天の道を往き総てを司る比企谷八幡   作:通雨

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野球部編1話

 自室のテレビで野球中継のロッテ対オリックス戦を観ながら、加賀美(アキラ)は溜息をついた。

 また、肝心な所が映らない。観たい所が映らない。

 

 野球部に所属している鑑は、現在控え投手の座に甘んじている。

 それは別にいい。自分はまだ入部したばかりの一年生だし、総武高校野球部には、三年生に絶対的エースの先輩がいる。

 正直に言うと、球速だけとってみればエースの先輩に負けているとは思わない。

 しかし、コントロールや変化球の精度に関して言えば鑑の完敗である。

 二番手投手として背番号を貰えるだけでも、御の字だと思っている。

 ただ、それでも出場機会は増やしたいというのが、野球人としてのサガだ。

 先日、顧問でありチームの監督でもある田所先生から、こんな事を言われた。

 

「加賀美、お前バッティング良いし守備のセンスもあるから、ショートもやってみないか? もしかしたらレギュラーになれるかもしれんぞ」

 

 そう言われれば、やはりレギュラーを狙ってみたくなるものだ。

 鑑は早速、ショートの守備に関する勉強を始めた。

 鑑は小学生の頃から野球をしているが、彼のポジションは常にピッチャーだった。

 サブポジションとして、一応外野も守れるが、内野手の経験は殆どない。

 ショートは特に連携が難しい、内野の要とも言えるポジションだ。

 今更、幼い頃に買った野球入門書などを引っ張り出してきて読んだりもしているが、所詮入門書を読むだけでは具体的な動き方などさっぱり想像できなかった。

 だからこそ、プロのプレーを参考にしようと野球中継を観ているのだが、さっきから画面に映っているのは、バッテリーとバッター、それにボールの行方だけだ。

 俺はショートが観たいのに、鑑はそう思いながらまた嘆息した。

 

「アキラーっ! 祐月ちゃん来たわよーっ!」

 

 不意に、母の大声が響いた。それから十数秒後、勝手知ったる他人の家とばかりに鑑の部屋のドアを開いて、岬祐月が入ってきた。

 

「こんばんは。アレ? 野球観てるの? アキラってロッテファンだっけ?」

「こんばんはっす。いや、どっちかって言うとセ・リーグ党ですけど、今中継してるのロッテ戦だけなんで」

 

 鑑の自室にある椅子は、勉強机に備え付けられたもの一つだけだった。

 その椅子には既に鑑が腰掛けているので、岬は適当にベッドに座った。

 

「ショートの守備を観たくて観戦してるんですけど、あんまりショート映らないんですよね」

 

 打球が飛べば別だが、ショートを主に映す野球中継など無いだろう。

 基本的にテレビ観戦者が興味を持っているのは、ピッチャーとバッターの勝負の行方だ。

 

「そっか、田所先生にショートやってみろって言われたんだもんね。プロのプレーを参考にしようってわけだ」

「そうなんですけどね。ショートが映る場面って精々フィールディングくらいなんですよ。牽制の動き方とか、カウントとか状況毎のポジショニングとか、細かいところを観たいんですけど」

 

 テレビ画面には、キャッチャーのサインに対して首を振る、オリックスのピッチャーがアップで映されていた。

 

「だったら、私が教えてあげよっか?」

「えっ? 岬さんが?」

「なに、不満? これでも私、リトルではショートだったんだから」

「いや、岬さんが小学生の時ショートだったのは覚えてますけど、総武のサインプレーとか把握してます?」

 

 岬は小学生の頃、近所の女子リトルチームに所属していた。

 別のチームにいた鑑は、練習試合などで一際大きな声を出して守っている岬を見て、女の子なのに男より威勢がいい人だな、と思っていた。

 

「マネージャーだからって馬鹿にしないでよ。正直、サインプレーならアキラより詳しいわよ。貴方、この間の練習試合でも牽制のサイン見逃して、罰走させられてたでしょ?」

「ああ、ゴールデンウィークの練習試合ですか。岬さん、先に帰っちゃうんだもんなあ。お陰で俺、あのあと田所先生と二人っきりですよ」

「公園ぶらぶらして待っててあげようとは思ってたんだけどね。あの日は色々あったのよ」

「色々ってなんです?」

「色々は色々よ」

 

 岬は、詳しく話すつもりは無いようで、適当にはぐらかして目を逸らしている。

 

「まあ、とりあえず明日から朝練で守備練習ね。みっちり教えてあげるから、覚悟しときなさい」

「えー、朝練で守備やるんすか? 勘弁してくださいよ」

 

 鑑は以前から、自主参加の朝練にも顔を出していた。

 総武高校野球部の朝練の練習内容は、各自の自主性に任されているので、大抵の部員はティーバッティングやフリーバッティングをしている。

 やはり、地味な守備練習よりも、打撃練習の方が楽しいのだ。

 

「ところで、何か用でもあるんですか? こんな時間にウチまで来るなんて」鑑は岬に訊いた。

「なに? 用がなきゃ来ちゃいけないわけ?」

「いや、そういうわけじゃ無いですけど、こんな時間に来るのは珍しいなあ、と」

 

 鑑はそう言って目覚まし時計に目を向ける。既に、八時を大きく過ぎていた。

 今までにも、岬が鑑の家に来たことは何度もあるが、こんなに遅い時間に来たのは初めてだった。

 岬は、「えーっと……」と少し考え込むように呟く。

 そして、「あー、なんて言うか……」だの、「そのー、えっとね……」だのと、言い淀みながら視線を彷徨わせる。

 岬がこんな風に、はっきりしない態度をとるのは珍しい事だった。

 鑑の持つ岬へのイメージは、『男前な女』である。

 

「えっと……あのね」

 

 岬が煮え切らない態度でもごもごと呟いた時、不意に、テレビから快音が響いた。

 

「あっ!」鑑と岬が同時に声を上げて、テレビに目を向ける。

『捉えた当たりっ! 大きい! 大きい!』実況アナウンサーが興奮しながら捲し立てる。

「行けっ! 入れ!」岬は拳を握りしめながら、テレビに向かって言う。

「越えろ!」鑑も、テレビを見ながら言った。

 

 テレビ画面の中の白球は、大きく伸びて外野の頭を越え、レフトスタンドの客席に消えていった。

 

『入ったーっ! スリーランホームラーーン! 6回裏、ロッテに貴重な貴重な先制点が入りました!』

『いやぁ、会心でしたねえ』

 

 白熱する実況に、解説者が冷静に返した。

 

「やったーっ!」鑑と岬は声を揃えて叫んだ。

 

 セ・リーグ党の鑑は勿論、岬も実は然程ロッテファンというわけでは無いが、やはり地元のチームが活躍するというのは嬉しいものだ。

 それに、ホームランは野球の華である。テレビの向こう側の事とはいえ、野球部員として、反応するのは必然だった。

 二人揃って一頻り喜んだ所で、冷静になった鑑が岬に問い掛ける。

 

「ところで岬さん、さっきは何を言いかけてたんですか?」

「えっ、あーっと……やっぱり、アキラに言うのはやめとくわ」

「やめとくんですか」

「ええ、やめとく」男の子にはプライドもあるだろうし……と呟いた岬の声は、鑑の耳には届かなかった。

 

 言いかけたところでやめられると、喉に刺さった小骨のように納まりが悪い。

 しかし、まあ、岬が言いたくないというならば、鑑としても無理に訊きだす訳にもいかない。

 

「ごめんね。今日はもう帰るわ」岬はそう言うと、ベッドから立ち上がった。

「じゃあ、送っていきますよ」

「別にいいわよ。近所なんだから」

「いや、そういうわけにはいかないですよ。こんな時間に岬さん一人で帰すなんて出来ませんて」

「そう? じゃあ、頼もっかな」

 

 岬の言う通り、岬の家と鑑の家は徒歩にして五分も離れていない。

 しかし、夜に女の子が独り歩きするのは、やはり心配である。

 鑑の母親も、岬が「夜分遅くに失礼しました」と言って辞去しようとすると、「アキラ、あんた送っていきなさい」と言って鑑を外に追い出した。

 雲に覆われているのか、今は月明かりもない。

 ぽつんぽつんと疎らに立つ街灯の光だけを頼りに、二人並んで歩く。

 岬は女の子にしては健脚で、歩くのが早い。

 一々歩くペースを合わせなくていいのは楽だなあ、と鑑は常日頃から思っていた。

 もっとも、鑑が常日頃から並んで歩く女子など、岬くらいしかいないのだが。

 

「ねえ、アキラ」

「なんですか?」

 

 岬は、20センチほど身長差のあるアキラの顔を見上げた。

 街灯の光だけでは、鑑の顔はよく見えなかった。鑑は鑑で、岬の顔はよく見えていないだろう。

 

「もし、いま私が悪漢に絡まれたりとかしたらさあ」

「悪漢って、なんか言い方が古くないすか?」少し笑いを含んだ声で鑑は言う。

「茶化すんじゃないわよ。悪漢が駄目なら、不良でもチンピラでもなんでもいいけど、とにかく、私が絡まれたりしたらさあ」

「守りますよ、もちろん」

 

 ピタリと、岬は足を止めた。鑑は一歩だけ岬よりも前に進み、止まっている岬を振り返ってさらに言う。

 

「喧嘩とかした事ないんで、相手をぶっ倒す、とかは無理かもしれませんけど……岬さんの代わりに殴られるくらいの事は出来ます」

 

 岬は一瞬呆けたあと、気を取り直して歩みを再開しながら、「へぇー」と特に気の無いような声音で言った。

 

「格好いいじゃない。アキラのくせに」

「『アキラのくせに』は余計でしょ。格好いいで留めといて下さいよ」

「アキラくんは、いまいち格好つかない奴ってイメージがあるからなあ」

 

 揶揄うように言う岬だったが、内心では鑑の事を信頼していた。

 多分その言葉は、半分本音で、半分照れ隠しなのだろう。

 岬が空を見上げると、既に雲は流れたのか、夜天に月が輝いていた。

 

 

 岬を家まで送り届けたあと、鑑が自宅に帰ると、玄関に弟の亮が待ち構えていた。

 亮は意味深な笑顔を浮かべて、鑑に詰め寄る。

 

「なんだよ亮、ニヤニヤして。気持ち悪いぞ」

「気持ち悪いは酷いなぁ。岬さんとの仲が進展したかどうか気になってさぁ。どうなの? キスくらいした?」

 

 中学生のくせに、最近色気付いてきたなあ、と鑑は苦笑する。

 兄の恋愛事情に興味津々といった様子の亮に、鑑は軽くデコピンを当てた。

 

「いてっ!」

「俺と岬さんは、そんなんじゃねーよ」

「えーっ! でもさあ、岬さんって絶対兄ちゃんの事好きだと思うんだけどな」

「無い無い、俺の事はどうせ、仲の良い後輩くらいにしか思ってねーよ」

 

 もしくは、イジリ甲斐のある後輩だろうか。

 なんだかんだで長い付き合いになるので、気安い関係ではあるが、恋愛には発展しそうもなかった。

 今日だって結局、ショートの守備を教わるという約束をして、一緒に野球中継をちょっと観ただけだ。

 

「でも、兄ちゃんって顔は中々イケてんじゃん。ちょっと素朴系だけど、結構モテるんじゃないの?」

「モテねーよ。そういう意味じゃ、お前もあんまり期待しない方が良いぞ。俺の弟だからな、多分モテない筈だ」

「えーっ!? 兄ちゃんと一緒にしないでくれよ! 岬さんくらいしかいない兄ちゃんと違って、俺は結構モテるよ!」

 

 弟の生意気な発言を聴いて、鑑はもう一度デコピンしてやろうと腕を伸ばす。

 亮はそれをヒョイと避けて、笑いながら自室へと戻っていった。

 それにしても、仲の良い兄弟である。

 

 

 

 夕食を済ませた後、結衣は自分の部屋で漫画を読んでいた。

 その漫画は、姫菜に全巻セットで借りた、姫菜オススメの本である。

 ここ数日、夢中で読み進めたので、既に終わりが近い。

 恋愛漫画が読みたいなあ、と言った結衣に対して姫菜が貸して寄越したのは、何故か野球漫画だった。

 姫菜曰く、「双子の兄弟の恋愛物なんだけど、割と序盤で弟が交通事故で死んじゃう悲恋物だから注意してね」との事だった。

 姫菜によるBL的曲解は結衣には伝わらなかった。

 そして、かなり重大なネタバレをされた事も気にはならなかった。

 姫菜が貸してくれた漫画は、とても有名なタイトルだったので、結衣だって大筋くらいは知っているのだ。

 弟が死んだ後、お兄ちゃんが頑張って甲子園に行く。あと、ヒロインが可愛いらしい……このくらいの情報は知っている。

 この漫画を読み終わったら、次は同じ作者の違う恋愛野球漫画を借りる約束をしている。

 そっちは、「中学生の時チームメイトだったエースとスラッガーが、高校進学によって別々のチームになってしまう悲恋物」らしい。

 姫菜にとって普通のラブコメは、だいたい悲恋になるのかもしれない。

 読み終わるのが名残惜しい様子で、最終巻を読み進める結衣。

 遂に最後のページを読み終わると、コミックスをパタンと閉じた。

 

「結衣は、ポーカーチップじゃないぞ。ユッちゃんのものでもないんだぞ」

 

 突然、妙な独り言を、変わった口調で呟く結衣。

 どうやら漫画のヒロインに影響されて、漫画のセリフを言ってみたくなったらしい。

 尚、『ユッちゃん』が雪乃と優美子のどちらを指すのかは、結衣にしかわからない事である。

 

「ハッちゃん、結衣を甲子園につれてって……いや、ヒッキーは野球よりサッカーの方が上手そうだなあ」

 

 サッカーの全国大会ってどこでやるんだっけ? 両国国技館? と、結衣は見当外れな場所を思い浮かべた。

 


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