結衣が入部届けを提出してから数日後、西陽眩しい放課後の教室で、机に右手で頬杖をついた八幡は、対面に座る静の顔を見遣った。
八幡の前の席の椅子を後ろに向け変えて座り、腕を組んで難しい表情をしている静は、八幡の眼を見据えて言う。
「君には、謙虚さが足りない」
「俺ほど謙虚な人間も、そうはいないと思うが」
八幡の返答に、静は驚いて瞠目する。
「冗談だろう? 例えば君、私のことを何と呼んでいる?」
「平塚」
「ほら! 担任に対して呼び捨て! 普通はな、教師を呼び捨てにする時は、周りに本人がいないかどうか確認するものなんだよ!」
本人の前でなければ呼び捨てにしていいのかという問題もあるが、少なくとも名指しで呼び捨てというのは非常識だろう。
「君の様な、傲岸不遜な生徒は初めて見た」
呆れ返った、という様子で左手で額を押さえる静。正確に言えば、彼女の事を静ちゃん呼びしてくる傲岸不遜な女子生徒もいたので、八幡が初めてというわけでもないが。
「君には、ある部活動への参加を命じる。そこで、性根を入れ替えるがいい」
静と八幡の視線がぶつかる。眼を逸らしたら負けだ、とばかりに静は瞳をぎらつかせた。
数秒そうしていると、不意に八幡は目を閉じた。静は、『勝った!』と内心で快哉を叫ぶ。
「先日、由比ヶ浜に呼び出されて家庭科室に行った」
目を閉じたまま、突飛なことを言い始めた八幡を、静は怪訝そうに見る。
「以前、俺は由比ヶ浜の家族を救けたことがあった。俺としては大した事をしたとは思っていなかったんだが、由比ヶ浜は恩義を感じていたらしい。御礼だと言って麻婆豆腐を作ってくれた」
由比ヶ浜、料理、この二つのキーワード、静は最近聞いたことがあるのを思い出した。
「由比ヶ浜は料理が苦手らしくてな。麻婆豆腐の作り方は奉仕部の雪ノ下に習ったそうだ。奉仕部というのは、人助けをする部活らしいな」
そう、料理について悩んでいる結衣に、奉仕部を頼るように勧めたのは自分だ、と静は頷いた。
「しかし、この学校に奉仕部などという部は存在しない」断言する八幡。
静は目を大きく見開き、眉を上げた。
「な、何故それを……」
「とある部が設立されたのかどうか気になって、この学校にどんな部があるのか調べたことがある。部活動案内を確認したが、その中に奉仕部なる部は無かった。そして、校則では部の存続自体は部員数一人で良いとされているが、設立には三人以上が必要だ。雪ノ下一人では奉仕部を設立することはできない」
ここまで、話を脳裏で整理するかのように目を閉じて話していた八幡が、目を開けて視線を静に投げた。
「雪ノ下の話では、奉仕部の顧問は平塚、お前らしいな。おそらく、雪ノ下を勧誘して部を作ろうとしたものの、そこで初めて部の設立に関する校則を知った、といったところか」
全てを見透かしたように語る八幡に対して、静の目は面白いほどに泳ぎ始めた。
瞬き、きょろきょろ、瞬き、きょろきょろ。
「つまり、人数合わせとして俺を奉仕部に入部させたいわけだ」
ここまでで、何か間違いはあるか? と静に訊ねる八幡。
静はそこまでバレているなら仕方ない、と観念して、思惑を語った。
「確かに、君の言う通りだ。君を奉仕部に入部させて、部員数を三人にしようと思っている」
勿論、八幡の性根を入れ替えてやる、という目的もあるが、人数合わせの為というのも大きな目的である。
「なんだ、俺が入部すれば三人揃うのか?」
「ああ、先日、由比ヶ浜が入部届けを提出してきた。あと一人で部として申請できる」
八幡は、ふむ、と頷くと机の横に提げていた鞄を引っ掴み、席を立った。
「何処に行くつもりだ?」静が訊く。
「分かり切ったことを訊くな」
いまだ座ったままの静の方は見ずに、教室の扉へ歩いていく八幡。
「入部してほしいんだろう? とりあえず、奉仕部の部室に行くぞ」
「え!? 入部してくれるのか!」
さっと席を立った静は手早く椅子の向きを戻して、八幡の後を追いかけた。
「助けを求めるものに、俺という太陽は輝く」
追いついてきた静に、八幡はそう言った。
素直じゃないし態度も悪いが、中々どうして良い奴じゃないか、と静は八幡の評価を少しだけ改めた。
奉仕部の部室にて結衣は今、頭を悩ませていた。折角奉仕部に入部したというのに、依頼はまだ一件も来ない。
聞けば、奉仕部に来た依頼は結衣自身が相談した件のみらしい。
依頼がないという事は、総武高の生徒に悩みがないという事ともとれるが、流石に一件も依頼が来ないのはちょっとどうなんだろうか。
もしや、奉仕部はその存在を全く知られていないのではなかろうか。
雪乃は何やら難しそうな本を読んでいる。また金田一かな? 暇だし、あたしも金田一読んでみようかな? と結衣が考えていたところに、ノックの音が聴こえた。
「どうぞ」雪乃が答える。
扉を開けて入ってきたのは、天の道を往き総てを司る男、比企谷八幡その人だった。
「ヒッキー!? どしたん? 何か悩みがあるの?」
結衣が驚きながら訊くと、八幡は無言で首を横に振る。
「じゃあ、どうして?」
さらに質問する結衣に答えたのは、八幡ではなく、その後ろから部室に入ってきた静だった。
「比企谷には奉仕部に入部してもらう事になった」
「え? ヒッキーも入部するの!?」
「平塚先生、そんな話は聞いていませんが」
「まあ、今、初めて言ったからな」
突然の話に目を丸くする結衣と雪乃。対して静は何でもない事のように、さらっと答える。
肝心の八幡はさっさと部屋の隅から椅子を取ってきて、長机の端、雪乃が座っている場所の対面側に座った。
「知っているかもしれんが、この男は教師を教師とも思わんような奴だ。この部に入部させて、その性根を叩き直してやってくれ」
「それは奉仕部への依頼ということですか?」
静の言葉に雪乃が返すと、八幡は天井を指差すように手を挙げた。
「……比企谷くん、それは発言の許可を求める挙手かしら?」
だとしたら手の形が可笑しいわよ、と雪乃は内心で突っ込む。
「俺の性根を叩き直すだの何だのという妄言は置いておくとして、先に言っておかなければならない事がある」
「何かしら?」促す雪乃。
「俺が入部したら、部長は俺だ」
窓も開いていない部室に、風が吹いた気がした。
「何を言っているのかしら? 部長は私よ」
「一番偉いのは俺だ。ならば、俺が部長に就任するのが道理だろう?」
そよぐ風は勢いを増し、吹き荒れる嵐になった。
雪乃はバンッと掌で机を叩く。そのまま勢いで立ち上がり、八幡に食って掛かる。
「あなたねぇ! 後から入部してきていきなり部長だなんて、承諾できるワケないでしょ!」
「後から入部してきて、というのは正確ではないな。奉仕部は、まだ部として成立していない」
胸元のポケットから生徒手帳を取り出した八幡は、部活動に関する校則が書かれたページを開き、長机の上を滑らせて雪乃の方へ渡した。
受け取った雪乃は、さっと部の設立要項に目を走らせる。結衣も席を立ち、雪乃の隣に並んで生徒手帳を覗き込んだ。
「部の設立には三人以上必要? じゃあ、奉仕部って」
「俺が入部して初めて部として成立する」
結衣の疑問の声に対して即座に八幡が答えた。
「平塚先生……どういうことです?」八幡の生徒手帳を、長机の上を滑らせて返しつつ、底冷えするような冷気を纏わせ訊ねる雪乃。
「いやあ、まさかなあ、部員の人数が問題になるとはなあ」静は、あらぬ方向に視線を向けながら苦笑で受け流す。
「え〜、雪ノ下も比企谷も部長の座を狙っているのなら、ここはひとつ勝負で決着をつけるしかあるまい」
静の提案に雪乃が訝しげな表情を浮かべる。
「勝負……ですか? そんな、投げやりに部長を決定するのは……」
「おや、雪ノ下は勝つ自信が無いのか?」
静の挑発は安っぽかった。八幡は勿論、結衣も、挑発された雪乃自身も、それが勝負に乗せるための軽口であると気付いていた。
しかし、「勝負の内容は?」と言って、雪乃は受けて立った。
彼女の負けず嫌いっぷりは半端ではないのだ。静の思惑に気付こうが気付くまいが、引くこと知らぬ勇猛さなのだ。
静はニヤリと笑って、ポケットから白いハンカチを取り出した。
「比企谷、サインペン貸してくれ」
八幡は鞄からペンケースを取り、その中から筆ペンを取って、指で弾いて静に投げた。
「筆ペン? サインペン持ってないのか」
「別に、書ければどちらでもいいだろう」
まあいいか、と机にハンカチを広げた静は、それに楷書体でサラサラと『部長』という字を大きく書いた。
「今から、この『部長のハンカチ』を学校の何処かに隠す。制限時間内にこのハンカチを手に入れた者が奉仕部の部長となる」
名案を思い付いた、といった様子で、したり顔をする静。
「さらに」
静は結衣の方へすたすたと歩み寄ると、ハンカチを彼女に手渡す。
「え?」咄嗟に受け取ったが、合点がいかない結衣。
「ハンカチを隠すのは由比ヶ浜だ。君が『選ぶ』んだ……良いね?」
静は結衣の肩に手を置き、『選ぶ』という言葉にアクセントをつけて言った。
八幡と雪乃は直ぐさま言葉の裏に気付いた。
そして、結衣も数拍遅れてどういう意味で言われたのか理解した。
つまり静は、結衣に部長を選ばせる気なのだ。
八幡か雪乃か、『ハンカチを見つけてほしい方が、探すであろう場所に隠せ』と、そう言っている。
「では、私は四十五分後にこの部室に戻ってくる。由比ヶ浜は十五分でハンカチを隠しなさい。雪ノ下と比企谷は残りの三十分でそれを見つけだせ」
静はそう言い残すと、足早に部室を去っていった。
雪乃と八幡は、ハンカチを手にして緊張した面持ちの結衣を眺めた。
「比企谷くん、あなたはこのルールで構わないのね? 随分、私に有利なルールだけれど」
不敵な笑顔を浮かべて結衣の顔を見る雪乃に対して、結衣は曖昧に笑う。
「……まあ、良いだろう。由比ヶ浜、さっさと隠してこい」
「う、うん。じゃあ、行ってくるね」
結衣はハンカチを握り締めて、部室を出て行った。
「……このルールで本当に良いのね? 八百長みたいで、余りしっくりこないのだけど」
冷静になって椅子に座り直した雪乃は八幡に訊く。
「どこが八百長みたいなんだ?」
「だって、由比ヶ浜さんは私の……友達だもの」多分、と八幡には聴こえない小さな声で語尾に付け足した。
「俺は由比ヶ浜の家族の恩人らしいが」
雪乃は、むう、と表情を引き締めた。しかし、ここ数日、由比ヶ浜と自分は二人きりで放課後を過ごしていた。私の有利は揺らがないはず、と結論する。
「まあ、この勝負なかなか楽しいじゃないか。おばあちゃんが言っていた……誰にもわからないように隠し味をつけるのは楽しい。だが、それを見つけるのはもっと楽しいってな。隠されたものを見つける勝負、探究心が刺激される、だろう?」
この男のおばあちゃんとやらは何者だろう、と雪乃は少し疑問に思った。
「しかし、由比ヶ浜の性格を考慮すると、俺がハンカチを手にする確率は低いかもしれないがな」
「あら、自分が不利だという自覚はあるのね」
「由比ヶ浜はバランスを重んじるタイプだろう? 誰が部長になればバランスが良いか、本能的に理解するはずだ」
その通りだ、この男も偶には良い事を言う、と雪乃は思った。やはり、部長は私。それが道理だ。
雪乃は読み掛けだった本を再び読み始めた。対して、手持ち無沙汰になった八幡は、とりあえず小町に『今日は遅くなるかもしれない』とメールを送った。
きっかり十五分後、結衣が部室に戻って来た。
「隠してきたよ〜」
結衣は多少、伏し目がちな様子だった。それが雪乃は少し気になるが、とりあえずさっさとハンカチを見つけようと思い、「では、探してくるわ」と言って部室を出て行った。
しかし、八幡は一向に動き出そうとしない。暇潰しなのか、現国の教科書を開いて眺めている。
「ヒッキー、探しに行かないの?」
「俺は、無駄な事はしない」結衣の方には目を向けず、教科書を眺めたまま、八幡は答えた。
「無駄って……もしかして、あたしがどこに隠したか、ヒッキーはわかってるの?」
「ああ、隠すところを見ていたからな」
「ふぇっ! う、嘘! 見てたのヒッキー! ヒッキーのエッチ!」
結衣は、自分の体を両腕で抱きしめながら狼狽した。
しかし、よく考えてみれば、自分がハンカチを隠すところを、八幡が見ているはずはないと気付く。
八幡は今の今まで雪乃と共に部室にいたのだ。八幡が退室して結衣を追い掛けたとしたら、雪乃が黙っていないはずである。
「ヒッキーの嘘つき!」
「そう、嘘だ。しかし、隠し場所はわかった。『俺には触れる事が出来ない場所』だな」
「あ……」
今のやり取りで、八幡はハンカチが何処に隠されたか悟った。
「ヒッキー、怒ってる?」結衣が遠慮がちに八幡に訊く。
「何故だ?」
「だって、部長になりたかったんでしょ?」
八幡は教科書から目を離さず、結衣の方へは視線を向けずに答えた。
「平塚は、お前に『選べ』と言った。そして、お前は選んだ。ルールについては事前に納得していた。ならば、何も問題はないな」
「……そっか、ありがと、ヒッキー」
結衣は、申し訳なさそうに微笑んだ。