下校途中、雪乃は結衣たちにどういう料理をどんな風に失敗したのか質問していた。
「成る程、大体わかったわ。貴方達が失敗したのは時間管理が甘かったからよ」
「時間管理? キッチンタイマーとか使うの?」
結衣の言葉に首を横に振る雪乃。
「別に、タイマーまで用意する必要は無いけれど、そうね、時計を見ながら調理すれば大きな失敗は無くなるわよ」
「そういや、ゆで卵ミスったのは茹でる時間測ってなかったからだねぇ。あと、野菜の油通しは時間が長過ぎたし、タマネギの辛味抜きは短過ぎたね」
姫菜が雪乃の意見に納得するように深く頷く。
「熟練の料理人は、目や耳、鼻を使って絶妙なタイミングを判断するものだけれど、由比ヶ浜さんにそれは望めないでしょうね」雪乃ははっきり断言する。
「作る料理は多少のタイミングのズレが気にならないものにしましょう」
顔の横に人差し指を立てて、笑いかけるように言う雪乃に、結衣は「うん?」と疑問の声を上げた。
「初心者がいきなり時間を測りながら調理するのは難しいかもしれないわ。だから、時間管理が簡単なものを選択するのよ」
「時間管理が簡単っていうと、何があるのかな?」
料理の経験に乏しい結衣は思いつかないようだ。
「最後に煮詰める様な料理は失敗しにくいといわれているわね。例えばカレーとか」
雪乃が言うと、結衣が掌をパチンと合わせて合点する。
「そういえば、小学生の頃、野外学習で作ったカレーは失敗しなかった!」
もちろん、そのカレーは結衣が一人で作ったわけでは無いが。
「じゃあ、カレーつくんの?」と優美子が雪乃に訊くと、雪乃は首を横に振りながら「いいえ」と答える。
「どうせなら、比企谷くんが好きな食材を使いましょう。由比ヶ浜さん、あの入学式の朝、あの男が持っていたものを覚えているかしら?」
「ヒッキーがもってたもの? えっと、たしか豆腐がどうとか言ってたような……」
「そう、豆腐。おそらく比企谷くんは豆腐好き、少なくとも嫌いでは無いはずだわ。そうでなければ忙しい朝に、わざわざ老舗の豆腐屋で豆腐を買うわけ無いもの」
「老舗の豆腐屋? なんで豆腐もってたからって老舗の豆腐屋で買ったってわかんの?」
疑問を覚えた優美子が問う。
「あの時、比企谷くんはこれを持っていたわ。お店で貰ったんでしょうね」
雪乃はそう言いながら、カバンからタオルを取り出す。それはあの朝、八幡から渡された『大石豆腐店』と印字された粗品のタオルだった。
いつか八幡に突っ返してやろう、と常に持っているらしい。
「比企谷くんは、この大石豆腐店で買った豆腐を持っていた。だから、食材はこのお店の豆腐を使う。そして、作る料理は……」
「作る料理は……?」固唾を呑む結衣。
「麻婆豆腐よ!」
高らかに言った雪乃の眼には、八幡への御門違いな闘志が燃えていた。
この間のテストでは遅れをとったが、料理では負けない。由比ヶ浜さんに美味しい麻婆豆腐を作らせて吠え面かかせてあげる。
拳を握りしめてそう決意する雪乃は足早に大石豆腐店へと向かった。
豆腐を購入したあと、スーパーで他の食材と調味料を揃えた四人は、雪乃の家に到着した。
玄関のドアを開け、ただいまの一言も言わずに靴を脱ぐ雪乃。
結衣たち三人は「お邪魔します」と言って上がり込んだが、雪乃以外の人の気配は無かった。
疑問を持った結衣が「お家の人は?」と訊くと、雪乃は冷めた表情で「いないわ。私、一人暮らしだから」と答えた。
「マンションに一人暮らし? リムジンに乗ってたって話で薄々わかってたけど、雪ノ下さんてお金持ち?」
姫菜が部屋の中をキョロキョロと見回しながら、雪乃に訊く。
「……親が少しね」
「雪ノ下さん! 早速だけど麻婆豆腐の作り方教えて!」
雪乃が言い淀んでいるのに気付いた結衣が話を変えるように明るい声をだした。
「そうね」頷く雪乃は気持ちを切り替えると、優美子と姫菜の方を向く。
「キッチンはそんなに広くないから、悪いんだけど三浦さんと海老名さんは味見役で良いかしら?」
「依頼したのは結衣だから、あーしらはそれで良いよ」
そう言いながら優美子はカバンをリビングの隅に置いた。姫菜と結衣もそれに倣って、その隣に置く。
「雪ノ下さん、買ってきたものはどこに置いたら良い?」
ボウルを持っていなかったのでパック詰めしてもらった豆腐と、スーパーの袋を下げながら結衣が訊く。購入代金はもちろん結衣が全額出した。
「キッチンに持って行ってちょうだい」
結衣に答えた後、雪乃は一旦寝室に引っ込んだ。
その後、ラフなネイビーブルーのロンティーとデニムパンツに着替えて出て来た雪乃は、エプロンを結衣に渡す。
「どうぞ、由比ヶ浜さん。あなたは制服だから、ちゃんとエプロンをしておかないとね」
「ありがとう」結衣は受け取ってから「雪ノ下さんの分は?」と訊いた。
「私は部屋着に着替えたから、多少汚れても大丈夫よ」
キッチンに入った雪乃はスーパーの袋から豆板醤や甜麺醤などを取り出していく。途中で何故か桃缶も発見したが、お金を出したのは結衣なので気にしないでおく。
優美子と姫菜は邪魔にならないように、リビングのソファに座って見守っていた。
「まずは手を洗ってから、材料の用意よ」
結衣は言われた通りに手を水で流した。特にネイルなどはしていないので念入りに洗う必要はない。
次いで雪乃も手を洗ったあと、食器棚から小皿を数枚取り出してカウンター台に並べていく。
ステンレス製ダブルシンクの、小さい方のシンクにまな板を乗せると、包丁が入っている下の収納を開けて結衣に目配せした。
「さぁ、包丁を取って。まずは豆腐を切りましょう」
「う、うん」緊張しているのか、結衣の顔は少し強張っていた。
雪乃はパックから豆腐を出してまな板の上にのせる。
「豆腐を賽の目切りしてちょうだい」
「さいのめって、四角く切れば良んだよね?」
「そうよ、大きさはある程度適当で良いから、立方体の形に」
結衣はまな板の上に置かれた豆腐をゆっくり切り始めた。
そういえば、ママは掌の上に豆腐をのせて切ってたなあ、と余計な事を思い出したが、挑戦するのはやめておいた。
失敗から人は学ぶものである。結衣も調理実習で学んだことはあるのだ。
「次は、ニンニクと生姜と長ネギをみじん切り」
「み、みじん切りは苦手で……」
「大丈夫よ、何も手早くする必要は無いの。少しずつ確実にやれば良いわ」
その後も、速度は遅く手際は悪いものの順調に調理を進めていく。
切った食材と、量を測った調味料を皿に取り分けたところで、フライパンに火を入れて油を引いた。
「まずはニンニクと生姜を炒めて。火力は弱火ね」
雪乃の言う通りにニンニクと生姜をフライパンに投入する結衣。焦げないようにフライ返しで混ぜ返していく。その表情は真剣だった。
「次は豚挽き肉よ、火を中火にして」
「中火で良いの? 火ぃちゃんと通る?」
「麻婆豆腐は最後に煮詰めるから、ここでは火が通りきって無くても良いの。むしろ焦がしてしまわないように注意して」
肉の赤みがなくなったところで、甜麺醤を混ぜて一旦皿に取り上げる。
フライパンに油を引きなおし、豆板醤を炒めてから、鶏がらスープを入れた。
「スープが煮立ってきたら、さっき炒めた挽き肉を再投入」
「時間測らなくて大丈夫?」
「ここは測らなくて良いわ、挽き肉には既に一度火を通してあるから」
適当にグツグツと煮立ったところで、雪乃は調理具棚からフライパンの蓋を取り出す。
「次は豆腐を入れるわよ。豆腐を入れて一煮立ちしたらフライパンに蓋をするの」
結衣が豆腐を入れると、雪乃はフライパンに蓋を被せる。
「ここは時間を測ってもらうわ。時計を見て、由比ヶ浜さん。1分たったら蓋をあけるわよ」雪乃がキッチン横の壁掛け時計を指差して言う。
「わかった! 1分だね」
時計の秒針が一周するのを眺めたあと、結衣は蓋をあけた。
「ここで長ネギと四川花椒粉を入れて、さらに一煮立ちさせるの」
「あたしホワジャオフンなんて初めて聞いたよ、スーパーってなんでも売ってるね。さすがSUPERだし」
麻婆豆腐のスパイシーな香りが鼻孔をくすぐる。雪乃の指示を聴きながらとはいえ、結衣が作ったとは思えない完成度だった。
「最後に、片栗粉でとろみをつけて完成よ。片栗粉を混ぜるときは豆腐を潰さないように気をつけて」
フライ返しで慎重に混ぜ返していく。豆腐が多少崩れたが概ね問題なく麻婆豆腐が完成した。
「じゃあ、私はテーブルを拭いておくから、由比ヶ浜さんは麻婆豆腐をそこの小鉢に盛ってちょうだい。四人分ね」
今回つくった量は一人前だが、それを小鉢に四等分したあと、お盆に載せてリビングに持っていくと、既にテーブルに着いて待っていた優美子と姫菜の歓声が上がった。
雪乃が拭き終えたテーブルにお盆を置き、それぞれの前に麻婆豆腐を配膳する。
「やるじゃん、結衣。超美味しそう!」
優美子の賞賛の言葉に、結衣は照れ臭そうにはにかんだ。
「さあ、早速食べてみましょうか。レンゲは無いから、ちょっと無粋だけどスプーンで」
テーブルを拭いた布巾をキッチンで軽く洗ったあと、食器棚からスプーンを四つ取り出して来た雪乃は、そう言って三人にスプーンを配った。
いただきます、という声を上げて四人共に麻婆豆腐を食べ始める。
花椒粉のピリピリと痺れるような刺激と、豆板醤の強い辛味が鮮烈な印象を与える。
さらに、豆腐のほのかな甘味と蕩けるような食感が存在を主張して、刺激的で辛いだけではない、複雑な深い味わいを出していた。
「すごく美味しいよ! これ、本当に結衣が作ったの?」
姫菜が訊くと、結衣が自身も驚きの含んだ声で答えた。
「雪ノ下さんのおかげだよ! こんなに美味しいのが出来るとは思わなかった……」
姫菜と結衣が尊敬を滲ませた目で雪乃を見る。しかし、雪乃は若干浮かない顔で小鉢を覗いていた。
「雪ノ下さん、美味しくない、かな? あたしなにか失敗しちゃった?」
結衣が心配そうな声音で訊いた。
「いいえ、上手くできていると思うわ。多分、私が自分で作っても同じような出来になるでしょうね」
言葉とは裏腹に雪乃の表情は晴れない。
「話を聞く限り、比企谷くんの料理の腕はかなりのもの……この麻婆豆腐では比企谷くんに勝てないかもしれない」
最初は興味深そうな様子で雪乃の言う事を聞いていた優美子だったが、勝てないだのと言い出したあたりでがくりと体を傾けた。
「いやいや、勝ち負けの問題じゃないっしょ。料理漫画じゃないんだから」
「あら、お礼するって言うんだから、どうせなら比企谷くんが作る料理より美味しいものを作りたいじゃない」
特に他意は無いという振りをしているが、雪乃の内心には確かな八幡への対抗意識があった。
負けず嫌いは彼女の性分なのだ。常に勝ちたいのだ。勉学も料理も負けたくないのだ。
「でもこれ充分美味しいよ。結衣が作ったとは信じらんないくらい」
姫菜が言うと、結衣は一瞬唇を尖らせたが反論はしなかった。というより、反論できなかった。
実際、結衣が調理実習で作った料理と比べれば、この麻婆豆腐は天上の料理といえるレベルだろう。
「駄目ね。この麻婆豆腐は素材の味を活かす作り方をしたのだけれど、豆腐自体の完成度が高過ぎて、麻婆から独立してしまっているわ」
雪乃はそう言うが、料理素人の優美子には余り意味が理解できなかった。
優美子としては、豆腐の美味しさも含めて、完成度の高い麻婆豆腐だと思えるのだが、豆腐の完成度が高過ぎるとはどういう事だろうか。
「要するに豆腐が目立ち過ぎってこと?」
姫菜が率直に質問すると、雪乃は口元に手を当てながら数瞬、思考する。
豆腐が目立ち過ぎ、そういう事なのだろうか。いや、この豆腐は名店の一品といえるレベルだが、あくまで豆腐である。
悪目立ちというほどの苛烈な印象を与えるものではない。
「麻婆は美味しい、豆腐も美味しい。けれど、麻婆豆腐として完成されていない」
口惜しそうにそう洩らす雪乃。結衣たち三人もその言葉を聞いて一緒に悩みだす。
「麻婆と合わせたのがダメだってんなら、いっそ料理を変えてみたら?」
「例えば何かしら?」
姫菜の提案に、雪乃が問い返す。
「えーっと、煮詰める豆腐料理でしょ。例えば……湯豆腐?」
「うーん……湯豆腐も立派な料理だとは思うけれど、お礼に湯豆腐というのは、微妙なところね」
「ダメかぁ」姫菜は嘆息して俯いた。
「じゃあさぁ、いっそ豆腐を普通のやつにしてみたら? スーパーで売ってるようなやつ」
優美子が名案を思いついた、というような表情で言う。
「料理のグレードを上げる為に豆腐のグレードを下げるのは本末転倒だと思うわ」
「ダメかぁ」優美子も嘆息して俯いた。
四人とも眉根を寄せて呻くように悩む。麻婆と豆腐、豆腐と麻婆、二つの要素を上手く馴染ませるにはどうすればいいのか。
と、そこで結衣が何か思いついたように「あっ!」と声をあげた。
由比ヶ浜結衣、料理は素人だし思考も右往左往しがちだが、意外と発想力はあるのだ。
「あのね」と言ってテーブルの中央に顔を寄せる結衣。
誰か部外者が聞いているというわけでもないが、内緒話でもするように他の三人も身を乗り出してテーブルの中央に耳を寄せた。
そして、結衣は思いついた事を小声で提案した。その表情は少し自信なさげである。
「えぇっ! それはちょっと微妙じゃない?」姫菜が驚いて体を引いた。
「あーしもソレはどうかと思うなぁ。カレーに林檎とかは聞いたことあるけどさぁ」優美子もあまり肯定的ではない。
「ダメかぁ」結衣が嘆息して俯く。
しかし、雪乃はただ一人、目を閉じて何かを考えるように佇んでいた。
「有りかもしれないわ」
「雪ノ下さん? マジ?」
雪乃の意外な一言に、姫菜が『ウソでしょ?』というように問い掛けた。
「ええ、由比ヶ浜さんのアイディアは、この麻婆豆腐の問題を解決するかもしれない」
「本当? 雪ノ下さん」提案した結衣自身も驚いている。
自分の突飛な思いつきが雪乃に認められるとは、自分でも信じられないようだ。
「とりあえず、もう一度作ってみましょう」雪乃は席を立ち、キッチンに向かった。
そして、結衣の方へ振り返り「材料は、ちゃんと買っておいたみたいだしね」と言って微笑む。
言われた結衣も「えへへ」と照れくさそうに笑みを返した。