なにも上条は、考え無しに神裂を露出狂呼ばわりしたわけではない。
神裂を挑発し、ターゲットを自分に絞らせて、無差別格闘上条流奥義、敵前大逆走を使うつもりだったのである。
敵前大逆走は本来、ただ逃げるだけの技ではない。
『走』『考』『攻』という三つのエッセンスを含んだ、上条流の代表的奥義とも言える技なのだ。
『走』『考』『攻』とは、つまり一言で言えば『逃走しながら反撃の手段を考える』という極意なのだが、上条は既に、神裂の身体能力によって『走』を潰されていた。
「くっ、アンタ足速すぎんだろ! 全く逃げられない!」
「聖人であるこの私から、逃げようなどとは笑止千万! さっさと観念しなさい!」
神裂は頭に血が上っているのか、先程から七閃ではなく貫手で上条を攻撃している。
貫手は元々、拳よりもほんの少しだけ長いリーチで急所を狙うという、トリッキーな技の筈だ。
しかし、ぶおん! ぶおん! と、一振りごとに空気を切り裂く彼女の貫手は、一撃あたれば上条の人体に風穴が開きそうであった。
そんな事は死んでもごめん、というか、そんな事になったら死んでしまう上条は、必死の形相で神裂の貫手を捌く。
「とうま! 不幸の陰気を開放するんだよ! そうすれば、とうまの周囲に陰気の重圧がかかって、かおりの動きが遅くなるかも! これは、獅子咆哮弾の応用技! まずは、かおりの戦闘力を削ぐんだよ!」
インデックスが叫んだ言葉に、上条は天啓を得る。
幼い頃より溜め込んだ不幸パワーを全力開放すると、上条の周囲にどんよりとした重い空気が充満した。
しかし、それでも神裂は止まらない。多少動きは鈍ったものの、常人離れした身体能力で、上条を追い詰める。
「凄まじい陰気ですが、その程度で私を止められるなどと思わないでいただきたい」
「そんなこたぁ分かってるさ」
上条の言葉は、神裂の耳には負け惜しみに聴こえた。
事実、陰気を開放しても上条は防戦一方で、全く反撃してこない。
神裂の攻撃を捌きながら、バックステップで距離を取るのが精一杯の様子だ。
神裂は一瞬、この動きは彼女自身も奥の手としている、飛竜昇天破の予備動作なのではないかと疑った。
しかし、飛竜昇天破を放つには相手の攻撃を避けながら、螺旋のステップを踏まなければならない筈だ。
上条はただ只管に、滅茶苦茶な方向に避けているだけである。そのステップは螺旋の形になっていない。
それに、飛竜昇天破は神裂ですら修得にそれなりの時間を要した魔術だ。
ど素人の上条当麻がこの短時間で修得できた道理はない。
「いい加減、諦めたらどうです!」神裂は上条の足を止めようと、下段蹴りを放った。
それに対して上条は、避けるだけでなくバク転で更に距離を取る。
「軽業師ですか、あなたは」呆れたように呟く神裂。
「既に天啓は得た。アンタはもう、俺の術中に嵌っているんだぜ!」
「口先だけならなんとでも言えます。さあ、もう終わりにしましょう!」
神裂は気合の声を上げると、正拳突きを上条の顔面に放った。しかし、上条はそれすらもヘッドスリップで避ける。
「かかったな神裂火織! これが俺の逆転手段だ!」
言うなり上条は、獅子咆哮弾をあらぬ方向に撃った。
その気弾は神裂の脇をすり抜け、公園の芝生に着弾する。
神裂の脳裡に疑問が浮かぶ。獅子咆哮弾の一発や二発で自身が打倒されるとは思わないが、せめてこの身に当てればダメージにはなったかもしれないというのに。
しかし、その答えは突然の雨と共に齎された……否! これは雨ではない、この水は芝生から噴き出ている! まるで間欠泉のように!
「はっはっはー! 其処にはスプリンクラーがあったんだよ! 俺がこの公園に来た時、不届きにも俺を狙い撃ちしてきたスプリンクラーがな!」
上条は獅子咆哮弾でスプリンクラーを破壊したのだ。
壊れたスプリンクラーからは怒涛の勢いで水が天に立ち上り、殆ど雨の様に上条と神裂に降り注いでいる。
「アンタがどんな泉の呪いを受けたのか知らんが、呪泉郷の泉はその殆どが動物変身の呪い! 弱体化するのは必定!」
水を被って女の子に変身したとうまは、いつもより甲高い声で神裂に言い放った。
勝ち誇ったような気分に浸るとうまだったが、その目に写った神裂の姿に、一転、瞠目する。
「な、なんだ、その姿は……」
「見てしまいましたね、私のこの、醜い……呪われた姿を……」
神裂は動物には変身していなかった。
その姿はまるで……旧約聖書や神話の世界を上条に想起させた。
神裂が今より幾分幼い頃、自身の能力に思うところあった彼女は、世界中の修行場という修行場を転々としている時期があった。
聖人としての力を宿す身ではあるが、その力を十全に使いこなせているとは思えない。
聖人の力は、神の力の一端と言われている。
余りに膨大なその力は、上手く制御出来なければ自らの身を滅ぼすだけでなく、周囲にも被害を齎すかもしれない。
生来性根の優しい神裂にとって、そんな事態は看過できない。
神裂が修行場巡りをするのは当然の成り行きと言えた。
そんな神裂が修行の総仕上げとして訪れたのは、中国の奥地にある、伝説の修行場と呼ばれる呪われた泉、呪泉郷であった。
「アイヤー、お嬢ちゃん、呪泉郷は一人で修行出来るような場所ではないヨ」
「……そうなのですか、しかし、折角遠方から来たのですから、一目見て行こうかと思います。案内を頼めますか?」
「まあ、おじちゃんそれが仕事だからネ。頼まれれば断らないヨ」
怪しい中国人ガイドの案内で辿り着いた呪泉郷は、確かに一人で修行する様な場所ではなかった。
パッチワークの様に連なる小さな泉に、剣山の様に立てられた竹の足場は、如何にも不安定に見えたが、要するにあの足場を転々と渡りながら修行相手と戦うのだろう。
神裂の目には、其処は修行場というよりも、決闘場と言った方が相応しい様に見えた。
「ほらね、お嬢ちゃん。悪いこと言わないから帰った方がいいヨ。呪泉郷には数々の悲劇的伝説があってだネ、泉の一つ一つに恐ろしい呪いが……」
「生憎ですが、聖人であるこの私に、生半可な呪いの類いは意味を成しません。不安定な足場で戦う事もあるでしょう、この機会に少し修行して行きます」
神裂はそう言うと、一足飛びに竹の上に立った。片足のつま先のみで上手くバランスを取り、竹から竹へ跳び移っていく。
調子が出て来たのか、跳び移りながらくるくると宙返りしたり、空中で突きや蹴りの連撃を放ったりしている。
そんな風にして、彼女が十五分ほど縦横無尽に跳び回っていた時に、悲劇は起こった。
彼女が跳び移った竹がその半ば程で腐っており、ポキリと折れたのだ。
神裂は小さな声で、「不覚……」と呟き、泉へと落下していく。
本来ならば、ワイヤーでも鉤爪付きロープでも放って竹に引っ掛ければ、泉にまで落ちることは無かったはずだ。
しかし彼女は、これも自らの気の緩みが招いた事だと、戒めとして濡れ鼠になることを覚悟した。
どぼ〜ん、と些か間抜けな音を立てて水柱が上がる。
すると、中国人ガイドが驚きながら叫んだ。
「アイヤー! その泉は鴨子溺泉! はるか昔、アヒルが溺れたという悲劇的伝説がある泉ネ! それ以来、そこで溺れた者は皆、アヒルになてしまうという呪いが……」
ガイドがそこまで言ったところで、ザバーッと音を立てながら、神裂が泉から上がって来た。
「アレ? お嬢ちゃん、アヒルになってないネ。これはまたどうした事?」
「言ったはずです。私に対する呪いの類いは意味を成さないと。聖人たるこの身は、呪いなど容易く弾く」
ずぶ濡れになった神裂がそこまで言い切った時、彼女の背中に微妙な違和感が生じた。
もぞもぞ、ごわごわとした、変な感覚。なんだかシャツが窮屈になった気がする。
「お嬢ちゃん……なんだか背中が膨らんでいるような……」
「聖人たるこの身は、呪いなど容易く弾く」
「いや、お嬢ちゃん、確かに背中が膨らんでるヨ。あとで確認した方が良いネ」
「聖人たるこの身は……呪いなど……呪い……など……」
ガイドの自宅で風呂を借りた神裂は、シャツを脱いで背中を確認する。
その瞬間、神裂は彼女にしては珍しく、「きゃーっ!」という女の子らしい悲鳴を上げた。
その背中には、真っ白な翼が生えていたのである。
「それ以来、私は水を被ると背中にアヒルの翼が生えるようになってしまったのです……聖人の力は、確かに呪泉郷の呪いを弾きましたが、この呪いは想定以上に強力でした。完全にレジスト出来ずに、私は……この様な醜い姿に……」
神裂の独白を聞き終えると、とうまは自身の右手に目を向けた。
とうまの幻想殺しも、右手以外の部分に関しては呪いを打ち消してくれなかった。
しかし、翼の生えた神裂の姿をまじまじと眺めたとうまは、眉間に皺を寄せて震えだす。
「どこがだよ……」とうまは低い声音で呟いた。
「えっ?」
「どこが醜いんだよ! めちゃくちゃ綺麗じゃねーか! 天使かお前は!」
「き、きき、綺麗って、天使って、そんな筈無いでしょう! 背中にアヒルの翼が生えた女など醜いに決まってます!」
面と向かって綺麗だの天使だのと言われた神裂は、少し頰を紅潮させて叫ぶ。
しかし、とうまは神裂の姿を本気で羨ましがっていた。
女に変身するよりも、天使に変身する方が格段にマシである。
自分もどうせならそんな呪いが良かったと、とうまは心の底から思っていた。
しかし、もしもとうまが鴨子溺泉の呪いを受けていれば、右の翼だけが人間の右手という、奇怪なアヒルが出現していただろう。
「全然、醜くなんかねーよ。むしろ神々しさすら感じるぜ」
「こ、神々しいだなんて、そんな……」
尚も言い募るとうまに、神裂は完全に赤面してしまう。その反応は、なんだか初心っぽい。
「か、かか上条当麻! 取り敢えずここは退かせていただきます! しかし、インデックスは必ずイギリスに連れ帰りますからね! 貴方が尚も邪魔立てするというならば、覚悟しておきなさい!」
神裂は翼をバッサバッサとはためかせながら、とうまを指差してそう言った。
そして、言葉の通り、踵を返してダッシュで逃げていった。アヒルの翼だけあって、空を飛ぶのには使えない様である。
「とうま〜」
一人ポツンと取り残されたとうまに、インデックスが駆け寄る。
「インデックス……なんだったんだ? あれは」
「かおりは、翼の生えたあの姿にコンプレックスを持ってるんだよ。その姿を男の子のとうまに褒められたから、照れちゃったんだね。あっ、今のとうまは女の子か」
「……好きで女になったわけじゃないわい」
俺だって、女に変身するくらいなら、天使になりたかったと、とうまは思った。
そういえば、むかし再放送で観たドラゴンボールのアニメでは、悟空がエンディングで天使になってたなあ、などと、どうでもいい事を思い出したとうまだった。
「とりあえず、小萌先生の家いくか、インデックス」
「そうだね! お腹空いちゃったんだよ! 晩御飯は何かなぁ?」
「……さっきのファミレスでの暴挙を忘れたのか?」
空の財布を振って、とうまは呟いた。
拠点に逃げ帰った神裂は、カセットコンロでヤカンに入れた水を温めていた。
数分後、40度ほどに温まったお湯を頭から被ると、神裂の翼は消えた。
「全く、それでおめおめと逃げてきたのかい? 神裂火織ともあろうものが、情け無いね」
「くっ……面目無い」
責めるようなステイルの言に、神裂は何も言い返せなかった。
「洗髪香膏指圧拳も、不発に終わったと」
「上条当麻に邪魔をされてしまいました」
正確には、上条が邪魔をしたわけではなく、インデックスが上条を盾にしたのである。
「しかし、魔術を打ち消す右手というのは厄介だな。そんな右手の存在を聞いたら、世界中の魔術師が怒り出すだろうね」
「私にとっては、その右手自体は然程厄介でもなんでもないですが、特筆すべきは彼の格闘センスです。身体能力で言えば私より遥かに劣るというのに、攻撃を全て避けられてしまいました。まるで予知能力でもあるかのように」
「君がそこまで言うからには、確かに警戒すべきなんだろうが、しかし、リミットはもう迫っている。手を拱いている時間はないよ」
ステイルは、焦燥を隠しきれない様子で言った。神裂も、同じ気持ちで頷く。
「私達に残された時間は、あまり多くない」
「そうだ。今のところ大丈夫のようだが、いつ、アレが起きるかわからない」
インデックスには、インデックス自身にも知らされていない大きな秘密があった。
彼女を何としてもイギリスに連れ戻さないと大変な事になる。
神裂とステイルの胸裡に不安が過った。