とある日曜日の夜、比企谷家の食卓に上ったメイン料理は、おでんだった。
弱火に調節したカセットコンロに乗せられた土鍋からは、白い湯気が舞い上がり、室内に香気を充満させる。
鰹節と昆布で出汁をとった醤油ベースのつゆは飴色に透き通り、どこか郷愁を感じる香りを小町に齎した。
おでんの持つ郷土的イメージは、日本人の心に根ざしている。おでんには家族の温もりと、帰るべき場所を想起させる力がある。
土鍋には牛スジや大根、練り物など定番のおでん種が所狭しと浮かんでいるが、そのなかにひとつだけ異彩を放つものがあった。
それは、丸ごとゴロッと入れられた、小ぶりの玉ねぎだ。小町はその玉ねぎをおたまですくい、手元のお椀によそう。
時間をかけて柔らかくなるまで煮込まれたそれは、箸を入れれば面白いようにスルリとほぐれる。
箸でつまんだ玉ねぎから滴り落ちるつゆをお椀で受けながら、彼女は口からフーフーと息を吹いてそれを少し冷ますと、パクッと頬張った。
ほろほろと口の中で蕩けるそれは、染み込んでいる出汁のきいたつゆと、玉ねぎ本来の甘味がぴったりと合わさり、これ以上の最適解はないと主張していた。
箸を一旦置いて目を細め、サムズアップした小町は、「お兄ちゃん、この玉ねぎ、ポ、イ、ン、ト、高すぎ!」とテンション高く言った。
「特製、『丸々玉ねぎのおでん』だ。おばあちゃん秘伝のおでんつゆで、じっくり煮込むのがコツだぞ」人差し指を一本立てて八幡は言った。
「んーっ! やっぱりウチのおでんつゆは格別だよね! 見た目だけだとその辺のおでんつゆと変わんないけど」
「秘伝の味だからな。いっぱい食べて大きくなれよ、小町」
「は〜いっ!」
小町は元気に返事をして敬礼のポーズをとった。八幡は優しげな表情で、彼女のお椀に牛スジや練り物をよそう。
「今日のおでんのお肉は牛スジなんだね」
「ああ、関西風にしてみた」
関西ではポピュラーな、程よく赤身のついた牛スジ肉を小町は箸で掴む。コラーゲンをたっぷり含んだ牛スジは、まるで天然のゼリーの様にぷるんと柔らかな弾力だった。
左手に持った茶碗の中の白米に、一旦ちょこんと弾ませてから食べる。粉雪の様に蕩けるスジ肉と、堅くはないがしっかりとした歯ごたえを持つ赤身肉のコントラストが、おでんつゆの味を伴って小町の口中を満たした。
これはゴハンと一緒に食べるべきだと思った小町は、勢いよく白米を掻き込む。
そして、左手の茶碗をテーブルに置くと、もぐもぐと咀嚼しながら、八幡に向けて空いた左手でサムズアップした。
「美味いか?」
八幡の問い掛けに、小町は親指を立てた左手を、小刻みに揺らして応えた。
口の中がいっぱいで喋れないが、『ポイント高すぎ!』と、言いたいらしい。
この兄妹の意思疎通に、言葉は必要ない。八幡は、『それは良かった』という意味で、穏やかに微笑んだ。
翌日月曜日の昼休み、結衣、優美子、姫菜の三人は机を寄せ合って、それぞれ弁当箱の蓋を開けた。
結衣の弁当箱の中身は、その半分をオムライスが占めていた。
実はこのオムライスは、結衣自身が作ったものである。といっても、彼女の母親がしっかり横についてアドバイスを飛ばしていたので、一人で作った、とは言い難いのだが。
薄焼き玉子に包まれたチキンライスは、鶏肉は火が通っていないと怖いと心配した母の提言により、チキンではなく刻んだウィンナーが代用されている鶏無しチキンライスだし、薄焼き玉子はところどころ破れてしまっているが、彼女の料理の腕からすればその出来は上々といえた。
結衣は弁当用のミニパックのトマトケチャップを切れ目から少しだけちぎり開け、鉛筆を初めて握った子供のような字で、オムライスの上に『ゆ』と書いた。どうやら、『ゆい』と書きたかったらしいが、ケチャップが足りなかったようだ。
対面に座っている優美子はそれを見て肩をプルプル震わせながら、「『ゆ』って、『ゆ』ってなんだし、銭湯かよ……」と笑っている。
「もう、笑わないでよ優美子。しょーがないじゃん、ケチャップ足んなかったんだもん」
結衣は唇を尖らせて言った。ツボにハマったのか、優美子は顔を背けてまだ笑っている。
結衣は、むう、と唸りながらなんとなく優美子の弁当箱の中身を見た。そこには、何かを包んでいるらしい薄焼き玉子があった。
「あれ? 優美子もオムライス?」
「いや、あーしのは多分オムレツ。昨日の晩ゴハンの残りだわ」
笑いを収めた優美子は、今度は一転して少々不満そうに答えた。前日の余り物を弁当に詰め込まれるのは、手抜きのような印象がある。
勿論、朝早くから弁当を作らされる母親の身になって考えれば、手抜きでもなんでもないのだが。
余り物だろうがレンジで温めただけの冷凍食品だろうが、それこそ、適当に何か買って食べなさいと渡されたワンコインだろうが、それらには親の愛情が詰まっているのだ。文句を言ってはいけない。
「あっ、姫菜のお弁当にもオムっぽい物が」
姫菜の弁当箱の中も覗いた結衣は、そこに見つけた玉子を、オムっぽいという妙な造語を使って形容した。
「オムライス?」結衣は姫菜に訊ねた。
「オムレツっしょ。横に白米あるじゃん」
白米とオムライスを一緒に詰め込む事はないだろうと推測した優美子がそう言うと、姫菜は、「そうだねえ、オムレツかなぁ」と呟いて箸で玉子を割いた。
中には、ソース色をした麺が入っていた。姫菜は一本だけ箸でつまみ、目の高さに持ち上げる。
「やきそば?」という結衣の呟きに姫菜は、「やきそばだねぇ」と頷いて答えた。
「じゃあ、オムソバ?」という優美子の呟きにも姫菜は、「オムソバだねぇ」と頷いて答えた。
三人は、お互いに目配せしあうと、突然風船が割れたように声をたてて笑いだした。
ただ単に、オムレツかと思ったらオムソバだったというそれだけの話なのだが、この年代の少女というものは箸が転げただけでも、周りに友人が居れば笑えるのだ。
一頻り笑ったところで、昼食を食べ始めた。
結衣はスプーンでオムライスをひとすくいして、一気に頬張る。我ながら、味は悪くないと思う。ちょっとケチャップが薄い気もするが、それもご愛嬌だ。薄味は上品な味とも言うし。
「ところでさ、優美子、なんか前より綺麗になった?」
ニヤついた表情で、姫菜が優美子に言った。眼鏡の奥の瞳は好奇心で輝いている。
女の子は恋をすると綺麗になるという強ち嘘とも言い切れない都市伝説があるが、最近急に美貌を増している優美子も、もしかしたら好きな人ができたのやもと、姫菜は勘繰っている。
「なにそれ、その言い方だと、前はあんまり綺麗じゃなかったように聞こえっけどぉ?」
「いやいや、そうは言ってないよ。前から美人だったけど、もっと美人さんになったなってね」
ジトッとした目で睨む優美子の視線を、姫菜は飄々と受け流す。優美子も本気で怒っているわけではないので、ふっ、と吐息をつくと、上機嫌な様子を見せて言った。
「ま、あーしのメイクの腕も、ちょっとは上がったってことかな。毎日和美と百合子に教えてもらってっからね」
「それだけかなあ、もしかして優美子、好きな人とか出来ちゃったり?」姫菜はからかい気味に語尾を上げた。
「……別にそんなんじゃないし」
応えるまでに妙な間が空いた上に、黒目がふらふらと揺れ動いた優美子のおかしな挙動に姫菜は気付いていたが、それ以上追求はしなかった。
これは少し泳がせた方が、後々楽しいことが起きそうだ。
「でも優美子、ホントにメイク上手くなってるよ。前はバリバリ〜って感じだったけど、最近はフワフワ〜って感じするもん」
「バリバリとかフワフワとかよくわかんないんだけど。いや、まあ言いたい事はなんとなく伝わるけどさ」
結衣独特の言語感覚に失笑が洩れる優美子だったが、ニュアンスはわかるし、案外結衣の言葉は的を射ていると思った。
優美子は現在和美たちに、ナチュラルメイクに於ける引き算の美学を習っている。
何でもかんでもただ塗りたくるだけなら誰でもできる。しかし、舞台役者やV系のバンギャの様に濃いメイクは、日常生活には馴染まない。
メイクは顔に色を足す、足し算である。だからこそ、そこからどれだけ足す量を引く事が出来るか、つまり引き算に、ナチュラルメイクの真髄があった。風間流奥義は奥が深い。
「食べ終わったら練習がてら、二人もメイクしてやろっか?」
弁当箱の底を、節をつける様に箸でかつかつと叩きながら、優美子は言う。結衣と姫菜は、友達の練習に付き合うのも友情かと、首肯で応えた。
合唱部顧問兼お化粧研究部顧問の小雀八千代は、小学校こそ共学だったものの、そこを卒業してからは中高一貫の女子校に進み、さらにはその後女子大の音楽科に進学した為、人生の大半において男性の目を意識する事がなかった。
勿論女子校の同輩たちの中にも、ファッションやメイクに敏感な子は相当数居たのだが、彼女自身はあまりそういう事に興味が持てなかったのだ。
どうせオシャレしたって見てくれるのは周りの女の子たちばかりなのだし、最低限見苦しくない格好さえしていればそれで良いというのが彼女のスタンスだった。
よって、総武高の音楽教師となってからも彼女が普段行なっているメイクといえば、適当にファンデを塗って、薄めのリップを引いて終了である。
それでも、可愛らしい童顔と、元々整った目鼻立ちを持っている彼女は、これまで特にメイクの必要性を感じる事はなかった。
しかし、折角教え子がお化粧研究部という部を創設し、兼任の名ばかりとはいえその顧問となったのだから、少しくらいは化粧の技術を覚えるべきだろう。
まあ、二十数年の人生で全く研鑽を積んでこなかった技術を直ぐに覚えるというのも土台無理な話だろうから、とりあえず、お化粧研の子達の様子見も兼ねて風間さんに自分の顔をメイクしてもらおう。
そう思った彼女はその日、放課後になって間もなくお化粧研の部室を訪ねた。
自分の顔をメイクしてほしいという八千代の頼みを、和美たちは快く引き受けた。そもそも、和美は頼まれなくとも八千代の顔をメイクしてみたいと、前々から思っていたのだ。
成人した大人だというのにキュートでガーリッシュな八千代は、和美にとってはモデルとして興味深い女性だった。
和美は八千代に、彼女自身の長所を損なうことなく、それでいて年齢相応にも見えるという大人っぽいメイクを施した。
大人である八千代に、大人っぽいという表現は些か矛盾しているかもしれないが、それはともかく、和美にメイクされた八千代の顔は、眩しく輝く宝石のように魅力的だった。
百合子から手渡された手鏡で自分の顔を観た八千代は、和美のメイク技術に感動するとともに、私の顔も捨てたもんじゃ無いなあと驚く。
その後八千代は和美から、今日のメイクのポイントと、初心者向けの簡易化した再現方法をレクチャーしてもらった。
これではどちらが顧問かわからないが、それはまあ仕方がない。顧問を引き受ける段階で自分がメイクに疎い事は話していたし、創部できたらメイクについて教えてもらうという約束もしていた。
これは、その約束を履行しているに過ぎないのだ。
レクチャーの時間も含めて一時間程お化粧研の部室で過ごした八千代は、和美たちに感謝の礼を述べて別れ、今度は合唱部の部員たちが練習している音楽室へと向かった。
部活顧問の兼任というのも、なかなか大変である。
音楽室後方スペースに設けられた段差付きのステージに、三十人弱の部員が並んでいる。
そのほとんどが女子部員で、男子部員はたったの四人だった。男子たちはとても肩身が狭そうだが、合唱部や吹奏楽部などで男女比率が女子に傾くのは良くあることなので、彼らには頑張ってもらうしかない。
それにしても、今日の合唱部は、何だか様子がおかしかった。声量自体はよく出ているし、不真面目な練習態度というわけでもないのだが、どこか合唱に集中できていない印象を受ける。
一曲歌い終わったところで、八千代は注目を集めるように両掌をぱんっと合わせた。
「はいはい、どうしたのみんな。声は出てるけど、視線にパワーがないわよ〜。目は口ほどに物を歌うんだからね。気もそぞろ〜みたいな視線じゃ、心に響く合唱にはならないわよ」
八千代は部員みんなの顔を見回しながら言った。すると、部長を務めている女子部員が、そっと片手を挙げる。
「あら、なあに?」八千代は部長に問い掛けた。
「あの、おそらく、みんなが集中できてないのは、先生のお顔が原因だと思います」
「えっ! 顔っ!?」
八千代は両手でぺたぺたと顔を触った。別にゴミが付いているという事もなさそうだが、何か変だっただろうか。
彼女が若干慌てながら顔を調べていると、ステージの部員たちから、「先生なんかキレイーっ」とか、「いつも綺麗だけど、いつもより綺麗ですよっ」という声があがった。
「そうです。先生のお顔、いつにも増してお綺麗です」部長はみんなの意をまとめるように言う。
「ああ、なんだそういうことか。あのね、前にみんなにも相談したけど、私お化粧研究部の顧問も兼任する事になったじゃない? 今日は、その子たちにメイクして貰ってからこっちに来たの。いつもと違うように感じるのはそのせいだわ」
合点がいって安堵する八千代を置いて、合唱部の女子部員たちに、騒めきが広がる。合唱部の部員は、本格的なお化粧は高校を卒業してから覚えようという子が大半だった。
しかし、八千代の顔が『たまにいる美人過ぎる教師』から『滅多に見ない美女』に変貌を遂げているのを見ると、化粧一つでそこまで変わるならば自分もメイクアップしてほしいと思うのが人情だった。
「私たちも、お化粧研の子にメイクしてもらうのは可能でしょうか?」また、部長がみんなを代表して言う。
「ん〜、多分大丈夫じゃないかな? わかった、あした部長の風間さんに頼んでみるね。オッケー貰えたら、音楽室に来てもらおっか」
八千代がそう答えると、女子部員たちから歓声が上がった。
置いてけぼりにされた四人の男子部員たちだったが、その中の一人である合唱部副部長を務めている男子は、他の三人の方を向いて、「俺たちは、練習がんばろうな」とめげずに呟いた。他の三人も、深く頷いて同意してくれた。