厳しい冬が過ぎ去った春先においても吹き付ける風は未だ冷たく、それは夜の闇の深さも相まって窓の外は過酷な世界な気がした。
時刻は深夜二時。
その日は静かな夜だった。
雲のない夜の空に、満月が美しい輪郭を描いて佇んでいる。
一番小さな蛍光ランプが灯った、静かな部屋の中で寝息を立てているのは少年。
すぅすぅ、と寝息を立てていた彼はふと腕に力を感じて、違和感を覚えた。
続いて感じたのは手首への熱と圧迫感だった。
沈んでいた意識がゆっくりと浮上していく。
半ば無意識的に腕を動かそうとする。
しかし、なにかに縫い留められているようにそれが動くことはなかった。
―――金縛り。
そんな言葉が少年の脳裏をよぎった。
思わず唾を飲み込む。
未だにベッドへと押さえつけるようにして感じる手首の熱、そして力。
こわごわと。
その表現がしっくりと来るような動きで、瞼を開いていく。
眠りに就く前に閉めたはずのカーテンが開かれていた。
夜空から零れ落ちるような月の灯りが部屋に差し込んでいて、思った以上に視界は明瞭だった。
それは月灯りを受け止めるようにして視界に飛び込んでくる。
どことなく眠たそうな、いや、時刻から言えば正しいのかもしれないが、とろんとした瞳。
空気をふんだんに含んだメレンゲのような柔らかな黒髪。
いまいち感情の伺えない平時の表情を浮かべた少女がそこに在る。
すぐ目の前に少女の顔があった。
残り数センチという距離。
少女の手によって少年の両の手首は顔の横で手首ごとベッドに押し付けるように拘束されていた。
手首に感じるのは押し付けられた少女の掌の熱だ。
少年を正面からベッドに押し倒すような体勢だった。
夜の闇を溶かしたような瞳が真っすぐに自らを覗き込んでいる。
緊張によるものか、ひどく喉の乾きを感じる。
喉元までなにかの言葉が出かかったようで、結局は霧散していった。
薄っすらと少女の口元が小さな曲線を描いて笑みを浮かべ、その小さな身じろぎで少女の纏う真っ白なシャツの胸元で揺れる血液のように深い紅色のネクタイが視界に入る。
そして、少女は冷たい夜の空気に溶かすようにその唇で言葉を紡いだ。
「いまのわたしの姿、えろ漫画の十二ページ目くらいのヒロイン」
「その喩え、多分
先ほどまで眠りに就いていたという状況と、軽いパニックにより、一人称の乱れる少年。
だが、それを指摘するものは幸いこの場には居なかった。
視線と視線が交差する。
眠気の残滓に引きずられるように、目元を擦ろうとして、未だ少女に手首を抑え込まれていることを思い出した。
「というか夜中にどうやってうちに入ったの」
「……わたし、鍵もらってる」
少女が首に掛けていたらしい赤いアクリル紐を手繰るとシャツの胸元から見慣れたシリンダー鍵が出てくる。
――いやいや、なんで貰ってんだ。
そんな言葉が喉元まで出かけたが、無理矢理飲み込んだ。
深く考えたら酷く疲れる気がしたからである。
そんな諦めの最中に居た少年はふと、少女が天井を見上げて、顔を両手で覆っていることに気づいた。
いつの間にやら、少女の掌には小さなケースらしきものが握られていた。
数秒の沈黙。
その後に少女はゆっくりと顔を覆っていた掌を降ろし、見上げていた顔を少年へと真っすぐに向けてくる。
窓から差し込む月灯りの中で妖しく光を放つルビー。
それはまるで月灯りを呑み込むような、少女の深紅の瞳だった。
「……今宵のわたしは、血に飢えてる」
観察してみれば、少女が握っていたのは、ソフトコンタクトレンズのケースであり、あまり目が良くなかった
「カラコンかな」
「そのことについて、触れてはいけない」
困ったようにふるふる首を左右に振る少女を見て、少年はようやく平常心を取り戻した。
しかし、よくよく言われてみれば、白のシャツも胸元の赤いネクタイも夜の怪物というか吸血鬼とか、日常的に手に入るものの中ではそれっぽいものを選んで着ているような気がしないでもない。
「……ちなみに、満月が近くなると目が赤くなるヴァンパイア……という設定」
「その唐突な厨二病、やってて恥ずかしくない?」
「わたし、ヴィジュアルが良ければだいたいのことは許されると思う」
「開き直り方が俗すぎてなんかいっそ清々しい気すらしてきたわ」
少年はああだこうだ、とジトっとした視線を少女に向けながら一通りツッコミを入れていく。それに対して少女は時折自らの唇に人差し指を当て、会話のボリュームを下げていく。
それは、夜の静寂の中で静かにじゃれあうような、いつもとは少しだけ違うけれど、いつも通りに繰り広げられる暗闇の中の歓談だった。
◇
隣家へと消えていく小さな影が見える。
少年が窓から眺めていることに気づいたのか、影は小さく手を振ったように見えた。
「……真夜中に起こしおってからに。しかも、いたずらにしても無駄に芸が細かいし」
愚痴を零しながら少年が手元を小さく振ると、見えているのかいないのか、少女の影が自宅の中へと消えていった。
「……というかあれだ。あれは遊びすぎじゃないですかね。……色々と。……はあ。……あーっ、寝直そ」
シャッと音を立ててカーテンを閉め、ベッドに潜り込み意識して目を強く閉じて、頭から毛布を被れば眠りはすぐそこにある。
「……でも」
眠りに落ちる直前、ふと言葉が零れ落ちた。
「…………お互い様かもね」
ただ、カーテンが閉まる瞬間、窓ガラスに映っていた自分の顔はどうしようもなく楽しげだった。
そんな気がする。