インデックスがイギリスの寮にいた頃、彼女は定期的に神裂からシャンプーをしてもらっていた。
椅子に座って目を瞑るインデックスの背後から、神裂は特別に調合されたシャンプー液をかけ、しゃかしゃかと泡立てる。
「かおり〜、やっぱりかおりにシャンプーしてもらうのは気持ちいいんだよ」
「そうですか、それは良かったですね。インデックス」
「でもさ〜、かおりって確か洗髪香膏指圧拳の使い手だよね? もしかして私に使ってない?」
インデックスの指摘に、神裂はギクリと驚く。その指摘の通り、神裂はインデックスに対して洗髪香膏指圧拳を使用していた。
定期的に猫に関する記憶を奪わなければ、インデックスは猫拳の奥義に目覚め、『猫魔神スフィンクス』になってしまうのだ。
「はっはっはっ、何を言うのですかインデックス。私が貴方の記憶を奪って、何の得があるというのです」
「あっはっはっ、そうだよね〜、かおりが私の記憶を奪うわけないかも」
二人の笑い声は、シャワールームのタイルに反響した。
エコーがかった二人の声が、夜の寮内に響き渡る。
シャンプーを泡立てながら、しっかりとインデックスの頭のツボを刺激した神裂は、シャワーからお湯を出してインデックスの頭を洗い流した。
「ところでインデックス、貴方は猫というものをご存知ですか?」
「ねこ? ギリシャ語を語源とする、新しい〜、復活した〜、などを意味する言葉?」
「それはネオです、インデックス」
「プラハを首都とする中央ヨーロッパの国?」
「それはチェコです、インデックス」
「支点、力点、作用点」
「それはテコです、インデックス」
「私はご飯をいっぱい食べたいんだよ。夜食を作って欲しいんだよ」
「それはエゴです、インデックス」
「かおり、夜食を作ってくれたら、飛竜昇天破の改訂版を教えてあげてもいいんだよ?」
「それはネゴです、インデックス」
どうやら、猫に関する記憶は問題なく消せたようだ。
神裂はほっと胸を撫で下ろした。
「日本の銭湯では、風呂上がりに牛乳を飲むのが作法です。後でホットミルクを入れてあげますよ」神裂はインデックスの長い髪をタオルで結い上げながら言った。
「わ〜い! 砂糖たっぷりにして欲しいんだよ」インデックスは両手を上げて喜んだ。
学園都市の街並みを、とうまとステイルを両腕に抱えた神裂が駆け抜ける。
人間二人を抱えているというのに、神裂は目にも留まらぬ速さで、目的地である小萌のアパートへと向かっていた。
聖人の身体能力は伊達ではないのだ。
「次の交差点を右だ!」左腕に抱えられたとうまが、指示を出す。
「右だの左だのまどろっこしいですね。真っ直ぐ目的地を指差してください」神裂がとうまに言う。
「おいおい、真っ直ぐ指差しても間に建物とか、障害物があるぞ」
「跳び越えます」
「……マジかよ」
とうまは驚きながらも、小萌のアパートがある方向を真っ直ぐ指差した。
神裂は、目の前にあった二十メートルほどの高さの建物を一足飛びに越える。
聖人の身体能力は伊達ではないのだ。
「ところで、スフィンクスってのはなんなんだよ?」
神裂の左腕をジェットコースターのセーフティーバーの様に掴みながら、とうまは質問した。
神裂もステイルも、当たり前の事の様に納得しているが、『スフィンクスが目覚めた』などと言われても、とうまにはさっぱり意味がわからない。
「スフィンクスとは、あの子が猫拳の修業によって得た、魔術的人格の名称です。猫の群れとの修業の日々と、それが無駄だったと知った時の怒りが、あの子を魔神へと昇華させたのです」全くスピードを落とさずに、神裂は答えた。
「魔神……てのは何だよ? ステイルが俺の部屋で出した、あのでっかい炎の奴みたいなのか?」
インデックスもそうだが、魔術的世界の人間は、専門用語をまるで誰でも知っている常識かの様に話す。
しかし、オカルト知識に疎いとうまには、いまいち理解がし難い。
「あんなもの……と、僕が言うのもなんだが、猫魔神スフィンクスに比べれば、あんなものはオモチャみたいなものさ」
ステイルはニヒルに自嘲しながら言うが、彼は今神裂の右肩に荷物の様に抱えられているので、あまり格好は付いていない。
「魔神とは、魔術を極め、神の領域へと踏み込んだ人間の事を指します。人の身でありながら、その身を神格へと昇華させた者、と理解すればいいでしょう」
「つまり、今のインデックスは神様ってことか」
わからないなりに、なんとか理解しようとするとうま。
しかし、可愛らしい少女にしか見えないインデックスが神様とは、なんともスケールの大きい話だなと、とうまは思った。
「目覚めたばかりの今なら、私の洗髪香膏指圧拳で猫の記憶を奪えば、再びスフィンクスを封印する事ができます。そして、恐らくですが……」
神裂はそこで一旦言葉を切って、自身の左腕にしがみ付くとうまの右手をチラリと見遣った。
「貴方の右手で、あの子の頭部に触れれば、スフィンクスを完全に消し去る事も可能かもしれません」
「俺の、幻想殺しで?」とうまは神裂に顔を向けた。
「ええ、スフィンクスは魔術によって生じた魔術的人格ですから、貴方の右手が全ての魔術を消し去るというならば、魔術によって生じた人格であるスフィンクスさえも消す事ができる……かも、しれません」
神裂の言葉は最後の最後で曖昧になった。しかし、それも仕方のない事だ。
幻想殺しなどという、彼女の魔術知識からしても埒外の存在を、確実に推し量ることなどできないのである。
とうまは、自身の右手を見つめて、さらに神裂達に問い掛けた。
「その、スフィンクスを封印だかなんだか出来なかったら、どうなるんだ?」
「……あの子の身体がスフィンクスに完全に乗っ取られ、完成された魔神となった時、その存在は世界の許容量を超え、この世界は砕け散るでしょうね」
俄かに世界の危機に巻き込まれたとうまは、「……不幸だ」と呟いて嘆息した。
魔神なる者がなんなのかは、正確に理解できているとは言い難いし、世界が砕け散るなどという表現も、想像の範囲外だった。
砕け散るってなんだよ、地球が割れたりすんのか? とうまは内心で疑問を抱える。
「しかし、世界がどうこうという話は、この際どうでもいいのです」
「えっ?」
それまでの言葉を覆す神裂に、とうまは疑問符のついた声をあげた。
神裂は前を見据えて走り続けながら、ふっ、と吐息する様に笑った。
「あの子は私の親友です。魔神に乗っ取られる前に、救けたい」
彼女がそう言うと、ステイルも同意する様に鼻を鳴らして笑う。
とうまは、魔神だのなんだのの話よりも、そっちの方がわかりやすいな、と思った。
とうまにとって、インデックスは今日出会ったばかりのよく知らない少女だが、悪い奴じゃないことはわかっていた。
出会ってたった一日だけど、思い出だっていっぱいある。
チャーハンをたかられたり、肉じゃがをご馳走したり、ファミレスで奢らされたり……あれ、碌な思い出なくない? と、一瞬考えてしまうとうまだったが、首を左右にぶんぶん振って、あれはあれでいい思い出だ、と考え直す。
とにかく、あの可愛らしいシスター少女の事は救けてやらないとな、と決意を固めた。
とうま達がアパートに到着したと同時、三人の元に、古い木造の壁を突き破って月詠小萌が吹っ飛んできた。
神裂は慌てて両腕の二人を地面に降ろし、飛んできた小萌を受けとめる。
「きゅ〜……」大人モードに変身している小萌が、目を回しながら可愛らしく呻いた。子供体型の時なら似合いそうだが、大人体型の今は違和感しかない。
「大丈夫ですか! 小萌先生!」とうまが小萌に呼びかけると、小萌は頭を二、三度降って、「か、上条ちゃん、今のインデックスちゃんは化け物だ。めっちゃ強いぞあの子」と、ポツリと零した。
小萌は、普段はちびっ子みたいななりをしているが、実はスキルアウトの集団をいくつも壊滅させた事がある武闘派教師である。
そんな小萌が『化け物』だの『めっちゃ強い』だのと称するとは、今のインデックスはどれ程のものかと、とうまは恐れ慄く。
「月詠小萌、突然で申し訳ないですが、貴方にも手伝っていただきます。スフィンクスを相手にするなら、戦力は一人でも多い方が良い」神裂は、その両腕に抱えている小萌に向かって言った。
「君は、今朝の露出狂ちゃんか、わかった。よくわからないが協力しよう」
小萌の露出狂呼ばわりに、神裂は一瞬頰をひきつらせるが、今は非常時だからと、細かいことは置いておく事にした。
神裂が小萌から両腕を離した時、アパートの丁度小萌の部屋あたりの屋根から、光の柱が天に向かって迸った。
屋根はガラス細工のように砕け散って、大穴が開いている。
「あ〜あ、あんなアパートでも住めば都だったんだが、これは改築せざるを得ないな」
小萌がうんざりした様子で呟くと、その屋根の大穴からインデックス、否、スフィンクスが飛び出してきた。
スフィンクスは全身から生命力の奔流を迸らせながらフワフワと宙に浮かんでいる。
「あはははは! あ〜はっはっは!」
大口を開けて高笑いしたスフィンクスは、首を左右に振って周囲を見回した。
そして、とうま達を見つけると、悠然とした様子で空を飛びながら近付いてくる。
ゆったりとした動作でとうま達の目の前に着地すると、徐ろに口を開いた。
「上条当麻、月詠小萌、神裂火織、あとステイルなんとか」
「マグヌスだ!」ステイルがすかさずツッコむ。
「冗談だ……しかし、たった四人で私に挑むつもりか? 無謀にも程があると思わんか?」
スフィンクスの言葉は、自信に満ち溢れていた。実際、その自信は確信に近い。
前回、初めてスフィンクスが目覚めた時は、必要悪の教会のメンバー全員でかかった上、アンタの所為だぞ責任とれと責められたローラ・スチュアートが、本気を出して必死こいて頑張り、なんとか取り押さえたところで神裂が洗髪香膏指圧拳で猫に関する記憶を奪って封印したのだ。
「たった四人で私を再び封印しようなどとは……片腹痛いわ!」
スフィンクスがカッと目を見開く。とうま達四人はそれに反応して、跳び退がって散開する。
「Fortis931!」
ステイルが魔法名を名乗ると共に、その神父服の内側から数多のルーンカードが飛び出てきた。
一枚一枚に炎のルーンが刻まれたカードは、嵐の様に渦を巻きながら、周囲の建物の壁や路地に貼り付いていく。
「Salvare000!」
神裂は数歩分退がって距離をあけたが、スフィンクスを七閃の射程距離内に捉えている。
いつでも動けるように、敢えて余り腰は落とさず、左足を少しだけ引いて構えた。
右手は腰に差した七天七刀の柄に、左手は鞘に添えられている。
「へぇ、悪い魔術師ちゃん達、格好良いね。なんだかよくわからないが、私も名乗っておこうか」
事情を殆ど把握出来ていない小萌は、若干のほほんとした様子で呟いた。
「無差別格闘月詠流、月詠小萌、推して参る!」
この場合、『推して参る』は状況と合っていないが、小萌は格好良く名乗り口上を述べたかっただけなので、問題ない。
小萌は右手の人差し指と中指の間に五円玉を挟むと、次はあなたの番ですよとばかりに、とうまの方を見遣った。
「なんか、俺も名乗らなきゃいけない流れだな」
そう呟いて、とうまは一つ嘆息した。そして、右足を引き、両手を身体の前でゆったりと構える。
「無差別格闘上条流、上条当麻、行くぜ!」
とうまが名乗りを上げると、スフィンクスは一歩だけ前に足を進めた。
それだけで、とうま達四人にとてつもない圧力がかかる。スフィンクスが全身から放つ生命力の奔流は、碧色の輝きを煌めかせながら大気を揺らした。
ごくり、と誰かの喉が鳴った。それは、とうまだったのかもしれないし、神裂だったのかもしれない。或いは、四人全員だろうか。
スフィンクスから感じるプレッシャーに押し潰されそうになりながら、四人は緊張を高めた。
茫洋とした眼差しを見せながら、スフィンクスは修道服の袖に手を入れて、何かを取り出した。
すわ、武器か何かか、と驚くとうまだったが、スフィンクスが取り出したのは、ただのパフパフラッパだった。ラッパにゴム風船のようなものが付いている、おもちゃのラッパである。
スフィンクスはゴム風船部分を数回握って、音を鳴らした。
静寂な夜の路地に、ぱふぱふぱふぱふ〜、という間の抜けたラッパの音が響いた。
「猫拳奥義、スフィンクスの問い掛け〜!」突然、スフィンクスは大声で叫んだ。そして、「私が出す問題に答えられたら、大人しく封印されてやろう」と、些か拍子抜けする事を宣った。
急な茶番劇に、とうま達に動揺が走る。しかし、スフィンクスは全く気にせず問題を出した。
「朝は四本足、昼は二本足、夕には三本足で歩く生き物、これは何だ?」
なんと、スフィンクスが出題したのはギリシャ神話の本家スフィンクスが旅人に問い掛けたという有名な問題だった。
オカルト音痴のとうまですら答えを知っている。
四人はそっと顔を見合わせた。そして、神裂がひとつ頷いて答えを口にする。
「赤子はハイハイをするので四本足、成長すれば二本足、老いれば杖をつくようになるので三本足、答えは『人間』です」
自信を持って答える神裂を、スフィンクスは眉間に皺を寄せて睨む。
数秒の間を開けた後、そっと両腕を体の前で交差させてバツ印を作ると、「不正解!」と叫んだ。
「な、何故ですか! この問題の答えは、人間の筈です!」神裂は不服そうに言った。
「私は、朝は〜、昼は〜と言ったんだ。赤子は〜だの成長すれば〜だのが答えになるわけないだろう」
スフィンクスは呆れた様子で肩を竦めて、首を左右に振った。
「答えは……『そういう化け物』、でした〜!」
「そんな! 理不尽な!」
底意地の悪い表情で答えを告げるスフィンクスに、憤る神裂。
スフィンクスは軽やかに地面を蹴って、神裂へと跳びかかる。今、闘いの火蓋が切られた。