天の道を往き総てを司る比企谷八幡   作:通雨

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一年J組編2話

 火曜日の朝、八千代はHRが終わってすぐに和美の席へと向かう。和美は実際の年齢より大人っぽく、そして八千代は子供っぽく見える事もあって、机を挟んで話し合う二人は、まるで同年代の少女の様だった。

 放課後に合唱部の女の子たちをメイクアップして欲しいという八千代の依頼を、和美は快く引き受けた。様々な個性を持つ女の子たちをメイクするのは良い練習になるだろう。

 ただ、二十三人もいるという合唱部女子部員たちを和美一人で受け持つというのは少々手間がかかり過ぎる。

 ここは、三人で手分けするべきだ。和美は早速、百合子と優美子にメールを送った。

 中学の頃から一緒に練習してきた百合子は勿論、まだ入部して間もない優美子も、メキメキと実力を上げている。

 彼女自身、元々メイクに興味があったらしく、素養は充分なものがあった。彼女なら、合唱部の面々の期待に応える事もできるはずだ。

 メイクは絵画を描く作業に似ているが、その本質は根本的に異なる。

 絵画を描くならば、白いキャンバスに自由に筆をのせて良いが、メイクには相手というものが存在する。

 言ってみれば、キャンバス自身がどういう絵を描くかを要求してくる様なものだ。

 その顔の個性を引き出し、長所を輝かせ、短所を消す。そして、相手の希望を叶える。それが出来なければ、他人の顔にメイクをする資格はない。

 優美子は、他人の顔にメイクを施した経験は、まだ少ない。和美に百合子、あとは、結衣と姫菜に頼んで練習させてもらった程度。

 色々な『顔』に対して、そのメイク技術を磨くことは大切な経験になるだろう。

 

「そんなに大人数のメイクモデルを見つけてきてくれるだなんて、流石は顧問です。ありがとうございます、先生」

「いやいや、見つけてきたわけじゃなくて、合唱部の子たち自身が希望したことだから。むしろ、引き受けてくれてありがとうね。風間さん」

 

 八千代は右手をひらひらと左右に振って否定する。でも、放課後が楽しみだなと、密かに思っていた。

 女の子が綺麗になるのは、傍で見ている方も楽しいものだ。

 

 

 

 そしてその日の放課後、音楽室には顧問である八千代と、合唱部の女子部員と、和美たち三人の姿があった。

 男子部員は、どうせ今日は全体練習はないだろうからと、四人仲良くカラオケに行ったらしい。

 八千代としては、女子部員たちがメイクされている間も、男子部員には音楽室で練習して欲しかったのだが、いつだって少数派は肩身が狭いものだ。

 男子四人がカラオケに行ってしまうのも仕方がなかった。多分彼らは、カラオケボックスでちゃんと練習するのだろう。

 

 和美たちは、アリの群れの真ん中に落とされた角砂糖の様に、合唱部に囲まれていた。

 特に、『一年B組の風間さんは、凄くメイクが上手いらしい』と評判になっている和美は、有名スターもかくやという歓待を受けていた。

 このままだと収拾がつかないと判断した八千代は生徒たちを一旦落ち着かせる為に、「は〜い、ちゅうもーく!」と、よく通る声を張り上げる。

 

「お化粧研の三人が、手分けしてみんなをメイクしてくれるから、三つのグループに分かれなさい」

 

 八千代にそう言われて合唱部は、和美に三年生、百合子に二年生、優美子の所に一年生が集まるように分かれた。

 年功序列は体育会系のノリだと優美子は思っていたが、合唱部にも上級生優先の空気はあるらしい。

 顧問が兼任しているだけあって、優美子がお化粧研の新入りだということは合唱部の部員たちも把握している。技術的に最も拙い優美子の周りには、下っ端の一年生がハズレくじを引かされる形で集まったのだった。

 優美子も、自分がお化粧研の三人の中で技術的に劣ることは承知している。しかし、元来勝ち気な性格の彼女にとって、ハズレ扱いは我慢ならない。

 ガキくさい癇癪を起こしたりはしないが、ここはメイクの出来栄えで納得させて上級生どもを見返してやると決意する。

 合唱部の一年生たちを引き連れて音楽室後方の机を陣取った優美子は、その子たちの中に一人、顔見知りがいることを見てとった。優美子はその顔見知りの女の子をちょいちょいと手招きする。

 

「アンタ、B組の子だよね。じゃ、まずはアンタからやろっか」

「あ、三浦さん、私のこと覚えててくれたんだ」

「体育で一緒じゃん。ソフトボールとか、同じチームだったよね」

「うん、嬉しいな。私、地味顔だから、あんまり人の印象に残らないんだよね」

 

 自分でも地味というだけあって、その女の子の顔立ちに際立った特徴はない。優美子は、彼女の相貌を正面からじっと見据えた。

 地味顔だから印象に残らないという吐露は、おそらくコンプレックスからくるもの。多分この子は、少々派手なメイクを望んでいる。

 所謂地味顔にナチュラルメイクをしても、ともすればすっぴんと間違われる事がある。どういう風にメイクをしてあげれば喜んでもらえるか、優美子は真剣に考えた。

 よく見ればその女の子の目鼻立ちは平均的ながら整っている。顔の印象を決定付けるのは目だ。

 アイシャドウとアイライナーで目立たせる。しかし、濃くしすぎてはいけない。淑やかな個性を削ることなく、それでいて少し華やかにする。

 額から鼻筋にかけてのTゾーンは、ハイライトとシェーディングで多少彫りを深くしてみよう。野暮ったい眉はほんの少しカットして形を整える。

 やや薄い唇も、無理に厚塗りせずにこのまま活かしてやるべだ。リップカラーは王道のレッド系よりも健康的なローズピンク。

 大体の方針は決まった。優美子はひとつ気合を入れて、「よしっ」と呟くと、愛用のメイクボックスに手を伸ばす。

 プロ仕様のこのメイクボックスは、中身の化粧品も含めて、入部の際に和美に格安で譲ってもらったものだ。

 本来和美は入部祝いとして無償で提供するつもりだったのだが、自分で使う物をタダで貰うのはなんかヤダと断った優美子は、幾ばくかの代金を支払った。

 優美子はボックスの中からスキンケア用のクリームを取り出して、女の子に塗る。その手捌きは結構大雑把な所がある彼女の性格とは相反して、繊細且つ正確だった。

 けれど、くすぐったかったのか合唱部の女子は、ふふっ、と吹き出して笑ってしまう。

 

「あっ、悪り、くすぐったかった? つーか、スキンケアくらい自分でやるよね」

「あー、うん、そうだね」

 

 少し照れくさそうに、合唱部の女子はクリームのついた頰を撫でた。どんな風にメイクしてもらえるのかなと、彼女の胸は高鳴る。

 

 大体二十分ほどで、メイクが完了した。

 優美子はボックスから手鏡を取って彼女に渡す。そっと鏡を除いた彼女は、心から嬉しそうに、華やぐ笑顔を見せた。

 

「わあっ、すごく綺麗っ! 観てよこの顔っ、三浦さんのメイクすごいよっ!」

 

 彼女は他の一年生部員たちを見回しながら興奮気味にそう捲し立てた。

 メイクした顔とはいえ、自分の顔をすごく綺麗だと評するのは自画自賛に聞こえなくもないが、彼女は純粋に、優美子のメイク技術を褒めているだけだ。

 周囲の部員たちもそれはわかっているようで、苦笑しながら、「確かに」とか、「そうだね」と頷いている。

 本当に、とても喜んでいる彼女を見て、優美子の胸の内に、暖かいものが過ぎった。こんなに喜んでくれるなら、頑張ったかいがあるというものだ。

 

「さっ、次は誰だし、ちゃっちゃといくよ」

 

 優美子は右手首を前後にぶらぶら振りながら、一年生部員たちに声を掛ける。元気よく手を挙げて、「次、私っ!」や、「いや、私だってっ!」と順番を取り合う部員たちを見て優美子は、あーしのウデ、悪くないじゃん、と上機嫌になった。

 

 一年生部員たちを順番に次々とメイクアップしていった結果、反応は概ね上々だった。

 あと、メイクしていないのは残りたった一人。そして、その最後の一人が優美子の前の椅子に腰を下ろした。

 

「アンタも一年生? 顔、見た事ないけど」優美子が訊ねる。

「間宮麗奈、一年J組だ。よろしく」

 

 間宮麗奈と名乗った女子は、どこか鉱物のような光沢を放つ長い黒髪を、右手の指でさっと掻き上げてそう言った。

 その様子を見て、優美子の脳裡に既視感じみた対抗意識が生じた。

 間宮とは初対面の筈なのに、この反発心のようなものは何だろうかと、疑問が浮かぶ。

 しかしその疑問は、間宮の顔をよく観察することですぐに氷解した。間宮の容姿は、どこか雪ノ下雪乃に似ているのだ。

 清楚な印象を受けるストレートロングの黒髪は、さらりと背中の方に流されている。

 意志の強そうな瞳は、気位の高い猫を思わせた。

 静謐で上品、けれど、内側から溢れ出る威厳を帯びたような顔。

 正直言って優美子は、こういうタイプの顔立ちは苦手だった。心情的にも、メイク対象としても。

 

「どうした? 私の顔に、何か付いているだろうか」

 

 間宮は自身の顔にそっと触れる。その表情は、石膏像のように殆ど変化を見せない。

 

「ああ、いや、どういうタイプのメイクしようかなってね、迷うし」

「私は、メイクなどした事がない。自分の顔がどう変わるのか、楽しみだ」

 

 楽しみなんだったら、もうちょい笑えっての。優美子は言葉には出さずに突っ込む。

 しかし、よくよく見ても整った顔だ。あまり下手に化粧しても、映えないのではなかろうか。

 

「どんなメイクして欲しい?」ここは素直に本人の希望を聞くべきだろうと、優美子は訊ねる。

「……わからない。任せる」

 

 しかし、間宮には特に希望するメイクは無いらしい。あるいは、こちらのセンスを試しているのかもしれない。

 無愛想で、表情の変化に乏しく、何を考えているのか読みにくい。やっぱりこういうお澄まし系の女は苦手だ。あまり仲良くはなれないだろうなと、優美子は内心で呟く。

 仕方ない、希望するメイクが無いというなら、ここは最近練習しているナチュラルメイクの技術を注ぎ込むしか無いだろう。

 ただし、目だけはナチュラルではなく派手にしてやる。こういう『初めてのお化粧』みたいなイベント事では、普段とは異なる装いにするのが楽しい筈だ。

 そのぱっちり猫目、アイシャドウとマスカラでキラッキラにしてやるよ。優美子の闘志に火がついた。

 優美子はとりあえず、スキンケアクリームを間宮に渡す。

 

「これを塗れば良いのか、塗り方は?」

「肌に馴染ませるように塗り込んで、ベタベタしなくなったらOK。あーしのメイクテク見せてやっから、覚悟しなよ」

「……覚悟が必要なのか?」

「……いや、それは言葉の綾だし」

 

 優美子はメイクボックスから、ヘアバンドを取って間宮に着けさせると、下地を開始する。

 下地が塗り終わったら、次はファンデだ。優美子は一瞬、パウダーにするかリキッドにするか迷ったが、今日のところはパウダーで良いだろう。

 化粧落としもしやすいし、そもそもこの女はファンデ必要なのかって程、肌が綺麗だ。

 雪国に降り積もった新雪のように白い肌に、ファンデを厚塗りする必要は無い。薄く、薄くを意識する。和美たちに習った『引き算の美学』だ。

 アイブロウはパウダーのブラックを選択する。左手で柔らかく額を押さえたところで、優美子は手を止めた。

 

「ちょっと、眉間に皺寄ってっけど? もうちょい自然な顔にしてよ、アイブロウがズレるし」

「む、悪い」

 

 悪いと謝りながらも、間宮の眉間には神経質そうな、不愉快さを表すような皺が寄ったままだ。

 優美子は、実はこの女、メイクされたく無いんじゃないかと疑う。

 

「間宮はいっつも顰めっ面だからねぇ。せっかく美人なんだから、もっと笑えばいいのに」

 

 最初にメイクしたB組の女子が、間宮に言った。少々揶揄うような声音に、間宮は「悪かったな」と応える。

 間宮は、ふう、と吐息をつくと、表情をフラットに戻して目を閉じた。

 眉間の皺も消えたので、優美子はメイクを再開する。こいつ、眉の形も格好良いなと、優美子はちょっと羨ましく思った。パウダーでふんわりと立体的に仕上げると、キツ目の印象だった眉が、僅かに柔和になった。

 

「んじゃ、アイメイクいくよ」

「ああ」

 

 頷く間宮を前に、優美子は気合いを入れ直す。ここが正念場、クライマックスだ。

 マットなラメなしアイシャドウをアイホールに乗せていく。カラーは奇抜になり過ぎず、けれど目立つ様に自然なピンクベージュを使用した。

 アイライナーはシックなブラックで、やや大袈裟に、目尻へと流す様に。しかし、ベタ塗りはしない。

 睫毛は元々長いようだから、つけまは無し。ビューラーを軽く当ててカールさせたらマスカラでボリュームアップしてゴージャス感を出す。

 苦心したが、大体満足のいく出来になった。

 あとは、リップだけだ。

 

「アンタの肌、ブルーベースだから、結構ドぎつい赤リップも似合うと思うよ。あーしはあんまり使わないけど、深めのダークレッドとかね」

「ブルーベース、というのはよく分からないが、任せる」

 

 因みに、ブルーベースとはピンクがかった白肌の事だ。

 優美子自身は黄みがかったイエローベース系の肌なので、明るい色や、キラキラしたゴールドなどが似合う。

 深紅のリップは、一応持ってはいるが自分で使用したことは無かった。真新しいダークレッドカラーのスティックタイプリップをブラシに取って、丁寧に塗っていく。

 唇の縁通りに口角から真ん中へ、縁を塗ったらムラが出来無いよう内側も均等に。

 全てのメイクが完了したところで、優美子は間宮に手鏡を渡した。かなり納得の出来映えだった。

 優美子は自信満々に、間宮の反応を窺う。

 しかし、優美子の期待とは裏腹に、間宮は特に何の反応も見せなかった。表情は透明なまま、いっそ冷淡な程で、愛想の欠片もない。

 優美子の目は、間宮の顔に『不満』の二文字を読み取った。

 

「これがメイクか……ありがとう」

 

 間宮は冷ややかな声音で淡々とそう言った。優美子は頰を引きつらせて、「どう、いたしまして」と言うのが精一杯だった。

 

 

 

 

 合唱部の面々へのメイクを終えて、特別棟の部室へと帰り着いた優美子たち。

 長机の椅子に腰掛けた優美子は、第一声に「ムカつくーっ!」と叫んだ。

 和美と百合子は抑える様に手を振って、まあまあ、となだめる。

 

「メイクにも、好みというものはありますから、その、間宮さんという方の趣味と、優美子さんのメイクが噛み合わなかったのでしょう」

 

 和美はフォローするようにそう言うが、優美子の機嫌は下降したままだった。

 

「アイツ、なんの希望も言わずに、あーしに任せるっつったんだよ。頑張ってメイクしてやったのにさぁ、なんだよあの態度」

「優美子ちゃん、気持ちはわかるけど、相手を責めるのはお門違いだよ。相手の期待に応えられなかったんなら、もっと練習しなきゃね」

 

 百合子にも言われて、優美子は「むう」と唸って黙り込んだ。

  そうだ、練習が足りなかったんだ。ああいうタイプの顔をメイクするのは初めてだった。同じようなタイプの顔をメイクして練習すれば、次は絶対不満そうな顔なんかさせない。

 優美子は壁越しに、隣の奉仕部の部室を睨んだ。

 

 

 

 一方、奉仕部の部室には、優美子が先程叫んだ、「ムカつくーっ!」という大声が届いていた。

 突然の怒声に驚いた雪乃と結衣は、お化粧研究部の部室がある方の壁に顔を向けている。

 八幡だけは無関心な態度で、手元の文庫本に目を落としていた。

 

「荒れてるわね、三浦さん」若干呆れたような、冷ややかな口調で雪乃が言った。

「ん〜、なんか嫌な事でもあったかな?」

 

 気遣わしげな結衣の言葉に、雪乃は、ふっ、と吐息を洩らす。

 

「嫌な事があったからと、癇癪を起こすのは幼い行いよ。感情はコントロールするべきだわ」肩を竦めて言う雪乃。

 

 隣に座る結衣は、でも、ゆきのんも意外と感情が表に出やすいとこあるよねと思ったが、角が立つので言わない。

 

「お前も、感情がコントロールできていない節があるが」

 

 結衣が気を遣って口を噤んだ内容を、代わりに八幡が言った。

 案の定、雪乃は八幡を睨みつける。雪乃の瞳には吹き荒れる熱風のような迫力があったが、その視線を受けた八幡は、くっくっと小刻みに笑った。

 

 

 

 

 

 


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