早朝のグラウンドに、岬が打つノックの音が響く。
朝練に参加している部員の殆どが打撃練習をしている中で、鑑だけは一人ノックを受けていた。
バッターボックスに入った岬は、傍に置いたボール籠からボールを取り出しては、素早い動作で打っていく。
ショートの定位置から右に左に振られる様に、間を置かずに連続して飛んでくる打球を、鑑は息を切らして走り回りながら処理する。
ファーストにはバッティングネットが置かれている。そのネットの捕球ポケットには、鑑が送球したボールが数十球溜まっていた。
右に飛んできたボールに対して、鑑は走り寄って逆シングルで捕球する。
脚に溜まった乳酸が、スムーズに送球フォームに移行しようとする鑑の邪魔をした。
鑑はフッと短く鋭く息を吐き出し、コンパクトなフォームを意識して、ファーストのネットに向かって送球した。
少し低くなり過ぎた送球はワンバウンドしたものの、無事に捕球ポケットに入ってくれた。
「アキラーっ! ボール無くなった、ちょっと休憩!」
岬は大きな声で鑑に向かって言った。それを聴いた鑑は、数瞬だけ膝に手をついて荒く呼吸した後、すぐに背筋を伸ばして深呼吸した。
全身がポンプにでもなったかの様に、ドクンドクンと鳴る心臓がうるさい。
しかし、爽やかに吹く春の風は、鑑に強い清涼感を齎した。
足腰を鍛えられて一石二鳥だからという理由で、岬はやたらとノックのボールを左右交互に振ってくる。
数十球も受ければ、体力自慢の鑑でもさすがに息が切れた。
深呼吸を繰り返して呼吸を整えた鑑は、ファーストのネットに向かって走っていく。
空のボール籠を持ってファーストに歩いて来た岬が、「アキラは休憩してて良いって言ってるのに」と、左手を腰に当てながら言った。
朝練でこの練習を始めた初日などは、岬の言葉に甘えてボールの回収は彼女に任せていた。
しかし、鑑の為にノックしてくれている岬にボールを回収させて、自分だけ休憩しているのは、何だか悪いような気がした。
なので、鑑は出来るだけ素早く呼吸を整え、自分もボールの回収を手伝う事にしている。
「じゃあ、アキラはネットに入った分を籠に入れといてね」
岬はそう言うと、送球が逸れて捕球ポケットに入らなかったボールを拾いに行った。
数十球のうち何球かは、送球が逸れてネットに入らない事もある。
「すみませーん」鑑は面目無さそうに後頭部を掻いた。
「うむ、気にしなくてよい。本当に、気にしなくてよいぞ」
岬は茶化すように微笑んで、『気にしなくてよい』と、二度繰り返した。
鑑は捕球ポケットの前にボール籠を置いて弛んだネットを引っ張り、籠の中にボールをゴロゴロと流し込んだ。
数球ほど籠に入らず零れたのでそれらのボールを拾っていると、捕球ポケットに入らなかった分のボールを拾っていた岬が戻ってきた。
「それにしても、たった数日の練習で内野手投げっぽくなってきたわね」手にしたボールを籠に入れながら、岬は言う。
「そうですかね、とりあえずコンパクトな送球フォームにしようとは思ってるんですけど」
「内野手投げの基本はね、『ボールにもしもし』よ」
「ボールにもしもし?」
「そう」
岬は籠からボールを一つ取り出して右手に持つと、右肘を引きながらボールを右耳の少し後ろに構えた。
「ピッチャーはボールを身体の後ろに隠しつつ、大きな軌道を描いて投げるでしょ? 内野手は、出来るだけ小さく短くボールをトップに持っていくの。内野手投げのトップは右利きの場合、右耳の少し後ろね。窮屈に感じるなら頭の後ろ辺りまで引いても良いけど」
岬は弓を引くような動作で身体をしならせると、バッティングネットに向かってボールを投げた。
「こんな感じね。ボールを耳の方に向かって素早く引くから、『ボールにもしもし』なのよ。ボールで電話する感じ」
「はあ、成る程。でもなんか、ちっちゃい子供に指導する時みたいな教え方ですね」
「し、仕方ないじゃない。私が教わったのはリトルの時だもの」
岬の顔が、少し朱くなる。『ボールにもしもし』はさすがに子供っぽ過ぎたか、と言ったことを悔やんでいるようだ。
「でも、わかりやすいです。俺、野手投げとかあんまり詳しくなかったんで、参考になります」
「アキラは、ピッチャー以外だと外野くらいしか守ったこと無いもんね。野手投げって言っても、内野と外野で違うのよ。外野手投げは一番自然なフォームだから、小中学校の時の監督も指導とかしなかったんじゃないかしら」
軽く鑑のフォームをチェックした後、もうワンセットノックをすると、そろそろ朝練終了の時間になった。
用具を片付けながら、鑑は若干言いにくそうな様子で、「あの〜」と岬に話しかけた。
用具入れにボールをしまっていた岬が、鑑の方に振り向く。
彼女は何も言わずに、微かに首を傾げた。
「あの、えっと……」言い淀みつつ、鑑は頰を掻いた。
「なに?」岬は怪訝な表情を見せた。
「なんていうか……え〜っと」
もしかして、俺のこと好きですか? などと、鑑としては的外れな質問は出来そうもなかった。
尚も「あ〜」とか「え〜」とか唸りながら悩む鑑に痺れを切らしたのか、岬は一歩近付いて言った。
「なに? なんか訊きたいことでもあるの?」
岬が一歩近付いて来たことで、二人の距離がほんの数十センチほどになる。
鑑は顔を逸らしながら、意を決して言う。
「あの、もしかして、岬さんて……いま好きな人いますか?」
さすがに、『俺のこと好きですか?』とは言えなかった鑑は、対象を自分に限定せずに訊いた。
訊ねられた岬は、口を半開きにして驚いたあと、「アキラ、こっち向いて」と言った。
逸らしていた顔を岬の方に向けると、徐ろに、鑑の額に岬の右手が伸びてきた。
そして、ばちんっ、とデコピンされる。
「いてっ!」
「アキラのくせに、色気づいてんじゃないわよ。今の私にとっては、野球が恋人なの」
岬は、呆れた様子で言った。鑑は、デコピンされて痛む額を撫でながら、ほんのちょっとだけ安堵していたのだが、その感情には自分でも気づくことはなかった。
「なんで急にそんなこと訊くのよ」岬が鑑に、逆に質問する。
「いや、なんか最近、岬さんの元気が無いって心配してる奴らが居まして」
「奴『ら』? 誰よその人たち」
鑑は、材木座が奉仕部に相談した内容を詳らかに話した。
そして、女子高生の悩みといえば恋の悩みであると推測した奉仕部に、岬の好きな人を訊くように言われたのだ、と説明した。
本当は、岬は鑑の事が好きなのではないか、と訊ねるように言われたのだが、訊かなくて良かったと彼は思った。
訊いていたら、赤っ恥にも程がある。
「剣くん達が……ね」
「あ、もちろん俺も心配してましたよ」
「馬〜鹿、アキラに心配されるほど、おちぶれちゃいないわよ……て、言いたいとこだけど、悩みがあるのは確かなのよね。心配してくれてありがとう、アキラくん」
岬は苦笑しながら、鑑の胸板を軽く叩いた。多分、それは彼女なりの照れ隠しだろう。後輩達に気遣われたことを、気恥ずかしく思っているのかもしれない。
「悩みって、なんですか?」鑑は訊いた。
「えっと、大岡くん、なんだけど」
「大岡? そういえば、最近部活来てないですね」
「……あの子、このまま野球辞めちゃうかもしれないわ……」
「なんだ、そんなことですか」
深刻そうな岬とは対象的に、拍子抜けしたような口調で鑑は言った。
「そんなこととは何よ、そんなこととは」岬は少し唇を尖らせながら言う。
「いや、途中で部活辞める奴って中学の時も何人か居たじゃないですか。練習についていけなかったり、部活に馴染めなかったり。まだ一年の始めですし、自分の意思で辞める分には自由だと思いますよ。今なら、他の部活に入り直したりもしやすいだろうし」
「まあ、そうなんだけどね……」
鑑の言っている事は、正論だと岬も思う。
ただ、大岡が部活に来ないのは、自身が理由かもしれないから岬は悩んでいるのだ。
その理由については、岬の口から言うのは憚られた。
彼女は校舎の大時計をちらりと見遣り、「そろそろ着替えないと遅刻するわ。じゃあ、また放課後にね」と言い残して、女子更衣室へと向かった。
鑑は、立ち去る岬の後ろ姿に、「お疲れ様です」と声を掛けた。岬は足を止めずに見返りながら、右手を振った。
鑑の携帯に、見知らぬアドレスからのメールが届いたのは、三限目が終わった休み時間だった。
一瞬、迷惑メールかと訝しんだ鑑だったが、件名を見て合点がいった。
件名には、雪ノ下雪乃、と飾り気のない短文で名前が記されていた。
携帯を操作してメールを開くと、
ーーアドレスは、由比ヶ浜さん経由で比企谷くんの妹さんに教えてもらったわ。勝手に訊いてごめんなさい。ーー
ーー昼休み、J組の教室に来てほしい。不都合があるなら、私がそちらに行っても構わないわーーという絵文字の一つもない素っ気ない文章が書かれていた。
雪ノ下雪乃の容姿は、学年で一、二を争うレベルの美少女だ。そんな雪乃に自分の教室に訪ねて来られるのは御免被りたかった。
クラスメイトにからかわれそうだし。
そう思った鑑は、
ーーわかった。メシ食い終わったらJ組に行くよーー
ーーアドレスを勝手に聞いたことは、全然構わないよーーと返信しておいた。
そして、四限が終わって昼休み、さっさと弁当を食べ終えた鑑は、J組の教室へと赴いた。
教室の扉を開けて一歩中へ踏み出すと、彼は自分がJ組に行くと返信した事を後悔した。
J組は女子の比率が高いというのは聞き及んでいたが、昼休みの今は、教室中が女子だらけだ。
おそらく男子は肩身が狭くて、学食にでも出掛けているのだろう。
教室中の女子から、ザッと一斉に視線を向けられ、鑑はたじろぐ。
しかし、彼が視線を集めたのはほんの一瞬で、J 組の女子達はすぐに何事も無かったかのように食事を再開した。
鑑は教室の中で、周囲を見回す。すると、右後ろ隅の一角で、雪乃がちょいちょいと手招きしているのが目に入った。
鑑はおっかなびっくり、雪乃の方に歩いていく。
「男の子は、食べ終わるのが早いわね。私はまだ食べ終わってないから、少し待っていてもらえるかしら」
「ああ、わかった」
雪乃の周囲は空席だった。そこだけ教室から切り離されたようにも見える。
彼女の周りがいつもそうなのか、今日は鑑が来るという事で特別にそういう状況にしたのかは、彼にはよくわからなかった。
「この席、貸してもらえるように頼んでおいたから、座っていいわよ」
雪乃は、自身の前の席を指差してそう言った。
鑑はその席に、横を向いて座る。無遠慮に、おおっぴらに視線を向けてくる者は居ないが、何だか、注目されているような感覚がした。
育ちの良さは行儀と作法に出る、行儀と作法は特に食事時に出る、と鑑は聞いた事がある。
そういう意味では、J組の女子達は育ちの良い者が多いのだろう。
ただ、それでも、雪乃が急に別クラスの男子を招いた事に興味を惹かれたのか、チラチラと盗み見る様に目を向けてくる女子は何人かいた。
鑑が落ち着かない様子で教室を眺めていると、真ん中程の席に座っている、髪を三つ編みにして黒縁眼鏡を掛けた大人しそうな女子と目があった。
その女子は、少しだけ口角を上げて微笑むと、鑑に向かって会釈した。
お嬢様っぽい仕草だなぁと思いつつ、鑑はとりあえず会釈を返しておいた。
「ご馳走様でした」
鑑が居心地の悪い時間を過ごしている間に、雪乃はようやく食事を終えたようだ。
「それで、加賀美くん、岬先輩の件はどうだった?」
結衣は、今日は優美子達と教室でご飯を食べているし、八幡は昼休みは全然当てにならない、というわけで雪乃は、一人で鑑の話を聞くことにしたらしい。
「ああ、それなんだけどさ」
鑑は、岬の悩みが別に恋の悩みでもなんでもない事、大岡という部員が野球部を辞めそうなのを気にかけている事を雪乃に話した。
「つまり、岬先輩はその大岡くんという子に、部活を辞めてほしくないのね」
「まあ、そうなんだろうけど、ちょっとおかしい気がするんだよな」
「何がおかしいと言うの?」
雪乃の疑問に、鑑は腕組みして答えた。
「岬さんと大岡って、別にそんなに仲良くないんだよ。多分、会話した事も殆ど無いんじゃないかな」
「あら、マネージャーなら、特に仲が良くない部員でも辞めてほしくないと思うのは自然な事じゃないかしら」
雪乃の反論に、鑑は「それもそうかなぁ、でもなぁ」と煮え切らない様子だ。
ならば、と雪乃は席を立ち上がり、「大岡くんは何組?」と鑑に訊ねた。
「え、B組だけど、行くの? 今から?」
「当然よ、善は急げと言うでしょう」
困惑する鑑を置いて、さっさと教室を出て行く雪乃。
鑑は彼女の背中を追いかけながら、この子、ちょっとだけ比企谷に似てるかもな、と考えていた。
彼の内心を雪乃が知れば、立腹しただろうことは言うまでもない。
B組前の廊下に着いた二人は、教室の後ろの扉から室内を眺めた。
「どう? 大岡くんはいるかしら」
「え〜っと、ああ、居た。左隅、前から五番目の席」
そこには、友人と談笑しながら席に座っている男子がいた。
既に食事は済ませたのか、机の上に弁当などは載っていない。
「あれ、雪乃ちゃんと加賀美くんじゃん、珍しい組み合わせだね。何してんの?」
不意に、雪乃たちに話しかけてきたのは、お化粧研究部の百合子だった。
百合子は鑑と同じD組の生徒だが、和美と一緒に昼食を摂る為にB組の教室に来ていたのだ。
「雪乃さん、我々に何か用ですか?」和美も、雪乃に訊ねる。
「いいえ、今日は貴方達に用があるわけではなくて」
「カ・ガ〜ミ〜ン!」
雪乃が和美に答えている声を遮って、材木座が教室の中から鑑に向かって飛び出してきた。
腹に材木座の頭突きを食らう格好になった鑑は、「ぐぅっ!」と声を洩らして呻いた。
「ああ、彼に用でしたか」
「いいえ、そういうわけでもないのだけれど」
勘違いして納得する和美に、雪乃は首を左右に振って否定する。
「カ・ガーミン! ミサキーヌの元気が無い理由はわかったか! やはり、やはりお前に恋をしていたのか!」
ついさっきまで、材木座は教室の自分の席でシュンとした様子で落ち込んでいたのだが、鑑の姿を見た途端にテンションが最高潮になっていた。
「落ち着け剣、岬さんの元気が無い理由は恋の悩みとかじゃなかったよ」
鑑は材木座にも、岬の悩みを話してやる事にした。
野球部員の大岡が部活を辞めそうなのを気にかけているのだという事を教えてやると、材木座はその場でグルグルとスキップを始めた。
「な〜んだ、そうだったのか! ミサキーヌは優しいからな〜、野球部の仲間が部活を辞めてしまいそうな事に心を傷めていたのだな〜」
腰に両手を当てて、ルンルン気分でスキップする材木座。さすがにちょっとウザいなあ、と鑑は思った。
「雪乃ちゃん、岬さんって、私たちも知ってる岬さんだよね?」
「ええ、そうよ」百合子の質問に首肯する雪乃。
「大岡くん、というのはウチのクラス(B組)の大岡くんですか?」
「ええ」雪乃は、和美の質問も肯定した。
和美と百合子は顔を見合わせた。そして、タイミングよく同時に頷く。
「雪乃さん、ちょっと聞いてほしい話があるのですが」
声を落として真面目な表情で言う和美に、雪乃は耳を傾けた。