天の道を往き総てを司る比企谷八幡   作:通雨

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一年J組編3話

 翌日の放課後、一年A組の教室後方では、優美子と結衣が何がしか話し合っていた。

 八幡がそちらの方へ目を向けると、結衣は『先に行ってて』と言う様に右手で手刀を切る。

 八幡は目礼で応えて、教室を出た。鞄の中には、昨日購入した読みかけの本が入っている。さっさと部室に行って読もうと、八幡は足を急がせた。

 

 

 

 

 雪乃が部室に訪れると、室内には既に八幡がいた。最早定位置になった椅子に座っている。手元にはハードカバーの本があった。

 何気なくそのタイトルを見た雪乃は、驚きに目を瞠る。八幡が読んでいたのは『パンダのパンさん』だった。イラストは日本人に馴染み深いディスティニー版だ。

 パンダのパンさんを知らないなんて、どんな人生を歩んできたらそんな事になるのかと耳を疑ったが、どうやらこの男、意外と興味を惹かれていたらしい。

 雪乃は少しだけ、自分の心が浮き立っているように感じた。自分の好きな物を他人も興味を持つというのは、中々嬉しい事だ。雪乃だって、それは例外ではない。

 パンさんの話、してみたい。この男はパンさんを読んでどう思っただろう。『パンダのパンさん』に込められた、作者の寓話的教訓には気付いているだろうか。

 もしも気付いていないとしたら、私が詳しく解説してあげない事もないわ。

 何らかの愛好家特有の、語りたがりな習性を、雪乃も持っていた。

 心の乱れを悟られぬよう、努めて冷静に普段通りを心掛けて彼女は自分の席に着く。

 いきなり本の話を振るのは不自然だろうか、そもそも自分はいつもこの男にどんな話題を振っていたかしらと、雪乃は思い悩む。

 そういえば、まだ挨拶をしていなかった事を思い出す。

 

「こんにちは、比企谷くん」

「ああ」

 

 八幡は、視線を本から上げもせずにそう応えた。『ああ』とは何よ『ああ』とはっ、と雪乃は少しムっとするが、思えばこの男が無礼で素っ気ないのはいつもの事だ。

 平常心を装って雪乃は更に話し掛ける。

 

「由比ヶ浜さんの姿が無いようだけれど、彼女はどうしたのかしら?」

「……教室で三浦と何か話をしていたが、そのうち来るんじゃないか」

「そう」

 

 八幡は、本のページをパラリと一枚めくる。雪乃の座っている場所からは、ページの進み具合はよく見えないが、一編くらいは読み終わっているのではないだろうか。

 雪乃は机の上にちょこんと座っているパンさんのぬいぐるみーーUFOキャッチャーの景品ーーを手に取り、パンさんの顔を八幡の方へ向けた。

 

「比企谷くんも、パンさんに興味があるのね」雪乃はぬいぐるみの左腕を、クイクイッと挨拶する様に動かした。

「……お前も由比ヶ浜も、このパンダを知らないというだけで、まるで俺に常識が無いかのような態度だったからな。後学の為に読んでおこうかと思っただけだ」ちらりと視線を上げて、八幡は言った。

 

 常識が無いのはその通りじゃないの、あとパンさんの事をパンダって呼ばないでほしいわ。パンさん、もしくはミスター・パンダと呼んでほしい。雪乃は少々不満だったが、とりあえず、どこまで読んだのか気になるので訊ねてみた。

 

「『竹のおはなし』は読み終わったかしら?」

「ああ、もう読んだ」

「そう、では、あなたは『竹のおはなし』をどんな風に解釈したの?」

 

 挑戦的に語尾を上げて問う雪乃。

 八幡は目を瞑り、本をパタンと閉じる。一拍間を置いて、口を開いた。

 

「……パンダは進化の過程に於いて、竹を主な食料として選んだ。それによって、他の動物を狙って駆けずり回る苦労をする事はなくなった。しかし、栄養価の低い竹から充分な栄養を摂取して生きていくには、一日中竹を食べ続けなければならなくなった」

 

 八幡は一旦言葉を切って、雪乃を見遣る。彼女にしては珍しく、ニヤニヤと妙な笑みを浮かべていた。

 

「このパンダは冒頭で、獲物を追い回して疲弊する虎を眺めて、竹を食料とする自分に優越感を得ているが、一方で、忙しなく竹を食べ続けなければならない自分に不平も覚えている。何事にもメリットとデメリットがある、という教訓と受け取ったが、違うのか?」

 

 八幡が自身の解釈を語り終えたところで、雪乃の笑みが深くなる。

 

「甘い、甘過ぎるわ。比企谷くん」

 

 やれやれ、といった様子で雪乃は首を左右に振った。今日の彼女は、なんだかテンションが高い。

 

「確かに、そういう教訓も含まれてはいるけれど、パンさんは竹を食べ続けなければならないという苦労も、他の動物と共存していく上で必要な事と捉えているのよ。他者との共存に於いて、多少の不平不満は仕方のない事。折り合いをつけなければならない、という教訓ね」

「……成る程、そこまでは余り読み取れなかったな」

 

 八幡は閉じていた本を冒頭からめくり直し、パラパラと文字を追った。

 雪乃は椅子から立ち上がって八幡の方へ歩み寄ると、彼の肩に手を置いた。

 

「なんだ?」八幡は上目遣いに、雪乃を見上げる。

「読み直しても無駄よ。比企谷くん」

 

 どういう意味だ、と八幡は首を傾げる。解釈を聞いてから読み直せば、少なくとも意図を読み取れないという事は無いと思うが。

 

「貴方が読んでいるのは、ディスティニー版の翻訳でしょう。『パンダのパンさん』、原題は『ハロー、ミスター・パンダ』というのだけれど、元々児童書であるというのに、ディスティニー版は更に子供向けに改訂されているのよ。その翻訳だと、『竹のおはなし』から他者との共存に関する内容は削られているわ」

「雪ノ下、お前、分かっていながら質問してきたのか」

 

 八幡がやや険しい表情で言う。

 対して雪乃は、してやったり、という笑顔で首肯した。

 

「読みたければ、原書を貸してあげてもいいわよ。比企谷くん」

「……そのうち、機会があれば借りよう」

 

 八幡から一本とって上機嫌な雪乃が自分の席に座り直した丁度その時、部室にノックの音が響いた。

 由比ヶ浜さんね、と当たりを付けた雪乃が「どうぞ」と応えると、果たして扉を開けたのは結衣だった。しかし、意外な事に彼女の後ろには、優美子の姿もあった。

 

「やっはろーっ、ゆきのん、ヒッキー。依頼もってきたよーっ」

 

 相変わらず元気な結衣は、優美子の手を引いて入室してくる。

 今日も金髪をふわふわと揺らしている優美子だったが、その表情からは不機嫌さが溢れていた。

 依頼を持ってきたと言うからには、相談者は優美子なのだろう。まずは椅子に座るよう勧めると、彼女はガタンと大袈裟な音を立てて着席した。

 その全身から、その態度から、ヒステリックな感情が読み取れる。優美子のそういう所を、雪乃はあまり好ましく思えなかった。

 

「不平不満には、折り合いを付けなければいけないのよ、三浦さん。感情を軽々しく発露するべきではないわ」

「うっさいな、初っ端から説教かよ」

「説教は、される方に原因があるものだわ」

「大人ぶってんじゃねーし」

「子供っぽいよりはマシではないかしら?」

 

 早速、口喧嘩を始める雪乃と優美子。結衣が慌てて執りなして事なきを得たが、一触即発の空気は拭えなかった。

 

「えっと、優美子、ほら相談、相談」結衣はさっさと依頼の話に移行しようと促す。

 

 優美子は剥れた様子を隠すことは無かったが、とりあえず相談内容について話し始めた。

 彼女は昨日の合唱部からの依頼で起こった出来事の一部始終を話し終えると、一息つく。

 

「その間宮さんって子、J組なんだ。ゆきのんとおんなじクラスだね。どんな子?」結衣が雪乃に訊ねた。

「活発ではないけれど、陰気なわけではないわね。聡明で大人しいけれど、芯は強そう、という印象だわ」

 

 雪乃がそう答えると、優美子は、「アンタに似てるよ。顔のタイプもね」と、腕組みをして気難しそうに言った。

 

「それで? 貴方が不機嫌な理由はわかったけれど、私たちにどうしてほしいと言うのかしら。聞いた限りでは、練習あるのみ、としか言えないのだけれど」

「わあってるよ、そんな事は。間宮の期待に応えらんなかったのは、あーしのウデが悪い。だから……」

 

 優美子はそこまで言うと、机に置いていたメイクボックスから、スキンケアクリームを取り出した。

 そして、それを掌に少量塗布すると急に立ち上がり、雪乃に向かって半ば襲いかかるかのように、彼女の顔に手を伸ばした。

 突然、優美子の両手が自身の顔に向かって来たので、雪乃は咄嗟に優美子の両手首を掴んで止めた。

 

「急に、何をするのよっ!」焦るように雪乃は叫ぶ。

「練習させろっ! アンタの顔で練習して、今度こそ間宮にぎゃふんと言わせてやるしっ!」

 

 優美子は、雪乃の気勢を上回る声で叫び返した。二人はぎゃーぎゃーと喧しく騒ぎながら、グイグイと押し合っている。

 八幡はそんな二人に目もくれず、ハードカバーを読み進めた。彼は、どうせ結衣が止めるだろうと思っていたのだ。しかし、意に反して彼女は特に動こうとしない。

 

「止めなくていいのか?」気になった八幡は、結衣に言った。

「ん〜、このまま二人とも、仲良くなっちゃえばいいのになぁって思って」

「……ああ、そうだな。共存の為には、多少の不平不満は折り合いを付けなければならない。雪ノ下が練習に付き合えば、共存の道もあるだろう」

 

 八幡は、先程雪乃と交わしたやり取りを、ほんの少しだけ根に持っていた。泰然とした様子を崩さない彼にも、結構子供っぽい所はあるのだ。

 とはいえ、周りで余りにも喧しくされては落ち着いて本も読んでいられないので、八幡は仕方なく優美子に話し掛けた。

 

「三浦」

「ああっ? なんだし天の道」

「その間宮とかいう女、確かに不満だと、そう言ったのか?」

 

 優美子は雪乃と押し合った体勢のまま、数瞬悩む。思えば、言葉にして不満だと言ったわけではない。だが、相手の感情なんて顔を見ればある程度わかる。

 

「言ってないけど、顔見りゃわかるっての」

「どうかな……おばあちゃんが、昔言ってた……つゆの味は、目で見ただけではわからないってな」

「はあ?」優美子は怪訝な顔で八幡を睨んだ。

「外見からの情報だけで、相手の想いの総てを理解する事は出来ない、ということだ。間宮が、本当に不満に思っていたとは限らない」

 

 外見のみで、本質を見抜く事は出来ない。表情だけでは、真実の感情を読み取る事は出来ない。

 本当は、間宮も充分喜んでいたのかもしれない。特に、活発ではなく大人しいタイプなら、感情の発露は苦手な可能性もある。

 

「化粧に関しては、俺は門外漢だ。しかし、前にも言ったが、お前の腕は悪くないと思うぞ」

 

 八幡は、優美子の方に顔を向けながら言う。一先ず優美子は、雪乃と押し合うのはやめた。雪乃は未だ警戒して、彼女の手首を掴んだままではあるが。

 事態が膠着したところで、不意に、ノックの音も無く部室の扉が開いた。

 

「済まない、こちらに優美子さんは……ああ、優美子さん、ここに居たんですね」

 

 胸を撫で下ろす和美、その隣に百合子もいる。そして、そんな二人の背後には、長身の和美の陰に隠れるように、間宮の姿があった。

 

「優美子ちゃんが断りもなく部室に来ないなんて初めてだからさ。もしかしたら、間宮さんの所に行ったんじゃないかと思って、音楽室に探しに行ったんだけど」

 

 百合子はそこで言葉を区切り、背後の間宮に振り返った。間宮は部室に歩み入ると、謝罪するように少し頭を下げた。

 

「三浦……悪かった。二人に聞いたよ、君には不快な思いをさせてしまった」申し訳なさそうに、間宮は言う。

「……別に、謝ってもらわなくてもいーし。アンタの期待に応えられなかったあーしが悪いんだよ」

 

 優美子が不機嫌だったのは、自身の未熟を許せなかったからだ。

 間宮の不満そうな態度に腹を立てたのも事実だが、結局のところ、そういう態度を取らせてしまった己の技術不足にこそ、彼女は機嫌を損ねていた。

 

「違うんだ……私は、嬉しかった。君にメイクしてもらった顔は、自分で言うのもなんだが、華やかで、輝いて見えた。ただ、私は感情を表に出すのが苦手なんだ。度々、他人から誤解される」

 

 自分のコンプレックスを吐露する様に、間宮は零した。

 

「……そーなん?」きょとんとした顔で、優美子は訊いた。

「そうだ」

「あーしのメイク、アンタの期待に応えられた?」

「ああ、いや、むしろ期待以上だった。ありがとう、三浦」

 

 間宮は、注意深く観察しなければわからない程度に、ほんの少しだけ口角を上げた。

 眉間には皺がより、眉尻が下がっているので皮肉げな表情にも見えるが、彼女の言葉を信じるならば、これは彼女なりの感謝の笑顔なのだろう。

 優美子は両腕をグイっと引っ張り、雪乃に手首を離すよう促す。雪乃はうっかり掴んだままになっていた両手を開放した。

 優美子は軽快な足取りで間宮に歩み寄ると、スキンケアクリームの付いている両掌を間宮の頰にそっと押し当てた。

 

「また、メイクさせてよ。アンタの顔、練習になるし」

 

 サラサラとしたクリームを間宮の頰に塗りながら優美子が言うと、間宮はくすぐったそうにしながら先程よりも綺麗な笑顔で、「ああ、勿論」と応えた。

 

「一件落着、かな? あたしたち何にもしてないけど」

 

 結衣は口許を掌で隠し、隣に座る八幡の耳に小声で囁いた。八幡は、「そうだな。本人たちが納得できたなら、それで良いんじゃないか」と、結衣だけに聴こえる声音で囁き返す。彼は、やっとゆっくり本が読めると思った。

 

「でもさ、間宮さん、ヒッキーの言った通り本当に不満に思ってたわけじゃなかったんだね〜。卵は食べてみなければ、中身が何かわからないって事かな」

 

 唐突に、自分も上手い例え話がしたくなった結衣は、八幡にそう言った。

 八幡は本から目を離し、結衣の顔をまじまじと眺める。

 

「卵の中身は卵だ。食べなくてもわかるだろう」

 

 卵の中身が卵では無いとしたら、それは最早卵ではない。何を言っているんだ、大丈夫か、と、不審なものを見るような目で結衣に視線を向ける八幡。

 

「いや、あのね、オムライスかと思ったらオムレツで、オムレツかと思ったらオムソバだったことがあってね。そんでね」

 

 わたわたと手を振りながら、結衣は真意を説明する。懸命に言葉を重ねる結衣はコミカルで、八幡は思わず、鼻からふっと息を洩らした。

 

「ああ、大体わかった」

 

 八幡は微笑みながら、手元の本に視線を戻した。

 冒頭から読み返していた『パンダのパンさん』は、『竹のおはなし』の最後のページが開かれていた。

 


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