放課後、奉仕部の部室には結衣しかいなかった。
結衣が八幡に対して部室に行こうと誘う前に、教室の外で待ち構えていた材木座が、話したいことがあるからと八幡をどこかに連れて行ってしまったのだ。
仕方ないので、結衣は一人で部室に向かい、大人しく漫画を読んでいた。
前日に届いた雪乃からのメールには、自分が昼休みに加賀美くんから話を聞いておく、と書いてあった。
だからおそらく、今日は結果報告が聞けるのだろうと結衣は期待していたのだが、今日は何故か、雪乃も来るのが遅い。
結衣としては、鑑と岬が付き合う結果になったら良いなあ、と思っていた。
結衣は岬とは面識が無いし、鑑とは知り合ったばかりだが、年上のお姉さんマネージャーと年下エースのカップルなんて、とても素敵だと思う。
因みに、結衣は勘違いしているが、鑑はまだエースではない。
姫菜から借りた野球漫画を読みながら、暇を潰していると、扉をノックする音が聴こえた。
結衣が応える声の後、部室に入って来たのは雪乃だった。
そして、彼女の背後には、見知らぬ男子生徒の姿が見える。
男子生徒は、幾分困惑した様子で部室をきょろきょろと見回している。
彼自身、何故自分がここに連れて来られたのかわかっていない様子だ。
「やっはろーっ! ゆきのん!」結衣は元気に挨拶した。
「こんにちは、由比ヶ浜さん」
雪乃は今日も、つれない態度で普通に挨拶を返した。いや、むしろ、いつもより機嫌が悪そうだ。
結衣は他人の表情や雰囲気から、その人の機嫌を察知しようとする癖があった。
「比企谷くんは?」
「ヒッキーなら、神代くんと一緒にどっか行っちゃった」
雪乃の質問に結衣が答えると、「そう、またサボり……というわけでも無いのかしらね。かみし、材木座くんと一緒なら」と呟きながら、雪乃は長机の端の椅子に腰掛けた。
「大岡くん、そこに座ってくれるかしら」雪乃は、普段八幡が座っている椅子を指差した。
「あの、さっきも言ったけど、俺に何の用だ?」大岡は怪訝な表情を隠さずに訊ねる。
「良いから、座りなさい」
雪乃の発した普段よりも低い声音に、結衣はびくっと体を震わせた。自分が言われたわけでも無いのに、背筋が凍る。
これは、確実に、今日の雪乃はとても機嫌が悪い。
大岡は少し不貞腐れた様子だったが、それでも逆らう事なく椅子に座った。
長机の端と端で、雪乃と大岡は視線を合わせる。雪乃の目は、まるで、被疑者を視線で射抜く検察官のようだった。
何故そんな目で見られるのか、理由がわからない大岡は、ばつが悪そうに目を伏せた。
「貴方、最近野球部の練習をサボっているそうね」
「……そうだけど、それがなんか、あんたに関係あるか?」
「別に、それ自体は私には関係がないし、どうでもいいことだわ」
雪乃は、突き放すように冷たい口調で言った。
結衣は、雪乃と大岡、二人の顔を交互に見遣って不安そうにしている。突然の事態に、事情もよくわからないのだ。
「貴方と同じクラスの、風間さんに聞いたのだけれど」
かずみんに、なに聞いたんだろう、と結衣は疑問を覚えた。
野球部と和美に、どういう関連性があるのか、結衣にはよくわからない。
「貴方、悪漢に絡まれているところを岬先輩に助けてもらったのに、標的が自分から岬先輩に移ると、一目散に逃げ出したそうね。岬先輩を置いて」
雪乃の言葉に、結衣は驚いて大岡の方を見た。彼は俯いて、机の一点を見つめている。
彼がチンピラじみた男に絡まれたのは、ゴールデンウィークの最終日のことだった。
野球部の練習試合があった帰り道で、カツアゲされそうになった。
たまたま近くにいた岬が助けに入ってくれたのだが、その後、岬を残して一人逃げ出してしまった事を、彼は強く後悔していた。
雪乃は机に両肘をつき、眉間の前で指先を合わせて、尖塔のポーズを見せる。
「最低ね」
雪乃がポツリと零すと、彼女の視線の先にいる大岡の顔色が、朱く染まる。
彼は唇を戦慄かせながら、なにか反論しようと逡巡したが、なにも言う事が出来なかった。
実際、それは事実以外の何物でもないからだ。だから、反論ではなく言い訳を口にした。
「……仕方ないだろ、怖かったんだ」
「そう」
雪乃は、なんの感慨もなく、冷淡に返答した。
雪乃が無愛想な態度を取るのはいつもの事だが、こんなに冷たい表情の彼女を見るのは初めてだと、結衣は動揺する。
「岬先輩の窮地は、貴方が逃げ出した後、風間さん達が救ってくれたそうよ。岬先輩は、怪我ひとつ負うことは無かった。良かったわね、安心した?」
「……安心なんか、出来るわけないだろ。俺だって……本当は、逃げたりしたくなかった」
大岡は、肩を落として小さな声で呟いた。少し、目が赤くなっている。
「そう、まあ、それはそれでいいわ。岬先輩は貴方が野球部の練習に出てこない事を、とても気に掛けているそうよ。明日からで構わないから、練習に参加しなさい」
きっぱりと言い切る雪乃だったが、横で聞いていた結衣は、それは難しいんじゃないかなぁと思った。
事情は大体把握できた。岬を置いて逃げた事は、結衣としてもどうかと思う。
しかし、怖くて逃げてしまう、弱い人間もいるのだという事も、結衣には理解できた。
そして、その後は気不味くて顔を合わせ辛いということも、想像は容易い。
「どうしたの、返事をしなさい」
俯く大岡に対して、さらに苛立たしげに言う雪乃だが、彼は何も言わない。
雪乃は、察しの悪い人間ではない。大岡の心情だって理解しているはずだ。
しかし、それでも、岬にこれ以上迷惑をかけるなと要求しているのだ。
雪乃は強い人間だが、そうであるからこそ、周りの人間にも強くあることを求めるきらいがある。
結衣は内心で、どうしよう、ヒッキー助けて、と呟いた。
その頃、野球部の練習スペースではアップのランニングが行われていた。隊列を組んだ部員達が、グラウンドを駆ける。
先頭を走るキャプテンの、「いーっちにーっいちにーっちにっちに!」という大きな掛け声の後、他の部員達が声を合わせて「は、し、ろ、う、ぜ!」と叫ぶ。
「走ろうぜーっ! 走ろうぜーっ!」
ベンチに座っている一年生マネージャー、高鳥が両手をメガホンの様に口元に当てて、野球部員達に向かって声を掛けた。
岬は、その隣で机に向かってノートを開き、出欠表を書いていた。
大岡の欄にバツ印を書き込む。そこには、ゴールデンウィーク明けから、ずっとバツ印が並んでいる。
「走ろうぜーっ! は、し、ろ、う、ぜーっ!」
「いつも元気が良いわね、高鳥さん」
「えっ? えへへ、それだけが取り柄なんで」
岬に褒められた高鳥は、気恥ずかしそうに照れる。彼女は何気無く、岬の手元にあるノートに視線を移した。
そして、バツ印が並んでいる箇所を指でトントン叩いて示す。
「大岡くん、ずーっと休んでますね。サボり過ぎです」高鳥は眉根を寄せて言った。
「えっと……サボりかどうかはわからないんじゃないかな。何か、事情があるのかもしれないし」岬は曖昧な態度で言葉を濁した。
「いいえ、こんなに続けて休むのはおかしいですよ。怪我でもしてるんだとしても、見学くらいできるはずですし。大岡くんって何組でしたっけ? 明日にでも、あたしがビシッと言ってやりますよ」
目を吊り上げて言う高鳥に、岬は困った様に少し微笑んで、「……こういう事は、微妙な問題だから、時機を見て私から話しておくわ。高鳥さんは、そっとしておいてあげて」と言った。
大岡の欠席はただのサボりだと思っている高鳥は、岬の態度に若干の違和感を覚えたが、岬がそう言うなら彼女に任せたほうがいいかと納得した。
「ところで、話は変わりますけど」高鳥は急に声を潜めて、「岬さんと加賀美くんって、付き合ってるんですか?」と言った。
「……なんで?」
「いやあ、岬さんと加賀美くんってすごく仲が良いじゃないですか」
「アキラは、中学からの後輩だからね。いや、そういえば小学校も一緒だったわ。その頃は、特に知り合いじゃなかったけど」
「えーっ、それだけですかあ? 今も加賀美くん、岬さんに熱い視線送ってますけど」
岬は加賀美の方を見た。高鳥の言う通り、ストレッチをしながら、時折岬の方に視線を向けている。
明らかに、何か気になることがありそうな様子だ。
集中力を欠いた練習は怪我の元だ。後で注意してやらなきゃ、と岬は内心で舌打ちする。
「バカガミめ、アンタに心配されなくても大丈夫なのよ」心配性の後輩を嗜めるような口調で、岬は呟く。
「え、なんですか?」
岬が発した小さな声は、高鳥には聴き取れなかった。
岬は、「なんでもないわ」と誤魔化して、ノートをパタリと閉じた。
八幡と材木座は、野球部のグラウンドが見渡せる防球フェンスの前に居た。
材木座はフェンスの向こうで熱心に練習する野球部員たちを眺めている。
対して八幡は、ポケットに手を突っ込み、フェンスには背を向けていた。
昼休み、大岡について和美が雪乃に話している内容を傍で聞いていた材木座は、八幡にもその話を教えた。
「俺は、大岡の行いは許せん! 我が女神たるミサキーヌを置いて逃げるなど、言語道断だ!」
「そうか」
肩を怒らせ声を荒らげる材木座に、八幡は表情を変えずに応えた。
「……けど、怖くて逃げ出しちゃう気持ちは、わからないでもないよ……俺も、喧嘩は怖いもん」
一転、か細い消え入りそうな声量で、材木座は呟いた。
それは、神代剣ではなく、材木座義輝としての言葉だった。
八幡は、首だけ動かして材木座に顔を向ける。
「でも! もしそこに俺がいたら、ミサキーヌの盾となった事は間違いないがな!」
ぶんぶん両手を振り回しながら叫ぶ材木座を見て、八幡は溜め息をついた。
「相変わらず、お前は暑苦しいな」呆れた様子で、八幡が言う。
「男は燃えるもの、火薬に火を点けなければ、花火は上がらないのだ」
「……おばあちゃんが言っていた……男はクールであるべき、沸騰したお湯は、蒸発するだけだってな」
材木座が呟いた言葉を、八幡はおばあちゃんの教えを引用して即座に否定する。
運動部の元気な掛け声がグラウンド中に響き渡るなか、二人の間にだけ静寂が訪れた。
材木座は、こいつは全く変わらないなと、なんだか嬉しくなった。
中学一年生の頃、初めて出会った時、あの強烈に憧れた瞬間から、何も変わっていない。
材木座は、眩しく輝く太陽を見るように目を細めて、八幡に笑顔を向けた。
その笑顔を見た八幡は、ほんの少しだけ、微かに口角を上げる。
「俺は、どうすればいい。ミサキーヌの為に、俺は何ができる?」材木座が、八幡に訊く。
「そうだな……とりあえず、風間に話を聞きに行くか」
八幡はフェンスから離れて、特別棟の方へと歩き出した。彼には、何か考えがあるらしい。
材木座は、素直にその後ろに続く。
数分後、特別棟の奉仕部やお化粧研究部の部室がある階の廊下を二人が歩いていた丁度その時、奉仕部の部室から大岡が退室してきた。
彼は蒼白な顔色で、八幡たちの方へと向かってくる。
擦れ違う一瞬、八幡は彼の表情を見遣る。その目は、涙に濡れていた。
大岡は、まるで逃げる様に足早に歩き去って行った。
「今の奴が、大岡か?」八幡は材木座に訊ねる。
「そうだ……奉仕部の部室から出てきたという事は、奉仕部の女子達が呼び出したのかもな」
「多分、雪ノ下だろう」
雪乃は、道理の通らない行いを許さない。助けてもらっておいて一人逃げ出すなどという醜態を見せた大岡は、雪乃から叱責を受けたのだろうと八幡は確信していた。
「雪ノ下雪乃から諭されたのならば、大岡は野球部に戻るだろうか」希望的観測を持って、材木座は言う。
「無理だろうな。雪ノ下は北風だ」
八幡が言った『北風』という言葉の意味は、材木座にはよくわからなかった。
首を傾げる材木座を放置して、八幡はお化粧研究部の部室の扉をノックした。
部室の中から、「はいは〜い!」という元気な声が聴こえたかと思うと、少しだけ扉が開いた。
妙に濃いメイクをした百合子が、顔を覗かせる。
「あれ、比企谷くん? と、えっと、神代くん、だっけ?」
「悪いな、少し用がある、邪魔させてもらうぞ」
「どうぞどうぞ」
八幡が断りを入れると、百合子はさっと扉を全開にして部室に招いた。
八幡と材木座が入室すると、百合子が椅子を勧めてくれたので、有り難く座らせてもらう。
奉仕部の部室にもある様な長机の上には、男子には用途もわからない各種様々なメイク道具が並んでいた。
「な〜に天の道、あーしらに用とか、メイクでもして欲しいわけ? 今日はタイミング良くV系メイクの練習してたから、あーしがやってあげよっか?」
自身もブラックとピンクのアイシャドウを重ね塗りし、長いつけまつげを揺らしている優美子は、両手の指をにぎにぎと動かしながら八幡に言った。
しかし、八幡は首を左右に振って応えると、和美に視線を向けた。
今日は彼女も、ヴィジュアル系風の派手なメイクをして、赤いウィッグを付けていた。
傍らにギターケースが置かれている事も相まって、ロックバンドのギタリストの様にも見える。
「岬の話を聞かせてもらおうか」
「岬? なにそれ」
事情を全く知らない優美子は、八幡の質問に疑問の声を上げた。
和美は八幡に対してひとつ頷いた後、「優美子さん、岬さんは、うちの高校の先輩です。野球部のマネージャーをしている方で、美人な女性ですよ」と、まずは優美子に説明した。
和美が岬を『美人な女性』と評したところで、材木座は同意するように首を縦に何度も振った。
「彼女と知り合ったのは、ゴールデンウィークの事でしたーー」
和美が話した内容は、材木座から聞いた話と概ね大差は無かったが、伝聞な上に説明下手な材木座から聞くよりもわかりやすく、且つ詳細だった。
話を聞き終えた八幡は、隣に座っていた材木座の肩に手を置き、「良かったな、出番が出来たぞ、材木座」と言った。
材木座には、八幡が言ったことの意味は掴めなかった。しかし、出番があるならミサキーヌの為に頑張るだけだ。
材木座は、「任せろ!」と叫び、意気込んで自らの胸を強く叩く。
コイツはやはり暑苦しい、八幡は、そう思った。