八幡たちが実力テストを受けてから十日後の昼休み、雪乃は職員室のドアをノックした。失礼します、と一声掛けて入室すると、ドアのすぐ近くの席に座っている静と目が合った。
「どうした、雪ノ下。何か用かね」
「いえ、J組の担任の先生に質問がありまして」
「ああ、彼女は出掛けているようだよ。私で良ければ相談に乗るが」
別に相談というわけでは無いのですが、と言いながら、雪乃は静にプリントを手渡した。
「これは……先日のテストの総合成績表だな」静は雪乃の成績表を繁々と眺める。
「五教科全科目満点じゃないか、流石……だな」
雪乃は、静が思わず『流石は陽乃の妹だな』と言おうとして、無理やり言葉を飲み込んだことに気付いていたが、とりあえず指摘はしなかった。
「点数ではなく、順位の方を見てください」
「順位? ああ、うん、成る程」
成績表の右下に書いてあるクラス内順位は一位となっていたが、学年順位は何故か二位になっていた。
「どういうことでしょうか、ミスプリントか、それとも満点がもう一人いて、同点二位ということですか? それなら普通は同点一位なのでは?」
雪乃は少々不機嫌な様子で静を問い質した。常にトップを目指し努力している彼女は、学年順位とはいえ二位と記されるのは不服らしい。中々にプライドが高い。
「あー、先に言っておくが、このテストは実力調査であって、通知表に反映される様な成績とは直接的には関係しない」
「ええ、それで?」訝しげに眼を細める雪乃に、静は思わず顔をそらしてしまう。
「成績に直接関係がないということで、採点が甘くなったというか、面白くて加点してしまったというか……な」
「面白くて加点……ですか?」
「ああ、解答用紙の裏に、テストで問われていない内容の文章を書いた生徒に、ちょっとした加点をしてしまったんだ」
その生徒の点数は500点満点で555点だった、と静は苦笑しながら言った。
雪乃は溜め息を吐きながら納得する。
「そうですか、その加点が無ければ私が単独一位だったというわけですね。ならば構いません」
雪乃はそう言うと、静の手から成績表を取り、職員室をあとにしようとして振り返った。
「いや、その生徒は加点無しでも満点だったよ。だから、単独ではなく、同点一位だな」
静の言葉に、雪乃は眉間に僅かに皺を寄せる。
そして、もう一度静の方を向くと「その生徒、もしや比企谷君ですか?」と訊いた。
「なんだ、知り合いかね。そうだよ、うちのクラスの比企谷だ」
「別に知り合いではありません。彼は入試の成績がトップだったようですから、覚えていただけです」雪乃の機嫌はますます悪くなる。
「その、加点されたテストとはどの教科ですか?」
「全ての教科だよ、五教科全て」
「では、平塚先生の国語では、どの様な内容の文章を書いて加点されたのでしょうか?」
静は、ふむ、と呟くと顎に手を当て考えた。これは生徒の個人情報の様な気がする。しかし、よくよく考えればテストの点数だって個人情報だ。
ここまで漏らしてしまったんだから、加点の内容も教えて構わないか、と結論する。
「江戸川乱歩と横溝正史の関係性についての考察を、二人の著書の内容を交えて書いていたよ」
探偵小説の世界に於いて、日本を代表する様な二人であるが、彼らはほぼ同時期に活動していて、プライベートでも交流があった。
「比企谷が書いた文章は、純粋に読み物としてなかなか面白かったよ。10点プラスしてしまった」
「江戸川乱歩と、横溝正史ですか?」
「そう、横溝が乱歩に懐いた、感謝と憧憬と、ほんの少しの嫉妬心について書いてあったな」
静が言った『嫉妬心』という言葉に引っかかるものがあったのか、雪乃は少しだけ暗い顔をする。
「……歴史に名を残すような文豪でも、嫉妬などするのでしょうか?」
「所詮は比企谷の考察だから真実はわからんが……嫉妬は人間の原罪であると、私は思うよ」
急に雰囲気の変わった雪乃に呼応する様に、静は顔をうつむき加減にしながら、真剣な表情で答えた。
「まあ、それはそれとしてだ。部活の話については考えてくれたかね?」静は話を変えようと努めて明るい声で言った。
「部活、奉仕部ですか。そうですね、もう少し今の生活に慣れたら、お受けしようと考えています」
「そうか! では特別棟の方に部室を用意しておくから、いつでも声をかけてくれ」
雪乃は「わかりました、では失礼します」と言って職員室を出た。
放課後のエントランス前の広場は、家に帰るもの、部活に向かうもの、そして部活勧誘のビラ配りをするもの等でごった返していた。
部活勧誘はアピールが大事だ。運動部は皆、普段の練習では着ない試合用のユニフォームを着て、威勢よく勧誘に勤しんでいる。
文化系の部も、科学部は白衣を羽織っているし、華道部、茶道部なんかは着物を着こなしている。
中山百合子はそんな部活勧誘をするものたちの一人だったが、彼女は普通の制服姿であった。
勧誘用のビラを片手に行き交う生徒に声をかけていくが、芳しい返事をくれるものはいない。
ビラを受け取ってもくれない人も多いくらいで、百合子は憂鬱そうに溜め息を吐く。
そんな彼女の背中に、部活へと急ぐ男子が肩に下げていたスポーツバッグが当たった。
その男子、影山は人混みにも関わらずかなりの速さで走っていたようで、百合子は堪らずたたらを踏み、その手のビラを取り落とした。
「きゃっ!」
「あー、悪りぃ」
影山は適当な様子で謝ったものの、百合子が落としたビラを拾おうともせず足早に去ろうとする。
しかし、横合いから伸びた手が、影山の襟首を掴んでその動きを止めた。
「ぐぇっ」影山はひしゃげたカエルのような声で呻いた。
「待て、拾え」
襟首を掴んだ張本人、比企谷八幡の言葉は簡潔だった。
襟首を掴まれたことは勿論、その無遠慮な言葉にも怒りを感じた影山は、八幡の手を乱暴に振り払う。
「何すんだよ! テメエ!」
「お前がぶつかったせいで、この女子がビラを落とした。なら、お前が拾うのが道理だろう?」
「あの、私、自分で拾うから大丈夫です」
百合子は申し訳なさそうにおずおずと言った。影山はかなり苛立っている様子で、今にも喧嘩が始まりそうな雰囲気だ。
「駄目だ。この男に拾わせるからお前は一枚も拾うな」
八幡は百合子に向けてそう言い放つ。百合子は「あの、でも」と遠慮がちに呟いた。
「俺は二年生にしてサッカー部のエースなんだぞ! 一分一秒だって練習時間は無駄にできないんだ!」
「そうか、ではさっさと拾え」
激昂する影山に対して、八幡は冷静に返す。聞く耳を持つ気はなさそうだ。
影山の顔が怒りに歪み始めたところで、少し離れたところから影山に駆け寄る者が現れた。
「影山先輩、どうかしたんですか?」
「……葉山か」
影山は苛つきを隠そうともせず、突然現れたサッカー部の後輩、葉山隼人を睨みつけた。
「比企谷くんも、何かトラブル?」
隼人は、影山と対峙している八幡に話し掛けたが、八幡は特に何も答えない。
「葉山、こいつお前のツレか?」
顎先を八幡に向けてしゃくり上げながら、影山が言う。
「いや……ツレというか、クラスメイトですけど」
「同じクラスなら、先輩に対しての礼儀くらい教えとけよな!」
お前は最低限の礼儀すら知らないようだがな、と影山に向けて言おうとした八幡だったが、不穏な空気を察した隼人に口を手で塞がれる。
「まあまあ、先輩も比企谷くんも落ち着いて」
後輩の執り成しによって多少苛立ちが治まったのか、影山はひとつ舌打ちすると「葉山、そのビラお前が拾っとけ」と言い残して去っていった。
「えーっと、まあとにかく、喧嘩はよくないよ。比企谷くん」
八幡の口から手を離し、取り繕うような笑みを見せる隼人。
「喧嘩などするつもりはなかった。ただ、あいつのせいで落ちたビラを拾わせようとしただけだ」
八幡はそう言うと、片膝をついてビラを拾い始めた。
「あ、ごめんなさい。私が拾うよ」
「俺も手伝うよ」
百合子と隼人も、八幡に続いて拾い始める。かなり勢いよくぶつかられたせいで、ビラはそれなりに散らばっていたが、三人で拾えばすぐに拾い集めることができた。
八幡は集めたビラの一枚を、何とは無しに眺める。そこにはカラフルなレタリング文字で『お化粧に興味はありませんか?byお化粧研究部』と書かれていた。
「お化粧研究部?」八幡が百合子に訊く。
「うん、正確にはまだ部じゃないんだけどね。中学からの友達と二人で設立しようとしたんだけど、部の設立には部員が三人以上必要なんだって。けど、なかなか興味を持ってくれる人が居なくて」
総武高校の校則では、部の存続自体は部員数一人で良いとされていたが、設立には部員数三人以上が必要となっていた。
「ビラ、拾ってくれてありがとね、比企谷くん」百合子は八幡に、ぺこりと頭を下げて礼を言った。
「あれ、二人は知り合い?」
隼人が訊くと「知り合いでは無いな、俺が一方的に知られているだけだ」と八幡は冷めた表情で答える。
「あはは、比企谷くん、有名人だから」
「ああ、確かに、そうだね」
隼人は一年生の間で八幡が『変人』として噂になっていることを思い出した。
「ビラ配りだけでは、部員は集まらないかもしれないな」
突然の八幡の言葉に、百合子は「えっ?」と疑問符のついた声を上げ、その顔を八幡の方に向けた。
「いやいや、そんなことは無いよ。サッカー部もビラ配りはしてるけど、ビラを見て入部しようと思ったヤツも多いよ」
隼人が百合子を励ますように言うが、八幡はなにかしら思案している様子でビラを見つめていた。
「……幽霊部員で良いなら、名前を貸しても良いが」
八幡は百合子には目を向けず、さらっと何でもないことのように言った。
対して百合子は、驚いた様に目を二、三度ぱちくりと瞬きさせた後、感謝の笑顔を浮かべて答えた。
「うーん……申し出はうれしいけど、やっぱり部員はお化粧に興味がある人が良いな。もうちょっと粘ってみるよ」
「そうか。それなら、頑張ると良い」
それまでずっと無表情だった八幡は、そう言って少しだけ微笑むと、その手に持っていた最後の一枚のビラを百合子に返し、自転車置き場の方へ歩み去った。
「比企谷くんって、思ってたより優しい人なのかも」
天の道がどうとか言っていた入学式の言葉はよくわからないが、少なくとも悪い人では無さそうだ、百合子は内心でそう思った。
「えっと、葉山くん、で良いのかな? 君も、拾ってくれてありがとね」
「ああ、いや、気にしなくて良いよ」
頭を下げながら礼を言う百合子に、片手を軽く振って答えた隼人は
「じゃあ、俺も部活に行くよ」と言って部室に向けて歩き出した。
隼人は、先輩に対して波風を立てても道理を正そうとした八幡の姿に、かつての雪ノ下雪乃を見た気がしていた。
四月も終盤となり、そろそろ高校生活にもなれようかという頃。
その日のA組とB組の四限目は体育の授業だった。体育は男女で分かれるため、2クラス合同での授業になる。
男子の種目はサッカー。女子はソフトボールだ。
女子側ではアップやキャッチボール、ノックなどを経て、試合が始まっていた。
現在は結衣が入った先攻のチームが攻撃中である。
結衣はベンチで自分の打順を待ちながら、サッカーをしている八幡の方へ目を向けていた。
「結ぅ衣ぃ! だーれ見てんの?」隣にいる優美子が話しかけてきた。彼女の金髪ゆるふわ愛されカールが春風にふわふわ揺れる。
「え、いや、誰を見てるとかってことはないんだけどさ。男子はサッカーしてるんだなあって思っただけ」
「ふうん、ま、良いけど。あーしはてっきり誰か好きな男子でも見てんのかと思ったんだけど」イマドキの女子高生三浦優美子、恋バナは大好きである。
「す、好きな男子なんかいないよぉ。まだ高校入ってそんな経ってないのに」
「でも、結衣ってば天の道くんのこと良く見つめてるよねぇ?」
入学早々仲良くなった姫菜が、優美子の反対側から結衣を挟むようにして詰め寄る。ナチュラルミディな黒髪に映える、赤いトップリムの眼鏡が陽光でキラリと光った。
「天の道くん?」結衣の顔に疑問が浮かぶ。
「比企谷のことだよ。あいつ天の道がどうとか言ってたじゃん。だからみんな、天の道って呼んでるし」
優美子が説明すると、結衣は、そういえば初めて会った時も言ってたなあ、と思い出した。
「もしかして、結衣ってばあーいう子が好み?」姫菜がからかい気味に訊く。
「ち、ちがうよ! 好みとか好きとかじゃなくて、恩人だから……ちょっと気になってるっていうか……」言外に八幡の事を見つめていたのは認めてしまう結衣。
「なになにぃ、恩人ってどういうことだし」
「三人共、盛り上がってるとこ水を差すようだけど、攻守交代ですよ」
『恩人』という気になるワードを聞いてさらに問い詰める優美子だが、そこにチームメイトの和美が声をかけてきた。
「えー、和美ぃ、今いいとこなんだけどー?」優美子が口を尖らせながら文句を言う。
ちなみに和美はとなりのB組の生徒なので、体育の時間くらいしか関わりがない。
それにもかかわらず名前呼びしているあたり、優美子のコミュニケーション能力の高さが伺える。
「私に文句をいわれても困るんだけどね」
「いやいや、かずみん、ナイスタイミングだよ」結衣に至っては名前呼びどころかアダ名呼びである。
「褒められるのもそれはそれで困るね」和美はそう言って守備位置に走り出した。
「しゃーないなぁ、結衣、あとで詳しく訊くかんね」
「私も訊きたいなあ、結衣?」
「うう……」優美子と姫菜から弄られた結衣は、困り顔でグラブを取り、ベンチから飛び出した。
結衣が内野を抜けて外野の守備位置に向かうと、和美が先に着いていた。
「結衣さんは、今日はライトでは?」きょとんとした顔で、和美が問う。
「え? こっちライトじゃないの?」
「こっちはレフトですよ」
「センターから見て右手側なのに、レフト?」
「……バッター側から見るんじゃないかな? バッター側から見るとこちらが左側だ」
「成る程! かずみん頭良いねえ」
結衣は野球もソフトボールもあまり知らないらしい。
「こらぁ! レフト! なんで二人もいるの!」
「あ、すみませぇん!」
女性の体育教師に怒られて、結衣はライトに向けて慌てて走り出す。
そんな結衣の姿を、優美子はピッチャーズサークルから苦笑しながら見ていた。