天の道を往き総てを司る比企谷八幡   作:通雨

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一年J組編4話

 その夜、小町はゲームに勤しんでいた。薄型テレビの大画面には、コロコロと可愛らしくデフォルメされた二頭身のキャラクターが映っている。

 そのキャラクターは、紅白にカラーリングされた野球のユニフォームを着ていた。

 メッセージウインドウには、[よーし、今日は料理を作るぞ!]と表示されているが、ユニフォーム姿で料理に取り掛かるつもりらしい。

 まあ、ゲームなのであまり細かい事を気にしてはいけない。

 プレイヤーである小町によって『比企谷』と名付けられたそのキャラクターは、どんな料理を作るか迷っているらしく、メッセージウインドウの上に、選択肢が出た。

 選択肢に表示されたメニューは上から、麻婆豆腐、カルボナーラ、雑巾の天ぷら、だった。

 雑巾の天ぷらとは、如何にも悪ふざけとしか思えないメニューだが、選んだ選択肢によってキャラクターのパラメータが上下したりするので、一概にハズレとは言い切れない。

 こういう悪ふざけみたいな選択肢が意外と正解で、パラメータがグンとアップしたりもするのだ。

 小町が唇を尖らせて悩んでいると、台所で洗い物を済ませた八幡が、リビングに現れた。

 

「小町、もう少しテレビから離れた方がいい。おばあちゃんが言っていただろう? ゲームをプレイする時は部屋を明るくし、出来るだけテレビから離れるようにってな。また、プレイする時は健康の為、一時間ごとに十五分程度の休憩を取ることも大切だ」

「は〜い」

 

 小町は素直に、テレビから離れて二人掛けのソファに座った。八幡も、その隣に腰を下ろす。

 

「ねえねえお兄ちゃん、料理のメニュー、どれが良いと思う?」小町はテレビ画面を指差して八幡に訊ねた。

「ん? 野球ゲームをしているんじゃ無かったのか?」

「野球ゲームなんだけどね、キャラを育てるモードがあるんだよ。選んだ選択肢によって能力が上がったりするの」

 

 成る程、と八幡はテレビを真剣な目で見つめた。小町の質問には、最高の回答を用意しなければならない。

 彼はいつだって、妹の期待に応えたいのだ。なんなら、妹の期待に応えるために先に生まれて来たまである。

 

「麻婆豆腐、カルボナーラ、雑巾の天ぷらか……雑巾の天ぷらとは、深いな」

「え、深いかな?」小町にはよく分からない。

「ああ、何故わざわざ雑巾を天ぷらにするんだ。一体どの様な含蓄が隠されているのか……よし、雑巾の天ぷらを選んでみよう」

「雑巾の天ぷらだね、よ〜し」

 

 コントローラーのボタンをかちかちと押して、小町は雑巾の天ぷらを選択する。メッセージウインドウに[うわーっ! マズい、最悪だっ!]というセリフが出た。

 さらに、体力が下がった、筋力ポイントが下がった、敏捷ポイントが下がった、やる気が下がった、と立て続けにバッドステータスがウインドウに表示されていく。

 

「お兄ちゃん?」小町は目を細め、冷ややかな視線を八幡に向けた。

「……済まない、小町……俺の所為で……」

 

 八幡は急に蒼白な顔になって、小町に謝罪した。小町は慌てて、「いやいや、そこまで落ち込まなくていいよお兄ちゃん」と慰める。

 仲の良い兄妹の団欒は、今日も平常通りだ。

 

 

 

 奉仕部の部室で優美子と間宮による一悶着があった翌日の朝、雪乃は常の習慣通り、少し早めに登校を終えた。

 品行方正な生徒である雪乃は、朝は余裕を持って登校する。始業時間ギリギリに滑り込むようなマネはしない。

 爽やかで清涼な朝の空気は、清々しい気分を齎してくれる。J組の教室には窓から暖かな日差しが舞い込んで、心地良い一日の始まりを予感させた。

 まだ登校して来ている人数も少なく生徒も疎らな教室の中で、雪乃は廊下側後方にある自分の席に着き、鞄の中から教科書やノートを取り出して机の中にしまい込んだ。

 彼女は、大抵の教材はきちんと持ち帰る。机の中に置きっ放しにするような事はしない。

 そもそも、雪乃には教科書を置きっ放しにするような発想がなかった。

 対して、由比ヶ浜結衣は雪乃とは正反対に、大抵の教材を机の中に放置している。入りきらなかった分はロッカーの中にある。結衣には、教科書を持ち歩くという発想がなかった。置き勉は忘れ物をしなくて済む、合理的で効率的な行為だと、結衣は思っている。

 ただ、定期テストの成績で痛い目を見ることになるのだが、それは仕方のない事だろう。

 

 一時限目の授業はリーディングだったので、暇を持て余した雪乃は、何ともなく英語の教科書に目を通していた。

 既に今日の授業分の予習は終えているので、先行して次の単元を読み込む。帰国子女である雪乃にとっては特に難しい内容では無かった。

 かたん、と、ひとつ前の席の椅子が引かれる。そこに、昨日起きた騒動の元凶だった間宮麗奈が腰を下ろした。

 

「おはよう」椅子に横坐りし、視線を雪乃の方に遣ることもなく、間宮は挨拶した。雪乃も教科書に目を向けたまま、「ええ、おはよう」と無味乾燥な応答を返す。

 

「英語、教えようか? 昔、海外に住んでいたから、英語は得意だ。ただ、アメリカンではなく、クイーンズだが」

 

 雪乃が熱心に英語の教科書を読んでいるように見えたのか、間宮はそう言った。二人が所属するJ組ーー国際教養科ーーは、英語を中心とする語学教育や、異文化理解に関する教育が強化されている。

 必然、帰国子女の割合は他クラスよりも高くなる。

 

「有難いけれど、遠慮しておくわ。私も英語は不得手では無いの。これは、手持ち無沙汰に読んでいただけ」

「そうか」

 

 適当に断る雪乃に、間宮は特に気を悪くした様子もなかった。しかし、何故か席を立とうとしない。ここは、彼女の席では無いというのに。

 

「勿論知っているとは思うけれど、その席は貴方の席では無いわよ」

「勿論分かっている。高鳥の席だろう? 彼女はいつも始業時間間際に来るようだから、もう少しここに居ても、迷惑にはならないはずだ」

 

 雪乃はきょとんとした顔になり、教科書を閉じて机の隅に置いた。

 左手で頬杖をつき、間宮に顔を近づける。パチパチと瞬きして、その相貌を観察した。

 

「高鳥さんがいつも始業間際に来るなんて、よく知っているわね。貴方、もっと他人に興味がない人だと思っていたわ」

「よく、誤解される」

 

 間宮は少しだけ口角を上げた。やはり皮肉な笑みに見えるが、もしかしたら照れているのかもしれない。表情からは感情が読みにくかった。

 

「それで、私に何か用かしら?」

 

 用でもなければ、自分に話し掛けてくる事などないだろうと雪乃は思った。

 総武高校に入学し、同じクラスになってから二ヶ月近いというのに、彼女たちが会話を交わしたのはこれが初めての事だったのだ。

 

「三浦の、連絡先を教えてくれないか。聞くのを忘れてしまったんだ」

 

 どうやら間宮は、誤解しているようだ。雪乃と優美子は連絡を取り合う様な仲ではない。電話番号はもちろん、メールアドレスだって知らない。

 

「生憎だけれど、三浦さんの連絡先は知らないわね」

「……そうなのか? 仲が良さそうに見えたが」

「どこが?」

 

 低い声音で、雪乃は訊ねた。ああいう粗暴な輩と、同類だと思われては困る。

 

「昨日、仲良く手を繋いでいただろう」

「あれは、三浦さんの粗野な暴挙を止めていただけよ。断じて仲良くなどないわ」

 

 昨日、奉仕部の部室で優美子の手首を雪乃が掴んで止めていた様子を見て、間宮は二人を仲の良い友人だと思ったらしい。

 冗談ではない。そんな誤解をするのはやめてほしい。

 

「粗野、か。三浦は、気の良いヤツだと思うがな」

 

 間宮は得心のいかない顔で零した。あの後、お化粧研の部室でもう一度メイクしてくれた優美子からは、朗らかな印象を受けた。

 他人の印象は、プリズムの様に、眺める角度によってその色彩を変えるのかもしれない。

 雪乃にとっては粗野に映る優美子も、間宮にとっては明朗で活発な少女に見えるのだろう。

 

「とにかく、連絡先なら直接自分で訊いてきてちょうだい」

「そうか、わかった。そうしよう」

 

 優美子の連絡先に関してはそれで納得したようだが、相変わらず、間宮は席を立とうとしなかった。

 それどころか、今度は雪乃の方に顔を向けて、何かを見極める様に真っ直ぐ眺めている。

 

「なにかしら? まだ何か用?」訝しく思った雪乃が訊ねる。

「雪ノ下には、姉がいるか?」

 

 穏やかな表情で、間宮はそう訊ね返した。突飛な話題転換、しかも、少々苦手な姉の話題。

 雪乃は面食らってぽかんとしながら、間宮を見遣る。

 

「いるけれど、それがどうかした?」

「やはりな、雪ノ下という苗字は珍しいし、君の顔は、陽乃さんによく似ている。同じクラスになった時から、そうではないかと思っていた」

 

 

 

 

 間宮と陽乃が出会ったのは、間宮がまだ中学生の頃だ。

 間宮の祖母は、とある音大の学長を務めていた。その音大の創立七十周年の記念式典にて、間宮は、名の通ったピアニストでもある祖母のラフマニノフにのせて、ヴォカリーズを歌う事になったのだ。

 幼い頃から声楽を学んでいた間宮ではあったが、大学の記念式典に中学生がのこのこ参加して、しかも舞台に立って歌を披露するなど、顰蹙を買うとしか思えない。

 一旦は断った間宮だったが、孫馬鹿な所がある祖母は、どうしても一緒に舞台に立ってほしいという。

 結局断りきれず、仕方なく了承したものの、いざ始まった式典の最中、間宮は常に緊張し通しだった。

 音大の記念式典だけあって、プログラムには学生オーケストラの演奏は勿論、卒業生であるプロの音楽家による記念演奏まで含まれている。

 そんな中、間宮の出番は演目としては大トリに位置していた。孫に華々しい舞台を用意したかった祖母の計らいだろう。

 音楽で日々の糧を得ているプロの後に、アマチュアの、しかも中学生の自分が歌うなど、文字通り拍子抜けされるに決まっている。

 間宮は自分が祖母の添え物である事は承知しているが、今からでも、祖母のピアノ独演に変更できないだろうかと、本気で悩んでいた。

 ただ、緊張すら顔に出ないタチなので、周囲の大人たちは間宮を堂々とした、肝の座った少女だと誤解していたのだが。

 冗談ではない。そんな誤解をするのはやめてほしい。

 式典が催されているコンサートホールの最前列に、間宮は背筋を伸ばして座っていた。固くひき結んだ両手は膝の上に乗せている。

 そんな、不安に縮こまる間宮の手の甲を、隣に座っていた少女がとんとん、と軽く叩いた。

 間宮は驚いて、その少女の方へ顔を向ける。

 

「キミ、間宮麗奈ちゃんだよね。学長のお孫さんの」

 

 自分よりも少し年上に見える少女に、間宮はこくりと頷く。

 

「やっぱり。パンフに顔載ってたから、直ぐわかっちゃった」

 

 少女はそう言って、式典で配られたパンフレットをヒラヒラと振った。間宮は緊張で目を通していなかったが、パンフレットに自分の顔まで載せていたとは、これでは逃げられない。ピアノ独演に急遽変更などできないではないか。

 

「わたし、雪ノ下陽乃っていうの。高校生だよ、よろしくね」

 

 他者を和ませる笑顔を見せて雪ノ下陽乃と名乗った少女は、間宮の膝の上から手を取り、陽気に握手した。

 陽乃は握り締めた手指から間宮の怖気付いた感情を読み取ってしまった様で、笑みを深めて間宮の耳に顔を近づけると、「緊張してるでしょう?」と蠱惑的に囁いた。

 外見からは感情を理解され難い間宮は、初見の人間に内心を悟られる事など今までなかった。それだけに、狼狽して言葉に詰まる。

 

「緊張をほぐす方法、教えてあげよっか。ねえ、目、瞑ってみて」

 

 間宮は、初対面の他人を直ぐに信頼する様な迂闊な性格ではなかったが、何故かその時は、言われた通りに目を瞑った。

 陽乃には、不思議な魅力があった。出会って間もない相手にも、深い信頼を得られる不思議な魅力が。

 しかし、突如、陽乃は間宮の額に向けて思いっきり中指を弾く。所謂、デコピンだった。

 ワイングラスのように華奢な指のくせに、そのデコピンはかなりの威力だった。間宮の額に激痛が走る。

 怒りと共に目を見開いた間宮の視界に、陽乃の笑顔が映った。いたずら好きの子供が見せる意地悪な笑みだった。

 

「やーい、怒った? 怒っちゃったかな?」陽乃は揶揄い気味に語尾を上げた。

 

 信頼して目を閉じたというのに、どういうつもりだと、間宮の頭に血が昇る。

 思わず怒り心頭に発した間宮は、ホールの最前列だというのに立ち上がろうとしたが、その両肩を陽乃の両手にそっと押さえられて、何故か身動ぎひとつできなかった。

 触るなと言わんばかりに、間宮は両肩に置かれた両手を払う。そして、未だ馬鹿にしたような笑顔を浮かべる雪ノ下陽乃の胸ぐらを掴み、その顔を睨んだ。

 しかし、陽乃は泰然とした様子を崩さずに、穏やかに間宮に語りかけた。

 

「麗奈ちゃんは知ってるかな? 神経の興奮状態において、『怒り』は『緊張』を上回るんだよ。『怒り』を覚えたキミは、もう『緊張』していない筈だよ」

 

 言われて、間宮はハッと気づく。確かに、胸を締め付けるように煩く鼓動を鳴らしていた心臓は、だんだんと落ち着いたリズムに戻っていった。

 陽乃の言う通り、既に緊張から解放された間宮は、陽乃の胸ぐらに掛けた手をゆっくりと外す。確かに、怒りの感情を覚えると共に、緊張感は無くなっていたらしい。

 間宮が感じていた緊張は、陽乃がデコピンによって齎した怒りで上書きされたのだ。

 

「大丈夫だよ、麗奈ちゃん。ここには音楽の道を志す人間しかいないんだから、キミみたいな中学生がいくら拙い歌を披露しても、みんな寛容に受け入れてくれるよ。『わたし』が『保証』してあげる」

 

 陽乃が発する穏やかな声音は、間宮に安心感を与える。

 ただの女子高生でしかない『陽乃』の『保証』は、間宮に絶対的な安堵と、微睡みのような心地を感じさせた。

 

「キミの綺麗な歌声、わたしに聴かせて……ね? お願い」

 

 間宮はその後、祖母のピアノ演奏を霞ませるような、見事な歌声をホールに響かせた。

 

 

 

 

 

「記念式典で私が緊張せずに歌い上げられたのは、陽乃さんのおかげだ。陽乃さんには、感謝している」

 

 間宮が語った思い出話は、確かに美談的だったが、雪乃は彼女に悟られない程度に、僅かに顔を顰めた。

 陽乃はいけしゃあしゃあと、『ここには音楽の道を志す人間しかいない』と述べたらしいが、それを言った陽乃自身が、音楽の道を志す人間ではない。

 彼女はおそらく、父の仕事の関係で、その記念式典に出席したのだろう。

 声楽などカケラの興味もないくせに、間宮を騙くらかしたのだ。

 わざわざ間宮を失望させる真実をこの場で告げるような事はしないが、雪乃の中の陽乃へ対する心象が、また一つ下がった。

 

「……ところで雪ノ下、君にはもうひとり姉か、もしくは妹がいるのか?」

「……いいえ、私たちは二人姉妹よ」

 

 間宮の妙な質問に、雪乃は怪訝な表情で答えた。そして、「何故そんな事を訊くのかしら?」と、訊き返す。

 間宮は顎に手を当て、ふむと頷くと、教室の天井を見上げながら口を開いた。

 

「式典の後、陽乃さんに訊いたんだ。なぜ私を助けるような事をしてくれたのか、とな」

 

 間宮は教室の天井の更に先、空の太陽を見上げる遠い目をして、雪乃に言った。

 

「あの時の私は、陽乃さんには怯えて縮こまっているように見えたらしい。その姿が、自分の妹と重なって、可哀想になったと言っていた。雪ノ下、正直言って君は、怯えて縮こまるタイプとは思えないんだが……」

 

 そこで言葉を切った間宮と、雪乃の視線が交錯する。

 

「陽乃さんの言っていた妹とは、君のことなのか?」

 

 間宮の黒い瞳を、雪乃はじっと見返した。透明で、感情を見透かせない瞳だった。

 

「いや、答えたくないなら、別に答えなくていい」間宮はついと、目を逸らす。

 

 雪乃が何も言わずにいると、数秒の間を置いて、校内中に響き渡るチャイムの音が鳴った。

 雪乃の斜め後ろのドアが、ガラリと勢いよく開く。

 

「セーフ! 今日もセーッフ!」

 

 ドアを開いたのは、高鳥蓮華だった。彼女は、どういうわけか自身の席に座っている間宮に、明るく話し掛ける。

 

「あれー? 間宮さん、なんであたしの席に座ってるの?」

「……悪い。勝手に借りていた」

「いや、別に全然構わないんだけどね」

 

 間宮は高鳥蓮華に会釈すると、自身の席に戻っていった。蓮華はそそくさと席に着き、ふう、と一息つく。

 

「おはよ! 雪ノ下さん!」

「ええ、おはよう」

 

 蓮華の元気な挨拶に、雪乃は平坦な声で返答した。そこには少し、動揺の色があった。


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