カレンダーをめくりたくないなんて思い始めたのは、いったいいつ頃からだっただろうか。
2017年4月17日。
私たちは、この日付から先を進んでいない。
時が止まったまま。いや、正確には進んでいる。けど、それを再び戻している。言わば永劫回帰だ。
めくったり破いたりした17枚の画用紙も、私の一声で元に戻る。
2017年4月17日。
私たちの一区切りの終わりの日であり、私にとっては始まりの日でもある。
2017年4月17日。
大場ななが、満を持して孤独という名の惑星から独立した、独立記念日である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
学校の中庭にはいくつもの彫刻作品がある。
中でも、ミロのヴィーナスは非常に目立つ存在だ。
両腕の無い、美しき美女。
両腕の行方はわかっておらず、そもそも最初から付いていたのか、なんて議論もあったりする。
両腕が無いからこそ、ヴィーナスは
未完成であるからこそ、美しい。
この言葉に、私は大いに賛同している。
私が携帯電話のフィルムに収めてきた99期生のみんなは、まだ未完成だ。だからこそ舞台に生きる少女なのだ。
ヴィーナスの欠けた部分を撫でる。
––––––ねぇ、ヴィーナス。あなたは、アレクサンドロスがどういう思いであなたを作ったのか、想像できる?
某ハリウッド映画の如く口が動くわけでもなく、ヴィーナスはただ空を見上げている。
––––––そんなことがわかったら、あなたはあなたじゃなくなるわよね。
質問した私がバカだったかも、と自嘲気味に笑う。
あなたは、自分が生まれた意味も知らず、観客たちの考察と無意味な議論に揉みくちゃにされて、それでも歴史に残る芸術品として祭り上げられる
不服に思ってるのだろうけど、私はその姿がとても似合ってると思うわ。
「そうやって口を閉ざしてる方が、美しいわよ」
鼻をツン、と触れて私はその場を後にした。
ヴィーナスに背を向けたと同時、手の甲に水滴が落ちる。
いつの間にか空は曇天となっていて、雨が徐々に速度と威力を上げて降ってきた。
何も言うことができない、ヴィーナスの涙なのだろうか。
だとしたら、素晴らしい涙だ。
とても冷たくて、マリオネットらしい涙だ。
しかし、今の私には手に余る事態だ。
「あちゃー」
思わず声を漏らす。そんな声に構わず、制服は更に濡れて肌にくっつく。
傘は持ってきてない。
さあ、どうやって帰ろう。
テラスの屋根の下に走って入るが、既に制服はびしょ濡れだ。もう今から走って帰ってもあまり変わらないだろうか。
ジーン・ケリーみたいに、愉快に踊って歌いながら帰ろうかしら。
そう血迷ったことを考えていると、遠くから私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「なな」
「あっ、純那ちゃん」
パープルカラーの眼鏡をかけた、いかにも生真面目そうな女の子。私のルームメイトで、親友でもある星見純那ちゃんだ。
黒色の傘をさして、息を切らしている。
「どうしたの、そんなに走って」
「どうしたも何も、傘持ってってなかったでしょ」
そう言う彼女の手には、もう1本閉じられた傘が握られていた。
「わざわざ届けに?」
「そうでもしないとジーン・ケリーみたいに濡れて帰ってくるでしょう」
どうやら学級委員長であるルームメイトには、私の性格が見抜かれているらしい。
″雨に唄えば″を街中で歌う事態は回避されたようだ。
「とは言っても、もうだいぶ手遅れな気もするわね」
「うん、もう走って帰ってもいい変わらない気がするんだ」
「ダメ。風邪引く」
ブレザーのポケットからハンカチを取り出して、私の髪から水滴を弾く。
「ほら、傘さして。寮に帰ってお風呂浴びるよ」
「うん。ありがとね、純那ちゃん」
「気にしないでいいわよ。普段は世話を焼かれてるんだから」
2人で並んで帰路につく。ちょっと早歩きで、結局2人で″雨に唄えば″を口ずさみながら。
雨は威力を増す一方だったけど、今の私たちの帰り道を彩ってくれる演出の一部なのだと捉えたら、そんなことも気にならなくなった。
歌詞なきメロディーを口ずさむ。
クロちゃんと真矢ちゃんから教えてもらった、タップダンスを披露しながら。ソックスが濡れたけど、ストックはある。気にしない気にしない。
雨の中で歌ってるの。
特に意味はないけど歌ってるの。
なんて晴れやかな気分。
嬉しさがこみ上げてくるわ。
歌詞を自分なりに、私たちは女性だから、女性口調で独自の和訳を披露する。
ジーン・ケリーほど輝いてないだろうけど、主役を張るには充分過ぎるぐらいだと自負しちゃうほどに、私たちは土砂降りの帰り道を楽しんだ。
寮のお風呂でひと段落して、髪をドライヤーで乾かして、自分たちの部屋に戻ってまた一息つく。
「楽しかったね」
「すごい濡れちゃっけど…″雨に唄えば″の世界に入った気分だったわ」
「そしたら、ドンが2人いることになるね」
「それはそれで面白いかも」
椅子に腰掛けて、眼鏡のレンズを拭く。
彼女の素の、まだ垢抜けない可愛らしい顔が露わになる。
「純那ちゃん、眼鏡かけてない時もすごく可愛いよね」
「そ、そんなことないわよ」
「ううん。本当に可愛いと思うよ」
「…ななは人の調子を狂わせるのが上手ね」
レンズを拭き終えた眼鏡をかける。いつもの、可愛らしい我らが学級委員長だ。
「スタァライトは楽しかったなー」
「そうね。悔しかったけど、楽しくもあったわ」
第99回聖翔祭、プログラム名–––––″スタァライト″。
主演は演劇界のサラブレッドである天堂真矢。準主役には天才子役である西條クロディーヌ。
汗水を流し、苦楽を共にして作り上げた、至福の舞台劇。
観客からの拍手は鳴り止まなくて、先生からのお褒めの言葉ももらえた。
そして何より、私が私の居場所を見つけることができた、キッカケともいえる舞台劇だ。
純那ちゃんは主役に選ばれなかったことを、今でも気にしている。
純那ちゃんは、多分だけど99期生の中だと1番主役への執着が強い。それは、真矢ちゃんやクロちゃんよりも。
「やっぱり、あの2人は凄いよね」
「ええ、確かに凄い。けど、超えられない壁ではないはずよ」
声音を強く太くして言う。
「私はあの2人に比べてスタイルも良くないし、経歴にも差がある。でも、それを努力で補ってみせる」
手に持っていた紙をグシャリ、と握りつぶす。力がドンドン強くなる。
比例するように、声音も口調も強くなる。
「私は、絶対にトップに立ってみせる。じゃないと、家族を裏切った意味が、無くなってしまう…」
「純那ちゃん」
見えない黒い壁に追い詰められた純那ちゃんを、そっと後ろから抱きしめる。優しく、包み込むように。
「純那ちゃんが頑張っているのは、全て私が知ってるから」
「なな…」
「肩に力を入れすぎだよ。マッサージする?」
そんな事を言う私は、たぶん悪魔なのだ。
私の起こしている行動は、純那ちゃんの––––––いや、真矢ちゃんやクロちゃん、99期生のみんなを裏切るカタチになってしまっているのかもしれない。
そんな裏切りの対象である彼女を、私は抱きしめて、優しく声を耳元で囁いている。
私には光というものがよくわかってない。
スポットライトにあたる意味を、理解してない。
光なんて、ただ遠くにあって眩しいものだ。
それは、舞台に生きる少女としては、重大な欠点なのだろう。
だけど、私は光を浴びた。
栄冠を手にし、ポジション・ゼロに立った。
だけど私はそんな主役なんてモノに興味は湧かなかった。
ただ、みんなと一緒にあの瞬間を味わいたい。また、スタァライトを演じて、笑顔で終えたい。
何度も、何度でも、何度だって。
だって、独りにはもうなりたくないから。
「ななは、やさしいのね」
純那ちゃんは私の腕を滑らかになぞる。
やさしい。
胸に突き刺さるわけではないけど、強く頭の中で木霊する言葉だ。
「あなたのやさしさは、とても綺麗よ」
「私は、純那ちゃんのその頑張りが、輝いて見えるよ」
「…ありがとう」
純那ちゃんのその不屈の心は、私にはないもので、手を伸ばしても届かない太陽のように、とても眩しい。
「…そうね、マッサージ、お願いしようかしら」
プレッシャーからの解放からか、声が先ほどに比べて軽くなった。
「お安い御用」
まだ私の手を触れる純那ちゃん。
撫でたからと思ったら、力なく掴む。
「ねぇ、なな。体をちゃんと温めた?あなた–––––少し冷たいわ」
––––––冷たい。
身体が冷たい人は、心が暖かいと云う。
それはきっと迷信だ。
だって、私の心は、こうも冷たい。氷のように、私ですら冷たいと感じてしまうほどに、冷えきっているのだ。
「––––––そう。私、冷たいんだ」
たぶん、あなたの情熱を冷ましてしまうほどに。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
交差し、響く金属音。
「くっ–––––」
漏れた声から1秒遅れて、赤い上掛けが地に堕ちる。
レイピアを地に突き刺し、膝が折れる。
その瞬間に、真矢ちゃんの敗北が決定した。
「ななさん、あなた」
挫折という味を初めて知った、屈辱に歪んだ美しかった顔を私に向ける。
彼女はその感情を初めて知った。
挫折、屈辱、悔恨、絶望、自己嫌悪–––––あらゆるネガティブな感情を、一気に流し込まれただろう。
だけど、私にとっては、そんな崩れた真矢ちゃんの顔を見るのは幾度目だ。
寸分違わぬ––––いや、同じ顔だ。何も変わらない。変わってない。
何かを言おうと、口を大きく開く。
しかし、それは舞台袖によって遮られ、天堂真矢は舞台から姿を消した。
そして訪れる、
「––––何度目かは覚えてませんが、まだ続けますか?」
「続けるわ」
「では、再びあの日を」
その一言で、世界は再び逆行した。
何もかも、私とキリン以外の全てが元に戻った、2017年4月17日。
隣には
そしてまた始まる。
私にとっては
再演の開演までの準備期間。
台本の読み合わせ、衣装作り、照明の明るさ、ゲネプロ–––––全て、同じだ。
部屋に飾ってあるカレンダーも元に戻る。
何枚もめくって、年末になったら純那ちゃんと選んだ2018年バージョンに入れ替えた。
そんなことも、時間の逆行とともに泡となって消えた。
くたびれた台本と、日常を収めた携帯電話を鞄に入れて、私は歩き出す。
2017年4月17日。
今日も私は、今日を生きる。
ばななのレヴューが待ち遠しい。