カルボナーラを食べ終わったあと、雪乃たちは本題に入る前にデザートを追加注文した。
卓上に何も並んでいない状態でテーブル席を占拠するのも悪いと思ったのだ。
各々、イタリアンジェラートやケーキなどを頼む。
そして、それらをウェイターが運び終えたところで、雪乃が口を開いた。
「それで、加賀美くん、岬先輩は本当に元気がない様子なのかしら? 神代くんの勘違いなどではなく」
雪乃は鑑に訊ねる。鑑が考え込むように唸っている隣で、材木座が「勘違いじゃないっ」と喚いているが、雪乃は彼の事は放置した。
「岬さんなぁ……確かに、ちょっとだけ元気がないというか、変な感じの日はあったかな」
「変な感じの日?」結衣が首を傾げた。
「突然ウチに来たかと思ったら、すぐに帰っちゃったんだよ。その時、なんていうか、煮え切らない態度っての? 言いたい事がありそうなのに、何も言わなかったんだよな。岬さんにしては珍しかったな」
鑑がそう言うと、結衣と材木座は同時に衝撃を受けたように目を見開いた。
「ゆきのん、やっぱりこれは恋の悩みだよ。岬さんは加賀美くんに恋をしてるんだよ。加賀美くんピッチャーみたいだし、距離が近過ぎて中々恋愛に発展しない男女って有りがちだし」結衣は口元を手で隠し、隣の雪乃に小声で囁く。
「確かに、俄かにその可能性が高くなってきたわね。加賀美くんは比企谷くんの知り合いにしてはまともそうだし、異性からも好まれそうな印象を受けるわ」雪乃も口元を手で隠して、結衣にそう応えた。
材木座は、鑑の腕を両手で掴むと、ぶんぶんと振り回した。
滂沱の涙を流している材木座は、少し錯乱しているようだ。
「カ・ガーミン! 何故ミサキーヌがお前の家に行くんだ! 答えろ!」
「いや、岬さんがウチに来ること自体は別に珍しくねえよ!」
「なにぃ!? お前、ミサキーヌとは付き合ってないって言ってたじゃないか!」
「付き合ってなくても、相手の家に行ったりとかするだろ! 部活の仲間なんだし!」
鑑は材木座に振り回されながらも弁明した。
別に、鑑と岬は付き合ってなどいない。ただ、お互いの家を行き来する程度には仲が良いというだけの事だ。
「いや、加賀美くん、それは違うよ。岬さんは加賀美くんに恋愛感情を持ってるんだよ。それで悩んでるから元気がないんだと思うよ」
結衣は右手に掴んだジェラート用スプーンの先を、鑑の方に向けながら言った。
鑑は訝しげな表情で、結衣を見遣る。
「岬さんが俺に? ないない、ありえないって」
鑑は、虫を払うように手を振りながら言う。
岬は自分の事を、ただの仲の良い後輩としか認識していない、と鑑は思っている。
「とりあえず、本人に確かめてみるべきではないかしら」雪乃が言った。
「本人に確かめるって、岬さんに、『俺の事好きですか?』って訊くのか? それ、勘違いだったら自惚れ屋っていうか、かなり間の抜けた話だぞ」鑑は顔を顰める。
「直接的にではなく、それとなく訊けば良いと思うわ」
雪乃は簡単に言うが、それとなくというのも難しいと鑑は思う。
まあ、確かに、ゴールデンウィークあたりから何となく岬の表情が曇りがちだったのは事実だ。
普段は、前と変わらない溌剌とした雰囲気なのだが、不意に寂しげな目を見せる時がある。
そのこと自体は鑑も気になっていたのだが、しかし、岬が自分の事を好きだのなんだのという話は、信じられなかった。
「じゃあ、加賀美くんがそれとな〜く岬さんに訊いてみるって事で。これで依頼は解決かなぁ」
結衣は締めくくる様にそう言った。これを切っ掛けに鑑と岬が付き合うようになるかどうかはわからないが、ここから先は、他人が口を挟む様なことでもない。
「カ・ガーミン……さっきは取り乱してしまったが、ミサキーヌをよろしく頼む。お前なら、我が友カ・ガーミンならば、ミサキーヌを任せられる」材木座は涙を拭いて言った。
「いや、剣によろしく頼まれても困るんだけど」呆れた様子で、鑑は口角を下げた。
その後、デザートを食べ終えた六人は、会計を済ませて帰ることにした。
店を出たところで、小町が結衣に話し掛ける。
「あのう、もしかして、結衣さんて『サブレの女』じゃないですか?」
結衣が八幡に対して、『ヒッキー』と親しげに呼んでいる事から、小町は敏感に察知していた。
小町が知っている『サブレの女』に関する情報は、麻婆豆腐を作ってくれたクラスメイトという事だけだ。
しかし、そもそも親しい人間の少ない兄に対して、気安い雰囲気で接する結衣は、『サブレの女』である可能性が高いと小町は推測した。
「サブレの女って! ヒッキー、小町ちゃんにあたしのことなんて言ってるの!?」
結衣はおたおたしながら八幡に詰め寄った。『サブレの女』などという変なあだ名を広められるのは正直言って恥ずかしい。
小町は、にやりと意味深な笑顔を見せた。
「やっぱり結衣さんが、麻婆豆腐をつくってくれたクラスメイトなんですね。あの麻婆豆腐、とっても美味しかったです」小町は結衣に言った。
「え、なんで小町ちゃんがあの麻婆豆腐の味を知ってるの?」結衣は不思議そうに瞬きする。小町に対して麻婆豆腐を作った覚えはない。
「お兄ちゃんが、家で同じ物を作ってくれたんです。あれだけ美味しいレシピを完成させるのは苦労したんじゃないですか?」
「あ〜、レシピは殆どゆきのんに教わったやつだから、あたしはそんなに」
「謙遜することはないわ、由比ヶ浜さん。あの麻婆豆腐を完成させたのは、あなた自身よ」
雪乃は優しく微笑みながら言う。結衣は「え〜、そうかなあ?」と照れくさそうにしつつも、料理を褒められて内心嬉しいようだ。
「ねえねえ、お兄ちゃん。結衣さんの事、家まで送ってあげなよ。もう時間も遅いしさ」
小町の言う通り、既に辺りは暗かった。
「由比ヶ浜を送るのは構わんが、まずは小町を家まで送ってからだ」
八幡としては、それは絶対だった。小町を夜に一人歩きさせるなど、断固として許可できない。
「小町は近所だから別に一人でいいよ」
「駄目だ」
普段は妹に甘い八幡だったが、こういう時には頑固だった。
「ヒッキー、家まで送ってくれんの?」
「ああ、先に小町を家に帰すから、一旦家まで付いて来い」
「わかった。ゆきのんはどうするの?」
結衣は、雪乃に顔を向けて言った。
雪乃は、首を左右に振る。
「私は、加賀美くんに送ってもらうわ」
「俺? まあ、別にいいけど」
突然、雪乃にそう言われて、困惑する鑑。しかし、特に問題は無いので頷く。
そして、一人余ってしまった材木座だったが、彼自身、エスコートする女性は岬だけと心に決めているので、寂しくなどない。
別れの挨拶をして、それぞれ家路についた。
少し車両の交通量が多い道を、雪乃と鑑が並んで歩く。
歩道にはガードレールが設置されていたが、鑑は一応車道側を歩いた。
男子たるもの女性と歩く時には車道側、というのは、警察官である父の教えだ。
思春期ゆえ、父親に対して時々反抗的な態度を取ってしまう事もある鑑だったが、こういう教えは遵守していた。
鑑は意識して、普段よりも少しだけ歩く速さを遅くする。
岬と並んで歩く時の癖で、ついつい普通の速さで歩きそうになるが、普通の女の子は岬さんと違って体力がないもの、というイメージが鑑にはあった。
そんな彼の内心を雪乃が知れば、彼女はムキになって歩く速度を上げたかもしれない。
しかし、とりあえず、鑑の考えている事など雪乃は知る由もないので、二人は並んでゆっくり歩いていた。
「悪いわね、送ってもらって。最寄り駅までで構わないから」
「ああ、別に気にしなくていいよ」
若干素っ気ない態度で、鑑は応えた。
よく知らない女の子と、何を話せば良いんだ? 岬さん相手なら、野球の話でもしてれば盛り上がるのに、と彼は少し気まずい思いをしていた。
この二人に共通した話題といえば、比企谷八幡の事くらいだ。
比企谷についての話でも振ってみるかな、と鑑が口を開きかけたところで、雪乃の方から先に、「比企谷くんについて、訊きたいことがあるのだけれど」と言われてしまった。
「えっと、なに?」鑑は横目で雪乃を見て言った。
「比企谷くんは、なんなのかしら?」
雪乃はどうやら、この質問をする為に鑑に送ってもらう事にしたらしい。
「なんなの……って言われてもなあ。ああいう奴としか言えないけど」
「貴方は、比企谷くんと仲が良さそうにみえたわ。少なくとも貴方は、あの男の事を嫌ってはいない」
「まあ、嫌いじゃないよ」
鑑は首肯して言った。表情には、苦笑が浮かんでいる。
「あんな風に常に偉そうな態度の男、どうして嫌いにならないのかしら?」
常に偉そう、という点でいえば、雪乃も似たり寄ったりな所があるのだが、彼女はそこは棚上げして言った。
「常に偉そう……か、まあそうだよなあ」鑑は笑顔を浮かべて言う。そして、「雪ノ下さんは、偉そうな奴って嫌い?」と逆に質問した。
「そうね……私がどう思うかは置いておくとして、一般的にいえば、好ましくないと思われるでしょうね」
「だろうね。俺も、後輩とかの弱い立場の人にだけ偉そうな奴は嫌いだな」
「だったら、何故比企谷くんの事は嫌いではないと言うの?」
雪乃は、鑑の顔に目を向けた。鑑は、夜空に輝く月を見上げていた。
「アイツはさ、『常に』偉そうなんだよ。誰に対しても」
鑑は懐かしそうな様子で、自身の思い出を語り出した。
中学一年の時、加賀美鑑と比企谷八幡はクラスメイトだった。
一学期の頃は、特に会話をした覚えもない。その頃の八幡に対する鑑の印象は『なんか偉そうな奴』程度のものだった。
その印象が改められたのは、夏休みに入ったある日の事だ。
当時から野球部に所属していた鑑は、練習でへとへとになった帰り道、幾分ぼうっとしながら歩いていた。
「アキラ、もっとシャキッとしなさいよ。シャキッと」
鑑の隣には、岬の姿もあった。家が近所という事で、二人は一緒に帰る事が多い。
フラフラとおぼつかない足取りで歩く鑑に、岬は活を入れる。
「今日は一段と暑かったんで……疲れました」
「もう、じゃあカバン持ってあげようか?」
「いや、それは格好悪いんで遠慮しときます」
鑑は左肩からずり落ちそうになっているエナメルバッグの肩紐を、両手でグイッと引っ張って肩にさげ直した。
鑑たちの通う中学校は、如何なる時も登下校時は制服着用が義務づけられていたので、当然彼は今、制服を着ている。
ズボンの尻ポケットからは財布が頭を覗かせていた。
当時鑑は中学生の癖に生意気にも長財布を愛用していたので、制服の小さなポケットには入りきらないようだ。
体力を使い果たして注意散漫な様子の鑑は、引ったくりからすればカモに見えたのだろう。
無精髭を生やした学生風の男が、鑑の後方から足音を消してすり寄って来た。
そして、その男は鑑のポケットから財布を抜くと、一目散に走って逃げた。
「あ! 待て、引ったくり!」
驚いた鑑は、力の入らない脚にムチを入れて、走って男を追う。岬も反射的に鑑の後ろから追いかけた。
ほんの三十メートルほど走ったところで、引ったくりの男は間抜けにも脚をもたつかせて転んだ。
引ったくりの男は、「痛え、痛えよ」と呻いている。
鑑は走るのを止め、「財布、返せよ」と言いながら男に歩み寄った。
男は、大体高校生から大学生程度の年齢に見えた。中学一年生の鑑より、体格もがっしりしている。
喧嘩になったら分が悪いなあ、と鑑は思った。
「近づくんじゃねえよ! 離れろ、ボケ!」男は痛む脚を押して立ち上がると、懐からナイフを取り出して鑑に向けた。
「おいおい、待てよ、落ち着けって! 刃物はヤバイって刃物は!」鑑は慌ててエナメルバッグを体の前に構えて身体を隠し、その背に岬を庇った。
「ねえ、アキラ、財布くらいあげちゃいましょうよ……に、逃げた方がいいわ」岬は鑑の後ろからその肩を掴み、彼の耳元に呟いた。
確かに、財布の中身は精々数千円だ。中学生にとって数千円は痛いが、ナイフを持った男に立ち向かうほど惜しいものでもない。
鑑はエナメルバッグを構えたまま、少しずつ岬と共に後ろに下がった。
「わかった、財布はアンタにやるよ。だから、ナイフはしまってくれ。な?」
鑑はそう言うが、逆上している男に、ナイフをしまう気は無さそうだ。
男は依然ナイフを右手に持ったまま踵を返して逃げようとした。
そして、男が振り向いた丁度その時。
数メートル先の曲がり角から、薄墨色の作務衣を着た少年が現れた。
少年の左手には、アルミのボウルが抱えられている。
鑑は少年の顔に見覚えがあった。クラスメイトの比企谷八幡だ。
「どけよ、テメエ!」引ったくりの男は、右手のナイフを振り回しながら八幡に凄む。
「危ない! 逃げろ!」
「逃げて!」
鑑と岬の声が重なる中、八幡は、「誰が逃げるか、俺の往く道は俺が決める」と言って左手のボウルを空高く放り投げると、引ったくりの男にハイキックを繰り出した。
綺麗にコメカミを蹴り抜かれた引ったくりは、地面に再びすっ転ぶ。
「おばあちゃんが言っていた……」八幡は右手を空に掲げて呟いた。掲げた右手に、丁度ボウルが落ちてくる。そして、「刃物を握る手で人を幸せにできるのは、料理人だけだってな」と、地面に蹲る引ったくりに向かって告げた。
鑑と岬は、ぽかんとした表情で驚く事しか出来なかった。
中学生の頃の八幡たちの話を聞いた雪乃は、不満気な表情で第一声に、「刃物を握る手で人を幸せにできるのは、料理人だけじゃないわ」と言った。
鑑は噴き出すように笑い、「最初の感想が、それ?」と返す。
そう言われても、雪乃には色々と反論が浮かんでくるのだから仕方なかった。
例えば、そう、建築関係の現場で働く人などは、刃物を握る手で人を幸せにしている筈だ。『食』も幸せの一要素だが、『住』だって、幸せに関する大切な要素だと、雪乃は思う。
「それで、今の話の結論は何なの? 財布を取り返してもらったから感謝してるって事?」
「まあ、それもあるけど……」
鑑は勿体ぶる様に一旦言葉を止める。雪乃は怪訝な表情で鑑の顔を見遣った。
「アイツはさ、『常に』偉そうなんだ。普通ならビビっちゃうような、ナイフを振り回す引ったくりが相手でも、偉そうな態度を崩さない。俺はさ、アイツがどこまで偉そうにできるのか、ちょっと興味があるんだ」
鑑の言葉を聴いて、雪乃は考え込むように顔を俯かせた。
もしも自分が、刃物を持つ相手と対峙したら、と彼女は想像する。
雪乃は合気道を嗜んでいる。だから、たとえ力で勝る相手であっても取り押さえることはできる筈だ。
しかし、ナイフというわかりやすい凶器を前に、怯まず冷静に対処出来るだろうか、と自問自答する。
雪乃は、『できる』と結論付けた。比企谷八幡にできて、自身にできない筈はない、と彼女は思う。
やがて、二人は最寄り駅に着いた。
駅構内の入り口に立った雪乃は、「ありがとう、ここまででいいわ」と言って鑑にそっと右手を振った。
鑑も、「ああ、じゃあまた」と右手を上げる。
「明日、岬先輩に訊いておいてね。『貴方は俺の事が好きですか?』って」雪乃は少し微笑みながら、冗談めかしてそう言った。
「流石にそれはなあ、まあ、朝練の時にでも、遠回しにそれとなく訊いてみるよ」鑑は軽い口調で請け負い、家に向かって歩き出した。
鑑としては、岬が自分に惚れているなどという話には、まだ納得ができなかった。
しかし、自分以外に誰か、好きな人がいる可能性はあるなと思った。
それは、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、嫌かもなあ、と思う鑑だった。