宙を舞いながら神裂火織に迫るスフィンクスは、人間離れ、いや、人外離れしたスピードだった。人並み外れた動体視力を持つ神裂ですら、容易には追いきれない。
一瞬、七閃による迎撃を選択しようとした神裂だったが、彼女がワイヤーを抜くよりも前に、スフィンクスは間合いを詰めて彼女の眼前に飛び込んできた。
神裂はワイヤーに掛けた指を外し、相手の顔面に向けて水平気味に手刀を放つ。しかし、手刀が当たる直前、スフィンクスはふわりと神裂の頭上に浮き上がってそれを避けた。
スフィンクスは何がしかの魔術を用いて空を飛んでいるわけではない。体内から只管溢れ出てくる無限の魔力の激流を、ジェット機構のように操って宙に浮かんでいるのだ。
その三次元機動は、まさに思考次第で自由自在。翼を風にのせて飛ぶ鳥類以上に、彼女は空を制している。
神裂を飛び越えてその背後に回ったスフィンクスは、両手の指を折り曲げて、中国拳法でいうところの虎爪掌の構えをとった。たっぷりと余裕を見せて、オーソドックススタイルで足を開き、右腕を振り上げた体勢で止まる。背後を取ったというのに、背中を攻撃する気はないらしい。
神裂は即座に振り返りながら、そのままの勢いで左のローキックを繰り出したが、それは右脚の脛で受けられ簡単にカットされた。
彼女の蹴りの威力から考えれば、たとえカットされようともそのまま振り抜いて蹴り飛ばす事も可能なはずだったが、スフィンクスの身体は大地に根ざしたかのように小揺るぎもしない。
修道服のゆったりとした袖を翻しながら、スフィンクスは上段に構えた右腕を振り下ろした。神裂は咄嗟に両腕を交差してそれをガードするも、続く左腕によるカチ上げをガードの空いたレバーに喰らい吹っ飛ばされる。
轟っ!
勢いよく飛ばされて、小萌のアパートの壁に叩きつけられた神裂は、「かはっ」と呻く。肺腑から空気が一気に抜け、胸が内側から締め付けられたような痛みが走った。
さらに追撃を見舞おうと神裂の方へ低空で飛ぶスフィンクスの前に、そうはさせじと小萌ととうまが立ちはだかる。
「おイタが過ぎるよ、インデックスちゃん」
普段見せない剣呑な表情の小萌。大人モードの彼女に睨まれれば、喧嘩上等のスキルアウトですら震え上がるのだが、スフィンクスは泰然とした微笑みを浮かべるだけだった。
「私の名はインデックスではないと言っただろう。今の私はスフィンクスだ、そう呼ぶが良い」
「君、多重人格者だったのかい?」
「人格障害的な意味での、多重人格や解離性同一性障害とは少々異なるが、そう捉えてもらっても構わない」
小萌は、ふむ、と頷いて、「私の専門は心理学だ。精神医療は多少畑違いだが、カウンセリングは請け負うよ……」と言った。しかし、言葉とは裏腹に左手は拳を握り、右手の人差し指と中指の間には五円玉を構えている。
「カウンセリングか、そんなものに意味があるとは思えないが、拳を構えるカウンセラーなど見たこともないぞ」可笑しな事を聞いたといった風に、スフィンクスは笑った。
「勿論……カウンセリングを行うのは、君をぶっ倒した後だ」
アパートを台無しにされて、小萌は結構怒っていた。そもそも彼女は、子供の不良行為には厳しい態度で接する教師なのだ。
子供体型の状態では舐められがちだが、注意しても不良行為を止めない生徒には、闘気吸収も辞さない。
住居破壊などという蛮行をやらかしたインデックスちゃん、もとい、スフィンクスちゃんにはお仕置きせねばなるまい。
「スフィンクス、悪いが、二人がかりだ。卑怯なんて言うなよ」
とうまがそう言うと、スフィンクスは周囲を見回した。二人がかりとはどういう事だ、もう一人はどうしたと怪訝に思ったが、いつの間にかステイル・マグヌスの姿が消えている。
まさか逃げ出したというわけではあるまい。不意打ちの伏兵として物陰に潜んでいるのだろう。
しかし、スフィンクスはステイルの存在は無視することにした。彼は戦闘向けのルーン魔術を操る才人ではあったが、『歩く教会』の防御結界を破るほどの攻撃を持っているわけではない。
スフィンクスが着ている純白の修道服、『歩く教会』は、絶対的強度を誇る衣服型の防御魔術礼装だ。これを着ていれば物理、魔術ともにダメージは完全に無効化できる。『歩く教会』の防御結界を貫くには、伝説級の威力を誇る、『竜王の殺息』並の魔術が必要だろう。
因みに猫魔神スフィンクスは、『竜王の殺息』も放つことができるのだが、とうま達に対して使用する気はなかった。『竜王の殺息』など使おうものなら、一瞬で決着がついてしまい面白くない。
折角久しぶりに封印が解けて表に出てこられたのだから、スフィンクスはもっと遊びたかったのだ。
遊びでぶちのめされようとしているとうま達は、不幸としかいえないが。
「卑怯などと言うつもりはない。死なせないように精一杯手加減してやるから、死ぬほど本気でかかってこい」
スフィンクスは、映画『ドラゴンへの道』でブルース・リーが見せたような挑発的な動作で、とうま達をクイクイッと手招きした。
とうまは氷の上を滑るようにスムーズな摺り足でスフィンクスに近付き、左順突きから左の足刀蹴り、そしてクルッと回転して右の後ろ回し蹴りのコンビネーションを繰り出す。
しかし、三発とも全て、スフィンクスは猫がネコジャラシを払うかのごとく捌いて叩き落とした。
小萌もとうまに呼応して、スフィンクスの側面に回り込んでその横頬に向けて左のジャブを放つが、それは頭突きによるカウンターを受けた。
拳に対して石頭での打撃を喰らったことで、小萌の左手に激痛が走る。だが、それでも小萌は怯まずに右手の五円玉をスフィンクスに差し向けた。
「邪、悪、病、痛、魔っ! 月詠五円殺っ!」
スフィンクスが常時纏っている魔力の奔流が、小萌の二指の間に挟まれた五円玉の穴を通って彼女へと注ぎ込まれる。魔力も闘気も、その源は生命力だ。闘気吸引体質を持っている小萌が、スフィンクスの魔力を吸収できるのは必定といえた。
嵐で増水した川の激流のように、どんどん勢いを増して魔力を吸収されていくスフィンクスだったが、彼女はそれを完全に放置して、とうまへと襲いかかる。
小萌の月詠五円殺は物理的ダメージを伴う技ではなく、ただの体質である為、『歩く教会』の防御結界すらすり抜けてスフィンクスに効果を発揮しているのだが、彼女は魔力を吸収される事に特段の脅威を感じず、修道服の両袖を肩まで捲ると、とうまに腕を振るって猫拳の連撃を放った。
スフィンクスがこの場で最も警戒しているのは、とうまの右手、幻想殺しだった。
幻想殺しはひとたび触れれば『歩く教会』を破壊してしまう上に、魔術的人格であるスフィンクスを消去でき得る可能性もある。人格を消す為にはおそらく、頭部に触れなければならないだろうが、それすら絶対ではない。幻想殺しの効果範囲如何では、手と手が触れ合うだけでも、スフィンクスの人格は消え去るかもしれないのだ。
スフィンクスはとうまに対してだけは、絶対の警戒心を持って攻撃を行った。
右手への接触を避けているからというのもあるが、スフィンクスの苛烈な連撃にも、とうまは冷静に対処できている。
相手が幻想殺しに触れる事を忌避していると見るや否や、とうまは右手を大袈裟に突き出して相手の打撃を牽制する。
しかしスフィンクスもさるもので、突き出された右手を避けてとうまの右肘を掌底で払ったり、右手首よりも肘に近い前腕部を掴んでとうまの右手の動きを制したりと、幻想殺しが触れる隙を与えない。
それにしても、こうしている今も小萌による魔力吸収は続いているのだが、スフィンクスの攻勢は全く衰えを見せなかった。
これだけ吸引されれば、常人ならとっくの昔に気絶している筈なのにと、小萌は訝しむ。
「疑問かい? 月詠小萌」
とうまへの攻撃の手は緩めずに、スフィンクスは小萌の内心を読んで彼女に問い掛けた。
既に小萌の魔力吸収は限界が近い。月詠五円殺は小萌自身の容量を超える生命力を吸収し続ける事は出来ないのだ。
「魔神たる私の魔力は無限だ。君程度の器で吸収し尽くすことなどできまいよ」
「そんな、無限のエネルギーなどあり得ない! 熱力学の法則はどこにいった!」
スフィンクスの無体な言葉に小萌は驚愕する。無限のエネルギーを持った人間など、理論上はあり得ない。それは科学的には勿論の事、魔術的にも常識の筈だった。
「今の私は神だ。私が法則だ」
傲岸不遜な態度だったが、少なくともスフィンクスの生命力が小萌の容量を遥かに超えている事は認めざるを得ない。
小萌は一旦魔力吸収を止め、逆に放出することにした。五円玉をポケットにしまい、両掌を合わせて輪を作り、顔の前で構える。
「月詠つり銭返しっ!」
構えた両掌の輪っかから、膨大な質量の気弾が放たれた。『月詠つり銭返し』は、吸収した闘気や魔力を気弾に変えて一気に放出する技だ。
その気弾には、スフィンクスから吸収した魔力が全て詰め込まれている。魔力を根こそぎ放出した小萌は、ぷしゅる〜っとコミカルな音とともに子供体型に戻った。
このように何度も吸収と放出を繰り返せば、スフィンクスのエネルギーもいつか底を見せる筈だと、小萌は思った。無限のエネルギーなど信じることはできない。
だが、小萌が放った気弾はスフィンクスが適当に振るった裏拳によって、ペシッと弾き返された。
気弾は真っ直ぐに、小萌の方に向かってくる。
「ななっ!」
子供体型に戻ってしまった小萌には、気弾に対抗する耐久力はなかった。一応、両腕で頭を庇ったものの、小萌の身長を優に超える大きさの気弾の威力を削ぐには足りなかった。
吹っ飛ばされた小萌は仰向けに寝転がり、また目を回して「きゅ〜……」と呻いた。今度はさっきと違って子供の容姿なので、可愛らしい呻き声がよく似合っている。
「小萌先生っ!」
とうまは焦って小萌に声を掛ける。大人モードならともかく、子供の体型では彼女の戦闘能力はまさに子供並み。
安否を心配して思わずそちらに目を向けてしまう。それがいけなかった。
「余所見をするな」
スフィンクスは修道服のスカートを引っ掴んでローリングソバットを繰り出す。彼女の右足はとうまの脇腹にめり込んだ。
「ぐっがあっ!」
筋肉の防御が薄い脇腹に、突如走る衝撃。とうまはアスファルトの上を十メートルほどゴロゴロと転がったところでやっと止まった。
スフィンクスに蹴られた脇腹が、痙攣でも起こしたように痛む。また、転がって打ち付けた全身の骨という骨から悲鳴が上がった。
とうまはいつものようにいつもの如く、不幸だ、と零した。
すると、しゅう、しゅう、という蒸気が抜けるような音が、とうまの身体から発せられる。
不幸な陰気による闘気が、とうまの体内から溢れ出して、周囲の空気を重くした。
これだ、これしかないと、とうまは閃く。獅子咆哮弾の撃ち合いに持ち込めば、何とかなる筈だ。全身を駆け巡る不幸を、これまでの人生で見舞われた不幸を、左手一本に集約する。
「スフィンクスっ! お前に、いや、インデックスに教えてもらった獅子咆哮弾で、お前を倒す! お前も魔術師なら、拳法なんか使わずに獅子咆哮弾でかかってこい!」
痛みを押して立ち上がったとうまが叫ぶように言うと、スフィンクスは呆れ返ってきょとんとした。
彼女は長い嘆息をひとつ吐くと、「上条当麻、お前は大きな勘違いをしている」と告げた。
「お前、私よりも自分の方が不幸だと思っているだろう?」
スフィンクスの身体から今も溢れ出している碧色の光が、不幸の陰気へと性質を変えていく。その重圧は、とうまが纏う陰気な闘気の重圧を超えていた。
「インデックスも中々に不幸な境遇だとは思うが、あれの周りには笑顔が溢れている。あれは幸せなんだろうよ。上条当麻とインデックスの不幸を比べたならば、ともすればお前の方が勝つやもしれん」
スフィンクスの陰気な魔力が、右手に集約されていく。彼女はその右手を、とうまに向けて掌を広げるように構えた。
「この世に生じてすぐに封印された私と、お前の不幸、どちらが下(うえ)か比べてみるかっ!」
スフィンクスの気勢に対して、とうまは慌てて左手から獅子咆哮弾を放った。
それはスフィンクスの視界を遮る程の大きな気弾だった。
しかし、彼女は対抗して自身も獅子咆哮弾を放つのではなく、その身に迫る気弾を冷静に右手で受け止めた。
気弾の勢いに押され、彼女の身体は二メートルほど後ろに退がったが、所詮はその程度、ダメージは全くない。
「これが、その身の不幸かっ! 上条当麻っ!」
気弾を受け止めているスフィンクスの右手の甲に、血管が浮き出た。それは、とうまの気弾が齎した影響ではない。
彼女の内側から、不幸の陰気が洩れだそうとしている前兆だった。
彼女の右手から、少しずつ陰気な魔力が放出された。当初は拳大程度だった魔力弾が、スフィンクスが魔力を込めるにしたがって、どんどん大きくなっていく。
とうまの放った獅子咆哮弾の大きさを超える頃には、拮抗は崩れ、とうまの気弾は押し返されようとしていた。
しかし、スフィンクスは大きな勘違いをしている。
何もとうまは、スフィンクスに不幸比べで勝つつもりなど微塵も無かった。
とうまは不幸を自負しているが、この世の中で、自身が最も不幸だなどと嘆いているわけではない。
自分の周りには笑顔が溢れている。だから自分は不幸であると同時に、幸せでもあるんだろうさ、とうまはそう思っている。
とうまが獅子咆哮弾の撃ち合いに持ち込んだのは、獅子咆哮弾でスフィンクスに勝つ為ではない。その大きな気弾に身を隠してスフィンクスに近づき、彼女の意表をつく為だった。
気弾の陰から走り寄ると、まず、とうまは眼前で押し合っている二つの獅子咆哮弾を幻想殺しで打ち消す。
「なっ!?」突然、視界から気弾が消えた事でスフィンクスは驚愕の声を洩らした。
「くらえっ! スフィンクスっ!」
「くっ!」
とうまは神裂に抱えられてここに来るまでの間に、第一目標は、まず幻想殺しで『歩く教会』を破壊する事だと教えられていた。
上級の防御礼装である『歩く教会』を破壊しなければ、スフィンクスに攻撃は通らない。
とうまは『歩く教会』に手を届かせる為に、右手で蛇拳貫手を繰り出す。
まるで生きた蛇が獲物に襲いかかるかの如く、とうまの貫手がスフィンクスに向かって伸びる。
スフィンクスは右手を懐に突っ込み、左手でとうまの右腕の前腕部を掴みにかかるが、それは蛇の様にぐにゃりと曲がって、スフィンクスの防御を掻い潜る。
幻想殺しの指先が、スフィンクスの右肩辺りに届いた。