金曜日の放課後、奉仕部の部室で、部員の三人は揃って本を読んでいた。
結衣が読んでいるのは八幡に借りたディスティニー版『パンダのパンさん』だ。児童向けの読みやすい内容なので、普段は漫画ばかり読んでいる結衣も、スラスラと読み進めている。
そして、雪乃と八幡の手元には『パンダのパンさん』の原書である『ハロー、ミスター・パンダ』があった。これは勿論、二冊とも雪乃が家から持ってきたものである。
雪乃によるパンさん布教活動は、奉仕部限定で着実に進行していた。
彼女は、既に何度も読み返して、諳んじることも出来る英文に目を落としながら、これまでの奉仕部での活動を思い返していた。
奉仕部に舞い込んできた依頼はこれまで四つ。
結衣に料理を教えてほしいと頼まれたもの、和美と百合子の創部手伝い、材木座による野球部騒動、そして、おとといの優美子の一件。
その内、雪乃が解決したといえるものは結衣の依頼だけだ。
優美子の相談など、手首を掴んで押し合っていたら勝手に落着してしまった。あの場面を間宮に目撃されたのは、殊のほか不覚である。
次の依頼は自分が解決する。雪乃は密かにそう決意している。だがしかし、依頼が来ない事には解決のしようもない。
総武高の生徒に悩み事がないのは良いことだとも思うが、依頼を求める身にとっては痛し痒しというものだ。
今日も部室では、閑古鳥だけが大盛況だ。
静まり返った部屋の中に、本のページを捲る音だけが時折聴こえる。
穏やかで、落ち着いた時間だった。
こういうのも、たまには悪くないなと結衣は思っていたが、図書室のように静謐な空間は、突然入室してきた平塚静によって破られた。
彼女がノックもせずに部室に入ってくるのはいつもの事なので、雪乃も結衣も特に注意することなく挨拶する。
静は片手を上げて応えた後、短く吐息をついた。
「なんだ君達、本ばっかり読んで。いつからここは文芸部になったんだ?」
ややオーバーに肩を竦めて言う静。そう言われても、依頼者が来ない限り奉仕部の活動はできないのだから仕方がない。
「先生、何か御用でしょうか?」
雪乃が訊ねると、静は「ああ」と軽く頷き、「来週の木曜から、中間テストがあるだろう?」と、部員の顔を見回しながら言った。
雪乃と結衣は、手元の本から顔を上げて静を見遣るが、八幡の目は相変わらず『ハロー、ミスター・パンダ』の英文を追っていた。教師が話しているというのに、失礼な奴だ。
「明日から全部活テスト休みに入る。君たちは元々休日は活動していないから土日は関係ないが、月曜から部室は使えないよ。何か必要品を部室に置いているなら、今日持って帰っておくように」
部室には、特に私物の類は置いていない。強いて言うならば、パンさんのぬいぐるみくらいだろうか。
テスト休み期間中ずっとここに置いておくのも可哀想なので、今日は家に連れて帰ろうと、雪乃は思った。
一年J組、高鳥蓮華。得意なスポーツは何かと訊かれれば、数瞬迷った後、野球かソフトボールと答える。
蓮華は小学生の頃、近所のリトルリーグチームに入っていた。女の子にしては肩が強く、サウスポーな事もあってポジションはピッチャーだった。一段高いマウンドから投げ下ろすと、味方チームも相手チームも、皆が自分に注目してくれているようで気分が良かった。
小学校を卒業して中学生になると、彼女はソフトボール部に入部した。そこでも、希望ポジションはピッチャーだった。
ソフトボールのピッチャー独特の、腕を一回転させて投げるウインドミル投法は習得に結構な時間を要した。
練習を始めたばかりの一年生の頃は、腕を一回転させた後にその腕を腰に当てるブラッシングと呼ばれる動作が安定せず、左腰の辺りにしょっちゅう青アザをつくっていた。必要以上に強くブラッシングする癖があった為だ。
しかしそれも、二年生に進級してエース番号を貰えるようになった時には修整できた。みっともないアザをつくるような事もなくなった。
市内大会も突破できない弱いチームではあったけれど、蓮華はエースとしてソフトボールを思いっきり楽しんだ。
また、蓮華に得意な教科は何かと訊ねれば、彼女は迷いなく英語と答える。
彼女は小学生の頃、リトルリーグと並行して英会話スクールにも通っていた。
そのスクールは小難しい文法や構文をいちいち教えてくれるような学習形態では無かったが、英語に慣れ親しむという学習方針は蓮華の性分に合っていた。
生徒のみんなで楽しくワイワイ遊びながら英語を学ぶ。
勿論テキストを読み込んだりする時間もあるが、テキストの内容はエンターテイメント性に富んだ物語調の英文ばかりだったので、読めば読むほど続きが気になるものだった。
このテキストは本当に為になった。ケンタとジュディが益もない挨拶や自己紹介を交わすような内容だったら、三日で飽きていただろう。
中学へ上がる時に、部活で忙しくなるからとその英会話スクールは辞めてしまったが、中学一年生で習う英語は彼女にとって楽勝にも程があった。
大抵のテストは、多少のスペルミスや勘違いはあるものの満点に近い成績で、英語科の教師にもよく褒められた。
英語の授業中、それなりにネイティブじみた発音で英文を朗読した時などはクラスメイトにからかわれたりもしたが、元来明るい性格である彼女は、照れくさそうに笑って済ませた。
高鳥蓮華は英語が得意な人という印象は、教師やクラスメイトの間で広まっていったし、また、蓮華自身もそうあろうと努力した。
何においてもそうだが、得意だという認識は、人を成長させる。
その後も、彼女の英語力は順調に伸びていく。そして、三年生になると、担任教師から総武高校の国際教養科に進学してはどうかと勧められた。
総武高校といえば、地元では進学校として名が通っているし、国際教養科は語学教育に力を入れているらしい。
蓮華の成績なら少し頑張れば入学できる筈だからという教師のお墨付きもある事だし、ちょっと目指してみるかと、彼女はさらに気合を入れて勉学に励んだ。
受験勉強真っ只中の中学三年の秋頃、どういう校風か気になったのと、勉強の息抜きも兼ねて、総武高校の文化祭に顔を出してみた。
総武高文化祭は大盛況で、蓮華の中学で開催されたお座なりなものとはレベルが格段に違っていた。
これが高校生か、これが総武高校か、とカルチャーショックを受けた気分だった。
特に、度々壇上や、イベントのど真ん中に登場しては喝采を浴びる三年生らしき綺麗な女子の笑顔が印象的だった。
その女子が仲間を引き連れてバンド演奏を披露した時などは、観客は最高潮の盛り上がりをみせた。
楽しそうだな、と羨ましくなった。自分もあんな風になれたらな、と憧れた。
文化祭を観に行ったことで、一層深く進学への意欲を固めた蓮華は、見事総武高校国際教養科に合格した。
しかし、予想外だったのは、総武高校にソフトボール部が存在しなかったことだ。
高校でもソフトボールは続けようかなと、薄ぼんやりと思っていたのだが、まあ、無いものは仕方がない。
リサーチが少し甘かった自身が悪いのだし、仮に、入学前にソフトボール部が無いことを把握していたとしても、自分は総武高校に進学していたと思う。
実を言うとソフトボールよりも野球の方が好きだし、野球部のマネージャーなんかにもちょっと興味があったので、蓮華は入学後すぐにマネージャーとして野球部に入部した。
そんな彼女の将来の夢は、英語科の教師になって、野球部かソフトボール部の監督になることである。
監督といえば、格好良くノックをするイメージがある。目下のところの目標は、岬のように華麗で精密なノックを習得することだ。
だからその日、田所先生が練習に来ないと聞いた蓮華は、内野のノッカーに立候補した。
「はい! は〜い! 内野のノッカーあたしがやります。やらせてください!」
元気に左手を挙げて、蓮華はキャプテンにうったえた。
田所先生が来ない日に内外野わかれて守備練習する時は、大抵岬が外野のノッカーを、キャプテンが内野のノッカーを担当する。
何かやる気満々だし、任せてみてもいいかと判断したキャプテンは、蓮華にノックバットを手渡した。
内野の守備陣がポジションについたところで、蓮華は徐ろに左手でバットを構えて右手でボールを持った。そして、左打ち側のバッターボックスに入る。
「あれ、高鳥って左打ちなのか?」キャプテンが訊く。
「はい、左打ちっていうか、左利きですよ」
鉛筆は右ですけど、と呟く蓮華にキャプテンは、ふぅんと返す。左利きの左打ちなら、ボールは左手で持った方がいいんじゃないかと思ったが、利き腕では無い方の手でボールをトスするノッカーも結構いるので、指摘はしなかった。
「じゃあ、とりあえずサードゴロ頼む」
「はーい!」
キャッチャーのポジションについたキャプテンの注文に、蓮華は元気よく返事をして、ボールを宙に投げた。
ふわっと落ちてくるボールが腰あたりの高さに来た所で、バットを振るう。
ビュン、と中々鋭い音を立ててバットは空を切った……そう、空を切った。紛れも無い空振りだった。
ホームベースの前をころころと転がるボールに、部員たちの視線が集まる。
ノッカーの代わりにバッターランナーとして走るために待機していた一年生部員は、ずるっとずっこける様に一歩踏み出して止まった。
「あー、ランナー走れ」キャプテンはボソッと呟く。
「えっ?」空振りなのに、と一年生部員は疑問の表情だった。
「振り逃げっ! ランナー走れ!」
「あっはい!」
キャプテンが叫ぶと、ようやくランナーは走り出す。キャプテンは一呼吸置いた後、軽快にステップして右手でボールを掴み、ファーストに送球した。
アウトーっ! ナイキャッチーっ! という声が内野陣から掛かる。
「す、すみません」
「ああ、ドンマイドンマイ。次はサードゴロな」
キャプテンはミットを上下に振って、気にするなと宥める。
蓮華は次こそはと気を逸らせてボールをトスするが、気持ちが入り過ぎたのか空回りしたのか、振るったバットはボールの芯を外した。
勢いの全くないゴロがサード方向に転がった。まるで、セーフティバントのような打球だった。
スイング自体は鋭かったので意表を突かれた形になったが、サードは直ぐにチャージして素手でボールを拾い、ジャンピングスローでファーストに送球する。しかし、ランナーの足の方が勝り、結局セーフになった。
定位置に戻ったサードは周りの部員たちから、「一歩目遅いんじゃないの〜!」などと野次られている。
蓮華を野次る声はひとつもなかった。一年生だし、マネージャーだし、という事でみんなが気を遣っているのは明らかだった。
もしも田所先生が同じような失敗をしたら、みんなは冗談混じりに野次っただろう。
優しさが、なんだか悲しかった。
「すみません、キャプテン」
「ああ、うん。やっぱり俺がノッカーやるわ」
蓮華は意気消沈しながらキャプテンにバットを渡した。そして、ランナーの順番を待っている一年生部員たちの最後尾に並ぶ。
マネージャーである彼女はランナーをする必要は無いのだが、意気込んでノッカーに立候補したというのに醜態を晒してしまった今日は、思いっきり走りたかったのだ。
練習が終わった後、マネージャー用の女子更衣室から出た蓮華は、はぁ、と溜息をついた。
リトルとソフト、合わせて六年程の経験があるのでノックくらいできると思っていたが、振り返ってみれば、蓮華の打順はいつも八番か九番だった。
そう、バッティングは下手だったのだ。しかし、それも仕方ない。彼女のポジションはピッチャーだったのだから。
ピッチャーは野手がティーバッティングやトスバッティングをしている時間にも、走り込みや投げ込みに時間を取られる。
バッティング練習をする機会がどうしたって野手より少なくなる。世の中にはエースで四番なんて輩もいるが、そういう人はチームでも頭抜けた才能を持っているものだ。
高鳥蓮華に、バッティングの才能は無かった。
こんな事では、野球部かソフトボール部の監督になるという夢は叶えられそうにない。ノックもできない監督なんて、生徒がついてこないだろう。
肩を落としながら、更衣室の鍵を締める。鍵の管理は持ち回り制で、今日、金曜日は蓮華の当番だった。
鍵を返却するために、重い足取りで職員室に向かう。すると、こちらも鍵を返却しにきたのか、クラスメイトの雪ノ下雪乃とその友達らしき女子が職員室から退室してきた。
「あ、雪ノ下さん。部活終わり?」
「ええ、そちらも部活終わりみたいね」
教室での蓮華の席は雪乃の一つ前なので、二人は雑談を交わす程度の仲にはなっている。
「お友達?」という結衣の問い掛けに、雪乃は「クラスメイトの高鳥さんよ」と答えた。
「どうも初めまして、奉仕部部長の由比ヶ浜結衣です」
「はぁ、これはどうもご丁寧に。野球部マネージャーの高鳥蓮華です」
人懐っこい笑顔を浮かべて、結衣は蓮華と握手する。結衣には、大方の人間と初対面から親しくできる社交性があった。
「雪ノ下さんも奉仕部なの?」
そういえば、自分が野球とソフトボールをやっていたことや、今は野球部のマネージャーだということは話したけど、雪ノ下さんの部活の話はしたことなかったなと、蓮華は思い出した。
「そうよ」
「奉仕部って、なにする部活?」
蓮華の質問に、雪乃は職員室前の部活動案内掲示板を指差した。
指し示した先には、奉仕部のポスターが貼ってある。
ポスターの上部に書かれた、『あなたの悩み、奉仕部に相談してみませんか? 我々奉仕部は、問題解決へのサポートを致します』という文言に、蓮華は眉を上げる。
「あの、悩み相談って、どんな悩みでもいいの?」
「内容によっては断らせてもらうかもしれないけれど、相談するのは自由よ」
雪乃の柔らかい微笑みは、蓮華の目には頼もしく映った。
更衣室の鍵を返した後、家へと帰る道すがら、奉仕部の二人に今日あった事を説明する。
「要するに、ノックの練習に付き合えば良いのかしら?」
雪乃がまとめるように言うと、蓮華は首を何度も縦に振った。
「いいわよ、丁度明日は土曜日だから、何処かの公園のグラウンドででも練習しましょうか」
「え、いいの? 中間テストが終わってからでもいいんだけど」
「構わないわ。勿論、高鳥さんが良ければだけれど」
「あたしは大丈夫。ありがとう、雪ノ下さん」
雪乃と蓮華は、テスト前だからといって焦って勉強しなければならない学力ではなかった。普段から家庭学習は欠かさない。
「あたしも大丈夫だよ」結衣も頷いて言った。
結衣は勿論大丈夫な学力ではなかったが、彼女は元々、土日に勉強する気などなかった。教科書類は、教室の机とロッカーに突っ込んだままである。
多分、中間テストで痛い目に合うのだろう。
「ヒッキーにも、あたしから連絡しとくね」
「ヒッキー?」
「A組の比企谷くんのこと。彼も奉仕部の部員なのよ」
雪乃の言葉に、蓮華は「ああ、天の道の人」と呟いた。変人天の道くんは、J組でも噂になっている。
テスト前なのにノックの練習に付き合ってくれるなんて、奉仕部はなんて優しい人たちなんだろう、蓮華には二人が女神様にみえた。