岬は恋をしている、という結衣の言葉を聴いた瞬間、材木座はがくんと床に這いつくばって項垂れた。
「恋……ミサキーヌが、恋……」材木座はぶつぶつと呟いている。
「そうそう、女子高生の悩みといえば、勉強、部活、恋だよ。勉強は問題無し、部活はマネージャーだからレギュラー争いとかは無い。じゃあ、残るは恋しかないし」
結衣が更に言い募ると、材木座は床にうつ伏せになって倒れた。その両眼には涙がキラリと光っている。
その様子を傍で見ていた静は、ちらりと時計に目をやると、「もうこんな時間か、私は職員室に戻るとするかな。忙しい忙しい」と、わざとらしく呟き、部室を出て行った。
自らも恋に悩むオトナ女子である静は、他人の恋愛相談になど乗れないのであった。
「それで? 由比ヶ浜さんはこう言っているけれど、比企谷くんから見て、岬さんは恋をしている様子なのかしら?」雪乃は八幡に訊く。
「俺から見て、と言われても、俺は最近の岬の様子など全く知らん。この学校に岬がいる事も風間から聞くまで知らなかったからな」
八幡はそう言うと、立ち上がってドアの方へ歩き出した。
「とりあえず、グラウンドに行くぞ」
足早に部室をあとにした八幡を、雪乃と結衣、そして涙を拭いた材木座が追いかけた。
「全く、まだ依頼を受けるとも言ってないのに」雪乃は追いかけながら、相変わらず自分勝手な行動をとる八幡に対して、文句を零した。
「ヒッキーも、なんだかんだ言って神代くんのこと友達だと思ってるんじゃない? 友達の相談だから張り切ってるんだよ」
「天道……ライバルの俺に手を貸してくれるなんて、やっぱり意外といい奴だなぁ」
結衣と材木座は好意的に解釈してそう言う。
しかし雪乃は、あの男はあまり材木座とは関わりたくないから、さっさと解決してしまおうとしているだけなのでは、と思った。
野球部が使用しているスペースの三塁側には、大きな防球フェンスが設置されている。
奉仕部の面々に材木座を加えた四人は、そのフェンスの外側から野球部の練習風景を眺めた。
今は、マシンを使ったケースバッティングの練習をしているらしい。
常にランナー二塁の状況を敷いている事から、得点圏での打席を想定しているようだ。
「ねえ、ヒッキー、岬さんてどの人?」
結衣が八幡に訊ねる。グラウンドを眺めると、野球部の女子マネージャーは三人いる。
一人はベンチに座り、机に向かって何がしかの書き物をしている。
あとの二人は、バッティングマシンの周りにいた。一人はマシンにボールを投入し、もう一人は、マシンを守る小型の防球フェンスの前で、グラブを着けて構えていた。
「バッティングマシンの前で構えているのが、岬だ」
八幡はそう言って、岬を指差した。
その時、丁度バッターがピッチャーゴロを打った。
岬はそのゴロを軽快に捕球すると、二塁ランナーの動向を見て進塁の意志が無い事を確認した後、ファーストに送球した。
バッターランナーはアウトになって悔しそうにしている。
「わあ、すごいすごい! 今、岬さんがアウト取ったんだよね?」結衣は、はしゃぐ様にぱちぱちと手を叩いた。
「そうだ、ミサキーヌは凄いんだぞ」材木座は自分の事の様に自慢気だった。
春先に、女子はソフトボールの授業があった。
結衣はその授業で、ゴロもフライもあまり上手く捕れなかったので、ピッチャーゴロを軽快に捌く岬をカッコイイと思った。
雪乃は特に何も言わなかったが、内心では、野球はやった事がないけれど、あの程度なら自分にもできるはず、と対抗心を燃やしていた。
彼女はいつだって誰にだって、負けたくないのだ。
「あれ、ヒッキーどこ行くの?」
突然、八幡が外野の方向に向かって歩き出したので、疑問を覚えた結衣が訊く。
八幡は振り返って、「ここから岬を見ていてもよくわからんからな。わかっていそうな奴に訊きに行く」と答えた。
結衣たち三人も八幡の後ろをついて行くと、辿り着いた先には中々立派なピッチングゲージがあった。
ゲージの中のブルペンでは、ピッチャーが四人、投げ込みをしている。
八幡は軽い足取りでゲージに歩み寄って行くが、他の三人は少し離れたところで足を止めた。
体育会系の部活が真面目に練習している場所は、近付き難い雰囲気がある。
「……加賀美」八幡はゲージの外から徐ろに、右端で投げ込みをしていたピッチャーに話しかける。
「おう、比企谷か、久しぶりだな」話し掛けられた鑑は、気安い様子で応えた。
「お前、材木座を俺に押し付けたな」
「あ、バレた?」
「当たり前だ。材木座が最初に相談する相手といえば、お前しかいないからな」
「いやあ、俺、練習が忙しくてさ。おまえ奉仕部とかいう部活に入部したらしいし、相談するなら丁度いいと思って」
悪びれずに言う鑑に、八幡は眉根を寄せた。
「加賀美! 何くっちゃべってんだ! さっさと投げろ!」
「あ、すみませぇん! わりぃ比企谷、俺、練習あるから」
ブルペンキャッチャーから叱責を受けた鑑は、八幡にそう言った。
八幡はひとつ嘆息すると、鑑に、「昔、お前を連れて行ったパスタ屋は覚えているな。七時半に、あのパスタ屋に来い」と告げて、踵を返した。
「パスタ屋? ああ、わかった。練習終わったら行くよ」鑑は八幡の方は見ずに、キャッチャーのサインに視線を向けて言った。
八幡が自分たちの方へ戻ってきたので、結衣は興味津々な様子で八幡に訊ねる。
「あの人、ヒッキーの友達?」
「ただの知り合いだ」
八幡にも結構友達がいるのだと思って嬉しそうにしている結衣に対して、彼は素っ気なく言う。
「カ・ガーミンこと、加賀美鑑だ。俺たちと同じ中学の出身だぞ」材木座が、雪乃と結衣に説明する。「当然、カ・ガーミンもミサキーヌの後輩だ」
「それで? その加賀美くんとは、何を話していたの?」
離れたところにいたので具体的なやり取りは聴こえなかった雪乃が、八幡に訊いた。
「練習の邪魔をするのも悪いからな。七時半に、俺の家の近所にあるパスタ屋に呼び出した」
八幡の言葉を聞いた瞬間、雪乃は耳を疑った。
あの、俺さま神さま仏さまな態度を崩さない比企谷八幡が、『練習の邪魔をするのも悪い』などと言ったのだ。
この男、意外にも友達想いなのかもしれない、と雪乃は少しだけ印象を改めた。
「そのパスタ屋さんてどこ? 場所教えてよ」結衣が言った。
「なんだ、お前も来るのか」八幡は冷めた口調で返す。
「えーっ、行くよ、当たり前だし。奉仕部への依頼なんだからさ」
「そうね、乗りかかった船だから、私も行くわ」雪乃も、結衣に同調する。
「俺も行くぞ。俺の依頼なんだからな!」
材木座にまで言われた八幡は仕方なくパスタ屋の場所を教えた。
そして、今日はもう部室を閉めて、一旦それぞれ家に帰ることにした。
家に帰って私服に着替えた雪乃と結衣は、七時過ぎにパスタ屋の最寄り駅で待ち合わせた。
合流したところで、一緒に目的地に向かう。
正確な住所を八幡から聞いていたので、雪乃は携帯で検索して出てきた地図に従って歩くが、それらしい店が見つからない。
地図によれば、この辺りのはずなのだが。
そうして二人で周辺を彷徨っていると、不意に、知らない女の子から話し掛けられた。
「あの〜、雪ノ下さんと由比ヶ浜さんですか?」
その女の子は、サテン地の白いブラウスにマキシ丈の黒いロングスカートという少し大人っぽい格好をしていたが、年齢でいえば二人よりも年下に見えた。
見知らぬ少女に突然話し掛けられた雪乃は、少し警戒しながら答える。
「そうですが、貴方は?」
「あ、やっぱりそうだった。雪ノ下さん、お姉さんと似てますね」
「……姉と面識が?」
雪乃が問い掛けると少女は「はい、この間、世界の花展でお会いしました」と言って頷いたのち、背後に振り返って、「お兄ちゃーん、二人共いたよーっ!」と、少し遠くにいた兄を呼びつけた。
その声に応えて現れたのは、比企谷八幡だった。彼も家で私服に着替えたのか、白いサマージャケットに、黒いデニムパンツを合わせている。
「やはり迷っていたのか」
八幡の視線は、雪乃が右手に持っている携帯に注がれていた。
彼の目はまるで、『地図も読めないのか』と言っているようで、雪乃の癪に触った。
勿論、八幡にそんな気は一切ないのだが。
「ヒッキー、お兄ちゃんって呼ばれてるってことは、この子……」結衣の疑問には、小町が答えた。
「どうもどうも、比企谷八幡の妹、小町で〜す。兄がお世話になっております」
小町は二人と握手を交わしながらそう言った。
兄とは似ても似つかぬ、人当たりの良い性格の小町に、二人は面食らった。
「加賀美と材木座は、店で待っている」
八幡は、路地の奥まったところにある小径に歩いて行った。既に時刻は七時半を少し過ぎている。
小径を抜けた先には、店頭に観葉植物が並んでいる隠れ家のような店があった。
飲食店ならば、もっとわかりやすく目立つ場所に店を構えるべきだろうに、わざと見つかりにくい立地を選んだそのパスタ屋は、一見しただけでは飲食店かどうかも判然としなかった。
店内に入ると八幡の言葉通り、鑑と材木座の姿があった。
丁度六人がけのテーブルに、二人並んで座っている。
八幡は鑑の隣に腰掛け、八幡の対面に小町が座ったので、その隣に結衣、雪乃と並んで座った。
傍から見ると、合コンみたいで嫌だわ、と雪乃は思った。
鑑は練習終わりにそのまま来たのか高校の制服を着ていたが、雪乃の対面に座っている材木座は胸元と袖口にフリルが付いたゴシック調のシャツを着ている。
フィギュアスケートの選手が試合で着る分には似合いそうだが、日常で着る様なファッションではない。
「まずは自己紹介しときませんか? お兄ちゃんと加賀美さん以外、小町初対面だし」
隅の席から小町が言う。テーブルに着いていきなり自己紹介とは、ますます合コンの様だが、面識の無い人間がいるのは確かなので、とりあえず名前を名乗る雪乃だった。
雪乃に続いて八幡以外の面々が名乗り終えたところで、八幡はテーブルに備え付けてあるアナログの卓上ベルを鳴らした。
「ちょっと、比企谷くん、まだメニューを見てないわ」雪乃が文句を言う。
「この店に来たら、最初に頼むのはカルボナーラだ」八幡は有無を言わさぬ口調で言った。「ドリンクは一通り揃っているから、適当に頼め」
雪乃は、何を勝手な事を言っているのだこの男は、と八幡を睨むが、彼の隣に座る鑑は苦笑を見せた。
「懐かしいな。俺がこの店に連れて来られた時も、比企谷は勝手にカルボナーラを二つ頼んだんだ。俺はナポリタンが食いたかったのに。でも、この店のカルボナーラはマジで美味かったよ」
「すみません、雪乃さん。でも確かにここのカルボナーラは絶品ですから、一度食べてみてください」
鑑と小町にそう言われて、渋々雪乃は納得する。ベルの音を聴いて現れたウェイターに、八幡は本当にカルボナーラを六人分注文した。
そして、各自適当にソフトドリンクを頼む。
「ところで比企谷くん、加賀美くんは良いとして、なぜ部外者である貴方の妹さんがいるのかしら」雪乃が八幡を睨め付けながら言う。
「元々、今日は小町とパスタを食べる予定があった。部外者はむしろお前らの方だ」
「ちょっと待ちなさい。加賀美くんをここに呼んだのは貴方でしょうが」
「加賀美を呼んだのは俺だが、それ以外の者は勝手に来ただけだろう?」
「ちょっとヒッキー、これは奉仕部への依頼なんだから、あたし達を部外者扱いするのはやめてよ」
冷めた態度で言う八幡に、結衣が口を尖らせながら注意する。どうやら、お化粧研究部の依頼を解決してから、奉仕部部長としての自覚が芽生えて来たらしい。
「あの〜、小町、ここにいない方が良いですか? 小町だけ離れたテーブルで食べてもいいですけど」
「待て小町、お前がいない方が良いなんてことはない。いつ如何なる時も、これは絶対の真実だ」
おずおずと申し出る小町を、八幡は慌てた様子で止めた。
そんな八幡を見た鑑は、噴き出すように声を立てて笑う。
「あはははは、相変わらずシスコンだなぁ、比企谷」
「お兄ちゃん、外でシスコンはやめなさいっていつも言ってるでしょ。恥ずかしいなぁ、もう」
鑑に笑われ、小町に咎められる八幡を見て結衣は、普段の学校生活では見られない彼の新しい一面を垣間見た気がした。
結衣は、『ヒッキーはシスコン』と、心のメモ帳に記す。
「ねえ、神代くん、小町ちゃんが居ても別にいいよね?」結衣は材木座に訊ねた。
「ああ、天道の妹ならば、そう部外者というわけでもあるまい。それに、俺の相談は誰に聞かれても恥ずかしくない相談だからな」
依頼者である材木座が納得するならば、雪乃としても納得するしかない。
小町も同席する事が決定したところで、鑑はそっと手を挙げた。
「あのさ、剣の相談事ってなんなのかな? 俺、まだ聞いてないんだけど」
鑑がそう言うと、奉仕部の部員達は材木座に顔を向けた。
材木座は、うむ、と呟いたあと鑑に相談内容について説明する。彼の説明は、余計な情報とどうでもいい回り道が多かった。どうやら、親友相手なので興が乗ったらしい。彼はまずミサキーヌの美しさについてから語り出したので、肝心の内容に辿り着くまで数分かかった。
「えーっと、つまり、岬さんの元気がないからなんとかしたいって、そういうことか?」
相談内容を把握した鑑に対して、材木座は首肯する。
この程度の内容を話すのにこんなに時間がかかるとは、自分が話してやればよかった、と雪乃が後悔していたところで、注文していたカルボナーラとドリンクをウェイターが運んできた。
「とりあえず、話は後だ。まずは冷める前に食え」微笑しながら、八幡が言う。
各々、「いただきます」と手を合わせた。
なだらかな平型に盛り付けられたパスタの真ん中には、ポーチドエッグがトッピングされている。
雪乃はまず、ポーチドエッグを割ってパスタと卵黄を絡めた後、一口食べてみた。
まろやかでいてコクのある卵黄の甘みと、摩り下ろして振りかけられたペコリーノロマーノチーズの強い塩気が舌の上で溶け合って極彩を放ち、アクセントで加えられた粗挽きの黒コショウの香味が食欲を刺激する。
アルデンテよりもほんの少し柔らかめに茹でられた太めの麺は、もちもちとした食感だった。
そしてその麺は、クリーミーなカルボナーラソースの味と良く合っている。おそらく、わざと通常よりも茹で時間を少しだけ長くしているのだろう。
確かに、他人に勧めるだけの事はある、と雪乃は思った。
「美味しいね!」結衣は満面の笑みを浮かべて言った。そして、「ヒッキー、このカルボナーラに入ってるベーコン珍しい味だけど、本場のヤツ?」と、八幡に質問した。
「これは、ベーコンではなくパンチェッタだ。このカルボナーラには、ベーコンよりもパンチェッタの方が合う」
八幡が答えると、最近料理に嵌っている結衣は、「パンチェッタってなに? ベーコンとどう違うの?」と、さらに訊いた。
その質問には、結衣の隣にいた小町が答えた。
「一般的には、塩漬けして燻製された豚肉をベーコン、燻製されてないものをパンチェッタっていうんです。パンチェッタの方が、塩味が強いんですよ」
「へえ〜、小町ちゃんも、お料理詳しいんだね」
「おばあちゃんとお兄ちゃんの受け売りですけどね」
結衣が褒めると、小町は照れるように頬を人差し指で掻いた。
結衣は絶品のカルボナーラをフォークで一巻きすると、一気に頬張る。
「由比ヶ浜、冷める前に食べた方が美味いとはいえ、もう少しゆっくり食べろ。火傷するぞ」呆れたように八幡は言った。
「むかし、おばあちゃんが言ってたもんね、のど元過ぎても、火傷はするって」
小町が言うと、雪乃の耳がピクッと動いた。似ていないと思ったが、やはり兄妹。
妹の方も、おばあちゃん云々は言うらしい。
「久しぶりに食べたけど、やっぱりこの店のカルボナーラ美味いよな」加賀美は、同意を求めるように八幡に言った。
「当然だ。俺の勧める料理に、間違いなどあるものか」
八幡と鑑のやり取りを眺めた結衣は、「二人とも仲良いよね。やっぱりヒッキーにも、友達いるんじゃん」と言った。
八幡と鑑は同時に、結衣に目を向ける。
「……俺に友人はいない。おばあちゃんが言っていた、友情とは」
「友の心が青くさいと書く、だっけ?」
八幡の言葉を、途中から鑑が引き取った。
「憶えていたのか」少し驚いた様子で言う八幡。
「あったりまえだろ〜、そんで、その後に、『お前は友人じゃない』って俺に面と向かって言ったんだよな。言われた時は、『なんだコイツは』って思ったもん」鑑が、懐かしそうに言った。
そして、鑑の言葉を横で聞いていただけの雪乃も、『なんだこの男は』と思った。
「兄は素直じゃないところがありますから、照れ隠しでそんなこと言ったんだと思います。何だかんだ言って加賀美さんのことは、友達だと思ってるんですよ」
小町が揶揄うように言うと、八幡はそっぽを向いて、「そんなことはない」と呟いた。
八幡は妹相手だと、いつもの調子ではなくなるようだ。
雪乃は、『比企谷八幡は妹に弱い』と、心のメモ帳に記した。