シラー
後半はかなり暗かった映像が一区切りつけられ、竹山ともう一人の女性がいる画面になる。私もよく知っている顔だ。
「本日は戦車道プロリーグの長崎ウルフズでエース車輌の砲手としてご活躍なさい、最優秀選手賞を4度獲得。引退後はサンダース大学の准教授として戦車道史を研究していらっしゃる増谷直美さんにゲストとしてお越しいただいております。増谷さん、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。増谷です」
ナオミは軽く竹山の礼に答える。無表情に近く凛々しいこの顔が学者っぽいと、こういう話があるとき引っ張ってこられる。確かにシワこそ増えたが、あの頃の顔立ちはよく残っている。
「増谷さん、早速お伺いしますが、戦車道は戦前ドイツでの軍部と政治の妥協の産物であった、と考えてよろしいのでしょうか?」
「はい。当時のワイマール共和国の政権は多党連立にならざるを得ず、非常に不安定でした。さらに共産党などの不安要素もあり、軍部は味方につけておくしかなかったのです。
それでも戦車道創設は大きな問題となりました。だからこそハイパーインフレーションを抑え、外交を主導していたシュトレーゼマンが最終的に決定を下した、と考えられます」
「その結果戦争とは異なった形での戦車を利用したスポーツを形作ろうとした、と」
「シュトレーゼマン本人がこののち、『かつての決闘がフェンシングとなったように、スポーツになるとは平穏の証である。だからこそDer Weg eines panzerkanpfwagen(戦車道)は、戦争から最も遠いものでなくてはならない』と発言していることからも、ワイマール共和国がいかに実質的な戦車保有を誤魔化すかに腐心していたことが分かるかと思います」
「なるほど。しかしそれにしても、戦後アメリカはなぜ日本に対し、それまでの潮流と異なり硬式戦車道を導入させようとしたのでしょうか?」
「一つには再軍備化を進める中で男性の不足が予想されたことです。先の大戦における被害は、わが国でも生産年齢人口層の男性に集中しました。経済を再生させつつ軍備の精鋭化を進めるためにも、それまで実績のある戦車道から人材を確保しようとしたのです」
「ですが育成を名目に殺してしまっては、意味がないのでは?」
「実際に戦場に身を置かねば、敵を躊躇いなく攻撃することはできません。ソ連軍の上陸に即座に第一撃を与える存在として、戦車道参加者らは想定されていたようです。しかし自衛隊が設立、整備され、北海道に方面軍が設置されると、その意味は失われます」
「ではなぜ、その意味を失っても硬式戦車道は残り続けたのでしょう?」
「戦車道は戦前から繋がる営みの一つであり、一時は間違いなく国際協調のピースでした。これの廃止は再び日本を孤立へと導くのではないか、その不安が戦車道廃止への動きを抑制した、とされます。当時はまだ日本以外の国でも硬式戦車道が導入されていたので、問題視されることもありませんでした」
「国際的孤立への不安ですか……」
「やはり国際連盟からの離脱とこの時期、そしてこの先も日本は援助機関の非支援国組織や砂糖の取引協定などの例外は除き、国際機関からの脱退はかなり控えます。これがその後の国内の学園都市運営方針にも影響を及ぼすのです」
「ほう……と仰いますと?」
「学園都市間で紛争や内戦が勃発すると、世界学園都市自治協定から脱退し学園都市の自治権を縮小しようとする動きが、野党はもちろん与党内からも現れます。協定加盟国からの勧告も出されました。しかしこの際も国際機関からの脱退による孤立を恐れ、日本政府はこの勧告を拒絶します」
「結果として学園都市間の争いが収まることはなかった、と」
「そういうことです。1994年の佐々戦争、95年のBC自由内戦、96年のベルヴォール戦争、98年の8.10事件、99年の晴天革命、2004年の黒継戦争、09年のマジャール革命戦争、11年の青師団内戦、そして12年の黒森峰の戦い。この全てに日本政府は直接的な介入ができませんでした。学園都市が保有できる軍備は戦車道連盟規約に則るもののみ、と通達するのが精一杯だったのです」
「なるほど、制御の効かないほどの分権化と硬直的な態度、これがこの悲劇を生み続けた一因と」
「そうなります。学園都市が地方における地盤となったこともありますが。ここに住むのは学生だけではないので、そこを日本民主党が握っておくのは、もともと地方に強い同党にとっても必要なことだったのです」
「そういえば先ほど武装を連盟規約に則るもののみ、すなわち戦前の物だけどされたとありましたが、学園都市の争いが加速する中、何故それは守られたのでしょうか」
「やはり各校が軍拡競争を恐れていた、ということが挙げられます。もともと元の市町村との関係がうまく構築できない時もありましたし、第二次学園都市移設計画の際は各校バブル景気による地価高騰の煽りをもろに受けました。
そしてバブル景気が弾けますと一層の財政難が襲うことになります。軍拡競争をする余裕はなかったうえ、仮に起こったら勝ったとしてもその時には莫大な費用を使い果たしていることになります。その点で政府の通達は上限を定めるのに適切だったのです」
「そういうことだったのですか。増谷先生、ありがとうございます」
ナオミと向き合っていた男が、こちらに向き直った。
「さて、続いては今回の主役、黒森峰女学園についてお話しした上で、この黒森峰の戦いを語る上で欠かせないある人物を取り上げ、『雫』の真髄に迫りましょう」
雫の章「黒き森の闇」
「そもそも黒森峰女学園とはどのような学園だったのでしょうか。明治維新ののち日本に西洋化、近代化の波が押し寄せると、それまで禁止されていたキリスト教にも光が当てられます。
1876年、熊本洋学校に在籍していた士族の子供35人が、熊本城近くの花崗山で奉教趣意書に誓約し、世に言うプロテスタント組織熊本バンドが成立します。洋学校は間もなく廃校とされますが、其処にいた生徒たちは京都など各地に散っていきます。その中で熊本に残った横崎経峰が熊本独語学校を立ち上げます。これが黒森峰女学園のルーツとされています。
これはもともと個人的な信仰を重視するよりは国家主義的な側面の強い団体であったこともあり、熊本独語学校も国政に協力できる人材を育てることを重視します。明治大正期の医療関係者や第一次大戦時の対独諜報、第二次世界大戦前の日独接近にも独語学校関係者が絡んでいます。
戦後、学徒出陣で失われた独語学校を再興しようとする動きも出てきますが、南方の救援として向かった彼らの多くが帰らぬ人となり、また学校として親独寄りだったこともあり、ナチス主義者だと左派を中心に批判を受け、一筋縄にはいきませんでした。
これを受け当時の江部学校長は女子校として学校を再興すると発表。政治色も薄めていきます。後に日本政府が学園艦計画を発表すると、これに応じて採用され名前も改められ、黒森峰女学園が誕生します。
1959年春、第一次学園艦計画により誕生した学園艦としては後発組として誕生した黒森峰女学園学園艦。当時は江部政権が続いており、生徒統制色は薄れます。その結果発想力ある女性人材を生み出す場として、その存在感を示していきます。
しかし学園都市の運営そのものは江部政権幹部が指導しており、それに反発した学生運動が起こる中1969年に江部学園長が辞任し、後任には品田家隆が就任します。彼は独語学校出身であり、その影響もあってかこの後黒森峰女学園は国家主義、教員主導主義へと傾いていきます。
その前段階として、後に親衛隊として恐れられる治安維持隊を、学園長直属組織として立ち上げました。この育成のために呼ばれたのが、当時自衛隊を怪我で退役した身で、後に黒森峰女学園の学園長となる等良智義です」
これが……あのウチで忌み嫌われていたオヤジか。こう見ると杖をついた優しそうなおじさんにしか見えない。こんなのが……我が校、いや日本に多くの人の死をもたらしたというのか?
「品田政権下では治安維持隊を利用し反対運動を鎮圧。一層の学園都市幹部への権力集中を進めていきました。
また同時期には戦車道の主流の一つ、西住流との提携を深め、戦車道の強化と治安維持隊への組み込みを進めます。これ以前も西住流との関係は存在しましたが、これ以降は西住流なくして黒森峰なし、黒森峰なくして西住流なし、と呼ばれるほど一体化を進めていきます。
西住流としては自身を支えうる母体として黒森峰女学園の存在は大きく、黒森峰女学園としても幹部の権力の保証としてこれ以上に力強い存在はなかったのです。
ですが学生運動ののちは大きな動乱もなく、1985年には第一次学園艦移設計画の中で熊本県嘉島町に移設開校。しかしこの際に一部教師が品田政権の教員主導主義に反発し、独立を宣言。炭鉱廃止後困窮していた福岡県山田市に学園都市を新たに建設しました。これがベルヴォール学園で、その成立経緯から黒森峰女学園とは対立関係にありました。
移設にあたりドイツ風の都市建設を進める中、現地住民との摩擦も起こりますが、これに対し元船舶科を防衛隊として組織し直し、都市治安対策の即応部隊としてこれらを鎮圧させます。一方で東にある益城町、御船町、甲佐町の3つと合併し、隣接地域の管轄権移管の一方で残りの地域ではそれぞれ自治を認めました。校粋主義的な部分を都市区域のみに限定することで、不満を逸らそうとしたのです」
校粋主義も融和主義も問題はあった。校粋主義は学園の団結を強める一方で、地元からの反発は避けられなかったわけだ。それが少なかったのはご飯を配れたアンツィオくらいなもんだろう。
「その後も品田政権は学園都市幹部への権力集中を進め、教育、軍事、都市運営における官僚機構の整備をします。しかしその最中の1991年、空前の好景気、バブル景気が終焉を迎え、長く続く平成不況に突入します。他の学園都市はもちろん黒森峰もその影響を受け、生徒数の維持こそできたものの、税収入減という問題に直面します。
この危機を乗り越えられる学園が、この先力を持ちます。黒森峰女学園はこれまで輩出してきた人材の伝手を利用し、都市における市場の寡占と引き換えに寄付金上納に応じる企業を募集。黒森峰企業グループを形成し新たな収入源としました。
この新たな収入源と都市建設の収束に伴う建設援助金支払いの縮小は、黒森峰財政に安定をもたらします。それを元手に各地で売却されていたドイツ戦車を安値で買い集め、黒森峰は日本でも五本の指に入る戦車部隊を形成するに至ったのです。同時に防衛隊の中にも中戦車、軽戦車を主力とする戦車部隊を作らせ、戦力を強化していきます。
しかしこの一方で、黒森峰の政治はこの黒森峰グループの意向も考慮せざるをえなくなります。彼らは黒森峰女学園学園都市内部の市場を取り仕切り、そしてさらなる利益の拡大を望んだのです。
品田政権もこれに応じる形で、財政難にあった公立の宇土学園を債権引き受けと引き換えに実質的傘下に収め、この地も黒森峰グループで独占。さらに宇土半島の付け根、松橋郊外の漁港を拡大する形で軍港を建設し、これを99カ年租借。海軍の育成に取り掛かります。派兵をこの時点から構想していました。
バブル景気の弾けた後の学園都市は、その影響を抑えようと生徒数の拡大や自身の経済力確保に力を尽くすようになります。その拡大を狙う中で争いを引き起こしていたのが、長崎県のサンダース大学でした」
話には聞いていたが、ウチの学校の暴挙にも背景はあったわけか。だがよくまともにできたものだな、とはよく思う。足元に空母が座していたのに。
「第一次学園都市移設計画で1986年に成立した同校でしたが、1992年には五島列島の五島学園と漁業海域を巡る争いを起こして同学園都市に兵を送るなど、緊張を高めていきます。
そしてその北にあった平戸学園とも、彼らの間にあった佐々町、吉井町、小佐々町の3町の編入を巡る混乱の中、1994年6月20日、サンダース大学防衛隊と平戸自警団の間で銃撃戦が勃発。どちらが先に起こしたともわからぬ戦い、通称佐々戦争が始まります。
初めはサンダース大学防衛隊が重要拠点田平近郊に迫るなど優位に戦いを進めますが、開戦13日後の7月3日、黒森峰女学園は平戸学園側での介入を決定。翌々日には平戸に上陸し、あっという間に反攻作戦を成功させ、7月26日には佐世保近郊に到達、これを降伏に追い込みます。
こうして黒森峰女学園はその軍事力を内外に示すことに成功したのです」
この敗戦だ。これが……我が校の底に根を張り続けている。
「この戦勝に学園、そしてサンダース大学の圧力から解放された諸校は湧きたちます。そしてその勢いのまま、黒森峰女学園は翌年九州南部の阿久根学園、竪琴学園や北部の平戸学園、五島学園などと組み、熊本相互防衛協定を締結。市場への黒森峰グループ企業参加許可とそれらへの事業優先権の代わりに、各校への武力攻撃や暴動に対しては黒森峰女学園も助力、参戦する、との形をとり、黒森峰女学園は一気に九州の覇者へとのし上がります。
これが成立したのち、品田家隆は病を理由に辞職。後任にはその佐々戦争を指揮した防衛総司令官の等良智義が指名されます。まさに今後の黒森峰女学園がどのような方針をとるかをありありと示す人事でした。
そして等良政権のもと起こったベルヴォール学園とのベルヴォール戦争には、航空部隊の創設とそれを利用した反撃により勝利。黒森峰女学園は陸海空三軍を揃え、その影響力拡大を狙います。
一方で等良政権は国への接近をより一層進めます。これらの肥大化した軍を支えるには寄付金のみならず国からの学園都市への交付金が頼りになり、日本民主党中心の連立政権の維持が必須となっていたからです。その直前、1993年に非日民連立政権が成立していたのも接近を急がせる要因となりました。
等良政権は政治体制に関しては品田政権を継承します。校粋主義、教員主導主義の堅持とともに、教員は学園運営から分離させて教育、軍事、政治を分立させ、それを学園長等良が統率する等良独裁体制を確立させます。
こののち等良政権は熊本都市圏郊外として飯野ニュータウンを建設。その接続と学園中心部への連絡のためにJR黒森峰支線の建設支援など積極的な財政政策を進め、黒森峰グループ収支の向上させ安定政権を継続します。一方で各地に義勇軍や観戦武官を派遣することはあれど、九州外への直接介入を控えるようになります。
しかし2008年、リーマンショックが到来。バブル景気崩壊以来の大不況が日本を襲います。いくら市場を確保していた黒森峰グループ企業でも無傷ではすみませんでした。
そしてそれに追い打ちをかけるように2009年、その年の総選挙で与党日本民主党は敗北。野党立憲国民党が衆議院過半数を獲得し、政権交代を達成しました。これは多くの学園都市にとって非常事態でした。それは立憲国民党が学園都市の優遇廃止や軍備の強制的解体を主張していたからです」
やはりどこもこの二つのダブルパンチはきつかったようだ。元からの経済力のあったウチはまだマシな方だったが。
「この新たな国に対する対応は大きく二つ。距離を取り優遇廃止に抵抗するか、それともこの国に接近するか。多くの私立学園が国に抵抗する中、黒森峰女学園はこれに接近することとしました。寄付金の減る中、国からの援助金が収入の支えになり得ること。そしてそれを支えさせる要因として、立憲国民党政権と学園都市の対立が想定されたからです。そこに介入できる立場として存在感を持つ。それが黒森峰の目論見でした。
実際に2011年に勃発した青師団内戦では、黒森峰女学園の介入により校粋主義派の反乱軍側が勝利。内戦の終結に貢献します。また聖グロリアーナ女学院がお台場遠足事件を起こすと、空軍を相模湾上空に派遣して睨みを利かせました。一方でこれまで学園都市は都市建設のため税配分での優遇されていましたが、その廃止を受け入れたため、財政は一層の悪化を見せます。
そして皮肉にもこの年の軟式戦車道、翌年の硬式戦車道の両大会で黒森峰女学園は敗北。親衛隊精鋭部隊の戦力も削られることとなります」
そう、あの時彼女の姉はいなかった。だからきっと……この策は成功した。
「軍事的威信の低下にそれを回復するための財源の縮小。この打撃はタダではすみませんでした。そしてその中で、国に反抗する諸学園都市との関係は急速に悪化。柳川協定を結んで強調関係を取り戻していたサンダース大学がこれを破棄するなど、外交的にも苦境に立たされます。
そしてその中で2012年に発生したのが、黒森峰の戦いだったのです」
頼らざるを得ないが故に、か。孤立とは実に悲惨なものだな。