小学生の頃の材木座義輝は、多少の妄想癖はあるものの、基本的には大人しい部類の少年だった。
教室の隅で、他人の印象には残らない程度の希薄な存在感を放ち、毒にも薬にもならないような人生を歩んでいた。
そんな彼の人生が一変したのは、中学一年生の春。中学校の入学式の日だ。
材木座は真新しい制服に身を包み、どこか緊張を隠せない様子で、割り当てられた教室の自分の席にちょこんと座っていた。
まだ担任教師が姿を見せない事を幸いに、新しいクラスメイトたちは席の近い者たちとのお喋りに興じている。
しかし材木座は元来人見知り気味で、初対面のクラスメイトに話しかけられるような性格ではなかった。
同じ小学校出身のクラスメイトもちらほらいたが、その中に材木座が仲良くしていたような面子はいない。
落ち着かない素振りを見せながら、彼は教室をきょろきょろと見回した。
すると、教室の中程の席に、自分と同じように誰とも会話せず、大人しく座って文庫本を読んでいる少年を見つけた。
文庫本には、購入時に書店でかけられるようなカバーがされているので、タイトルは窺い知れないが、材木座はラノベだったらいいなあ、と思った。
こういう雰囲気の中で一人ライトノベルを読んでいるような少年となら、自分も仲良くできるかもしれない。
材木座が展望を思い描いていると、教室のドアを開けて男性の担任教師が入室してきた。
「あー、初めまして、新入生諸君。私がこのクラスの担任だ。よろしく頼む」
担任教師はそう言って、黒板に大きく自身の名を書いた。
そして、担当教科や顧問をしている部活などについて話した後、「じゃあ、みんなにも自己紹介してもらおうかな」と教室の生徒達を見回した。
端の席から順番に、クラスメイト達は適当に自己紹介していく。
名前を言った後に、入部を希望している部活動や、趣味などを話す。中にはウケを狙ってちょっとした笑い話を披露する者などもいたが、あまり反応は芳しくなかった。
単純にその生徒の話が面白くなかったのか、それとも入学したての、少し緊張が残る雰囲気の中では笑えるものも笑えなかったのかはわからないが、その様子を見た材木座は、自己紹介ではしゃぐのはやめておこう、と自身を戒めた。
材木座は、この時の自己紹介で自分が何を言ったのか、今となっては覚えていない。
もしかしたら、名前だけ言ってすぐに着席したのかもしれない。
材木座義輝が今でも克明に、鮮明に記憶していることは、クラスの中程の席で文庫本を読んでいた少年の自己紹介だった。
その少年は、自身の前の席に座るクラスメイトが自己紹介を終えると、それまで我関せずの態度で読んでいた文庫本をパタリと閉じ、洗練された動作で起立すると、突然天井を指差してこう言った。
「おばあちゃんが言っていた……俺は天の道を往き、総てを司る男だってな……俺の名は比企谷八幡、覚えておくといい」
クラスメイト達が唖然とするなか、材木座義輝は一人瞠目しながら、比企谷八幡を眺めた。
そして、強烈に憧れた。よくわからないけれど、何だかカッコイイ、と。
材木座義輝が自身の事を、神に代わって剣を振るう男、神代剣だと名乗る様になったのは、この直後のことである。
材木座は職員室前の部活動案内掲示板から奉仕部のポスターをはがした後、奉仕部の部室へ向かった。
そして、部室まであと数歩というところで、奉仕部の部室から出てくるお化粧研究部の面々と顔を合わせた。
「おや、材木座くん、こんな所で何を?」先頭に立つ和美が訊いた。
「少し奉仕部に用があるのだ。あと、俺の事は神代と呼べと言ったはずだ」
「ああ、なんかそんな事言ってましたね。正直、材木座という名前のあだ名が何故神代になるのかよくわかりませんが」
「俺は神に代わって剣を振るう男だからな。神代剣と呼ばれるのになんの不自然もあるまい」
和美の方を指差して、材木座は宣った。傍らで様子を眺めていた優美子は、珍しい生き物を観る目で材木座を見遣る。
「和美ぃ、コイツ知り合い?」
「知り合いというか、クラスメイトですが」
優美子の質問に答えた和美は、「奉仕部に用があると言うなら、我々がここに居るのは邪魔でしょう。さっさと部室に行きましょうか」と言って、隣の部室に歩み去った。
優美子と百合子もその後に続きながら、ほんの少しだけ材木座を眺めたが、話しかけるのはやめておいた。
話しかけると、なんだか面倒臭そうな雰囲気が漂っていたからだ。
お化粧研究部の部員が去った後、改めて部室の前に立った材木座は、ドアを静かにノックした。
イギリス紳士神代剣は、どこかの女教師と違って、ノックを忘れたりしないのだ。
「は〜い、どうぞ〜」
部室の中から結衣の声が聴こえると、材木座はすぐに入室する。
そして、入ってきた材木座の姿を見た八幡の表情が、不快そうに歪んだ。
材木座は結衣、雪乃、静の顔を順に見遣った後、最後に八幡にその目を向ける。
「くっくっく、フハハハハハ! 天道、貴様こんなところにいたのか! 喜べ、貴様の永遠のライバル、この神代剣が貴様に相談事を持ってきてやったぞ!」
材木座はその手に持った奉仕部のポスターを掲げて言った。
それに対して最初に反応を示したのは、結衣だった。
「あ〜! ポスター剥がしちゃったの!? やめてよ、もう!」
結衣は機敏に席から立ち上がると、材木座に駆け寄ってその手からポスターを取り返す。
「む、すまん。天道の名が書いてあったから、つい持ってきてしまった」
頭を下げる材木座。紳士は謝罪の心も持ち合わせているものだ。
素直に謝られた結衣は、それ以上責めることはせずに、「まあ、謝ってくれるんならいいよ」と言って、ポスターを手にしながら自分の席に座りなおした。
「天道……とは、誰のことかしら? まあ、聞かなくても大体わかるけれど」
雪乃が、八幡を横目に見ながら訊いた。八幡は嫌そうに目を逸らしている。こんな彼を見るのも珍しい。
「知れたこと。天道……天道総司とはその男のことだ。そいつは、天の道を往き総てを司る男だからな……中学の頃からの、俺のライバルだ」
材木座は八幡を指差しながらそう言った。
静はそんな彼を興味深そうに観察し、徐ろに口を開いた。
「ふむ、どうやら君は私が教科担当をしているクラスの生徒では無いようだが、名前はなんと言うのかね」
「俺は、神に代わって剣を振るう男、人呼んで神代剣だ」
神代くんか、と頷いた静は、「私は平塚静だ。気軽に平塚先生と呼んでくれ」と、一応自身も名乗っておいた。
それに続いて、雪乃と結衣も自分の名前を教える。一方、知り合いらしい八幡は眉間に皺を寄せながら黙っていた。
結衣がとりあえず椅子を勧めると、材木座は素直に座った。
「しかし、比企谷にも友人がいたんだな。良かった良かった」
先日、『俺に友人はいない』と言った八幡のことを、静は気にかけていた。神代くんはなんだか愉快そうな少年だが、友人がいるのは良い事だと、静は思う。
しかし八幡は嫌そうに、「やめろ、俺に友人はいない」と突っ撥ねる。
「えぇ!? ヒッキーそんな悲しい事言わないでよ! あたしもゆきのんも、ヒッキーのこと友達だと思ってるよ!」
結衣が慌てて言うが、今度は雪乃が、「私はこの男の事を友人とは思っていないわ。私の友人は、由比ヶ浜さんだけよ」と突っ撥ねた。
「ゆきのんもそんな悲しい事言わないでよぅ! かずみんもゴンちゃんも、友達だと思ってくれてるよ! 優美子とだってその内仲良くなれるよ〜!」
結衣は最早少し涙目だった。みんな仲良くしてほしいのに、この二人は放っておくとすぐ他人とギスギスする。
雪乃は、気を取り直すようにひとつ嘆息した。
「それで、神代くんの相談事とはなにかしら?」
雪乃が材木座に訊ねると、八幡から待ったが掛かった。
「先に断っておくが、コイツの名は神代剣ではない……コイツは自身を、イギリスの名門貴族ディスカビル家の末裔である神代剣だと思い込んでいるが……コイツの本名は材木座義輝だ」
えぇ? 偽名? と、雪乃と結衣は若干引きながら、材木座を見た。
「なんでイギリス貴族の末裔なのに苗字は神代なんだ?」静が八幡に訊く。
「知らん。コイツに訊け」八幡もそのへんの設定はよく知らないようだ。
本名を早々にばらされた材木座は、つんとした顔で斜め上に顔を向けていた。
雪乃は、こほん、と空咳をすると、「それで? 改めて……材木座くんで良いのかしら?」と材木座に訊ねる。
しかし、材木座は何も答えずに沈黙している。
「材木座くん?」
雪乃が再度訊いても、材木座は何も答えない。
「……材木座くん?」
材木座は何も答えない。
「……神代くん?」
「なんだ?」
雪乃が折れて神代という名で呼ぶと、材木座は即座に返答した。
雪乃は、頭痛を堪える様に眉間を押さえた。また、新たな変人に出会ってしまった。
「まあ良いわ……あなたの相談事とやらはなに? 内容如何によってはお断りさせてもらうけれど、一応聞いておくわ」
できれば断りたいという態度を隠さずに雪乃は言う。
八幡のせいで、最近変な人と関わる機会が増えている気がする。
やはり、変人は変人を引き寄せるのね、と雪乃はそう思った。
雪乃には、自身も結構変わった人間であるという自覚はない。
「うむ、実はな、ミサキーヌの元気が無いのだ」
ミサキーヌ? 八幡以外の奉仕部員に疑問符が浮かぶ。
「岬か」八幡は呟いた。
「岬さんって、ヒッキーの中学んときからの先輩だよね?」結衣が訊ねると、八幡は首肯する。
「俺の先輩でもあるぞ」材木座は言った。そして、「ミサキーヌの元気を取り戻したい。それが俺の相談事であり、依頼だ」と頭を下げた。
材木座の相談内容は、彼の個性的なキャラクターに比べれば存外まともだった。
しかし、気になるのは材木座と岬の関係性だ。
ただの先輩後輩という関係ならば、わざわざ奉仕部に依頼までするというのは解せない。
「その、岬先輩とあなたは、どういう関係なの?」雪乃が訊く。
「ミサキーヌは、俺の運命の人だ」
材木座が自信満々で答えると、結衣は「運命の人って事は、恋人?」と首を傾げて呟く。
しかし、八幡は即座に否定した。
「コイツが一方的に惚れているだけだ。岬はおそらく、何とも思っていない」
「違うもん違うもん! ミサキーヌは俺に優しいもん! 俺の事、ちゃんと剣くんて呼んでくれるし!」
材木座は首を左右にぶんぶん振って喚くが、岬が彼の事を『剣くん』と呼ぶのは、単に彼女が材木座の本名を知らないからだ。
材木座の親友、カ・ガーミンこと加賀美鑑がいつも剣と呼んでいるので、岬は材木座の名前は本当に神代剣なんだと勘違いしている。
「だいたいわかったわ」雪乃は訳知り顔で頷くと、材木座を指差し、「岬先輩の元気が無いのは、あなたに運命の人呼ばわりされて困っているからよ! あなたが岬先輩の前から去れば、それで依頼は万事解決する筈だわ!」と、早口で捲し立てた。
雪乃の指摘に、材木座はガツンとショックを受けた様子で、机に突っ伏す。そして、「そうか……ミサキーヌの元気が無い原因は俺だったのか……」と、低く嗄れた声音で呟いた。
しかし、八幡は彼にしては珍しく、「いや、コイツが岬に惚れたのは昨日今日の話じゃないからな。流石にコイツが原因ではないんじゃないか」と言って、材木座をフォローした。
それを聞いた材木座はガタンと椅子を蹴ると、八幡の方に近寄ってその体を抱きしめ、「だよなぁ、だよなぁ! 天道お前意外といい奴だなぁ!」と叫ぶ。
「やめろ、懐くな。鬱陶しい」八幡は嫌そうに、材木座の顔を左手で抑えた。
傍らで話を聞いていた静は、ふむ、と思案気な表情で頷いた後、口を開いた。
「高校生の悩み事といえば、大抵勉学か人間関係だろう? その、岬さんとやらの学業成績はどうなんだ?」
「ミサキーヌは成績優秀だぞ。ちょっとだけ社会科が苦手だが、それでも平均は大きく超えている」八幡に引っぺがされた材木座が答えた。
「待ちなさい、ざい……神代くん。あなた何故岬先輩の成績を把握しているの」雪乃が横から口を挟む。
「直接本人に聞いたに決まってるだろう! そのぐらいの会話はするもん!」
材木座は、ストーカーだと疑われてはたまらないと、弁解する。
静は、学業成績に問題が無いなら、やはり人間関係か、と考えた。
女子高生の人間関係って難しいんだよなあ、と静はちらりと結衣の方を見た。
すると、結衣は意味深な笑顔を見せた後、「わかったかも」と呟いた。
「ねえ、神代くん。岬さんって野球部のマネージャーなんでしょ?」
岬が野球部のマネージャーをしている事は、百合子から聞いていた結衣。
一応、材木座にも確認する。
「そうだ。ミサキーヌは中学の頃から野球部のマネージャーをしていた。高校でもそうだ。ミサキーヌは野球が好きだからな」
「ふっふっふ、だったら、あたしの推理に間違いはないよ」結衣はすっと立ち上がり、天井を指差して、「岬さんは今、恋をしているんだよ! そして、相手はピッチャー!」と、断定して言った。
結衣は、最近読破した漫画の影響で、ピッチャーとマネージャーは恋をするものだと思い込んでいた。