天の道を往き総てを司る比企谷八幡   作:通雨

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一年J組編6話

 夜の九時ごろ、自分の部屋でくつろいでいた加賀美鑑の携帯電話に、比企谷小町からの着信が入った。いや、正確には、『比企谷小町の携帯』からの着信が入った、というべきだろうか。

 鑑には電話の向こうの人物が誰であるか予想がついていた。着信ボタンを押して、「もしもし、比企谷さん?」と言ってみる。

 

「感心だな。そうだ、それでいい。小町のことは比企谷さんと呼べ」

 

 予想通りの声が聴こえた。鑑は苦笑を零し、八幡に問う。

 

「なんだよ、何か用か?」

「お前には、岬の件で貸しが一つあったな」

 

 確かに、岬に関するごたごたでは世話になったが、貸し一つ、という言い方は気になる。

 無理難題を吹っかける気じゃないだろうな、と警戒した。

 

「明日、高鳥蓮華のノック練習に付き合うことになった。お前も来い」

 

 ーーというわけで翌日土曜日の昼下がり、鑑は自転車に乗って比企谷の家に訪れた。

 グラブを多めに持ってこいだの、ノックのコツを復習しておけだの、細かい注文をつけられたが、特に無理難題というわけでもない。

 むしろ、鑑にとっては渡りに船だった。元々、テスト休み中もちょっとくらい身体を動かしておこうと思っていたのだ。

 休みの日にわざわざノックを受けられるなら、幸いというところだ。ただ、昨日の蓮華の技術を思い出すと、大丈夫かな、と少し不安になるが。

 

「うぃーっす、来たぞ比企谷」

「こんにちはっ! 加賀美さん」

 

 時間通りに現れた鑑を、比企谷兄妹が出迎えてくれる。既に準備万端の様子で、家の前に並んで立っていた。

 八幡は作務衣を、小町はお洒落なジャージを着ている。傍らには自転車が一台だけあった。多分二人乗りするつもりなのだろう。

 

「小町ちゃんも一緒に行くの?」

「はい、小町も偶には運動しないと」

「加賀美、お前、小町のことは比企谷さんと呼べと、何度言ったらわかるんだ」

 

 例によって相変わらず、八幡は小町の呼び方にうるさい。

 

「こら! お兄ちゃん、お友達にそんなこと言ったらダメだよ。大体、小町と加賀美さんの仲なんだから、名前で呼ぶくらい良いじゃない」

 

 小町に注意されて、八幡は不服そうにしながらも押し黙る。本当に、妹には弱い奴だ。

 鑑はククッと短く笑いながら、じゃあ行こうか、とペダルを漕いだ。

 

 

 

 

 蓮華に相談を受けた金曜の夜、雪乃は自宅に帰ると、パソコンの前に座り調べ物を始めた。

 検索エンジンにワードを入力する。内容は、『ノック』『野球』だ。しかし、出てきたサイトはノックの受け手側、守備の技術に関する情報ばかりで、ノッカーの技術に触れているものはなかった。

 ならばと、『コーチ』というワードを追加してみる。丁度よく、少年野球のコーチがノックについて解説しているサイトを見つけた。

 そのサイトの解説によれば、右利きの場合は右手でボールをトスした方が安定しやすいらしい。

 雪乃は胸の前で両腕を交差させ、右手でボールを投げる手振りをしてみる。少し窮屈に感じるが、利き手の方がトスしやすいのは当たり前なのでこれで良いのだろう。

 そして、トスしたあとはその流れのまま右手もバットをグリップ。両手でしっかり握ったら素早くトップを作ってスイングを開始する。

 トップを作る、というのは少々意味がわからなかったが、他のサイトも回ってみたところ、つまりスイングの開始点の形をとる、ということらしい。

 雪乃は立ち上がって、部屋の隅に置いてあったテニスラケットとテニスボールをケースから取り出した。長い間放置していたせいでガットが多少緩んでいるが、バットの代わりに持ってみるだけなので問題ない。

 ラケットを左手で持ち、右肩の前で構える。そして、ボールを右手でトスした。

 トスした後は、さっと右手をグリップに。視線をボールに集中させて、脚、腰、肩、腕の順で連動させながら少しだけ力を込める。

 部屋の中でボールを打つ気はない。イメージトレーニングをしてみただけだ。ボールは緩やかに跳ねて足元を転がった。

 成る程、形は違うが、野球のノックというものはテニスのサーブと感覚が近い。これなら、自分にも指導できる。雪乃はそう思った。

 

 公園の最寄り駅で待ち合わせた雪乃と結衣は、二人仲良くグラウンドへと向かった。二人とも、動きやすいジャージを着ている。

 休日にお出かけというのが楽しいのか、結衣は上機嫌でにこにこと微笑んでいる。

 約束した集合時間まであと十五分ほどというところでグラウンドに着いた。

 かなり広い長方形のグラウンドは、長い辺は二百メートル程、短い辺でも百メートル近くはありそうだった。野球の試合でも同時に二試合は出来る。

 実際、対角に二つ、野球用の高いバックネットがあった。そのうちの一つは、小学生くらいの野球チームが使用している。

 蓮華は雪乃たちが来る前から既に到着していたようで、ウォーミングアップなのかグラウンドの空いている側でひとり走っていた。

 彼我の距離は五十メートル程。結衣はよく響く大きな声で、「蓮華ちゃ〜ん!」と叫んだ。

 それに気付いた蓮華も「あ、結衣ちゃ〜ん!」と叫び返して手を振った。

 雪乃は結衣の隣で驚愕に目を見開く。昨日の今日で、既にお互い名前呼びしている! 仲良くなるの早すぎないかしらと、珍しい生き物を見る目を結衣に向けた。

 

「由比ヶ浜さん、高鳥さんのこと、もう名前で呼んでいるのね」

「え、うん。昨日の夜メールしてるときにね。同級生だし名前呼びでいいよねって」

 

 ならば、自分も名前で呼んだ方が良いのだろうかと、雪乃は少しだけ思った。

 結衣さん、蓮華さん……いや、やめておこう。胸中で呟くだけでもちょっと気恥ずかしい。

 雪乃が悟られない程度に頰を朱く染めていると、蓮華はランニングのスピードを上げて二人の方へと走り寄ってきた。

 息を整えるように長い吐息をついた後、「来てくれてありがとう」と雪乃と結衣に笑顔を向けて来る。

 

「約束したんだから来るのは当たり前だよ」

 

 結衣は言いながら、蓮華と視線を交わした。二人とも、えへへっ、と笑い合っている。

 この二人、波長が合うのかもしれない。

 

「ところで結衣ちゃん、グラブ一個しか持って来てないんだけど本当にそれでよかったの?」

 

 しかも左利き用だし、と蓮華は少し心配そうに言った。

 グラウンドの隅にある木製のベンチにはバットとグラブ、そして白いビニール袋に入れられた十球ほどのボールが置いてあった。

 バットとグラブは蓮華がリトルリーグの時に使っていた少年硬式用。ボールは百円均一ショップで購入してきたサイン用である。

 サイン用なので試合などでは使えないが、本物の硬式球をいくつも揃えようとしたら高校生の小遣いでは厳しい。ノック練習程度ならサイン用で充分だろう。

 

「だいじょぶだいじょぶ。なんかヒッキーに訊いたら当てがあるって言ってたから。左利き用のグローブはあたしが使わせてもらうね」

 

 結衣はベンチにとてとてっと駆け寄ってグラブを拾い上げた。長年使いこんだ道具独特の哀愁の様な物を感じて、すぐに着ける気にはなれなかった。これには多分、蓮華の想いがこもっている。

 

「着けていい? 蓮華ちゃん」

「うん、どうぞどうぞ」

 

 蓮華に確認してから、そっと右手に装着した。ソフトボールの授業で使った安物で管理も適当なグラブとは違って、とても使いやすそうだった。

 結衣にはグラブの綺麗な形状など分からないが、それでも、このグラブは最適な形に癖付いていると思った。

 

「結衣ちゃん右利きなんだよね? 左用でいいの?」

「うん。ソフトの授業の時から左用使ってみたかったんだぁ。利き手じゃない方の手でボール捕るの怖かったし」

 

 成る程、そういうものかと蓮華は納得した。自分などは何かをキャッチするとき、咄嗟に利き手ではない手を使ってしまうが、野球やソフトの経験が無い人は利き手にグラブを着けた方が捕りやすいのかもしれない。

 

「でもそれじゃ、ボール投げらんないね」蓮華は欠点を指摘する。

「あたし、キャッチャーやるよ」

「キャッチャー?」

「ボール受けて、ノックする人に渡す人ってキャッチャーって言うんじゃないの?」

 

 ボールバックの送球受ける人ってなんていうんだろう、蓮華は今更ながら疑問に思った。まあ、キャッチャーが担当する事もあるからキャッチャーでいいのか。

 

「わかった。じゃあ結衣ちゃんはキャッチャーお願いね」

「うん!」

 

 結衣は元気いっぱいに頷いた。

 

「私も、ちょっとバットを借りていいかしら」

「いいよ。振ってみる?」

「ええ」

 

 雪乃は少年硬式用のバットを手に取ってみる。重さは七百グラムあまり。テニスラケットの二倍以上の重量だが、そこまで重くは感じなかった。重心がヘッドよりもミドル寄りにあるからだろう。

 雪乃は昨日インターネットで仕入れた知識と、今までのスポーツ経験で得た身体の操作技術を駆使しながら、数回バットを振った。

 テニス経験者がバットを振るとスイング軌道に妙なクセがあったりするものだが、彼女のフォームは綺麗なレベルスイングだった。まるで素人とは思えない。

 

「うわぁ、上手いね、雪ノ下さん。野球かソフトやってたの?」

「いいえ、体育の授業くらいでしかやった事ないわ」

「へぇ〜、それでそんだけ振れるなら才能あるよ、絶対」

 

 感心しながら驚く蓮華だったが、結衣はそんな彼女を見て少しだけ懸念を覚えた。

 その後、雪乃はボールも借りて、防球フェンスに向かってノックを打ってみる。

 要点は、ボールのトスを安定させること、スムーズなハンドリングで素早くトップを作ること、ボールが落ちてくるリズムを掴むこと、この三つだ。

 やはり、野球というよりも、テニスのサーブと感覚が同じだ。数球の試し打ちでコツを覚え、ビニール袋の中にあったボールを全て打ち切る頃にはだいたい狙った場所に打球が飛ぶようになった。

 どんどん上達していく雪乃。しかし、彼女が上手くなればなるほど結衣は心配そうな目を向ける。

 

「すごい! ホントに、めちゃくちゃ上手いよ雪ノ下さん」

 

 蓮華は、パチパチと拍手しながらはしゃいだ。屈託無く手放しで褒める彼女の様子に、どうやら大丈夫そうかな、と結衣は僅かに安堵する。

 地面に散らばったボールを三人でビニール袋に集めると、雪乃は一球だけ取ってバットと共に蓮華に差し出す。

 

「さあ、それじゃあボールとバットを持って構えてみて、高鳥さん」

「あ、うん」

 

 蓮華は素直に受け取って左手にバットを、右手にボールを持って構えた。

 

「ボールとバットを持つ手、逆にした方が良いんじゃないかしら」

「えっ、逆?」

「高鳥さんは左利きなのよね? だったら、利き手の左手でボールをトスした方が、投げる球が安定すると思うわ」

 

 言われてみれば、蓮華が知っているノックが上手い人は、みんな利き手でボールをトスしている。蓮華は早速、持ち手を替えてみた。

 

「ミートポイントは、身体の少々前あたり。私にトスしてみて」雪乃は蓮華の前で片膝をついた。「バットは降らないでよ。トスするだけ」

 

 蓮華は、わかってるよ、と頷く。この距離でバットを振ったら、雪乃に当たってしまう。

 蓮華は何度も雪乃に向けてふんわりとトスする。ボールの放物線は一定で、ブレがない。

 

「安定してるわね。では、今度はボールをトスした後に素早くトップを作ってちょうだい」

 

 雪乃の指示を聴いて、蓮華は重心を左足寄りに移した。

 トップを作るという言葉はリトルの時もソフトの時も、何度も監督やコーチから聴いた。

 野球の場合は、最初はフラットに構えてテイクバックの後にトップを作り、ソフトボールの場合は、最初から重心を後ろ寄りにして予めトップを作った体勢で構えておく。

 そういう差異があったせいで、ソフトに転向してすぐはテイクバックのクセが抜けなくて苦労した。

 蓮華はあまり器用ではない。何度も地道な練習を繰り返して、少しずつ正しいフォームを覚えていくタイプなのだ。

 ノックにおいては、ソフトボールのバッティングフォームのような、ノーステップ打法が良いかもしれない。

 

 蓮華が、ボールをトスしてから素早くトップを作る練習を繰り返していると、小町と鑑を引き連れた八幡がグラウンドに現れた。

 

「ヒッキー、小町ちゃんと加賀美くんも連れてきたの?」

「結衣さん、やっはろーっ」

「あ、うん。小町ちゃんやっはろー」

 

 みんな、適当に挨拶を交わし合う。特に、初対面の小町と蓮華は自己紹介も忘れない。

 八幡も蓮華とは初対面だが、彼は特に名乗ったりはしなかった。蓮華も、彼のことは一方的に噂で聞いて知っている。

 

「加賀美は、グラブ係及び指導係として連れてきた」

「指導係はいいとして、グラブ係ってなんだよ」

 

 そう言いつつ、鑑はスポーツバッグからグラブを取り出した。リトルで使っていた少年硬式用、現在使っているもの、先輩に借りたものの計三つだ。

 

「ちょっと待って、せっかく来てもらった加賀美くんには悪いけれど、指導は私がするわ」

 

 雪乃は、蓮華への指導は自分がするつもりだった。そもそも、今回の相談は自分が解決したいと思っている。

 俄かに勢い込む彼女に八幡は、お前に出来るのか、と視線だけで問い掛けた。

 雪乃は無言で、瞬きだけで、勿論よ、と応える。

 

 八幡は別に、雪乃の指導力やノックの技術を疑っているわけではなかった。

 蓮華と雪乃、どちらのノックが上手いのか、それは八幡にはわからない。ともすれば、雪乃の方が上手いのかもしれない。

 問題なのは、雪乃は野球に関して素人だということだ。たとえ技術的に優る相手だとしても、素人にあれこれと指導されるなど経験者には我慢ならないだろう。

 

「素人のお前に、教えられるとは思えないがな」

「あら、いつ私が野球をしたことが無いなんて言ったかしら?」

「なんだ、野球経験があるのか?」

「ないわ」

 

 当然、雪乃は野球をしたことはなかった。ソフトボールは体育の授業でやったが。

 

「う〜ん、加賀美くんがバッティング上手いのは知ってるけど、あたしは雪ノ下さんに教えてもらいたいかな」

 

 結論を出すように蓮華が声をあげた。八幡は僅かに驚いて、彼女の方を見遣る。

 

「奉仕部に相談したのはあたしだから、やっぱり奉仕部の雪ノ下さんに教わるのがスジかなって、ね。加賀美くんは、今度部活の時間にでも教えてよ」

 

 鑑は、頷いて応えた。

 相談者である蓮華自身がそう言うなら、八幡に否はない。

 話がまとまったところで、結衣は手を挙げて言った。

 

「はい、じゃあウォーミングアップしとこうよ。ケガとか怖いし」

「高鳥さんは、もうアップは済ませたんじゃないかしら?」雪乃が訊いた。

「みんなが来る前にランニングはしてたけど、もう一回走っとこうかな」

 

 整列して走ろうよ、という結衣の言葉に、いや、部活でも無いのに整列して走るのはちょっと、と皆が断る。

 結局、各々の走りやすいスピードで、それぞれ適当に走りだした。

 数分後、八幡と鑑は何故か中距離走のように大きなストライドで、競いながら先頭を走っていた。

 

「言ったろ、高鳥は、素直な奴だから、俺が来なくても、大丈夫、だって」結構なスピードで走っているので、鑑は少し息を切らせながら言った。

「ああ、そうらしいな」

「でも、まあ、テスト休み中に、ノック、受けられるのは、ラッキー、だけど!」

「加賀美、うるさい。黙って走れ」

 

 ランニングの後、ストレッチをしてから、ノック練習が始まった。

 


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