の取組も、な」
静には、八幡の真意はわからなかったが、とりあえず、今日の所は任せてみるか、と頷いた。