この作品を書き始める以前、他キャラにもスポットを当てたいと考えた結果、IFストーリーを書くことにしました。章終わりに1,2話、息抜き程度の感覚で挟んでいきたいと考えています。
今回のテーマは「看病」、ヒロインはサターニャ。主人公は里九ではない誰か、強いて言うなら読者の皆様ですので、肩の力を抜いてお楽しみください。
体が重い。全身に妙な倦怠感がある。
布団の中で温まった体は火が出そうなほど熱をもち、異常な熱さを感じるにも拘わらず寒気が止まらない。目蓋ごと眼球を押し潰さんとする重圧が眉間を襲い、鼻呼吸も通気性が悪いせいかまともに機能していなかった。
どうやら風邪をひいてしまったらしい。
原因の大方の予想はついている。前日の夕方、土砂降りな雨の中を突っ走って帰ったからだ。学校から家までさほど距離がないとはいえ、真上から降り注ぐ攻撃的な雨粒を受け続ければ、体調だって崩すに決まっている。誰かに傘を借りるか、止むまで待つかすれば良かったのに、と考えても後の祭り。風邪をひいてしまったものは仕方がない。
不幸中の幸いというべきか、今日は休日だ。一日安静にしていれば明日には体調も良くなっていることだろう。
しかし早朝から目が覚め、まだまだ一日は長いというのに意識はすっかり覚醒してしまっていた。しばらくは寝付けそうもない上、何かをやろうとする気力も湧いてこない。目を伏せて暗い視界の中に意識を漂わせ続けるか、ひたすら天井を見つめて無言を貫くかのどちらか。先が思いやられるほど退屈だ。
今後の予定をふらつく思考の中で立てていると、コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。
こんなに早い時間に一体誰だろうか。重苦しい体を無理やり起こして布団から抜け出し、床についた手で体重を支えながらどうにか立ち上がる。そのまま壁に身を預けてずりずりと玄関に近づいていき、誰が来たのか確認することもなく鍵を開けた。
「良い天気だからこのサタニキア様が迎えに来てやったわ、感謝なさい!」
玄関を開いた先にいたのは、赤い髪の悪魔な少女――サターニャだ。全体的に黒っぽい私服姿の彼女は、すっかり晴れ渡った空と同じくらい清々しい表情をしている。いつもと変わらないテンションで胸を張っているが、迎えに来てもらうような約束をした記憶はない。
休日になるとよく『
「フン。そうやって私から逃げようったってそうはいかないわ。この前は本調子じゃなかったけど今日なら――って、あんたどうしたのよ? ほんとに体調悪そうじゃない」
どうしたもこうしたも風邪ひいて体調が悪いのだが。
死んだ魚みたいな目をして衰弱しきった相手を前にして、さすがにサターニャも心配してくれているようだ。聞き分けが良くて非常に助かる、常にこのくらい周りが見えていればいいのに。
「え、風邪? ふーん風邪ねぇ、そんなものにやられるなんて馬鹿ねー。所詮人の子ってことかしら」
腕を組んで小馬鹿にしてくるサターニャ。言い返す気力もツッコミを入れるスタミナもないので、早いうちに帰ってもらうことにしよう。彼女に病気をうつしてしまうわけにはいかない。
事情を説明して扉を閉めようとすると、自信に満ち溢れた表情をしながら行動を制止させられた。両手で締めようとしている扉がびくともしないのは、片手で止めているサターニャの力が強すぎるのか、それとも俺が弱っているだけなのか。男としてはできれば後者であってほしいところだ。
「待ちなさい、私を誰だと思っているの? 全世界に君臨せし悪魔の王、胡桃沢=サタニキア=マクドウェルよ。あんたには今日、私が偉大なる
言い切ると彼女は腕を回しながら部屋へ入っていく。言っていることはよく分からなかったが、要するに看病してくれるということだろうか。
よく分からないけど動いて一層疲労が増したので、めくれていた布団の中にのろのろと舞い戻る。サターニャは俺の左側に行儀よく正座した。
「こんなこともあろうかと、とある魔界グッズを持ってきたの。これさえあれば風邪ごときイチコロよ」
懐から出てきたのは小さな注射器だ。ペン回しの要領でくるくると回されているそれの中身は空っぽで、悪魔っぽいマークが描かれていた。
「これは『バトンタッチャー』。えーっと……。注射した対象の『いじょうなじょうたい』を抜き取り、他の人にうつすことができます……というものよ!」
説明書を広げて自信満々に解説され、またいつもの魔界通販とやらで衝動買いしたものだと察する。悪ぶることすらできないヴィネットと違ってサターニャは「悪魔であろうとする」姿勢は見られるので、魔界からの仕送りも決して少なくはない。にも拘わらず彼女が金欠に陥りやすいのは魔界通販などによる散財が原因だ。
「これをあんたに打てばいいのね――って、なんで逃げようとすんの、大人しくしなさいよ」
魔界通販なんて物騒な名前の通販で購入したものの被験体になるのは勘弁。しかし昨日に続いてとことん運が悪いようで、今日の俺は命の危険を感じても逃げることすら満足にできないらしい。
「大丈夫よ、別に死んだりしないから。ほら」
抵抗できないのを良いことに、サターニャは得体の知れない注射器の先端部分を俺の額に押し当ててくる。形状から針を刺されるものだとばかり思っていたが、柔らかいゴムのようなものが眉間に吸いついてきた。痛くはなく、水分を抜き取られるような感覚と一瞬の脱力感が体中を支配する。
次の瞬間、体が嘘みたいに軽くなっていた。
「どう? これがバトンタッチャーの力よ。えぇと、注射後はすぐ誰かに中身をうつさなければ、『いじょうなじょうたい』は元あったところへとかえります……呪いにかかったときなどに、嫌いな相手に肩代わりさせてやりましょう……なるほど。つまり私が風邪を受け取れば解決ってことね」
サターニャがしたり顔で自分の腕に注射器を打ちこんだ。やはり悪魔というからには人間が罹るような病気は平気ということなのだろう――そんなことはなく、彼女は数秒と経たないうちに青い顔をして唸り始めた。
「う、あっ……な、なにこれっ……おも…………かえ、すっ!」
普段の態度すら忘れるほど風邪に支配され、たまらず注射器を俺の額に再び押し当ててくる。
最高の体調にまで瞬時に回復していたというのに風邪の重苦しい感覚が再来。突如として訪れたバッドコンディションで体が潰されそうだ。風邪を返されることがこんなにも辛いことだとは知らなかった。
というか風邪を返されるってどんなパワーワードだ。
「はぁ、はぁ……あんた実は呪いをかけられてたりしない? なんなのよ今の」
数秒とはいえ風邪を体内に宿した悪魔も疲弊しきった表情を見せていた。
そういえば以前、悪魔は人間界では人間と同じ病気に罹ることもあると聞いた憶えがある。彼女は今まで風邪を経験したことがないのだろう、なんとかは風邪ひかないっていうし。
「わ、悪かったわよ。そんなに辛いなんて知らずに馬鹿にしちゃって」
決まりが悪そうにそっぽを向いて謝罪される。
今し方心の中で馬鹿扱いしたばかりなので、何とも言えないのだが。
「そもそもなんで風邪なんかひいたのよ、昨日めちゃめちゃ元気だったじゃない」
鞄を濡らすのも嫌だったから濡れて帰った、と説明すると呆れられてしまった。
しょうがないだろ、傘がなかったんだから。
「朝から天気悪かったのに傘忘れたの?」
いや、登校するときも小降りだったから傘をさして登校したことは確かだ。帰ろうと思ったタイミングで何故か傘が喪失していた、というだけの話であって。
その時はパクられたものだと思って憤慨したが、犯人も分からないのに怒ったところで傘が返ってくるわけでもなく。仕方なく猛ダッシュという一番選びたくない手段で帰宅したのだ。
――真っ黒で持ち手が金色の傘。割と気に入っていたんだけどな。
「え? その傘、もしかして……」
呟くとサターニャがきょとんと呆気にとられ、みるみるうちにカタカタと震えながら表情が青褪めていく。風邪を宿したときの数十倍はやばそうな顔色だ。
「ごご、ごめん! 私、その傘間違えて持って帰っちゃった、かも」
素直に謝ってきた。彼女がここまで普通に謝罪するなんて珍しい。
話を聞くと、どうやら俺たちはほとんど同じ傘を持っているらしく、傘立てにさしてあった俺の傘をサターニャが間違えてとり、本来サターニャのものである傘をラフィエルが届けに行ったとのことだ。なぜ同じ傘が二つもあるのかと悩んだそうだが、名前も書かれていない傘について考えても分かる筈がない。
彼女は本気で申し訳なさそうに謝ってくるが、個人的には行方が分かっただけで十分だ。後で返してもらうのと、きちんと名前を記入しておくことを忘れないようにしよう。
「――お、怒らないの?」
半泣きでおそるおそる尋ねられ、俺はすぐに首を縦に振った。
悪意のない行為に怒ることはできない――気付いた直後に謝罪してくるなら尚更だ。それに弱気になって子どもみたいな顔をする彼女を怒る気にはなれなかった。
そもそも、人に迷惑をかけているんだから悪魔的行為じゃないか。
「そういうのじゃない! 私の考えてる悪魔的行為はそんなのじゃないわよ!」
なぜそこで切れる。
「いい? 悪魔的行為っていうのは、例えば、その――こうよ!」
シュバッと俊敏な動作でサターニャが動き、俺は彼女の姿を捉えられなくなる。頭が持ち上がったような気がするし、いつの間にか後頭部に触れている枕の感触もだいぶ変わっていた。羽毛やビーズの柔らかさではなく、緻密な何かでできた柔らかさ、まるで人肌に触れているみたいだ。
そしてその感触は、本当に人肌に触れているものだった。
膝枕。無機質な枕と違い人肌のあたたかさに触れることができるものである。正座するサターニャの膝に頭を乗せられ、彼女の顔が真正面、つまり真上にあった。顔と顔の距離もかなり近いため、覗き込むような姿勢をしているのだろう。
「どう? こうすればあんたは寝付けなくなるわ、いつもの枕と違うから寝られないはずよ。これが悪魔の所業、サタニキア様の……膝枕よ!」
こんな状況でさえ悪魔らしさに拘るとは、こいつには恥じらいというものはないんだろうか。
――あ、違った。とても恥ずかしそうだ。肩を震わせて恥ずかしさを必死に我慢しているが、顔はしっかりと赤くなっていた。
「……悪かったって、ほんとに思ってるから」
よほど罪悪感を感じたのか、視線を逸らして再び謝罪される。
普段ならば非を認めなかったり有耶無耶にして誤魔化すこともありそうなものだが、さすがに相手が病気になれば彼女の取り繕っているベールも剥がれるようだ。いつもこのくらい素直だったら可愛げがあるのにと思う。
「体調、よくなるまで付き合うわ。だから」
視線が合う。普段は誇らしげに伏せていたり斜め上の方向を見ていたりする赤い瞳は、よく見るとぱっちりと開かれた愛らしいものなのだと分かった。何かいいかけて暫く無言のまま見つめ合い、彼女はパクパクと口を動かしながら言葉を紡いだ。
「だから――早く元気に、なりなさいよね」
どこかプライドを捨て切れておらず、羞恥と罪悪感が混じったような顔。
訂正、たとえ高圧的な態度をしていてもサターニャはサターニャだ。普段も十分可愛い。
「なっ、何の話して……じゃなくって。よ、ようやく私の魅力に気付いたってわけ? 遅すぎるわよ――」
さすがは
病気は嫌いだが、素敵な看病があるのならたまには悪くない――そんな邪な発想をしてしまう程度には充実した休日だった。
もちろん翌日、サターニャは盛大に風邪をひいた。