朱子
2073年6月18日 日曜日 夜
少し高めだが、気に障らない音楽がそのプログラムの始まりを告げる。
「どうもこんばんは。竹山です」
黒髪に白髪の混じる紳士が一礼する。背景には黒と白のみ、されど大河を表していると一目見てわかる。
「大和撫子の武道とされます戦車道について、皆様どれほどご存知でしょうか。
現在夏の全国高校生大会には40校近くが参加し、男子は甲子園、女子は東富士と呼ばれるほどの人気を誇る、今や日本有数の人気スポーツとなるほど大きく発展しております。その名を知らぬ方はそういらっしゃらないでしょう」
今年の大会の表彰式と思われる映像が流される。ウチの学校ではないが、和かな顔をしてトロフィーを掲げる子供達の姿。この顔だけはなかなか変わらない。
「しかし今でこそ平和なスポーツであるこの競技が、これまでの幾度となく日本の、そして世界の歴史に振り回され、苦難に直面してきた歴史をご存知でしょうか?
若き学生が戦場に行き、戦車道の名の下血で血を洗う戦いに身を投じざるを得なかった。そのような時代が、確かに存在したのです」
今まで何度も、そういう類の番組が組まれるたびに流れてきたものだ。最近のよりは遥かに古めかしい。
「『大樹の雫』、本日の「雫」は2012年12月11日、と致したいと思います。
これは、学園都市の雄とされた黒森峰女学園が、プラウダ学園とサンダース大学らによって陥落した時、でございます。この時、それは硬式戦車道の試合へと変更された第74回高校戦車道大会の、決勝戦の最中でございました。その最中に起こった戦車道による武力侵攻。
今回はなぜそのような事態に至ったのか。そもそもの戦車道成立経緯から、日本の学園都市への影響を経て語ってまいりたいと思います」
〜大樹の雫〜
川べりに立つ木から零れ落ちる一滴の雫。その一滴には木が育つ歴史があり、そして川面に落ちた雫は辺りに波紋を広げていきます。その小さな雫から、大きな歴史を紐解いていきましょう。
大樹の章 「戦車の道」
「戦車道の歴史は、第一次世界大戦の終わりからお話しなくてはなりません。第一次世界大戦は1917年のアメリカの参戦と翌年のドイツの春季攻勢の失敗を経て同盟国側の敗戦で終わり、さらに翌年のヴェルサイユ条約でドイツは多額の賠償金を背負わされ、領土、軍備に大きな制約を課されました。
その少し前に二月革命、十月革命を経てロマノフ王朝を受け継いだ臨時政府は打倒され、共産国家ソヴィエト連邦が誕生しました。ソヴィエト政権は帝政時代に結ばれたあらゆる契約に義務を負わないとして対外債務を破棄すると通告しました。
欧州諸国や日本ははこれに反発するとともに、共産主義の拡散による国内の革命を防ぐため、反ソヴィエトを標榜するウラーンゲリやサヴィンコフ、デニーキンら白軍を支援し、対ソ干渉戦争を始めます。日本の寺内正毅政権もシベリア出兵を行いました。
しかし赤軍の至宝と呼ばれるミハイル=トハチェフスキー率いる赤軍に敗れ、ポーランド・ソヴィエト戦争を除けば各国の干渉は失敗に終わります。
欧州の嫌われ者となったドイツとソヴィエト連邦は、共にポーランドと対立していたこともあり、双方に反対する意見は多かったもののラパッロ条約を結び、互いに手を結び国際的孤立から脱する、という策を打ったのです」
画面の地図の中ではドイツとソヴィエトから手が伸びて結ばれており、その中でイタリア辺りに赤い点が示されている。
「協商国の反撃などにて戦車の突破力を身に染みて感じたドイツ軍の将軍達でしたが、ヴェルサイユ条約により戦車の国内製造、輸入ともに禁止されていました。
そのためゼークトら将軍達はソヴィエトと秘密協定を結び、西側諸国の監視の及ばないソビエト領内各地にドイツの武器製造、訓練施設を建設することとします。
ドイツはそこに優秀な人材を続々と送り、密かに実地訓練を積ませました。ソビエト赤軍の士官達も机を並べ、共に最新の研究を学んでいたのです。
ソヴィエト連邦内の戦車工場は初めトラクター工場に偽装されていました。しかしソヴィエト連邦がイギリスなど諸国との国交を樹立し始める中、各国がこの動きに疑問を抱き始めます。また実際に大規模な戦車の運用訓練を行う必要性に迫られるようにもなっていました。
これを受け、ドイツ軍部は1926年、若者の健全で規律正しい育成を目指すスポーツとして
『Der Weg eines panzerkampfwagen』
を立ち上げるよう政府に要求しました。この前年にロカルノ条約を結びドーズ案により賠償金の減額が進む中、再び英仏の不信を煽るとの反対もあったものの、当時の外交を指揮していたシュトレーゼマン外相がこれを認めます。結果としてその年、ドイツ戦車道普及協会が設立されます。
ドイツ政府及び軍部は戦車道のスポーツ面及び非軍事性を強調するため、積極的に子供や女性をメンバーに加えるとともに、ルール面においても戦車同士の試合であることを強調しました。当時の軍事世界では戦車は塹壕線を突破するものであり、戦車同士の戦いは想定されていなかったのです。
こうして少女が模型の戦車に乗って、機銃弾にて模擬戦を行う、現在に続く戦車道の概念の基礎が築かれたのです。ナチス政権成立後もこれは継続、拡大され、ドイツ女子同盟の体育教科として導入されました」
背景は戦車の前で並ぶ少女らに変わる。楽しげな顔が印象的だ。皮肉だな。あの時の少女達も連想される。
「他の欧米諸国も戦車道の教育的な効果を認め、こぞって導入しました。これは次の戦争を見据えた軍備増強の一面もありましたが、やはりドイツ軍部の平和利用のための策が目論見通りにいった部分は大きかったのです。
日本も各国の導入を受けて、帝國戦車道教導団を筆頭に、各地に相次ぎ戦車道団体が生まれ、それらを纏める大日本帝國戦車道連合、後の日本戦車道連盟も設立させました。
国としては自国産戦車の計画が進む中で、その利用拡大を測ろうとしていましたが、昭和初期の相次ぐ不況と教導団代表の西住かほの尽力により、家柄を限定し他の日本古武道の考えを加えた大和撫子の嗜みとして発展していきました。
彼女は後に西住流という戦車道の流派を確立し、西住流初代家元として戦前の戦車道発展に貢献しました。西住流は後に黒森峰女学園と組み、戦後戦車道の主流の地位を獲得していきます」
あの子の面影が、いやこの人の面影が、あの子にはあるのね。きっと彼女もそうあろうとしたのかしら。
「そして戦車道は各地で導入され、1928年に第1回全国専門学校・女子高等師範学校生戦車道大会が行われたのです。今に知られる学校としては、相模女子大学、東京女子大学、東京家政大学、大阪樟蔭女子大学、お茶の水女子大学などの前身が参加しました。
ベルリン五輪と同年の1936年に五輪スタジアムで行われた第1回戦車道世界大会では、決勝戦で日本代表がドイツ代表を破り優勝し、その際の行動が勝っても相手を思いやる大和撫子の精神として世界の注目の的になりました。日本が国際的孤立を深めていた情勢にもかかわらず、当時の画像の一部は当時では珍しいカラーフィルムが使われています」
画像は互いに握手し称え合う黒い服の長髪の少女と黄土色に近い服の短髪の少女の姿が映る。
「しかし日中戦争勃発を受けて同年の全国大会を最後に戦車道は中止へ向かい、第ニ次世界大戦時に全ての戦車が帝国陸軍に供出されたことで戦車道は廃止され、戦車道連盟は陸軍省に完全に吸収されます。
第二次世界大戦にて戦車の生産力で劣っていた日本軍は、第二次世界大戦後半には陸上戦にて中国軍以外から勝利を得られなくなります。戦線を突破する戦車を止めるためにより多くの、より質の高い戦車を投入する、それは20世紀の戦車戦の現れであり、戦車道が戦争そのもの、とされ得る姿でした。
さらに東西冷戦が本格化する様子を見せると、それと共に戦車研究も加速します。そして分割されたベルリンにて、緊張解消と互いの戦力を図るべく、中隊規模での戦車戦が設定されます。これが初の硬式戦車道である、とされています。
しかしこれは本格的に雪解けへと繋がると中止され、欧米各国は復活した戦車道での安全化と、そのための使用車輌の制限を一層進めていきます」
アイゼンハワーとフルシチョフの接近。昔世界史でかじっていたのが懐かしくなる。
「敗戦後、連合国により占領された日本でも、戦車道の復活が謳われるようになりました。GHQは日本国憲法の男女平等に則るためとして、1950年の警察予備隊設立と同時に日本戦車道連盟を復活を承認。ただし世界の動きとは異なり実弾使用を命じ、対米協調による講和を目指す吉川繁政権はこれを受け入れました。これは将来的な日本の再軍備のために、戦車戦の経験値を与えておく為だったと言われています。
先ほどの経緯もあり国内で反発は大きかったのですが、当時の西住流ニ代家元西住ちほが実弾戦車道を朝鮮半島有事、インドシナ戦争の長期化などの国際情勢に触れた上で
『非常時に最高の策をとれる人間を求めている』
と賛意を表したことで正面からの反発は収まり、高校生による年一回実弾での大会の導入が決定され、1950年、第12回全国高等学校生戦車道大会が開催されました。
戦前以来の大和撫子のスポーツとしての形、一方でドイツでの硬式の形を受け継いでいるため、その現実は大将車輌の死をかけた一騎打ち、というなかなか歪な戦車道は、こうして誕生したのです」
つまり大人の事情が子供を左右したわけだ。もっともそれは大人をも振り回す存在だが。
「その後各国の研究による自動判定装置、炭素繊維による内面保護の強化、貫通性のより少ない砲弾の開発により、安全性が強化された戦車道として軟式戦車道が登場。世界各地に広がりを見せます。
当初は連盟はこれを公認しませんでしたが、日本国内でも発展を続けていき、1971年に連盟も軟式大会を公認しました。
対して実弾を使い死傷者の出る硬式戦車道は脱退校が相次ぎ、1958年の硬式第20回大会は32校参加していたのに対し、1984年の硬式第46回大会の参加校はたったの13校という有様でした。これは硬式戦車道に参加していた当時の覇権校、湾岸ジュリアナ高校が連盟に対する強い発言権を用い、数で勝るものが有利となるようにルール改定を行ったのが理由の一つと言われています。
この時改定されたルールは2013年までプロテスタント組織熊本バンドをルーツにしてドイツ式戦車を保有する黒森峰女学園と、ソヴィエト連邦からの亡命者を中心につくられ、スターリン批判後はソヴィエト連邦と提携したプラウダ学園が拒否権を行使しあった為、なかなか改定が進みませんでした。
こうして軟式戦車道が主流となる一方で硬式戦車道が存在する、という状況が生まれたのです」
そして私たちがいたのは、その終わりの近くだった。
「戦車道とは車輌そのものや整備費を含めても、本来かなりの費用を要するものでございます。したがって戦後の畔政権、沼田政権期に行われた第一次、第二次学園都市建艦計画により誕生した学園都市が、その資金力を元手に戦車道を牽引する母体となりました。
また民主主義の母体となる自治意識を学生期に実践的に育成すべき、との主張から、1953年に資本主義諸国間で世界学園都市自治協定が結ばれます。日本もこれを批准し、学園艦、学園都市には大幅な自治権が与えられることとなったのです。
この二つにより、学園都市は自身の体制を実力面で保障するものの一角として、戦車道を自らの体制下に取り込んでいきます。実際に1960年代後半以後学生運動が過激化してくると運動部だけでは対処しきれず、戦車道部隊を投入する事態は散見されます。その中でも大きなものとして、旧BC学園における赤軍BC蜂起の鎮圧が挙げられます」
映像ではS35の集団がショットガンを発砲している集団に対し、断続的に7.5ミリ機関銃の弾をばら撒いている。その先にあるはずの死体の山は、映ることはない。
「1973年、第四次中東戦争を受けてAPECが石油減産を打ち出したことによるオイルショック、1976年のウランの主要採掘国であるカナダが、ケベック州の独立運動を武力弾圧したことによる国連の制裁を受けて、ウラン禁輸を打ち出したことによるウランショックにより、学園艦の維持費用は増大します。さらにそれらによる国内の経済成長の停滞も見過ごせるものではなくなってきておりました。
これを受け当時の阿藤、畑中、福岡政権は内需拡大と過疎化の進んでいた地方を再生するための拠点として学園都市を移設し、活用していくことを発表。二度の学園艦移設計画により学園艦が多く廃止され地上に移設されました。
このことによって新体制の成立、確立が追いつかない各校に、新都市建設による費用不足が広がり、また湾岸ジュリアナ学園の横暴、汚職の連鎖が世に知れるに連れて世間の目が冷たくなったこともあり、戦車を売却する、または戦車道を廃止する学園都市は大幅に増加します。特に硬式戦車道の退潮は著しく、1987年には大会番号を受け継ぐのは軟式戦車道の方に変更されたほどです。
2012年時は軟式大会に16校、硬式大会に7校が参加し、軟式大会、硬式大会はそれぞれ年1回行われていました」
背景は海外に転売する為に輸送される戦車と、それを悲しそうに見つめる少女達の映像が流れている。嘆かわしいが……これが続けばまたそれはそれで良かったのかもしれない。
「硬式大会はほぼ黒森峰女学園とプラウダ学園の争いの場と化していました。それまでフラッグ車同士の一騎打ちが主流だったのに対して、この二校での試合は両校の総力を賭けた試合となりました。
この背景には学園都市を巡る大きな派閥の違いがあります。学園都市が学園艦から本土に移設された際、地元民との確執は避けられないものとなりました。そこで学園艦以来の伝統を守ることで校内を、ひいては都市内を安定させようとする校粋主義と、むしろ学園艦の伝統は放棄してでも移設先に歩み寄ろうとする融和主義に学園都市の道は引き裂かれることとなります。
この対立の主軸を担っていたのが、校粋主義を掲げる黒森峰と、融和主義を掲げるプラウダだったのです。両校はその主張の違い、およびそれを巡る他学園都市への介入、そして国との距離を巡って対立を深めます。相手校の戦力を削るため、互いに総力をかけた試合へと向かったのです。
日プ対立に伴いプラウダ学園地域が戦車道予算を大幅に縮小した為、2002年から2010年まで硬式大会にて黒森峰女学園が9連覇を達成し、また軟式大会においても当時有力だったサンダース大学付属高校が孤立主義化により勢いを失ったこともあり、軟式大会においても黒森峰女学園が9連覇を果たすという、とてつもない偉業を成し遂げました」
あの時は先輩方も誰も黒森峰に勝てるとは思ってなかった。戦えること自体が名誉、そんなことを言う先輩までいた。はっきり言って私はそれが嫌いだった。
「しかしこのかつてない黄金時代に影が差し込みます。2011年、黒森峰女学園は硬式大会、軟式大会ともに優勝を逃します。その代わりにその座を掴んだのは、プラウダ学園でした。青師団内戦に介入し校粋主義的な静野政権を成立させた黒森峰女学園でしたが、これこそがこののちの悲劇の前触れだったのかもしれません」