彼の言葉をここに記そう。
『かつての決闘がフェンシングとなったように、スポーツになるとは平穏の証である。
だからこそDer Weg eines panzerkanpfwagen(戦車道)は、戦争から最も遠いものでなくてはならない』」
山鹿涼『日本の学園都市』より
RRRRRRRRR
アラーム音が部屋に響く。
「撃たないでください!投降です!」
いるかの時計のヒレを押すと、アラーム音ではなくベッドから落ちる音、そして背中から振動が脳内へ響いた。
「わわっ」
目を開けるとそこは白かった。まもなくそれが雲と煙ではなく、天井だと分かった。自分の部屋……か。空気が、非常に綺麗だ。咳とは無縁だ。微笑みながらのんびり立ち上がり、窓際に行く。外が明るい。
ここにはもう私を殺そうとする人はいない。窓を開けて命を狙われることもなければ、日常的に護衛がつけられることもなければ、夜に大きな音を出さないように気を配る必要もなく、命を賭ける場所に向かう必要もない。
雨戸を音を立てて開ける。窓際を蝶が舞い、目の前の道路には鳩が舞い降りてきている。
朝起きた時にあと数時間で死ぬ、と覚悟するような日は来ない。いつか、何十年も先、これまでの人生の期間を何度も繰り返した先、おばあちゃんになって病気か寿命で死ぬまで生きられる。
空は快晴。少しの雲もない。予想できない、まるで無限の時間。こんなに自由で素晴らしいことはない。
「もう……うちじゃないんだ!」
ゆっくりと布団を三つ折りにして、初めて着る制服に手をかけた。
それでも長年の癖は抜けないもので、外で鍵を開けた後数秒無音状態を作って外に気配がないことを確かめ、出てからも左右をさっと見る。
「ととっ」
家を出る前にもう一度鍵を確認し、出発。階段を下った先にいたのは、犬をつれる人、美味しそうな匂い溢れるパン屋さん、笑いながら登校する今日からの同級生、先輩、後輩。外の人は皆今日を生きている活気に満ち溢れているように感じられる。
日常の生活でも歩兵SSに睨まれている前の学校とは大違いだ。歩いている間に大きな校舎が何棟も並ぶのが見える。校舎についた青と白の大の紋がのびのびとした感じを強調している。きっとここの校風もその通りなのだろう。
それともう一つ気になったことがあった。それは私が学生だと思った人間は皆一様な制服、一切違いのない制服を着ていたことである。ここには軍人はいない。唯一とも呼べる治安組織である風紀委員も、腕章を除けば制服であった。恐れるものがないほど、平穏なのだろう。
普通一科A組、ここが今日から私のクラス。部屋の中からは友と久しぶりに会ったことによるものであろう陽気な話し声が伝わる。
「おはようございます。皆さん最後の夏休みはいかが過ごしましたか?来年は受験勉強の為、……」
ドアの向こうから先生の声が聞こえる。それでも若干の話し声は残る。よく許されているな、と僅かに感心した。
「それでは転校生を紹介します」
ガラッとドアが思いっきり開く。
「西住さん、入ってください」
「え、あ、はい!」
教壇の前に立って先生が肩を軽く叩く。
「こちらが転校生の西住みほさん。西住さん、一言よろしく」
「え……熊本から来ました西住……みほです。えっ……と、よ、よろしくお願いします」
「ありがとう、それでは西住さんは左奥の方のあそこの空席に座ってください」
「は、はい」
実に強引な方だ。その日はホームルームと始業式だけだった。どうやら生徒会長は角谷という人らしい。この学園の生徒会長はかなり権限が強いと聞いたことがある。その割には周囲に武器を持った護衛らしき者もいない。本当に安全な土地なのだろう。私は今日だけでそれを何度実感すればいいのか。
次の日、今日から通常授業だ。生き生きしている皆の様子とは裏腹に、私に話しかけようとする人は4限の終わりまでいなかった。
昼休みが始まる前に私は筆箱をしまおうとすると滑って定規を落としてしまった。拾おうと机の下に潜ると頭をぶつけ、ペンが左側に落ちてきた。それを拾おうとすると今度は机の脚にぶつかり、机の上に立ていた筆箱が倒れ、中身が床にぶちまけられた。それらをやっとの思いで集めて、席に座っていた。虚無感が覆い、一つため息をついた。
私は筆箱さえ操れないのか。
「ヘイ彼女っ!一緒にごはんどう?」
その覆いを打破する明るい声が、私の心にするすると入り込んできた。
左右に人がいないことを確認し、後ろを振り返ると茶色の髪の癖っ毛の人と黒髪のストレートの人が立っていた。
「沙織さん、西住さん驚いてらっしゃるでは無いですか」
「あっ、いきなりごめんね」
「突然申し訳ありません。よろしければお昼ご一緒しませんか?」
ストレートな黒髪を持つ人が軽く頭を下げてから高貴な口調で聞いた。
「わ、私とでしょうか?」
急だったため理解が追いつかなかったが、2人は揃って微笑みながら頷いていたので、話に乗ることにした。同学年の人と飯を共に食べるなど久しぶりのことである。普通はいきなり接近してきた彼女らに疑ってかかるべきだが、持ち物にそれを裏付けるものがなく、二人のデータから考えてすでに候補からは外しており、なにより彼女らの笑顔が私をそうさせた。
私は二人とともに食堂に向い、盆を取り、それぞれ注文して待つ。
「えへへ、ナンパしちゃった。自己紹介まだだったね。私はね」
「武部沙織さん。6月22日生まれ」
「えっ?」
「五十鈴華さん。12月16日生まれ、ですよね」
「はい」
「すごーい!誕生日まで覚えててくれたんだ!」
「うん、一応、ですけど」
彼女らが私がそれを知ろうとした理由など知らない方がいい。そうしている間に私の盆の上に鯖の味噌煮が来て、ごはんと味噌汁がその左右についた。
「行っとき」
正面の店のおばちゃんが言う。
「えっ、でもまだ漬け物が……」
「あんたら三人友達同士だろ。席取ってきな。漬け物ならこの子に2つあげとくから」
目が輝いてきた。中年後半の彼女の顔ですら10は若く見え、体の中から込み上げてくる何かを感じる。踊るように席に行こうとしたが、バランスを崩して盆のものを落としてしまいそうだった。何とか回避したが。私のおっちょこちょいだけは死んでも治るまい。幸い近場に四人分の机が空いていた。
「よかったです、武部さん達が声かけてくださって。私1人で大洗に引っ越して来たもので」
「そっかあ〜。まあ人生色々あるよね。泥沼の三角関係とか、告白する前に振られるとか、五股かけられるとか」
「えっ……と」
お前は急に何を言ってるんだ?人間同士の関係はこのようなものだったか?私も私だが、もしこれらが事実なら、いや事実が寸分でも混じっているなら、正直この武部さんがどのような人生を過ごしたか気になる。
「そうだ!名前で呼んでいい?」
武部さんが聞いてきた。なにがそうだ、なのかは分からないが、口がすでに横一文字に広げたまま動かない。
「構いませんよ」
「じゃみほ、聞いてよー。なんか最近多くの男の人に話しかけられるんだけど」
いきなりタメ口かい。
「どんな感じにですか?」
「おはよう、とか今日も元気だねっ、とか」
「武部さん、明るくて親しみやすそうですからね。誰とでもすぐ仲良く出来るとは素晴らしいことだと思いますよ」
これが精一杯のフォローである。いや、本当に。
「それはモテとは違うものだといつも言っているではありませんか」
五十鈴さんが盆にラーメンと山盛りの野菜炒めと大盛りごはんと味噌汁を持ってきた。やはりそうか。こちらの人の方が見た目から信頼できる。というか、その飯は一人分なのか?分けて貰っても困るだけなのだが。
「そうだ、西住さん。漬け物をお渡ししますわ」
「何よ華、もー!」
「お話もよろしいですが早めに御飯を頂いてしまいましょう」
「それもそうですね」
「いただきます」
全員手を合わせ、武部さんは納豆、五十鈴さんは味噌汁、私は魚に手をつけた。私は周りの様子を確認していたが、2人に少し不思議がられたようなのでやめておいた。少しでも話をしようと、武部さんのさつま芋の煮物を見て聞いた。
「大洗ってさつま芋が有名でしたよね」
「そうそう。干し芋とか、一部では乾燥芋っていうらしいよ」
「そうなんですか」
「そうだ今度さつま芋アイスの店行かない?」
「そんな店があるのですか?」
「うん。色々とトッピングの種類もあって美味しいよ。今日は必修選択科目の練習があるから無理だけど」
「お茶をしに行くとか女子高生みたいですね」
「私達は女子高生ですわ」
……言われてみれば。
「そういえば西住さんは必修選択科目は何になさいますの?」
「えっ……と、すみません。必修選択科目とは……」
「紙もらってないの?あの先生豪快だけど忘れっぽいからねー。必修選択科目っていうのは、伝統的なものから一つ選択して乙女の嗜みとして学ぶっていうもので、」
「私達は戦車道を選択しているのです」
「せ、戦車道!」
私はその言葉を聞いてすぐに肩をすくめて、少し大きめの声を出した。周りの注意を引いてないかサッと確かめるが、それほどでもないのが幸いだ。だが顔がみるみるうちに青くなるのが自分でもわかる。馬鹿な……
「どうなさいました?」
「この学校、戦車道の授業ないと伺っていたのですが……」
私は身を乗り出して顔を五十鈴さんの方に寄せた。それが嘘であることを願って。
「数年後日本で戦車道世界大会が行われるので文科省から通達があり、今年から導入されたそうです」
だがそれは実に容易く破壊された。
「……五十鈴さんと武部さんはなぜ戦車道を?」
なぜ……この2人が?私のいた世界には似つかない2人が?
「と申しますと?」
「あ……えっと、五十鈴さんのような方ですとなんか香道とか茶道、華道などが似合うかな……と思いまして」
「私の家は代々華道の家元の家系なんですけど、アクティブなことをして新境地を開きたくて。」
「私は戦車道やるとモテるって聞いたから。そういえばなんでみほはこんな時期に転校して来たの?」
「………」
うつむき押し黙る。聞く必要はない、そのはずだ。それに何なのだ、彼女らのこの理由は……
「でも必修選択科目は自由に選べるから」
「それよりも早く食べないとお昼休み終わってしまいますよ」
「そ、そうだねみほ。早く食べよう」
「はい……」
五十鈴さんが盆の上の物を全て平らげたことは、戦車道がこの平穏な地にあることと比べれば些細なことでしかなかった。
5限目が終わると、廊下から足音が聞こえてきた。そしてクラスの前から長身の片眼鏡をかけた生徒とそれより背が少し小さいが胸のある生徒に挟まれて、始業式で見た小さな生徒が干し芋を食べながら入って来た。クラスの者が口々に生徒会長だ、なんで生徒会が、誰に用だ、などと言っている。
「えっと……」
会長さんは分かるが、他の2人が何者か分からない。
「片眼鏡で目つき怖そうなのが広報の河嶋さん。温厚そうなのが副会長の小山さん。そして小さいのが会長の角谷さん」
沙織さんが教えてくれた。
「会長、あの者です」
教壇上にて片眼鏡の生徒が私の方を指差す。この学園の主が私なんかに用だろうか?
「やあっ、西住ちゃーん」
その小さな生徒が左手を挙げて明るそうに言う。視線は明らかにこちらだ。
「えっ、はい?」
「西住みほ、少々話がある。教室の外に出ろ」
席に座る私を河嶋と言われる人は上から見下ろした。3人に連れられて教室の外に出る。
「必修選択科目なんだけどさ、戦車道選んでね、ヨロシク〜」
何を言っているかもう一度聴きなおそうとした。
「戦車道やってね」
私が聞く前にそう言いつつ会長は顔を近づけた。確定だ。
だがとりあえず何か言い返さねば……
「えっ……あのっ、ひ、必修選択科目ってじ、自由に選べるんじゃ……」
「いゃぁー運命だねぇー。君は戦車道をやる運命にあるんだよ。
大丈夫、うちらは西住ちゃんがやってた物騒な硬式には参加しなくて、軟式の方にしか参加しないから。とにかくヨロシク」
会長が私の左肩を叩いてきた。私のは体をビクッと反射的に震える。威圧感だ。この小さな身から湧き出る、武器も持っていないのに湧き出る威圧感だ。それが私の体を強張らせている。
「じゃ、行くよ」
「はい」
すると片眼鏡の女が私に耳打ちした。
「貴様に選択しないという選択肢はない」
「かーしま、行くぞ」
「はい」
3人は最初と同じ並びで教室から出て行った。
私の目の焦点は定まらなくなった。後から思い返してもこの間に何を視界に入れていたか思い出すことはできない。どこか現実にはない物をその視界に収めていた気分だった。その目を保持したまま6限に突入した。
『君は戦車道をやる運命にあるんだよ』
『貴様に選択しないという選択肢はない』
それらの言葉が私に重くのしかかっていた。生徒会が何を考えているのか。なぜここが戦車道を?
軍備保持?この海によって陸から隔離されたこの学園艦で?見た感じ目立った生産設備もないし、他校から見ても占領の価値はないだろう。生徒数的に投資の価値も薄い。
権力強化?様子を見た限り権限が強いという話は本当のようだし、治安も安定している。これ以上必要なのか?疑念と不信感が私を包み込む。
「じゃあー、次の問題。西住さん」
私の耳元を波が過ぎ去る。
「西住さん?大丈夫?」
「みほ!」
武部さんが声をかけると、私の体は少し反応したが、別に彼女や先生を見ているわけではない。
「どうしたの?体調悪いなら保健室行ってきなさい」
そう言われ、何も言わずゆっくり立ち上がり、指示に流された。
保健室のベッドは6つの内3つが埋まっていた。
「今日はやけに病人が多いわね。ま、しっかり休みなさい」
保健室の先生は去った。私の両隣が埋まっているのだ。そこにいたのは武部さんと五十鈴さんであった。
「みほ、どうしたの?」
「すみません、少し……」
なぜ彼女らがここに居るのかは良いとして、幾分か心が落ち着いた。保健室までの道中は良く覚えていないが、先程から薄く黒くなっている白い天井が認識できる。
「生徒会の方々に何か言われたのですか?」
五十鈴さんも右を見るよう寝返りをうってきた。
「そういえばどうしてこんな時期に転校してきたの?彼氏に振られた?」
「いや、そういうことではなくて……」
本当にこの武部さんの脳細胞を1つずつ見て見たい気もする。それよりも私はこの問いに答えるべきだろうか、との問題が浮かぶ。少し考えたが、答えることにした。そうでなければずっと会うたびに聞かれそうな気がしたのだ。
「実は私の一家は戦車乗りの家系で、」
「へぇー」
「まぁ、そうなりますと遺産相続とか次期当主をめぐる骨肉の争いとかですの?」
「いや、そういうことでもなくて……私以前は戦車道に励んでおりましたけれども、親から破門されてしまいまして、恥ずかしながら戦車道を避けて逃げて参りました」
その話を聞いた武部さんは顔を引きつらせているが、五十鈴さんはあまり変わっていない風に見える。
「そうだったんだ……いや、なんかごめんね……」
「構いません」
「……私も同じなんですよ、みほさん」
「えっ?」
「私も戦車道をやったために親から勘当されているんです。
それでも私は戦車道を通じて、これまでと違う人のものではない自分の道、自分の華道を見つけたいんです。ですからみほさんも破門にされたことを逆手にとって自分の道を探ってみてはどうでしょう?」
「自分の……道」
不意にチャイムが鳴り響く。
「授業終わってしまいましたね。せっかくくつろいでいましたのに」
「この後はホームルームだけだね。とりあえず先生に言って選択科目の紙を貰おうよ」
「そうですね。申し訳ありません、つまらない話を聞いてくださって」
「とんでもないです」
私は2人の付き添いを断り、一人で家路に着いた。何でだろうな、一緒にいたら根本も全てあからさまにしてしまいそうだから、か。
その日の夜寝床で選択科目の紙と向かい合っていた。腕には体の左肩から右脇腹へ包帯が巻かれたクマの人形を抱えている。榴弾が斜面に命中し崩れる音。川に滑り落ち沈むIII号の姿。川に降りキューポラを開け戻ってきてから嗅いだ煙の匂い。
それらが一通り終わると次は銃声、鮮血の熱、手から感覚が薄れ地面から聞こえる金属音。そして砲声、機銃音、叫び声。
目を瞑りクマの人形を力強く抱きしめた。眼前にはあの時の光景が寸分狂わず浮かび上がってくる。
「自分の……道……」
微かな望みをかけて昼間五十鈴さんに言われた言葉を頭の中で繰り返す。だが一瞬の希望は昔の罵声と恐怖にかき消された。